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芦田正次郎著”動物信仰事典”(1999年)の動物類と日本の将棋(長さん)

表題の、㈱北辰堂の成書、芦田正次郎著”動物信仰事典”(1999年)
と、大局将棋までの日本の将棋種類に有る、動物種を比べてみると、
魚類とされた、鮑、鰯、海老、オコゼ、貝、鰹、金魚、鯉、子安貝、鯛、
蛤や、虫類とされた、蟻、優曇華、蚕、蝸牛、蜘蛛、玉虫、蝶、トンボ、
腹の虫等、明らかに戦力にならない動物は別であるが、他は大局将棋まで
に有る、動物駒と、ほとんど中身が一致している事が判る。
 なおこの本には、鳥の類には鳳凰、金翅鳥が入っているし、鬼形類とし
て、鬼、風神、雷神、夜叉、羅刹、天狗等を加えている。更に獣類には、
当然のごとくに、獅子と狛犬と麒麟が入っている。
ようするに日本人の感覚では、身近に有る、動く生き物は、ほぼ信仰の
対象になり、それは、日本の将棋種には、ほぼ全て加えられていると、言
うことである。なお、この本は、最も遅く見積もっても

少なくとも唐代には完全成立していたとされる、中国古代、三国鼎立時代
の、呉の陸幾の著作と伝わる”毛詩詩経草木鳥獣虫魚疏”を真似ており、
それに、日本人の一般的な、信仰対象動物類を、著者芦田氏の知見により、
集積したもの

のようである。目次を眺めると、まるで将棋駒の駒種のリストを、見てい
るように私には思える。誠にお見事である。
 従って、あるいは

大大将棋や摩訶大大将棋の作者の方は、陸幾(王へん)の著作と伝わる、
”毛詩詩経草木鳥獣虫魚疏”の動物リストを参考に、駒名を考えている
可能性がある

ようだ。
なお、芦田正次郎著”動物信仰事典”(1999年)に含まれる動物類で、

日本の将棋類に無いが、駒にもなりそうなありきたりな”動物”類として、
河童と鯰

もある。これについては、動物信仰事典の中で、1712年成立の、

”和漢三才図会に、河童については、『川太郎という妖怪が、西国には
居るが一般的でな』く、河童の項目は無い。また鯰については、『鯰が
地震を起こす』という説は書かれて居無い”

と、紹介されている。河童が著名になり、鯰が地震が起こるときに、騒ぐ
のに、日本人が気がついたのは、18世紀からなのかもしれない。恐らく
その事は、18世紀頃の大局将棋のデザイナーも知っていて、どちらも、

江戸時代の人間にとっては、最近の話

と、当然思っていたのだろう。そのため、河童は将棋駒に加わらなかった
し、地震を起こすという修飾詞を持つ鯰駒を、大局将棋に加える事も、
実際には無かったのかもしれない。その際参考までに、大局将棋のデザイ
ナーは、ひょっとすると和漢三才図会の記載を、チェックしたのかもしれ
ない。つまり和漢三才図会は、将棋史研究にとって、必須の文献であると
同時に、

大局将棋のゲームデザイナーが、新たに加えた将棋駒種の妥当性について
チェックする際にも使用した文献

なのかもしれないと言う事だと、私は動物信仰事典を読んで解釈した。
(2017/12/16)

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ミャンマー象棋シットゥイン。シャンチー砲が導入されなかった訳(長さん)

前回、9×9升目36枚制標準型平安小将棋(持ち駒無し)に、平安末期
の鳥羽上皇の頃、占い駒として輸入されたと、本ブログでは推定している
中国シャンチーの砲駒が導入されなかったのは、歩兵がシャンチーの士よ
りも、ずっと攻撃力の強い、金将に成るため、数を減らす事に、日本の
当時の将棋棋士が、嫌気を感じていたためとした。
 ところで、日本の平安小将棋は、タイのマークルックと類似である。が、
タイのマークルックに、砲駒を導入した変種があるという話は聞かない。
もっとも、タイのマークルックは、本ブログの言う、8×8升目32枚制
原始平安小将棋型の升目である。だから、中国シャンチーのように砲駒を
導入しようとして兵駒(貝)を減らすと、陣形が乱れてしまう。前に、原
始平安小将棋に砲駒が導入されないのも、偶数升目であるため、との論は
本ブログでも、指摘したと記憶する。
 しかし、もっと考えると、これでも話は終わらない。タイのマークルッ
クと、駒の構成が同じで、

初期配列が自由な、表題のミャンマーのシットゥインという象棋がある

からである。初期配列にこだわらないのなら、歩兵が乱れた抜け方をして
いるという理由で、ミャンマーの棋士(モン族)が、中国のシャンチーの
砲を、導入できないという、理由が無いからである。もっとも、バガン国
と北宋には11世紀頃、余り交流が無かったから、たまたま砲は伝わらな
かった、という言い訳が、絶対に無理とまでは、言えないだろう。しかし、
仮に中国の北宋時代の交易商人は、活躍していて、中国北宋原始シャンチー
は、東南アジアに伝わっていたとして、それでも

ミャンマーのシットゥインに砲が無いとすれば、理由は何だろうか。

そこで、さっそく回答から書くと、

シットゥインの副官駒(シッケ)は、もともと金将に近い動きだったに
違いないから

だと私は思う。つまり、初期配列ルールが違っていても、11世紀頃は、
副官のルールが、日本の将棋の金将や、四人制チャトランガルールに
書かれた、幻の2人制チャトランガの大臣の”玉将と同じだが、取られて
も負けでない”というルールに、近かったのではないかと、私は考えると
言う事である。根拠は、ミャンマーの副官に成る”兵”の、現在の成り制
限ルールが、私にはほぼ、意味不明に見えるからである。猫叉の動きでし
かない”成り兵”を、1個しか許さない根拠が良くわからない、という事
である。つまり、

