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シャンチーは、なぜ10段9行路で、兵卒の成りが河を越えたところなのか(長さん)

表題で2つの課題を述べたが、最初の問いで9行なのは士駒を宮廷の制度
にあわせて、シャンチーでは、将や帥を頂点にして、左右対称にしたため
である。これは、恐らく中国シャンチーの九宮成立から、さほど経たない、
平安時代後期の院政の時期に、日本の将棋が、そっくりそのまま、ま
ねて、金将を片方棋士につき2個にした、原因だろうと、私は考えている。
なお、士は元々、偏と碑だったという話も聞いている。また最初の問いで、
10段なのは、九宮の直ぐ前升目で、兵卒が、それを守る形にした方が、
見栄えがよいという、

10段なのは、初期配列の見栄えが理由

だと、私は私見する。つまりゲームとしては、9行8段でも、恐らく成立
はしたのだろうと私は考えている。その場合の歩兵の段は、日本の小将棋
や、タイのマークルックのように、3段に配列されたはずである。砲も2
段目に下がり、有る意味、日本将棋に似た感じになったかもしれない。こ
のようなシャンチーも、微調整すれば作れたはずだと、私は考える。
 さて、最大の問題は兵卒の成りが、河を渡ったところにしたのが、どん
な人物かという事と、何故かという事である。前者については、このケー
スは恐らく、実際にプレーした、ゲーマーの調整だと思われる。問題は、
何故というか、

何を考えて河を作り、しかもそれを渡ったところで、シャンチーの兵卒は
成る事にしたのか

という事である。私見だが、これはアラブ・シャトランジが指せる人物の
発案であり、かつ更に大事な事は、

アラブ・シャトランジの兵駒バイダクは、その時点で、恐らく相手の駒は斜
めに居無いと、取れない現在の西洋チェスと同じルールになっていただろう

と私は推定する。つまり、シャンチーで中央で兵卒が成るのは、

兵卒同士が取り合いを開始したときに、下段の走り駒の”車”が、
チェスのように、相手陣に直射するように、兵を横にどかすためである

と私は考える。この場合の兵卒は、インド・チャトランガのように、行き止
まりだから、成るわけでもなく、日本の平安小将棋やタイのマークルックの
ように、後半、駒数が減少して戦力が落ちるのを、成りを増やして補うとい
う効果を狙ってもいないと思う。つまり、

シャンチーの河を作り、兵卒の河渡り成りを考えた人物は、アラブ・シャト
ランジの影響を、シャンチーを調整する際、強く受けていた

と推定できるように、私には思える。すでに、上記のシャンチー兵卒の成り
ようの原因については、日本でも、持駒使用の謎で、日本将棋の木村義徳九
段が、先行して研究され言及している。私の読み間違いが無ければ、

シャンチーの成りは、タイのマークルックの兵成りの効果の、中国による
輸入

と持駒使用の謎では、書かれていたように思う。が、これは

私は違う

と思う。兵卒が横に動ければ、車筋が通り、斬り合いが盛んになる効果の方
が、兵卒の戦力の増強による、駒枯れの防止よりも、現実には効果が、大き
いのではなかろうか。なお、中国シャンチーとゲームが類似の、朝鮮チャン
ギでは、兵卒駒は最初から横にも動けるので、河を越えても性能が変化する
駒が無くなる。後者については、チャンギの対局経験が2局しかない私には、
今の所意味が、よく判ら無い。
 話を戻すと、中国シャンチーについては、兵卒の成りの調整者は、タイ・
マークルックではなくて、アラブ・シャトランジに効果が合うように、調整
していると思う。なぜなら、もしタイ・マークルックにあわせるとすれば、

相手陣の兵卒の居たもう一つ奥の段で、味方の卒や兵を、成るようにしそう
なもの

だからである。何故なら、河を越えた所で成るのと、相手の兵卒の居た段で
成るのとでは、1段しか差が無いから、変えるとゲームが、全く成立しなく
なるとまでは、考えにくいからである。
 持駒使用の謎で、木村義徳九段は、少なくともインドよりこちら側の、チェ
ス・象棋類の変化は、互いに強く結びついて、1本路で進んだと、考えて、
ストーリーを組み立てておられたと、私は”持駒将棋の謎”を読み理解して
いる。これも、

