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興福寺出土駒1993年No.4”裏面成将?玉将”駒が物語るもの(長さん)

上記年の興福寺の出土駒には、玉将が3枚含まれるが、そのうち2枚に、裏面
にも、文字が書かれているという特徴がある。一枚は両面が玉将というもので、
玉将が不成りである事を、示すもののようにも見える。ところが、もう一枚の
”両面文字記載玉将駒”は、成りの字がはっきりしないのだが、”成将”である
との説が、行き渡っているように、私は認識する。この”成将”とは、いった
い、どのような、ルールの駒なのであろうか。まずは何時ものように私見による
と、

玉将の事

だと私は思う。ただし、上記の問題は、

答えが大切なのではなくて、それの意味する事

だと思う。私見だが、これは、日本では全く流行らなかったが、

北宋将棋が西暦1058年までには、日本の少なくとも奈良の興福寺には伝来
していた事を示す

と私は見る。なぜなら、大理国の将棋しか、その当時知らなければ、一文字の
”将”が、玉将、金将、銀将のうちのどれを意味するものか、日本人は、明確
には、理解できないはずだからである。つまり、「玉将は成ると、将になる」
と示せば、玉将だと判る棋士用の駒、つまり、西暦1058年当時に、玉駒が
”一文字の将”である北宋将棋を、知っていた人間が、興福寺境内内に、存在
するという事だと言う訳だろう。
 なお、玉将の裏に、玉将等を書かなければならない理由としては、棋士が、
三段目に入ると、金将以外は、駒をひっくり返す癖が付いている上に、玉将の
成りは、ルールブックには特に露に書いていないため、徹底させる必要がある
事。駒箱から出したとき、金将および、ひょっとすると酔象と区別つきやすく、
盤に駒を正しく並べやすくするため。場の雰囲気を盛り上げるための、単なる
御ふざけ。習字のための駒。等、いろいろな可能性が考えられるため、確定は、
し辛いかなと私は見る。
 恐らく、興福寺に1058年頃、北宋から渡来した僧も居て、日本の将棋を
指したので、将という一文字で、玉駒を現す、原始シャンチーとしての北宋将
棋の知識が、興福寺の僧へは、伝わっていた。そのため、これで判ると思って、
このような駒を、駒師は作成したのではないかと、私は推定する。
 なお裏成将玉将駒の裏面”成”の字は、余り明確なものではないようである。
 よって、以上の説は”出土駒の字の読みが、正しいとすると”という条件付
きである事を、予め断っておきたい。(2017/07/30)

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