ミャンマーのシットゥインの成り兵が、仮にシッケチュウで幾つでも成れ
るに変えたとしても、ゲームがおかしくなるほど、小駒である猫叉の寄与
は、それほどには無いのではないか

という事である。私に言わせると、この不可解なルールの理由を説明する
ためには、

もともとシットゥインの兵は、猫叉の動きの駒ではなくて、金将の動きの
駒に、少なくとも11世紀程度の昔には成れた

と考えるしか無いように、思う。つまり、ミャンマーのシットウィンも、
タイのマークルックも、そして、現代のインド人の言葉で表現された
”現チャトランガ”も、副官・種駒ないし大臣駒が猫叉の動きになったの
は、シャンチーで、そうなったよりも、かなり後の事なのではないかと、
私は思う。

当てずっぽうで言うと、日本の江戸時代、ムガール帝国の頃

にやっとではないのか。つまり、

ミャンマーのシットウィンに、砲駒が導入できなかったのは、日本の
標準型平安小将棋に砲が導入できなかったのと、もともとは同様な理由

だと、私は考えるのである。前に述べたように、本ブログでは、ミャンマー
のシットウィンの、兵の成りの制限ルールは、上位座仏教が”金品で布施
をもらうことによって、仏教道の修行者が、現世でどんどん、金持ちにな
って行くこと”に、比較的否定的な見方をしているという、

宗教上の理由から来る

のではないかと見る。逆に言うと、11世紀頃の昔のシットゥインでは、
兵が、金将の動きをする副官(シッケ)に、幾つでも成れる、”羽振りの
良いルール”だったのではないのだろうか。
 そして、イスラム系のムガール帝国が、インド亜大陸を支配する頃に、
ミャンマーのシットゥインの副官駒シッケが、金将動きから猫叉動きに変
わったとき、兵の成りも、金将から猫叉に変わり、本来は”シッケチュウ
経過自由成り”で、問題が生じなくなったのだろう。しかし、相変わらず、
副官駒は、副官(シッケ)という名称で有り続けた。そこで、合理的なルー
ル調整で、兵を”シッケチュウ経過単純成り”に再調整する事が、シット
ゥインでは、おそらく不可能だったのではないのだろうか。
 よって以上の事から見えてくるのは、

現在は日本の将棋に、金将としてしか残って居無い、四人制チャトランガ
ルールに、”五番目の王”として登場する、幻の二人制チャトランガの
”大臣駒”は、かつては、日本と、その源の中国雲南だけでなく、インド、
ミャンマー、タイにも存在した、副官駒の、ありきたりのルールだった
可能性が、かなり高い

と言う事だと、私は考えるのである。(2017/12/15)

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日本の将棋にシャンチーの砲が導入されなかったのは何故か(長さん)

表題の議題は、前にも立て、日本の将棋の走り駒の流儀が、飛車角型で
あって、中国シャンチーのように車砲型にならなかったためと、述べた
記憶がある。しかしこの回答では、そもそも

中国シャンチーを見て、中国より当時全てを学んでいた日本人が、走り
駒の構成を、車砲型に変えない理由が、充分に説明できていなかった

と思う。最初がたまたま飛車角型だったので、その後もそうしたいう主
張を、本ブログでは、しただけだったと、記憶するのである。なお、
日本の荻生徂徠の広将棋のように、囲碁盤を用いても、角行動きの象の
あるゲームも、アジアでは作られているので、線の交点に駒を置くゲー
ムにしなかったためでは、厳密には、答えになったいないと、私は考え
る。では、

砲が日本の将棋に、9升標準型平安小将棋時代に導入できなかった理由

を以下で考えてみる。
 そこで、まずは答えを先に書くと、

と金の数が減る、取り捨て型の将棋を日本人が、嫌ったため

であろうと、私は考える。と金は、いうまでも無く、歩兵が成って発生
する。他方、砲を導入した結果、

砲のルールによる、豊臣秀吉将棋になる事を避けるためには、歩兵を
間引きするのが、必然であろう。

しかし、こうすると必然的に、歩兵が減るので”と金”も減ってしまう。
と金で相手玉の詰みを狙うにしても、平安小将棋二中歴のルールブック
にあるように、裸玉を狙うにしても、歩兵の数を減らしては、どちらの
戦術も、とりにくくなるのである。そのため、シャンチーに接した、
平安末期、鳥羽上皇の将棋占い時代の日本人が、砲という駒の面白さに、
当然気がついても、それを導入するために、9升目を11升目にした、
北宋大将棋のようなゲームは、作らなかったのであろう。つまりこれは、

と金、すなわち金将が、シャンチーの士と違って、動く方向が6方向と
多いこと

から、本質的には来るものと、私には推定される。よって、逆に言うと、
中国人の方が北宋王朝時代、宝応将棋のような”金象将軍”、つまり私
に言わせれば、金将銀将の有るゲームの言い換え象棋を、シャンチーの
母体(ベース)に、していたとすれば、

兵または卒が、金将ルールの成りになるので、日本人の将棋棋士と、
同じ事を考えて、砲という駒は加えづらい

と、私は推定する。つまり、逆にシャンチーと日本の将棋の差から、
シャンチーの母体は、唐代の宝応将棋のような、兵の成り先である副官
が、四人制チャトランガのルールブックの言う、「第5の王」のような
”近王的な将棋”ではなくて、