違うと私は思う。2本路だったのではないか。

つまり、私に言わせると、インド→アラブ→中国というシルクロード経路と、
インド→チベット→中国雲南→東南アジアという、茶馬の(裏)道の2経路が
あった

のではないかと言う事である。原因は率直に言って、

中国唐~宋時代の、都の文化を支える、人の心

に原因が有ったと思う。中国唐~宋時代に限らず、また民族にもほとんど無
関係に、一般に都会人の心というものは、グローバリゼーションといった言
葉を好み、その実は、その時代の最先端科学技術地域の文化を、選択吸収し
ているという、性質がある。つまり都会に住むと、隣接した地帯から、じわ
じわと伝わった結果存在する、地域文化を、彼らの言う”最先端文化”に比
べて、相対的に排除するようになるのだと私は思う。これは、唐~宋代の中
国人で無くとも、日本人でも、都市部に住めば、時代によらずに、皆そうな
っているのではないか。
 他方、都市ではなくて地方では、上に述べたように、隣接地帯から、じょ
じょに伝播してきた文物を、吸収しつづける、地方文化が、実際には存在し
つづけ、しばしば地域文化を形成する。その結果

アジアの東側の象棋は、都会人が作ったインド→アラブ→中国型と、縁在っ
て、たまたまこのケースは、日本将棋の形成の元ともなった、地方人が作っ
たインド→チベット→中国雲南→東南アジアという、2本路が、木村九段の
言うのとは違って、2筋別々にできてしまっている

のだと、私見するのである。つまりはっきり言うと、

宋の都のチャンチーのデザイナーは、大理の将棋は、知っていても考え方を、
田舎臭いと見てまねなかった

と私は見ると言う事である。前にシャンチーの象が、アラブ・シャトランジ
型であって、銀将の動きで無い事を、証拠としてあげた。それに加えて、兵
卒の成りの段が、日本の小将棋や、タイ・マークルックのように、相手陣歩
兵段に、なぜかなっていないというのも、

”先端地帯”の文化だけを吸収しようとする、都会人の心が、シャンチーを
作成したデザイナーの、心の根底にあるからではないか

と、私は以上のように疑っているという事になる。(2017/08/23)

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平安大将棋の一段目鉄将と桂馬の間に、酔象は何故配置されなかったのか(長さん)

実際の平安大将棋では、1段目は中央より、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、
桂馬、香車と配置され、5種類(5色)9将に、桂馬×2、香車×2の構成
で、13升目となっている。平安小将棋で酔象が、先手で3八の位置にあっ
たとしても、恐らく大江匤房によって、取り除かれたのは、玉を中心に古代
日本の左右対称の、官職制度からはずれる為であった。だが、もともと、升
目数に初期制限が無い平安大将棋では、9将、酔象×2、桂馬×2、香車×
2の15升目制にしたとしても、実際の13升目制平安大将棋とは、さほど
の遜色は無かったはずである。すなわち、酔象は平安大将棋では、鉄将と
桂馬の間に、残っていても良さそうなのに、実際には、鎌倉時代草創期まで
には、消えてしまったのは、いったいなぜなのだろうか。最初に、いつもの
ように、私見を書くと、

酔象という、象使いに制御されて居無いことを、暗示させる修飾詞を付けた
のが、平安大将棋から消失してしまった原因

だと私は思う。すなわち、名前の付け方が、悪かったと言う事である。
 9×9升目制平安小将棋標準型と同様、平安大将棋も、玉将を中心とした、
大和王権の軍隊を模したものにすべきという点では、平安小将棋標準化を
推進した、院政派と一致していたのだと思う。ただ、藤原守旧派にとっては、
自分達を、その枠組みが中に存在する、宮中自体から排除しようとしている、
院政派が気に入らなかったのである。そこでよりかっこの良い、日本の将棋
を作って、主導権を取り戻そうというのが、平安大将棋を推進した、藤原守
旧派の心であった。そのため、9升目平安小将棋(標準型・取捨て)よりは、
よりカッコがよく、日本の官職制度をより正確に模したような、平安大将棋に
したかったはずである。だからたとえば、13升目と奇数升目の将棋にした
のである。そして、1段目の玉将の居る段には、官製の軍団が、そのカテゴ
リーでずらりと並んだ方が、途中に神獣や魔物が、はさまったよりも、見栄
えが良かったのである。実際、香車は車隊を構成する。軍人が制御するのが
自明だし、桂馬も、騎馬隊を意味するから、軍団名である。ところが、

酔象は、制御されない、象使い団の存在しない、軍団とは言えない、キャラ
クター名に、たまたま最初にしてしまった。そのため、平安大将棋の1段目
には、酔っていて制御不能な象というネーミングの仕方が原因で、入れにく
くなってしまった

のであろう。仮に、

最初に、象を酔象にせずに、たとえば緋象とか、仏教の経典に、出てくる事
にこだわるなら、白象にでもしておけば、平安大将棋は15升目制になった、
可能性が実はある

と私は思う。ここで緋象は、輸入品の象駒が、桂の木の木彫りの象として
現物が存在しないと、イメージできない名称である。だから、酔象が気に
入らなくても、緋象に変えるのは、文献でしか、”戦象”を知らない日本人
には、困難だったと思う。そこで結局の所、酔象は、酔象とする以外に、
平安大将棋の作者の頭の中でも、とりあえずは、どうしようも無かったので
あろう。そして他方、

