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後期大将棋と中将棋の成立の後先(長さん)

 将棋の文献では南北朝時代に、中将棋の記録が初めて現れる
が、西暦1300年付近で、普通唱導集の大将棋が、15×15
升目制、大将棋とは別のゲームだとすると、後期大将棋と
中将棋とで、どちらが先なのかが、気になってくる。
 前回までに、中将棋も後期大将棋も、同じ13×13升目制
普通唱導集大将棋から変化したものと私は述べたから、それを
前提にすると、つまり

どちらも、並走して出来たことになる。

 ただ、中将棋が前向きなゲーム改善だったのに比べて、
大将棋で後から加わったと推定される駒名で、平安大将棋の
時代の駒の字に無い、新規性の高い名称の駒に、ゲームを
改善しそうな強い駒名が無く、小駒ばかりである点が
顕著である。そのため獅子を入れ込むためにできた隙間を、
形式的に埋めるため、すなわち、

「中将棋の成功に引きずられて、後で合わせた」感を
我々後世の人間に、どうしても感じさせてしまっている。

 中将棋の成立が、後期大将棋よりも少し早そうであるという、
別の根拠としては、獅子の入れ込み方のパターンもあると思う。
麒麟の成りが獅子、鳳凰の成りが奔王であるから、

麒麟と鳳凰を2段目、そのすぐ前の升目に、それぞれの成り
である獅子と奔王を並べて配列するというやり方
「いかにも最初は、誰でもそうするだろう」という配列

だと思う。
言うまでも無く、後期大将棋では、麒麟の成りの獅子は、
麒麟の横、鳳凰の成りの奔王だけ、その前の列に置いて
いて、やや不規則なものがある。
ただし、私見であるが、
中将棋の成立期に、金に成ったと疑われる竪行の成りが
飛牛に変わったのは、少なくとも15升目制へ大将棋が
変化した後だと考える。

つまり、中将棋はその最初期には、現在の小駒が走り駒とか、
走り駒が、もっと強い走り駒へ成るというゲームには、
なっていなかったのではないか、

と、私は疑っているという事である。
 恐らく南北朝時代には、成り駒が金だとか、「龍王や龍馬
が、飛鷲や角鷹成りではなくて不成り」の中将棋が指されて
いたのではないか。そして、
室町時代に入ってしばらくして、大将棋が13×13升目
から、15×15升目に変化してのちに、
竪行の成りが金から、飛牛に成る等、意外なほど後になって
今の成りに変わったと私は推定する。
 根拠は、今述べた「飛牛」の名称にある。「牛」の字が
15×15升目の将棋に大将棋がなってから、初めて出て
くると疑われるだけでなく、飛龍の「飛」の字をつけて
いるので、飛牛は、「飛龍」と「猛牛」とが、ペアーで
ある将棋を知っている人間で無いと、考え出しにくい名前
だと私は思うからである。
つまり、駒名「猛牛」が無い時代に、飛牛という駒名を
考えるのが困難な事、つまり13×13升目制の大将棋に、
「牛」駒が無かったと推定される事から、

西暦1400年過ぎの時期に、15×15升目の少なくと
も後期大将棋に近い大将棋が成立し、その将棋には猛牛が
初めて加わった結果として、中将棋が、成りも含めて成立
したと推定する。

なお、19×19升目で5段目が、中央から奔王・鉤行・
龍王・龍馬・角行・竪行・横飛・横行・右車・飛車等と並ぶ
192枚制の摩訶大大将棋は、後期大将棋に、製作過程の
近い配列の将棋であるため、後期大将棋の時代のものと、
私は推定する。つまり、この将棋の駒の成りに、たとえ金
が多くても、
6段組タイプの摩訶大大将棋は、実は南北朝時代には無く、
中将棋の獅子が、性能に関し、ようやく脚光を浴びるよう
になった室町時代に入ってから、初めて成立したのではな
いかと私は疑う。つまり

摩訶大大将棋の飛車・角行等金成り部は、安土桃山時代の頃
になって、この将棋の成立時代を、異制庭訓往来にひっかけ
て南北朝時代の雰囲気を出し、少し早く見せかけるために、
オリジナルを改変した、後世のでっち上げ記載と、私が疑っ
ているという事である。そしてこの将棋は、安土桃山
時代に記録が確かに有るが、実際には、南北朝時代には
存在せず、室町時代前期に、成りがぜんぜん違う形で、
同じ初期配列の将棋として実在したのではないかという事だ。
つまり本来、摩訶大大将棋の飛車・角行は不成りの
15×15升目制後期大将棋に近い方が、もともと初期
配列の形からみて自然なように、私は思う。