既に最初から、副官が動きの弱い、猫叉の動きになっていた、イスラム・
シャトランジである

と、充分に推定できるのではないかと、私は考えるのである。恐らく、
北宋時代の中国大象棋の兵・卒は、最初は盤の敵方半分のラインに入る
と、士に成ったのだろう。その後、九宮が出来ると、士のルールが変わ
り、その結果、ミャンマーやタイの将棋と同じルールは止めて、斜めと
縦横をひっくり返して、更に後退もやめ、摩訶大大将棋の嗔猪の動きに
したのだろう。つまり、現在の兵・卒の動きは、猫叉と嗔猪の動きの駒
は、ほぼ同格と中国人ゲームデザイナーが考えて、”たまたま”そうし
ただけなのだろうと、私は推測する。(2017/12/14)

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増川宏一著将棋Ⅰ(1977)に記載された”タイ将棋”の変遷記録(長さん)

増川宏一氏著書のものと人間の文化史、将棋Ⅰを所持しているとすれば、
それを読んでくださいで、以下の文章は不要なのだが。この本には日本
の将棋だけでなくて、外国の将棋史についても、他の著書に無い情報が、
書いてあるケースが多い。
 最近私が気が付いた中で、重要事項と思われるのは、タイのマークル
ックの駒の動かし方について、ルールの変遷史の情報が、ちらりと、書
いて有る所である。本ブログでは、日本の将棋は、タイのマークルック
とは、兄弟関係にあり、タイのマークルックも、大理国の象棋の子と、
いう立場を取っている。が、

以下の将棋Ⅰの記載は、この説にとって、とても有利な情報

である。情報の出所だが。詳しい経歴は、この成書だけからは不明であ
る。が、タイのマークルック史を少なくとも、研究している現地の人物に、

チバラント・チャンドラタットという人物が、1970年代におり、

この人物から、増川氏が聞き取った情報のように、将棋Ⅰからは読める。
チャンドラタット氏によると、どうやら、

マークルックの根(象と、将棋Ⅰでは書かれている)は、昔は銀の動き
ではなくて、角行の動き

だったとの事である。この説は、大理国の象、興福寺出土の成らない酔象
の動きを角行と見る、本ブログの立場を支持するものである。正しくは、
マークルックの根(現在の象)は、大理国で、角行動きの象、銀将動きの
銀将に分岐したあと、銀将の動きの方を再採用したと、本ブログでは見る。
 次に、

マークルックの馬は、昔は桂馬と香車を組み合わせた動きだった

との情報を増川氏は、チャンドラタット氏から、得たようである。
 将棋Ⅰの記載は良くわからないが、馬の古い動きは、スペインの、
古大将棋のグリフォンのような、タイプの動きと、チャンドラタット氏
は言ったのであろうか。あるいは、私流に良いように解釈すると、

マークルックの馬と舟は、それぞれ昔は桂馬と香車の動きだった

という話の、誤伝なのかもしれない。こうなると、古マークルックの
ルールは、種(副官駒)と、相手駒を取るときの貝(兵)を除いて、
ほとんどルールが原始平安小将棋と、同じになってしまい、

大理国将棋が親で、平安小将棋とマークルックが子供という説にとって
誠に都合が良いようにも、すくなくともいっけんすると見える

のである。ただし、チバラント・チャンドラタットという人物が良く見
えないで、議論はこのあたりで、今の所行き止まりだ。
 だいぶん寒くなってきた。体を温めるために、以上のように心理的に
盛り上げたところで、今回のこの論題を終わりとする。(2017/12/13)

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平安大将棋の猛虎と飛龍。元は四神か十二支か(長さん)

仮説13升目108枚制普通唱導集大将棋の説明で述べたように、
”この将棋に、牛、虎、龍、馬、猪駒が有るのは、平安大将棋に、
猛虎、飛龍、桂馬がある事の拡張のため”が、本ブログの説である。
 ところで、このうち馬駒が有るのは、全世界の将棋類で、全部
有る為として、平安大将棋の残りの猛虎と飛龍は、十二支の中で、
馬より強そうなのが、龍と虎だったから、有るようにも見えるし、
四神、白虎、青龍、玄武、朱雀のうち、兵器になりそうなものが、
前二者だったため、それだけ残したようにも見える。後世、どち
らにも取れると、少なくとも解釈したから、大将棋に猛牛や嗔猪
が入ったのであろうが、もともとは、どちらだったのだろうか。
 この点についても、本ブログではブログを開設した当初に、見解
を述べており、

四神の方だろう

と、している。理由は、中国の北宋広象棋を、平安大将棋を作成する
ときに、ある程度参考にしており、その中に、

四神は有っても、12支駒は無いのではないか

と考えているからである。根拠は、

中国王朝内部で、唐、宋、元の各王朝の頃に、日本のような十二支
信仰があったとの証拠となる、出土品が有ると言う話を、今の所、
私が察知して居無い

ためである。銀で出来た像として、雲南博物館の金翅鳥の象が、私
の場合、直ぐに思い浮かぶ。だから晁無咎が作成したとも、晁補之が
作成したとも私の聞く、中国宋代の19路とみられる広将棋には、
金翅鳥の類の鳥の神様の駒はあるだろう。だがその他の、新たに加わ
る駒としては、碑、偏と言った、軍事的な階級を示す駒と、砲、弩、
弓、刀、剣と言った、武器を意味する駒しか、シャンチーに対して、
加えられては、い無いだろうと、そう想像(空想)している(だけの)、
状態である。なお、少なくとも現在、北宋広象棋に関する情報は、
たぶんほぼ、どこにも無いと、私は認識している。
 むろん、中国にも十二支はある。しかし、駒数多数象棋の中に、
馬は、元から有るので別として、それらを持ち込むような