中国人からの情報として、当時は象駒は、(武)士駒と馬駒の間の1段目に
挟む以外に、置き場所が無い駒

と考えるのが、常識だったのであろう。玉将の前升目というのは、酔象が、
釈迦を殺そうとした刺客なので、成りが釈迦を実は意味している”太子”で
あって、おかしくないとのアイディアに、鎌倉時代になって気が付いてから、
考え出された場所と、私は独自に見るのである。そこで実は、最下位の将駒
と馬の間という、”本来の”置くべき所に、ネーミングが悪くて、置きよう
が無かった。そのため、結局削除して、平安大将棋から、象は消えざるを、
得なかったのではないか。と、結局以上のように私は考えるのである。
(2017/08/22)

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なぜアラブ・シャトランジ等が天文学と関連付けられたのか(長さん)

少し前に、アラブ・シャトランジから西洋チェスへの発展が進んでいた頃、
原西洋チェスとしてのアラブ・シャトランジが、太陽系古典天体力学とし
ての、天文学と関連付けられ、その正当性は、衝突・破壊現象が天文の分
野で少ないため、無いとの私説を述べた。では、なぜアラブやヨーロッパ
の恐らく中世に、:原始チェスは、太陽系惑星等、天体の運行と、関連付けら
れたのであろうか。回答となる私見を、いつものように先に書くと、

ナイトの動きを、桂馬から八方桂馬に変えたとき、その変更を正当づける
効果を狙ったため

と考えられるように、私には思われる。アラブ・シャトランジに於いて、
上下左右に動けない駒は、ナイトがもともとは桂馬の動きだったとすれば、
ナイトと兵駒だけである。そして、兵駒は敵陣の最奥の段で成って、相手
の、その筋に居た、一段目駒に成るので、以降、ナイトに成った歩兵以外
は、前後・左右に動きがある事になる。というより、桂馬の動きでは、
ナイトに成る事自体が無意味だが。そこで、チェス駒は太陽系の惑星のよ
うであるべきであるという主張を持ち出し、自分の動きを4回繰り返すと、
元の位置に、丸い軌跡を描いて戻るような、動きにしたのではなかろうか。
つまり”シャトランジの駒は、太陽系の惑星のような、動きが出来るべき
だ”と主張し、桂馬の動きでは、そのような性質の無かったインド・
チャトランガのナイト(900年~1000年までの動き)を、桂馬動き
から八方桂馬に、アラブでは、より早い時代に変えたのでは、ないのかと
私は、想像するのである。そう考えると、

ナイトを八方桂の動きに変えたのは、持駒使用の謎の記載とは違い、イン
ドではなくて、中世に天文学が比較的盛んだった、たとえばイランからで
あった

可能性も、あるように思えてくる。遅くとも、アラブ・シャトランジでは
西暦800年~900年の間で、ナイト(馬)駒が、八方桂になり、逆に
それが、やがて四人制を発生させつつあった、二人制インド・チャトラン
ガに取り入れられて、遅くとも西暦1000年以降には、インドのチャト
ランガ・ゲームも、馬駒は、八方桂馬になったのかもしれない。そうする
と、中国雲南の将棋が元だった、日本の将棋は、アラブからは、より遠く、
最も変化が遅れたから、桂馬のままと言う事になるだろう。
 また、同じく中国長安で指された、後に中国シャンチーへ進化する、ア
ラブ・チャトランガについても、玄怪録の著者の牛僧儒が居た頃には、既
に、長安でも八方桂だったに違いないと、私は最近は考えるようになった。
(2017/08/21)

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日本の将棋の、相手陣歩兵の段で成るルールは誰か発案したのか(長さん)

日本の将棋は、相手陣の歩兵の段で成るが、このタイプの成りのルールは、
他としては、タイのマークルックが有るだけである。
 タイのマークルックと、日本の将棋が同一ゲームからの分岐だとすると、
私に言わせれば、大理国の象棋の発案者が、相手陣歩兵段成りルールの、
発案者と言う事に、論は一応行き着く。しかし具体的に、大理国のヘビー・
ゲーマーによる、巧妙な調整とは、私個人は感じていない。成りの段を、
ゲームを繰り返し行う、試行錯誤によって、歩兵の段に決まるケースは、
いつもとは限らないと、私は思っているからである。であるから、日本の
将棋の成りの段は、ゲーマーが調整したのでは無いと思う。では、誰がこ
の段で、駒が成る事にしたかと言えば、

中国の唐の時代に、南詔国の象棋を指していた、王侯貴族の棋士

だと、私は思う。そもそも、恐らくチベットから南詔国へインド・チャト
ランガ系の象棋が伝来したとき、歩兵の段は、インド・チャトランガと同
じであったとすれば、2段目だったと思う。他方兵の成りの段は、敵陣最
奥で「行き所が無いため、その列の一段目駒に成る」等だったはずである。
ただ、インド・チャトランガには、歩兵が下段に配置されすぎていると、
王侯貴族に限らず、南詔国の象棋のゲーマーには、当初から懸念されて
いたに違いない。そこで、やがて時が経つうちに、南詔国で3段目歩兵
配置へ、変わったのであろう。そして、

