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朝鮮広将棋情報により、なぜ大将棋の升目を15升目に変えたのか(長さん)

以前述べたように、朝鮮広将棋は列筋が15筋とは言え、恐らく段は14段と
日本の後期大将棋の、15筋15段升目とは形が違っている。また、駒の内容
も、後期大将棋には砲駒が無いし、歩兵は各列だし、九宮等の宮座も無いから、
朝鮮広将棋とは、そもそも似ている可能性が、余り無いように、私には思える。
しかし、江戸時代になると、大将棋が広将棋に混同される事がある等、何らか
の原因で、朝鮮広将棋の情報が、後期大将棋の15升目を決める、原因の一つ
になった事だけは、確かなのではないかと考えられる。いったいそれは、どの
ような経緯によるものだったのであろうか。
 この問題は、北朝鮮に有るという情報がほとんど伝わらないため、現時点で
は確定は困難であろう。以下は、ひょっとしてと、最近思った考えを回答例と
して書いてみる。
 あるいはひょっとして、囲碁盤の歴史に秘密があるのではないかと私は思う。
つまり、

「囲碁盤の升目数は、聖目が升目に関して等間隔に並ぶように、打たれるのが
見栄えの上で本来であり、将棋盤へ囲碁盤を転用するなら、そのように聖目の
並ぶ盤を使うべき」との情報が、鎌倉時代中期から室町時代の早期にかけて、
朝鮮半島から、日本へ伝わってきたのが、後期大将棋が15升目の原因

というのは、どうだろうか。ようするに、「囲碁が17路だった」という、そ
れよりずっと以前から知られていたので、何時取り入れても構わないような
理由付けを、将駒が五行の5種類、12支駒が、強い動物だけについては皆居
るという、陰陽・天文・暦道の影響の強い、仮説普通唱導集大将棋を指すのが、
いやになった時点で、大将棋に取り入れたから、15升目の後期大将棋になっ
たという経過である。もっとずばり言えば、朝鮮半島から、

常に4つ升目行って聖目を打ち、盤面全体で、聖目が合計で9つ打たれた盤が、
19路盤とは違って、最も星の打ち方のきれいな、囲碁盤らしい囲碁盤と、
昔(いにしえ)には見なされていたので、囲碁盤は、元々17路であったのだ

という話が、鎌倉時代~室町時代に、日本へも伝わったというのが、事の始ま
りなのではないかと、言う事である。つまり、元々の17路の囲碁盤のように、
聖目を升目5つごとに等間隔で打ち、全体では聖目が4つある盤になって、正
調な囲碁型の聖目の打ち方の将棋盤になるから、後期大将棋は15升目である
べきだと、単にその程度の理屈が、大陸から入った。そのため日本人は、以上
のみを根拠に、15升目制大将棋は中国流の正調の広象棋の類だと、江戸時代
までには、思い込んだのかもしれないと私は思う。
 なお、5升目ごと4聖目を、4升目ごと4聖目、3升目ごと4聖目に変えれ
ば、それぞれ、後期大将棋、中将棋、日本将棋の将棋盤になる。また、先にの
べたように、普通唱導集大将棋の時代の12支駒を減らして、平安大将棋の、
馬すら存在しない、龍と虎だけにしたり、鉄将を除いて、玉、金、銀、銅、鉄
の5行を4行にしてしまう等、中将棋の作者は、アンチ陰陽道・天文道・暦道
の気配が、あるように思う。つまりやはり、陰陽道師の小言の面倒くささは、
南北朝時代の上流階級も、結構感じていて、陰陽道師の政治的影響力が、時代
を下るに従って、徐々に弱くなり始めると、それ影響の強い13升目大将棋も、
中将棋の成立の頃になって、初めて15升目型に変わったのではないか。
 逆に言えば、鎌倉時代の後期であって、南北朝時代からは、30年余り前で
あったため、

普通唱導集の成立した西暦1300年±10年の時点では、大将棋と言えば、
後期大将棋ではなくて、まだ13×13升目108枚制の、私の提案した
仮説普通唱導集大将棋だったのではないか。

だからその時代には中将棋は余り知られてなく、唱導集で唄われてもい無いの
ではないかと、私はやはり推定するのである。(2017/07/01)

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