十二支(動物)信仰が、少なくとも政権を担う皇帝の周囲のような
上流階級には、日本の貴族のように存在はしない

のではないだろうかと思う。十二支信仰は中国の唐~元代は、高々民
間信仰のレベルのように、私は今の所予想している。なぜなら、子丑
寅卯辰巳・・が、冬春夏秋の、季節の移り変わりの風物から生まれた、
順番を示す漢字である事を、漢字を母国語とする代表の中国唐~元
代の知識人なら、皆知っており

中国の知識人にとって十二支は、数詞の類と正しく認識されていた

はずだからである。つまり、鼠牛虎兎龍蛇・・・が、子丑寅卯辰巳・・
を理解するための、身近な名詞への、単なる置き換えに過ぎないこ
とを、中国宋代の19路とみられる広将棋を作成したほどの、知識
人の、晁無咎なり、晁補之なりが、知らないはずは無いという事で
ある。

つまり、そもそも彼らには鼠牛虎兎龍蛇・・が、将棋駒に加われる
ほど、大それたものであると、考える理由が何もない

と言う事だ。そして、晁無咎なり、晁補之なりが19升目の中国北
宋広象棋を仮に作成する際には、日本の陰陽道師のように、大将棋
に、12支駒は加えない代わりに、桂馬を八方桂には、しただろう。
つまり、イスラムシャトランジの、将棋は日月惑星の動きにちなむ
を、惑星学的な意味に解釈することが、当然出来たのだろう。そし
て、彼らにこの能力が存在する理由は、日本の古代末~中世の時代
にも、中国歴代王朝には、暦を改良する能力が保持されたからだと、
私は考える。ようするに、

中国の知識人には、唐、宋、元代、夜間天球上に、恒星と惑星が見
えているのを誰もが理解していたが、日本の藤原摂関の長者は、少
なくとも、そういった惑星観測の世界に、興味そのものが無かった

という事実が根本問題として、有ると思う。藤原摂関長者が、惑星
学に関して、無知だったという証拠としては、

藤原道長の日記に、藤原一族の上層部が、ある年の宣明暦7月7日
に、こと座アルファー星と、わし座アルファー星が”天球上で移動
し、接触するのを仲間が観測した”と称して盛り上がる記事が有る

点から見て、明らかである。むろん当時の日本の天文博士が、中国
製の星図を持ち、普段は恒星の配列に変化が無い事。新星や超新星
が現われたときには、朝廷や藤原摂関に、報告する事になっている
という事に関する知識を、藤原長者は、役目上知っていたはずであ
る。長者がどうかは別として、鎌倉時代に入ると、藤原氏貴族の一
部、たとえば、藤原定家が、超新星に興味を持っているとの証拠が、
明月記から出てくる。しかし彼らは、少なくとも平安時代末には、

恒星という概念には、余り興味が無かった。ので、何がどうなって
いるのかは、そのうち忘れてしまっただろうし、恒星の他に陰陽師
がしばしば話題にする、惑星があり、その天球上での動きは、独特
である

という論を、日本のきらびやかな貴族文化の中に於いて保持は、特に
していなかったのだろう。そのため、平安末の院政期に、恐らく中国
から、将棋の駒の動きは、「日月惑星の動きに因むべきものである」
という、水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄で冒頭に書いている
”イスラム天文学思想”が不意に流入したとき、彼ら摂関派がした事
は、それならばと、

平安大将棋の原案作りを、陰陽道師に”まるなげ”した事だけだった

と、私は個人的には、予想するのである。他方陰陽道師の心の中では、
合戦の中にも、神が兵士と共に交流し、助けたり妨害したりするとい
う、現代社会では”代表的迷信(世界大戦に於ける精神論)”とイメー
ジされる概念が、平安末院政期には、別に中国人に問い合わせなくて
も、自分で作れる程度に”日本人の心の文化”として、充分確立して
いたと見られる。そこで陰陽道師が平安大将棋の原案を、中国広将棋
の19升目型で、たまたま作成したときに、中国流に、四神を加えて、
藤原頼長等に上奏しただろう。がそのほかに、八百万を神に仕立て上
げる、日本の陰陽道師らしく、動物としての十二支を入れた第2原案等
も作成していたとしても、余りおかしくはないように、私には思えるので
ある。
結局その第二原案の

12支駒を、大将棋の駒類の中に入れるという思想は、直ぐには平安
大将棋としては採用されなかった。が後々、普通唱導集時代の
大将棋に、猪駒等の十二支駒が入る遠因になったのかもしれない

と、私は思う。つまり、
もともと”将棋の駒が日月惑星の動きに則る”とは、アラブのシャト
ランジでは、馬駒を、前後対称の八方桂馬にルールを変えて、火星の
ように、動くようにするのが目的だったのだが。暦博士との関連の
強い陰陽道師に、日本の大将棋を作らせた結果、地球の公転運動と、
月の地球の周りの周回運動の問題だけが、クローズアップされた、

暦に関連する十二支駒の含まれる大将棋を、生み出す結果になった

という事だと思う。なお将棋史研究家の増川宏一氏は”平安大将棋こ
そ、日本独自の将棋文化の基点”と、確か将棋Ⅰ等で述べられている。
惑星天文学の暦学へのすり替えが、この日本独自遊戯文化の発生原因
と私は見ているため、この独自文化に、”賞賛すべき”という、形容詞
をつける事に、個人的には今の所、ためらいが有る。
 以上をまとめると、
”日月惑星の動きに則る”の正しい意味を、暦改良を続けた中国王朝
知識人なら、中国では惑星の精密な位置観測が、継続されたため、
専門家ほどには興味は無くても、正しい意味を知識人なら誰もが知っ
ていた。そのためと、もともと