3段目配置に変わったところで、兵はもちろん、実は馬、そして恐らく車
も、敵陣3段目で成るように、南詔国の王室が、ルールを変えた

のだと私は推定する。理由は、

ゲームの中盤以降に、盤上にたくさんの純銀駒を置いて、王侯貴族として
の階級の”高い身分”示して、少なくも自己満足に浸りたかったから

だと、私はずばり考える。駒が敵陣奥1段目ではなくて、3段目で成れれ
ば、純銀製の、現在の金将動きをする、南詔象棋の銀将が、盤上に多数乗っ
ている局面が、発生しやすくなるからである。そのため、成るのも、兵だ
けではなくて、馬と恐らく車も、南詔象棋の銀将に成るルールに、むりや
り変えたのかもしれないと私は思う。
 南詔象棋の駒の動かし方ルールは、唐の牛僧儒の書いた、玄怪録にそれ
が暗示されているというのが、私の持論であり、そこに書かれた将棋駒類
キャラクターの、物語文中の、動きの説明に類似だと、私は考えている。
結論を、とっとと書いてしまうと、

玉駒の金将が現在の玉将の動き、大臣または副官駒の銀将が現在の金将の動き
象駒が飛車の動き、馬が桂馬と全く同じ動き、車駒が香車と全く同じ動き
兵駒が日本の歩兵と全く同じ動き

ではないかと、私は疑っている。ここで、

馬は玄怪録では、天馬となっており、実は増川宏一著「将棋Ⅰ」(1977)
に載っている、江戸時代の将棋の書「象戯図式」の和将棋の風馬の成りの、
図の動きと同じだが、象戯図式には”誤って”、文字での解説部分には
「桂馬の動き」と、私に言わせると答えが書いてある

のである。

象戯図式の著者は、牛僧儒の書いた玄怪録の、天馬の事を知っているのは
有り得るとして、そればかりか、ひょっとすると、それは桂馬動きが正し
いのに、「象戯図式」の図のように、3つ先まで斜めに行くという、別の
動きに、ごまかしていたという事まで、どうやってか私は知らないが、
知っていて、とぼけて、間違えた振りをしているのかもしれないと、私は
疑っている

という事である。同じ増川宏一氏の著書に、謎めいた玄怪録の天馬の動き
の紹介ばかりでなく、丹念に読むと、その謎解きのヒントまで載っている
とは、驚くべき事かもしれない。つぎに、

車は、同時代のインド・チャトランガでは、アラブ人のアル・アドリによ
れば、跳ぶ後期大将棋の飛龍の動きであるが、敵陣奥で、行き止まりにな
るように、南詔国の王侯貴族の棋士が、香車の動きに改竄し、こちらは、
玄怪録の輜車の動きが、南詔国の動きを正しく伝えている

のかもしれないと、私は疑っている。ここで跳ぶ後期大将棋の飛龍の動き
を香車の動きに変えたのは、敵陣3段目で、今の金将動きの銀将という名
の、純銀製の立体駒に交換したかったからではないかと、私は疑う。そし
て、この南詔国の、中盤から、純銀駒が将棋盤上に多数陳列される象棋が、

大理国では純金駒に置き換わって、更に派手さがエスカレートした挙句の
果てに、日本に西暦1015年に伝来した

のが、日本の原始平安小将棋の、実は正体なのではないかと、私は現在推
定しているというわけなのである。(2017/08/20)

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「五雑爼」記載、七国象将”騎”駒の価値の謎(長さん)

駒数多数将棋であっも、大将棋の類ではなく、中国発祥の象棋との文献もある、
七国象棋というゲームがある。江戸時代の第十代将軍、徳川家治が、好んで
研究し、若い頃の長谷川平蔵と同様、江戸城警護役(書院番)を勤めた戸田
蔵助の妹で、当時の下野宇都宮藩の藩主の親戚と見られる、大奥女中の
”戸田おくら”という女性が、たくみだったとの、記録もある。webに、
指し方のルールがあり、駒の動かし方のルールも出ているが、増川宏一著
「ものと人間の文化史 23-1 将棋Ⅰ」(1977年、法政大学出版局)
に、紹介のある、この象棋を紹介した表題の、「五雑爼」の駒の価値に関する
記載から、