栃木県小山市で「青蓮寺の尼が、実家から持ってきた三面
の類の嫁入り道具(?)」に含まれる、裏金一文字角行駒は、
それが本物だとすると、かえって、現在我々の知っている
19×19升目、192枚制摩訶大大将棋では、しっくり
とはしない、未知のゲーム用の可能性が高くなり、文字通
り、謎の将棋種用の駒である事に、なってしまうのではな
いかと、私は推定する。(2016/11/30)

駒数多数将棋の発掘の先駆けだった小山市神鳥谷角行駒(長さん)

 西暦2007年の確か夏、しもつけ風土記の丘資料館にて
この駒を最初に見たとき感じた戦慄を、今でも私は忘れる事が
できない。しもつけ風土記の丘の資料館へこの駒を見物に行く日
の朝、そのへんに売られている、裏に馬と書かれた角行駒が一枚、
展示されているだろうと、タカをくくっていた私は、今の将棋
とは大きく違う、その寸胴な形を見て、まず「一撃」を喰らった。
即座に、「本当に昔の将棋の駒の形だ」と気づく。
 そこで予め、小山義政のものなら、当然駒数多数将棋駒に違い
無く、裏は無地か、「金」と書かれているだろうと、故米長邦雄
永世棋聖のブログにも書き込んだ、私の事前予想のもと、駒の種
類をチェックにかかる。
 下野新聞等に出ていたように表面が角行なのは、見る角度を変
えて劣化防止処理剤の光沢が見えないようにすれば、私にも読み
取れた。達筆で楷書。ただし角行の「角」の上部は、完全に剥げ
ている。書体が、それと良く似た、誰か江戸時代の特定の書家が
存在するような気がするほど、「駒の字」は旨い。しかし、特定
の書家の名前は、私には思い出せない。しいて言えば、字の頭を
小さく、裾を末広がりに書く、亡くなった私の、字の比較的上手
な実の父親の筆跡にも、多少似ているような気がした。
 ここの展示担当者が優秀な事は、その時点で「成り」が見える
ように、駒を展示していた事からしても明らかだった。そこで、
当然だが駒の裏を覗く。すると、表面の字よりは、はるかに薄く
なってはいたが、中央やや上に「ハ」の字が確認でき、
「金一文字」と、私でも判別できた。裏面は、更に良く見ると、
駒の下部に墨が残っているようでもあり、また、炭化している
ようでもあり、金の字も、第三画以下は判別できない。ただし、
この字が金であるとすれば、金の字だけが、駒に書かれていると
見られる事が「ハ」の位置から明らかだった。全部残っていたら、
崩し方まで判り、さらに情報が増えたのかもしれないが、少なく
とも銀将の成りか、桂馬の成り止まりの、「軽微な崩し方」のよ
うだった。なお、私はこの駒を、後に栃木県立博物館での展示の
時にも、もう一度チェックしているが、裏の金の字の跡について
は、報告書の図にも、それとわかる形で描かれている。
 当時は、平安大将棋の駒と言われる、平泉の飛龍駒が一枚と、
後期大将棋の駒で一応説明できる、鶴岡八幡宮の鳳凰・不成り
香車駒の対だけが、大将棋以上の駒数多数将棋の出土駒としては
知られていた。そこでこの駒は結局、

水無瀬兼成の将棋図(将棋部類抄)の192枚制将棋である
摩訶大大将棋の道具とすれば、最も簡単に説明のできる、
大・中・小将棋以外の初の出土駒となった。

以上は2009年に、既知種の将棋種何れにも、完全には当ては
まらない、徳島県川西「奔横」駒の発見に遡る事約2年前の、で
き事である。ただ、残念な事は、この将棋駒は平泉の飛龍駒と同
じで、一枚だけであった事だった。当然だが、これについては、
本当に1枚しか無いためと、調査が不十分で見落としがある場合
のためと、どちらかの原因が考えられた。聞き取りでは、「将棋
が出土した、(仮符号)8号井戸については、調査し尽くされて
いる」というコメントと、「神鳥谷曲輪については、全体として
未だ遺品が、地中に残された状態を承知で、発掘を終了した。」
との、両方の言を私は聞き取れ、実態は釈然とはしなかった。
ただし以下私見であるが、調査結果の報告書の第1集を見る限り、