十二支駒を象棋に入れる習慣というのは、中国王朝内では、誰も考え
もしないために中国では発生しなかった。結局、駒数多数将棋または、
象棋としては、日本でしか、こんな不思議な、動物の将棋の発生その
ものが、なかったのだろう

と、かなりの確度で予想はできるのではないかと、今の所私は、考え
ているというわけである。(2017/12/12)

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和将棋は、持ち駒ルール有りとされている(長さん)

江戸時代に作られた将棋で、禽将棋が持ち駒ルール有りである事は
著名である。が、おなじ江戸の将棋である和将棋も、持ち駒ルール
であるとの説がある。唱えている古典将棋の識者の中に、私の知る
範囲だが、スティーブ=エバンスという名の、オーストラリア人が
含まれる事までは判っている。スティーブ=エバンスの業績の全貌
を私は知らないが、コンピュータ将棋ソフト、”将棋類”の作者で
ある事は知っている。その中に、”和将棋のコンピュータソフト”
が含まれ、持ち駒ルールでも、指せるように調整されているからで
ある。
 最近になり、スティーブ=エバンスが、何を根拠に、和将棋の持
ち駒ルール有りを割り出したのか、ようやく私にも判るようになっ
てきた。知る者の多い、増川宏一著書の、ものと人間の文化史23-
1将棋の、松浦大六氏所蔵の、象戯図式の、和将棋の、隠狐の動か
し方ルールに、横を除く六方向が2升目づつ動きで、

合駒が効かない

と書いてあるのである。当たり前だったが”合い駒”は、主に持駒
ルーのときに使う、持ち駒の打ち方の一種である。うかつだったが、
スティーブ=エバンスの、コンピュータ将棋ソフトに接してから、
上の以前から所持していた、成書の内容に気がつくまで、私の場合、
10年以上もかかってしまった。その間に、技術は進歩し、今紹介
した、32ビットコンピュータ上でしか、どうやっても動かない
コンピュータ将棋ソフトは、webのソフトライブラリーからは、
まともに動くものが、ほぼ完全に消滅してしまった。
 スティーブ=エバンスが、現在どうしているのかは、私には全く
判らない。江戸時代の将棋本に、”古時鳥とは仙鶴の事である”と
間違って書いてあるのを、漢文として彼は正確に読み、大大将棋の
老鼠の成りを、ソフトで仙鶴に変える等、彼自身が日本の古文書に
精通しているか、あるいは傍らに、精通した人間が居るとしか思え
ないような、古文書の解釈が正確なソフトの作成者であった。
 以上は、大将棋の話題とはかなり離れるが、和将棋に関する重要
な説が、たった20年程度の歳月で、パーソナルコンピュータの、
64ビット化により完全に、風化してしまったのを見て、敢えて一
ページ、今回保存のために、加えてみた次第である。(2017/12/11)

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室町時代1424~25年、四代将軍足利義持御前将棋の奔王出勝ち(長さん)

将棋の古文書の記録で、室町時代の花営三代記の1424年1月と
1425年2月の、奔王を相手方に出すことによって勝つ”将棋”の
記録は、割と有名である。時代は、中将棋が流行りだした頃であり、
この”奔王が相手方に向かって、出た方が勝った将棋”は、恐らく
中将棋の類であろうという考えが、有力であると私は認識する。
 しかし、前にも述べたが、中将棋の場合、奔王の状態と、相手玉が
詰むかどうかという点には、余りはっきりとした、相関は無いように
も思える。そもそも、”奔王を相手側に出して勝った”というのは、
どういう局面を指すのかも、これでは全くはっきりとしない。今回は、
前に”ローカルルール”であろうとは述べたが、上記のはっきりしな
い、この室町将軍足利義持時代の、お城将棋の正体について、

奔王を出して勝つとは何者で、何故そうしたか

を、論題にしてみた。
 そこで、まずは結論を、何時ものように、とっとと書くことにする。
奔王が相手陣に入り、かつ次の手で、相手が、攻め方の奔王を直ぐには
取れない状態を、奔王を出したと、言ったと見られる。次に、相手は
入ってきた、攻め方の奔王に駒を当てて、奔王取りを掛けた。すると、
攻め方が、奔王を相手陣の中に、保持できず、いったん引いた場合は、
ゲームを続行する。しかし、別の敵陣内の升目に移動できる場合は、
敵陣内を荒らしながら、逃げ回ることができる。その場合、守り方は、
相手の奔王が陣内に居る間は、奔王取りを掛け続けなければならない。
奔王取りが掛けられなくなったら、攻め方の”奔王出し(て安定)勝ち”
とする、というルールだったとみられる。つまり、相手陣の4段目に、
奔王を突入させ、自分の手の所で、更に動かさなくても、取られない
ようにできた、つまり静止できれば、それで勝ちである。中将棋の
奔王は不成りだが、仮に成れるとすれば、”奔王成って(安定)勝ち”
と、言えた所だろう。