恐らくwebに出回っている「騎」駒の動かし方ルールは、誤りだろう

と、私は考えている。理由は、「五雑爼」に”騎”駒が、最も価値が上である
と、出ているが、webのルールだと、偏、碑、弩、弓の方が上で、砲よりも
ひょっとすると下で、その次の、5~6番目の価値のように、私には思えるか
らである。つまり、webの説明では、七国象棋の騎は、高々「縦横に、
(±3、±4)か(±4、±3)かの、合計8升目のどこかに、跳ぶ」との、
ルールか、更にそれに、塞馬脚の加わるルールのように、読み取れるが、これ
は、中国チャンギの、”象”程度の価値でしかないと思う。チャンギでも、
七国象棋の偏に当たる、車の方が、象よりは価値が上とされていると、私は認
識している。従って、少なくとも、

「五雑爼」の七国象棋のルール説明には、上記のweb等から読み取れる、騎
駒のルールとは、異なる説明があるはず

と考える。どう違うのかであるが、増川宏一著「ものと人間の文化史 23-
1 将棋Ⅰ」の、増川氏が清書しなおしたと見られる「七国将棋の図」の駒の
動かし方ルールの図が、ひょっとすると、ヒントなのかもしれないと、私は思
う。「将棋Ⅰ」の図を見る限り、騎駒は、(0、±1)か(±1、0)か
(±1、±2)か(±2、±1)か(±2、±3)か(±3、±2)か
(±3、±4)か(±4、±3)かの、合計28升目の、どれかに、単純に
跳ぶような駒、とも解釈できるように見えるからである。web流のように、

先ず縦横に一升目行ってから、斜めに3升目のケースだけ制限的に、範囲をは
無く、ピンポイントでチャンギの象のように走るとか、または”西洋チェス流
に、4・3だけに跳ぶ”ような類の駒では、無い

のではないか。もし、28升目間を跳び越えて行けるのであれば、確かに七国
象棋の騎駒は、少なくとも、偏や碑に匹敵する強さの駒には、なると私は思う。
逆に言うと、どこでそうなったのかは謎だが、

「五雑爼」の七国象棋は、朝鮮チャンギの象とは動きのパターンが少し違う駒

という事になると思う。私見だが、私は「五雑爼」の「強い騎」が、正しいよ
うに思えてならない。webの騎のルールが正しいとすると、騎が2枚ではな
くて、4枚もあるのが、使い道の少ない駒を、ムダにたくさん増やした感じで、
不自然に思えるからである。また私見だが、webのルールでは、史実と大い
に違って泰軍は、初期配列で、楚軍の弩で右剣が只になっているから、必敗だ
と私は見る。騎は、やはり計28升目へ跳びなのではないのか。もしそうだと
して、「五雑爼」や、増川宏一「将棋Ⅰ」七国将棋の図の、騎駒の形に、ルー
ルを工夫したのが、誰かは私には不明だが、この騎の工夫されていて、中国
シャンチーや朝鮮チャンギ的ではない、駒の性能に関するルールから、

七国象棋は、朝鮮チャンギの成立から、かなり経ってから近世に入って完成し
たものであり、「司馬温公が作った」というのは、単なる伝説に過ぎない

ことを、示唆しているようにも思える。なお、徳川家治が、別の日本の将棋種
よりも、むしろこの将棋を好んだのは、戦国時代後期の群雄割拠の図に、より
類似であると、考えたのだろうと、私は想像する。なお少なくとも三人以上の

多人数将棋は、”漁夫の利作戦”が、私が思うに、相当に有力と見られる

ため、通常の日本の駒数多数将棋と、必勝法が全く違う、別系統のゲームと
みるべきではないかと、私は考えている。(2017/08/19)

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中世の変則チェスと、中国・朝鮮シャンチー/チャンギ類(長さん)

アラブ・シャトランジの時代に、変則チェスのカテゴリーに入る、駒数
が32枚よりも、かなり多い、チェスの仲間が中東で指されていたとい
う紹介が、法政大学出版・1977年の増川宏一著「ものと人間の文化
史 23-1 将棋Ⅰ」にも載っている。ただし、同書には、それらの
アラブ駒数多数変則チェス類の、ルールの説明までは無い。そして、そ
の流れで成立したとみられる、ヨーロッパ・中世スペインの、12×12
升目48枚制の変則駒数多数チェス類の、グランド・アセドレフという
名のゲームが、岡野伸氏自費出版の「世界の主な将棋」(1999)に
載っている。後者の方には、ルールの説明があり、駒の動かし方が載っ
ている。最大行ける升目が無限大でなく、3升目という金剛の縦横動き
の駒は、走りに近い、比較的ありきたりの駒と私には、思える。しかし
ながら、日本の駒数多数将棋では、余り見かけないタイプの動かし方を
する駒として、

