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荻生徂徠の19×19路広将棋から普通唱導集時代の大将棋を推定する(長さん)

 前に述べたように、江戸時代の西暦1700年頃の、文献少なくとも
2つに、「大将棋は広将棋の別名である」との旨の文献があると、記録
されている。言うまでも無く、その時点で広将棋といえば、荻生徂徠の
19×19路・180枚制広将棋の事を指し、そこから金将や銀将が、
平安小将棋や朝倉小将棋同様に存在する、中将棋を作り出すことができ
ない。しかしながら、そう主張する文献の著者の、伝え間違いの可能性
は、ほぼ無いと私は考える。

たとえば、そう書いてある文献の一つ、和爾雅の著者の貝原益軒は、
広将棋の作者の荻生徂徠と、ほぼ同時代の人であるからである。

貝原益軒が、”広将棋は大将棋である”との旨を表現しているのは、
荻生徂徠から、直接、そのように聞いていたためと考えるのが自然だと、
私は考える。恐らく荻生徂徠が、彼が「発表した広将棋こそが、大将棋
の本来の姿である」と、当時主張していたのであろう。
 ここで、現在の将棋史研究者に比べて、荻生徂徠の時代に、どの程度
の情報が、その後失われてしまった分、残っているのかは謎ではある。
が仮に、彼が水無瀬兼成の時代よりも、ずっと以前、たとえば、鎌倉
時代末期、西暦1300年の時点での大将棋の情報を、少なくとも、
今よりは多く持っている可能性は否定できまい。だととすると、彼の
作成した19路の囲碁盤を使う、「広将棋、荻生徂徠版」に、その痕跡
が残っているかもしれないと、一度は期待して見るのも、あるいは意味
があるのかもしれない。
 実際に、マクロで荻生徂徠の広将棋を眺めて見てみると、

初期配列された駒を動かし方のルールが、広将棋と大将棋・中将棋類と
で、同じなら置き換えて考えてみると、広将棋の成りや特別な規則は、
複雑なため除外すれば、かなり似ている部分もあるといえると私は思う。

たとえば、
①最下段の列は、大将棋系の駒風に言えば、中央から、
玉将、麒/鳳、酔象、師子、金将、銀将、猛豹、銅将、変形跳び白象、
変形香車と並んでいて、パターンが大将棋や摩訶大大将棋とさほど差
が無い。
②2段目も、同じように言い換えると(厳密に考えたときの違いには、
目をつぶるとすれば)中央から、
近王、嗔猪、盲虎、空き、奔王、空き、龍王、空き、龍馬、変形反車
と並んでいて、大将棋類に類似であるが、ただし、

相違点1.後期大将棋類と異なり、2段目に猛豹と猫又といった、袖小
駒を置く傾向が無い。

次に、
③4段目に八方桂を一つ置きに配列している。これは後期大将棋で、3
段目の、少なくとも中央に、師子、麒麟、鳳凰という、跳び駒を配列し
ている事に、対応はしている。ただし、

相違点2.後期大将棋と異なり、袖まで八方桂を配置しており、袖の方
が、悪狼、嗔猪、猛牛となって弱くなる傾向がない。

④6段目に、ほぼ走るに等しい、車駒を、一つおきにではあるが、配列
しており、これと、後期大将棋で4段目に、走り駒を集めているのとは、
似ている。

相違点3.後期大将棋では、袖から1つ寄った2列目に、走り駒よりも
弱い、飛龍を配列しているが、広将棋の6段目には、走りを袖の方に向
かって、弱くする傾向が見られない。また、広将棋の2段目にも千総、
把総、百総を配置し、走りの横行の隣に、2升目進むだけの、より弱い、
飛龍を、2段目を後期大将棋の4段目に見立てても、配置していない。

⑤7段目には”き犬”の動きをする先鋒を広将棋では配置し、平安大将
棋の、注人と、配置が似ている。

なお、以上では飛ばした、3段目と5段目は、広将棋に特徴的な点であ
り、後期大将棋等とは、かなりパターンを変えている。すなわち、

相違点4.3段目には中央に仏狼機を配置し、象は角行と同じだが、
弓、弩、砲という、射撃駒を配置している。これは、このような武器が
登場した、江戸時代の事情に合わせて、荻生徂徠が付加した段である事
は明らかである。また、砲は中国シャンチーの砲等と、名前が同じまた
は類似であり、将棋類がシャンチーと近縁であり、影響を受けた事を、
示唆していると見られる。また、西暦1700年の時点で、どの程度、
わが国では広がっていたかは不明であるが、この段は駒名については、
西暦1770前後に流行ったとされる、輸入品、七国将棋と類似である。

なお、
相違点5.6段目に車駒だけでなくて、牌駒を配置しているが、これは
3段目の射撃駒で、直ぐには射撃弾が通らないようにする、歩み駒を障
害物として歩兵以外に置いて厚くする事により、ゲームの調整を行うと
いう、荻生徂徠の広将棋に固有の性質とみられる。

更に、
相違点6.5段目、車駒の下段に歩兵を配置している。6段目の走り駒
を、飛車型の縦横走りだけにしたため、歩兵の遮蔽力が大きくなる事か
らくる、調整とみられる。また、歩兵は1つ置きにして、シャンチーと
の関連性を示唆するとともに、砲を歩兵のある列に置いて、形そのもの
を、シャンチーに、より似させている。荻生徂徠は、日本の将棋の歩兵
数は、最初はシャンチーやチャンギのパターンであったが、あるとき、
半分程度に、数が減らされたと、当時考えていたのかもしれない。

 以上の事から、後期大将棋の具体的配列図の、初出より昔に指された、
普通唱導集時代の”全盛期”の大将棋については、ひょっとすると、次
のように推定ができるのではなかろうか。すなわち、類似点や相違点を
まとめると、

①2段目には、酔象、盲虎、嗔猪以外、八方桂のように跳ぶ類の駒が、
配列され、猛豹や猫又は、西暦1300年ころの大将棋には、ひょっと
して、無かったのではないか?
②中将棋の元であるから、歩兵列は仲人を除けば、最前列でかつ、切れ
目無しに、有ったのだろう。しかし歩兵列の下には、走り駒がこれもま
た、びっしり並んでおり、後期大将棋のようには、飛龍は、無かったの
ではないか?
③走り駒の列の下には、桂馬類、つまり跳び駒を配列した。しかも悪狼
と同類の嗔猪が、悪狼の列に並ぶ事は無かったし、更に悪狼自体も、
恐らく西暦1300年時点では、存在しなかったのではないか?

以上の点が、特に後期大将棋については、疑われるように私には思われ
る。特に①袖部分を、急激に弱くなるように初期配置し、②2段目以上
に、酔象、盲虎、嗔猪、歩兵、仲人以外にも、小駒が複数ある、
後期大将棋と摩訶大大将棋については、これに対して、
①の傾向がより緩やかで、②については、中軍、鼓/旗、護兵、歩兵、
牌、先鋒と、2段目5侍従駒だけの、
広将棋の造りと、
これが江戸時代と後世のもの、前二者が南北朝時代以前から有るものと
言うように、時代がかなり違うため、単純比較は、困難ではあるものの、
以上①と②の点が、かなり違っているように、私には思えるのである。
(2017/03/18)

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