つまり、ちょっとヒネッた、トライルールの一種と私には推定された。

ついで、それで勝ち負けを決めた理由は、

だらだらと将棋を指した挙句の果てに、引き分けになるのを防ぐため。
ほぼその一点にすぎない。

つまり必ずしも、先に奔王に入り込まれた方が、玉が薄いかと言うと、
完全にそうでも無く、審判が室町幕府でなかったなら、負けた方から、
しばしば不満が出るルールだっただろうと、思われる程度のものである。
ようするに形式上、単にそれで、勝ち負けを、たまたま決めるルールに
したのだろうという事である。
 中将棋で中盤になると、攻め合えば、どちらも陣が乱れて、相手駒が
侵入できそうな状態になるのであり、奔王が取られて居無いか、あるい
は、鳳凰が残っていさえすれば、中将棋ではそのうち自然に、相手陣
内に、奔王が入り込み、居座るようには、なれるとみられる。従って、
そのとき勝ちと、そのように決めておけば、中将棋の勝負は、中盤に入
れば、じきに勝負がつくはずである。ようするにお城将棋で、将軍等に
飽きがこない程度で、勝負が終わるようにするため、特別に決めていた
にすぎないように思う。実際に、奔王を大事にする中将棋を、試しに駒
を並べてチェックしてみて、以上が私の得た知見である。
 今回私の場合、これには、何かきっと裏があるのだろうといろいろ考
えて、幾ら考えてもわからないため、とりあえず駒を並べて、中将棋を
チェックしてみた。そして結局、こんなものだろうと言う事で終わった。
つまりこれは、単純に、途中で指し掛にする口実を作るための、特別な
ルールであり、棋士の将棋の寄せの巧みさを、将軍足利義持が特に、興味
を持っているわけでもなかったので、将軍等を不愉快にさせず、勝負を
適当な所で切り上げるためというだけ事ではないかと、私は思うように
なったのである。もっとも、最後は、守り方の奔王取りの手が、切れる
かどうかで、多少は座が盛り上がるだろうから、観客の見所は、多少は
あるようだ。
なお、

形勢有利な方が、先に”奔王を入れられて居座られ”を喫した中将棋
は、そのまま続けると、終盤意外にこじれることが多い

ような気もした。このローカルルールを考えた人間には、何か魂胆が
もともとあったので、そうしたのではなくて、何十年も中将棋を指して
いるうちに経験的に、こうすると勝負が、納得感が比較的残って、かつ
早くつき、1424年宣明暦1月2日のように、中将棋が、一日に11
ゲームも出来る事に、あるいは、永い年月かけた、純粋な経験に基づい
て、気がついたのかもしれないと、私には、この事からは思えるように
なってきた。なお、以前私が示した、この史料の訳で、「奔王を出して
勝ち」を、個別の対局の状態を指したもので、あるかのように書いたが、
多分誤訳だ。正しくは、

その日の対局のルール条件を、日毎に、書いている

のだと思う。なぜなら、11局のうち2局は、9勝側の勝者(貞彌)
ではないからだ。つまり、1424年1月2日と、1425年2月
7日の中将棋は”お城将棋が、奔王出し勝ちルールだった”という意味
だろう。
 それに対して、1424年1月3日の元行と貞彌の対局については、
説明がない。ひょっとすると、両人の前日1月2日の11局の指し掛け
早指し将棋が、「あっぱれ」と、足利義持にほめられ、特別に普通の
中将棋が、終局まで、指されたのかもしれないとも思われる。
(2017/12/10)

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将棋纂図部類抄”或説云・・也”部分は仲人が話題(主格)では無い(長さん)

以下は水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、中将棋の初期配置図の後にある、
水無瀬自身によるものと見られる、注釈の中で、その3段落目、大きな
字で”仲人”で始まる部分の、中段の右部分”或説云居喫師子許也”は、
何に関する話題なのか、という議論である。議論する理由は、私自身が、
半ば表形式になった、江戸時代の古文書は、上の一段目から順に、

右から左に読み

読み終わったら、二段目に移って、また右から左へ読むべきだと、最近
気がついたからで、後継者の万が一の”にのまい”を避けるためである。
 我々は横書きの文章は、上とは逆に左から右へ読むのに慣れている。
そこで、古文書の半ば表形式、つまり罫線の無い表のように書いてある
文章を読むときには、反射的に文科系の文書と認識し、

右の列を上から下へ読んでしまう癖があるのだが、この反射的判断は危
ない

と、私は最近ようやく気がついた。それに気がついた古文書は、水無瀬
兼成の上の文書ではなくて、江戸時代の将棋の本、松浦大六氏所蔵、
象戯図式の、大大将棋の駒のルール説明部分で、不成り駒が、表で書い
て有る所である。最近までこの表には、駒名がランダムに並んでいると、
私は信じ込んでいた。理由は上記の癖があったためである。しかし、先
だってこの表を見直して、表を上の段から順番に、各段について、駒名
を、右から左に読むと、規則的に並んでいるのに、ようやく気がついた
のだった。この事に気がつかないのは、今度は今述べたように、理系の
文書のように、

横書きの文を読むときに、少なくとも私は左から右に読むのが、習慣だ
ったため、古文書の反対向きの記載を横書き文書と、認識も出来ない為

である。そのため実際には、

古文書で、記載順序が右から左への横順序の、表形式フォームに出会う
と、今度は順番を、適当に誤魔化して読む習慣が、私の場合、知らない
うちに身についてしまっていた。

ようするに、

横順番表古文書の文書構成解読が、私の場合出来ていなかった

のである。
 ここでようやく本題に入るのだが、表題の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の、中将棋の初期配置図の後にある、注釈集のうちの第3段落目、おおきな
字で”仲人”で始まる部分の、三段組で二列の文は、この部分だけ、罫線
無し表形式の横順番構成になっているのである。
 その事自体は、最下段を見れば明らかに判る。だがそれが、なんとはなし
に頭に入っていても、