(1)鳥のグリフィンという、斜めに1升移動して、そこから縦横走り
という割り箸走りの駒

と、
(2)キリンの名が当てられた、縦横三升目行ってから、最後の1歩だ
け、斜め向こうに進む

という駒は、日本の駒数多数将棋の縦横が斜めに、途中で変化しない
タイプばかりという、状況とは違う。しかし、たとえば、チャンギの象
は、縦横隣接升目に行ってから、2升目斜めに進むというものであるか
ら、1の2を、3の1に取り替えれば、(2)のキリンといっしょであ
る。つまり、

アラブや中世ヨーロッパの変則チェスには、チャンギの象とかシャンチー
/チャンギの馬のパターンの動かし方をする駒が、しばしばかなり古く
から考えられていた事を示している。話は前後するが、縦横→斜めパター
ンを、斜め→縦横にひっくり返して、チャンギ象の1の2パターンを、
1の∞パターンに変えたのが、(1)のグリフィンである。だから、

(1)のグリフィンも(2)のキリンも、例えばチャンギの象の類で
ある。

何故なら(1)と(2)の両方に、

西洋のナイトや、日本の桂馬には無い、途中の升目は跳ぶのではなくて、
恐らく走らなければならないというルールが、ある

からである。そして、この意味するところは、

シルクロードを東から西へ、逆に辿って、朝鮮半島のチャンギの象とか、
中国シャンチーや朝鮮チャンギの馬の動きが、アラブからヨーロッパは
西の端のスペインまで、だから恐らく、北アフリカ海岸にも、伝えら
れている。

ということであろう。つまり、中国シャンチーの類は、アラブ・シャト
ランジと、密接な関係があるという推定に関する、小型ゲーム類のそれ
ぞれの対応駒の、動かし方がほぼ同じ事とは別の証拠が、上記のように
存在するという事だと、私は以上の現象から、個人的には推定するので
ある。(2017/08/18)

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チェスのような”終盤引き分けが過多”、”逆転困難が早々”防止の工夫(長さん)

 八方桂のナイト駒は例外なのであるが、チェスは取り捨てルールで、大駒が
走りなため、日本将棋に比べて、終盤ミスしても、それほどまでには逆転しに
くい。また中盤に差が開くと、逆転また逆転は起こらないし、引き分けのケー
スも、日本将棋のように、少なくはならないと私も認識している。これについ
ては、すでに上の文で答えを言ってしまっているのも同然だが、ようするに、
それを防ぐには、跳び越えルールの駒を、もっと終盤で、増やす必要がある。
この事については、前にも、駒の動かし方ルールで、上記問題を克服する必要
があると、このブログでも指摘した。では具体的に、とんな駒の動かし方ルー
ルにすれば、良いのだろうか。結論から書くと、

ずっと下段で、中盤の最末期に、ようやく前面に露出してくる小駒が、たとえ
ば、相手の攻撃駒を取ったときに、日本将棋と違って成れるようにして置いて
から、その成りも、単なる跳び越えではなくて、玉駒と幾つかの例外以外は、
幾らでも、前方にのみだが、跳び越えられるようなルールにし、更には跳び越
えた相手の駒は、全部排除するどころか、相手の駒は、自分の駒に全部向きを
変える(裏切り)ルールとする。

更に、向きを変えた駒は、成れるとまでする。以上で持ち駒ルールと、ほぼ局
面評価値の一手指すごとの変動幅が、同等になる事が、経験的に私には判って
いる。制限無い、格のある跳び越えルールは、天竺大将棋の、大将駒類が有名
であり、跳び越えが格の自分と同じか、高い駒以外は跳び越せ、跳び越した相
手駒を、全部取り去るルールは、大局将棋の、大将駒類が有名である。しかし、
実際にチェックした限り、繰り返すが、相手駒を単純に排除したのでは、終盤
の逆転の可能性は、まだ少ない。火鬼のように焼いてもだめだし、広将棋の弓
駒のように”射ても”、たぶん不足だと私は思う。
 日本将棋のように、相手の駒が、戦力に追加されるような、”裏切りルール”
にしないと、日本将棋並みの終盤の局面評価の発散は起こらないと、私は思う。
逆に言うと、盤升目が玉駒周り空間に比べて極めて大きく、見栄えから、持ち
駒ルールの適用が困難な、駒数多数将棋でも、相手駒を自分の駒に変えるという、

跳び越えオセロ型のルールを加えさえすれば、取り捨て型のチェス系ゲーム
有の、”引き分けが多いゲーム”には、恐らくならない

のではないかと言うのが、少なくとも日本では、恐らく私だけの持論である。
ただしこのやり方をとると、駒の一部が対局中に入れ替わるため、前回述べた、

駒の初期配列の作法のための、駒の2分割化が困難になる

という、欠点がある。ただし、上記のオセロルールが導入される、駒数多数将
棋は、コンピュータディスプレーで、駒が表示できるような、極めて駒の数
の多い将棋であれば、そのような作法の問題は、駒は予め並べて有るだろうか
ら、ひょっとすると存在し無いかもしれない。なお192枚制の摩訶大大将棋
で、将駒の成りに”跳び越えオセロ”を、加えてやってみた事が私にはあるが、