きちんと、上段右、上段左、中段右、中段左、下段右、下段左の順で、
文書を読んで、正確に私の頭が解釈しようとしていない、

のに、ここ数日のうちに気がついた。実は従来、上の6カラムの題材は、
内容以前に、何について書いてあるのかと言う点に関して、

上段右と左と中段右と左の4カラムが、仲人の話題(主格が仲人)、

下段右と左が、”鳳凰と仲人等”の話題(主格が鳳凰と仲人等)と、私は
考えていた。だが実際には、横順番文書の文書構成解読が、私の場合出来
ていなかったために、

それは間違いだ、

と少なくとも私は思うようになった。結論をだいぶん遅くなったが書くと、
上段右の文法としての主格は仲人。上段左の主格も仲人。だが、

中段右の主格は獅子、

中段左の主格は仲人。下段右の主格は鳳凰と仲人等。下段左の主格も鳳凰
と仲人等、だと見なすべきと、私は考える。つまり、表題に書いたように、

注釈部大きな字”仲人”段落を、上段右、上段左、中段右、中段左、
下段右、下段左の順に、正しく読んでゆくと、

中段右の主格(話題)は仲人に関するものではなくて、獅子に関するもの
と見るべき

だと、私はようやく気がついたのである。そして、そうとれる根拠だが、
中段左に、”仲人立聖目外”とは書いてあるのだが、”立聖目外”と書いて
ないからである。つまり、

中段右の”或説云居喫師子許也”の主格(何に関する話題なのか)が、
もし、仲人だとしたら、中段左の”仲人立聖目外”の”仲人”と言う
2文字が余計

だと、言う事である。ようするに、中段左の”仲人”と言う2文字は、

話題が一旦、仲人から獅子に、それたのを、再び仲人に戻さなければなら
ないため、2文字余分に記載が必要になったもの

だと言うわけである。正直、私はそれに気がつくまで、繰り返すが”大きな
字の仲人段落”の中段までの計4カラムは、全部仲人についての記載と、
信じて疑っていなかった。そのため、以下のアイディアは、或る中将棋の
愛好家が出したのだが、”或説云居喫師子許也”は”或説云付喫師子許也”
の誤記で、判りやすく書くと、”或説云仲人(ヲ)付喫師子許也”だという
説に、賛成した事もあったのである。
 しかし、何が書いてあるのかの内容以前に、この部分が

仲人には関係なく、獅子についての、何らかの動かし方のルール説明である

と、上記のような経緯で、考えるようになったので、最近、この部分を、
少し前に書いたように、ようするに、大将棋及び摩訶大大将棋の獅子のルー
ルの解説部分と、

以前とは全く別の、解釈をするようになった

のである。以上をまとめると、私のミスは、

江戸時代以前の人間が、罫線は無いが、表にも見える形式で文書を、判って
当たり前のように、しばしば突然、段ごとに、右から左へ読むように書く
習慣があるのに、私が個人的に、古文書の理解が不足で、今まで気がつかな
かった

事と、私は解釈している。なお今の所、私の周りでは、以上の点に気がつ
き、私の改良版の、”或説云居喫師子許也”の解釈に、賛成する意見は無い。
そこで、最後に多少言い訳をすると、私の周りの者がほぼ全て、古文書には、
上記で指摘した、今とは違う表現形式が有るとの点に、充分には注意を喚起
して居なかったので、私も同じように間違え、その間違いに、今まで私は
全く気がつかなかったという事情は、一応有るにはあるのである。
(2017/12/09)

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詰将棋は何故作物と言われ、中将棋等では流行らなかったのか(長さん)

増川宏一氏の古い著書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰに、
将棋のルールという、歴史とは切り離した一章があり、持駒ルール
の成立時期について”15世紀中旬に有り”と書いてある。これは、
現在の増川氏の考えとは、違う。私が知り得る限り、増川氏は、
16世紀初頭の厩図の僧侶の掌の、将棋駒を根拠に、今は、

1450年頃ではなくて、1500年頃が、持駒ルールの最初

と述べていると、理解している。では、以前の増川論が数十年早か
った根拠だが、次の文献に、「(小将棋の)作物」という記載が、
出てくるためである。文献名は、「新撰遊学往来」で、その中に、
小将棋の次に、現在は詰将棋と呼ばれる”作物”が記載され、
盤双六や、碁石を弾く遊びの後に、中将棋と大将棋が記載されてい
るとの旨が、将棋Ⅰには書いてある。つまり、

作物は記載場所から、平安小将棋の作物のであるとされる。

そこで将棋Ⅰにも紹介されているが、この事実から、「持駒使用の
謎」の著者、木村義徳氏は、”15世紀の中期には、持ち駒ルール
が有ったという証拠の文献”と指摘したとされる。元文献は、同じ
く将棋Ⅰによると、「将棋世界」38巻10号との事である。私は、

15世紀中旬に、平安小将棋に持駒ルールが有った、との上記、
木村説には基本的に賛成

である。14世紀初めの、普通唱導集の小将棋の記載は、持駒ルー
ルの存在を唄ったものであるから、それより後なら、持駒ルールが
存在して当然だと思っているからだ。
 他方、増川宏一氏の方は、「新撰遊学往来」のこの記載を、持駒
ルールの根拠には、挙げなくなってしまった。詳細は、私には確認
できないが、私が想像するに、中将棋が15世紀に流行らなくなる
と、増川氏が考えたとすれば、つじつまが一応は合っている。他方
私は、9×9升目36枚制標準型平安小将棋の旦代問題が、15世
紀には未解決なため、そのポテンシャルを乗り越える手間が無い中
将棋を、持駒ルール有りの平安小将棋は駆逐出来ないので”爆発的
流行”は起こらず、持駒ルールが合っても、中将棋は廃れないから、
問題ないと見ている。むしろ、9升目制標準平安小将棋持駒有型に、

旦代問題が残っているからこそ、詰将棋が、当時は文字通りの作り
物(バーチャル)、つまり”作物”と呼ばれた

のではないのだろうか。つまり、仕掛直前まで後手が、線対称真似
将棋をすると、9升目の平安小将棋は行き詰まってしまうのだが、
仮にそれを飛ばして局面を進めたとして、終盤、駒が初期配列とは、
かなり違う形になる局面を、人工的に作ったとして、その形から出
発して、終局までゲームをするという遊びが、作物という言葉の、
もともとの意味だったのではないか、という事である。ようするに、

初期配列とはかなり違う、終盤の棋譜を人工的に作るというのが、
作物に、”作”という字が付いている理由

なのかもしれないと、私は思う。そしてこう考えると、中将棋の作
物や、大将棋の作物が、マイナーだった原因は、

詰め将棋が作りにくいと言うよりは、初期配列の残骸が、取り捨て
ルールでは残るので、棋譜の形を自由には、変えづらいので、作物
とはちょっと違ってしまう

と言う事だったのかもしれない。つまり、

9升目の平安小将棋には、旦代の難点があったので、その詰め将棋
は、創作品と言う意味での作物と言うのに、もともと相応しかった

と言うことかもしれないと、私は考えるのである。そして、創作品
と言うには、やはり駒が多数残っていた方が、見栄えがしただろう。
だから、それが本格的に作られた頃、9升目の平安小将棋の中でも、

駒枯れで終盤になる、旦代の難点の無いリアルな終盤局面を持つ、
持ち駒無しの平安小将棋は、作物を作る対象には最初からならず、
主として、持ち駒ルールの有る平安小将棋についてだけ、文字通り、
バーチャルな”作物”が作成されたのではないか

と私は、やはり考えるのである。つまり作物を後世、二中歴持ち駒
無し平安小将棋の、裸王ルールに対応するために、”一手隙相手負
将棋”とは表現しないで、普通に玉を詰めるだけの、詰将棋で定義
が出来たというのも、結果的にそうなっただけだと言うのが、現時
点での、私の考えなのである。(2017/12/08)

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大局将棋の最終成立時期は、やはり幕末なのではないか(長さん)

以前私は、江戸時代の将棋の者の家、大橋家から発掘されたと聞く、
大局将棋の最終成立時期は、江戸時代に成立年号の有る、将棋の本、
松浦大六氏所蔵、象戯図式に記載されていても、それは明治以降の
加筆であり、最終成立時期は、幕末の頃であろうと述べた。
 大局将棋には、砲、弩、弓といった、七国将棋系の駒が存在する
ので、早くとも1750年以降、徳川家治の時代ないし、その後の
時代の成立は、間違いないと私は思う。将棋界の恩人と言うべき、
第十代徳川将軍の徳川家治は、大橋家の棋士に奥御用を授けて、
多額の謝礼金を銀貨で与えている。そこで、将軍の御傍に置かれた
との誉もあり、かつて豊臣秀次に気に入られた、水無瀬兼成になぞ
らえて、泰将棋の継続としての、大局将棋の製作を、徳川家治の
時代になって、少なくとも大橋家内部では、始めていたという話
は、充分有り得る事かもしれない。しかしながら、大橋文書、
大局将棋初期配列・駒のルール図として成文化される所まで、同時
期に出来たとは、必ずしも言えないのかもしれない。最初はせいぜ
いルール集のメモ程度の物を、後継者に残していたのではなかろう
か。
 というのは、将棋種類の中に、銅車の成りに、銅象という駒が、
存在するからである。銅象は、いうまでも無いが、銅像のシャレ
であろう。しかし、

銅像は明治時代になってから、現在の意味で、盛んに使われた単語
である。

なお、大局将棋の駒名をチェックしてみたが、江戸時代に成立する
かどうか、

怪しい駒名は、大局将棋については、”銅象”が唯一

のようである。比較的大きな現代語辞書によると、今使われている
銅像の意味で、銅像が使われるようになったのは、欧州に派遣され
た幕末の人間が、現地の銅像を見てからのようである。なお、web
には、その中の人間が、胸像を見て「晒し首のようだ」と、異文化
感を吐露しているとされる。

その前の近世までは、”銅ノ像”という意味で、銅製の仏像を表現
するときにだけ、銅像と書いてあるように、私の見た古文書が、私
には、今の所全部読める。

つまり銅像という単語が、少なくとも辞書で引用されている、近世
以前の古文書に、確かに存在するようには、私には見えないと言う
事で有る。ただし、1750年頃の、大局将棋の作者が、銅ノ像を、
銅像という名詞と解釈して、銅象という駒を、大局将棋の銅車の成
りとして、絶対に作らなかったとまでは、言えないのかもしれない。
 個人的には、金車、銀車、銅車、石車、木車・・・と、車駒を並
べて、その成りを観察してみると、銅車の成りは、西暦1750年
の頃には、別の、より意味を取るのが難しい、遊母鳥、鴻翼と、
歩振鳥、風鼈の間に来るのに、相応しい名前が有ったようにも見え
る。だがその名前が、余りにも難しすぎて、幕末には大橋家の子孫
にさえ失念され、単純に銅象に置き換えられたのかもしれないと、
一応本気で私は疑っているのである。なお蛇足だが、大局将棋では、
右車と左車に成り駒を作り、それぞれ右鉄車、左鉄車と名づけて
しまったので、鉄車という駒だけ無い。議論を元に戻すと、単純に、
明治時代からの言葉のように見える、

銅象という駒が有るのは、単にその一種だけ遅れて作られただけ

かもしれないのだが。以上の点を根拠に、私は大局将棋は、徳川
家治の時代から幕末までの間に、順次部分が作られ、ひょっとする
と幕末になって、ようやく完全成立したのではないかと、今の所
銅象たった一つが根拠だが、個人的には疑っていると言う事である。
(2017/12/07)

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