192枚程度の駒数の場合は、前の二人の競技者によって崩された2分割分は、
余り駒が、駒を配列しているうちに出てきたら、相手に手渡しして対応する

しか、今の所無いのではと、私は思っている。(2017/08/17)

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駒数多数将棋の駒を初期配列に並べる作法は、どう有るべきか(長さん)

前回、中将棋より駒数の多い将棋に、室町時代初期から、駒の初期配列
の作法が存在しないのは、使い手の居無い獣駒が、日本将棋には存在し
ないが、中将棋以上には、存在するので、作法があるというのが変と、
考えられたからではないかと述べた。だが、配列するときには、象や虎や
豹にも、調教師が居ても、おかしくないのかもしれない。そこで「これら
の駒も左から」と、順序の決まった配列は、配置するときだけに、調教師
が存在すると仮定してみる。そして中将棋以上でも、駒並べの作法を考え、
具体的にそれがどうなるのか、試案を作ってみた。以下は一例として、
だいぶん前に私の考えた、後期大将棋を例にとって、説明する。さて駒数
3桁の将棋類では、そもそも、駒の配列を作法に従って並べるのは、

駒の総数が多くなると、駒を探し出す手間が、駒数のだいたい2乗で増加
するため、日本将棋と同じ方法でするのは無理

である。そこで、以下の点について、着目する。日本将棋の駒の並べ方の
作法である大橋流にしても、伊藤流にしても、

中央の駒ほど位が高いと、仮定して、その順番で配列する。が、駒数多数
将棋では、そのような陣は、袖に弱点が出来るので、初期配列は、中央に
重要駒が来ると、敢えて仮定はしない

事にする。すると、

駒は玉駒は最初に並べるにしても、玉以外は、同じ種類の駒は左側から、
常に並べることだけを、重視

すれば良い事になる。そこで、予め2人前の競技者の駒を、1人づつ、
2つに分けて保管する。つまり、後期大将棋の例では、玉将・王将を除
いて128枚の駒を、駒箱の中に2つの袋を入れることにして、片方分
64枚づつを、

分けて保管

しておく。そして、
(1)上手が王将を並べ、下手が玉将を並べた、あと、
(2)それぞれの駒袋を、上手、下手と取り、中身をそれぞれに、捕獲
して、取り捨てるために、これらの将棋種では使用する、捨て駒入れに
全部移してから、左右対称駒については、上手は右辺から並べてゆく。
下手は少し時間を空けて並べを開始し、左右対称駒については、上手と
は逆だが、前方に上手の既に並んだ駒の多い、左辺から先に、並べてゆ
くのである。
こうするのは、

駒を並べる作法というのは、年長者が若年者に、その将棋のルールを
伝承するという、”儀式”の意味があるからで、このケースは、若年者
が、左辺が上位である事を、正しく認識するための行為と意味づけでき
る。なお、繰り返すが、駒数多数将棋に、中央駒が重要度の高い駒との、
性質は無いと考えるので、並べる駒は、たまたま、手に取った駒からで
良いとする。なお例外は歩兵だが、歩兵は、後期大将棋のケースは、概
ね伊藤流で、並べて良いのではないかと思う。ここでただし、

(3)左右非対称駒で、1枚目は上位者から、盤の中央段のやや手前に、
升目ではなくて、交点付近に、その駒を、一時保管する。
(4)(1)~(3)を、駒袋内の全ての駒について、行う。すると、
例えば、後期大将棋では、中央段の升目間の交点付近の上に、麒麟、
鳳凰、の2枚が並ぶ。そこで、若年者も駒袋内の全ての駒を、並べ終わっ
た所で、年長者が、麒麟を取って、左盲虎の上に置く。ついで、それを
まねるように、若年者が麒麟を並べる。ついで、年長者が鳳凰を取って、
右盲虎の上に並べる。それを若年者がまねれば、初期配列はめでたく、
完成するはずである。なお、中将棋では、麒麟、鳳凰、師子、奔王と、
以上の順番で、4枚づつ並べる事になるだろう。

(1)~(4)のやり方は、左右対称性が強い、駒数多数将棋種ならば、
かなり、駒の枚数が多くても、適用可能である。ただし、大大将棋のよ
うに、左右で対称性が低くなると、中央段に置く、”一時保留駒”の数
が増えすぎて、適用困難になるし、また、対局中も、取った駒を別々に
保管して、局後に交換し、2分化が容易なようにしなければならないた
め、感想戦のときに、注意が要る等の問題はあるだろう。(2017/08/16)

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中将棋には初期の駒の配列に関して、”作法”が無いのは何故なのか(長さん)

江戸時代以降、日本将棋には、初期の駒の配列手順に関して、大橋流と伊藤流
という、駒を並べる作法が存在する。大橋流では、玉、左金、右金・・・と1
段目を配列後、角行、飛車と2段目を配列。次に3段目の歩兵を、先手の升目
で、5七、6七、4七・・・と、左右に配列するものである。それに対して、
伊藤流では、1段目の桂馬までは同じであるが、そこから3段目の歩兵を、
9七、8七・・・と、左から配列し、ついで、1段目の香車を左右へ、2段目
の角行、飛車と配列するものだったと、私は理解する。大橋流は、中央が大事
で、次に左隣、右隣という考え方であり、伊藤流は、中央の駒が上位で、次が
その隣の駒で、その駒のうち左の方が格上、香車、角行、飛車は、兵器と見て、
配列前に戦闘開始が起こるという、”戦闘が開始された道理の矛盾”を避けた
ものなのかもしない。何れにしても、この”作法”は、日本将棋固有であって、
日本の他の将棋時代から、有ったとの証拠は、今の所無い。茶道や華道等、作
法が有る、稽古事が盛んになったのが、安土桃山時代であったからだと、言っ
てしまえば、それまでなのかもしれない。が、能・猿楽等、芸の世界は室町時
代の足利義満の頃から盛んであるから、たとえば、中将棋に同様の類の、駒を
並べる作法が、全く発見されていない理由は、考えてみても、一応ばちは当た
らないのかもしれない。なお、花営三代記や看聞御記の将棋の記載からみて、
足利義持や足利義教の時代には、中将棋だけでなく、恐らく9升目制で持ち駒
有り型の、平安小将棋(標準型)を小将棋として、それも指していたらしい。ここ
で平安小将棋の駒を並べる作法なら、日本将棋から類推する事は可能であり、
小将棋には何か、並べ方の作法があっても、本来はおかしくは無かろう。とも
あれ、中将棋(より駒の数の多い六将棋)に、初期の駒の配列の作法が無い
理由について、理由を結論から、何時ものように書く。すなわち、その理由は、

適当に首輪の鎖を外して、敵陣に突入させ、相手を蹴散らすだけが、実際の戦
闘での使われ方とみられる、制御しない生物兵器、酔象、盲虎、猛豹が、自分
の意思で、左側から行儀良く、順番に並ぶとは考えにくい

からだと私は思う。つまり桂馬と違って、これらの動物は、人間の動物使いが、
戦闘中に、使い手として存在する、兵器ではないからだろう。だからこうした、
めちゃくちゃに、相手陣を暴れまわる、畜生としての象、虎、豹駒の加わった
将棋では、そこだけ作法を考えにくいため、全体として、並べる順序が決まら
ないものと、あるいは、当時から考えられたのかもしれないと、私は思う。た
だし、日本将棋でも、先祖の”横行”は、荒くれ者とは言え、一応人間だった
ようであるが、類似の”角行”は、人間が制御していない、単なる魔物か、ロ
ボットの類なのかもしれないという、問題は有ると思う。(2017/08/15)

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「朱仁聰と周文裔・周良史 : 来日宋商人の様態と藤原道長の対外政策」(長さん)

前回、大理国の黄金将棋具を日本にもたらし、日本に将棋が発生した
原因となった、中国北宋時代の交易商人として、周文裔の名を挙げた。
3年ほどまえ(2014年)に東洋大学の森 公章氏が、「朱仁聰と
周文裔・周良史 : 来日宋商人の様態と藤原道長の対外政策」という
論文を発表し、そのPDF版がweb上に流れている。
 ここでは、かなりの量の、この論文の全紹介は出来ないので、周文裔
が、日本に将棋をもたらした人物だと、匂わせる情報のみを書く。
西暦1015年に彼が来日して、藤原道長に払い下げられた孔雀等を
献上して以後、実は後一条天皇が即位してからしばらく、北宋商人の
来日は無かったようである。そして、次に来日した北宋商人も、周文裔・
周良史親子であって、上記論文によれば、なんと

刀伊の入寇の翌年の西暦1020年の事だった

と言うのである。つまり、次の西暦1020年には、

字の書いていない経帙牌を例えば数百枚、持って再度日本にやって来た

と考えれば、話は良く合うという事になる。また、彼ら以外に、将棋の
発生と関連しそうな、別の中国人交易商人が、かなり考えにくい、とい
う事でもある。
 なお、周文裔には日本人の妻が、たぶん日本におり”大宰府の条坊に
在庫の経帙牌を使い、日本の九州で、西暦1019年から将棋が指され
だした”との旨の情報は、自分の日本人の妻を通して、事の次第の詳細
な連絡が、中国の夫と息子の居る所へは、事前に行ったのかもしれない。
 それにしてもこの情報には驚いた。提供してくれた、東洋大の森公章
先生には、なんとお礼を言ってよいものか、私には判らないほどである。
(2017/08/14)

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