出るべき遺物が出ていないというよりは、常識では南北朝時代の
戦陣では出ないような妙な遺物が、将棋駒に伴って、同じ井戸
から出すぎている、

と、私には感じられる。つまり小山神鳥谷曲輪遺跡の(仮符号)
8号井戸に、一枚将棋駒が出ているのは良いとして、一緒に妙な
物が8号井戸から出ており、しかも近くの他の井戸から、
そうした物は、将棋駒も含めてぜんぜん出ていないのである。

妙な物とは具体的には、「女物の下駄」と「クシの破片」である。

ここは、第2次小山義政の乱の戦場で有名だが、髪をクシでとか
したり、機動性の無い下駄を履いた、女性の遺物が出るのは戦場
にしては、場違いな話だと私は思った。
 実は古地名と江戸時代の観光案内本によると、神鳥谷曲輪遺跡
は、南北朝時代の小山義政の乱の陣地であると同時に、室町時代
初期の尼寺、青蓮寺跡が、重なった所との事らしい。青蓮寺は、
戦国時代には尼寺では無くなったが、江戸時代末期まで普通の
寺として存続したそうで、明治時代に寺が無くなった時に問題の
遺物が、当時の古井戸に廃棄されたとして、それまで

江戸時代に、裏金一文字角行駒、女物の下駄、女性の使ったクシ
等が、寺の創始者の尼さんを弔うため、字の達者な住職によって
古記録に基づき、レプリカが作成・保存されて供養されていた

としても、矛盾は無さそうであった。つまり、角行駒は、青蓮寺
の言い伝えでは南北朝時代の、その寺の創始者の尼さんの記録を
保存したメモリアルな一品であって、小山義政が実際に使った
駒の情報は、伝わっていないとも、最悪疑われるという訳である。
 ちなみに「くしを使用する黒髪を生やした奇妙な尼さん」につ
いてだが、小山市の青蓮寺は江戸時代には、新義真言宗の親寺、
宝持寺同様、真言宗系の戒律の厳しい寺だったが、もともとここ
は、浄土真宗の栃木県高田の専修寺にも、地理的に近く、創始者
の尼さん自身は、親鸞教徒だったとすれば、説明が付く。廃寺ゆ
え、その由緒文句は想像の域を出ないが「建立・開基した尼さん
が、旦那や息子と一緒に入信し、当時離婚せずに一緒に居た」と、
たぶん言いたいのであろう。
 なお将棋駒は、指すための道具ではなくて、弔いのためである
なら何かを1枚、位牌に見立てて陳列すれば足りる。よって以上
の推定によれば、今後幾ら8号井戸を掘り返しても、二枚目の
将棋駒は、残念ながらその破片すら出てこないだろうと、予想は
できる。
 ただしここで、問題なのは「尼さんと小山義政とが違う人物だ」
という事ではない。南北朝時代の人物なら、弔う将棋駒は、どっ
ちにしても、同じになると見てよいからだ。むしろ、江戸時代の
知識のある住職が、達筆により書いた角行駒だとすれば、発掘
品が、

 江戸時代までに残った情報に基づいて、角行の成りを推定
して作ったものにすぎず、麒麟抄および、水無瀬兼成の将棋部
類抄を読んで、江戸時代の青蓮寺の和尚が”南北朝時代の遊戯史
を充分に研究して、我々と全く同じ結論に達して作成した駒だ”
という事にでもなれば、現在、我々も知っている情報以上のもの
が、この駒には全く含まれていないと結論できるという、
最悪の事が起こるのである。

 残念ながら現時点で、この凶のケースが実際に起こっている
かどうかは断定できない。何れにしても我々は、この出土駒の
存在によって、新たな知見が、確実に得られたとは、確証しに
くい状況にはあると私は思う。幸か不幸か、この出土駒は、
学会では無視に近い状況だが。
なお、この駒の存在を無視しても、

南北朝時代に関連する将棋種には「金成りが多用」であると、

結論できるし、

麒麟抄は、南北朝時代の将棋駒種に、充分に明示されていると
までは言えないが、不成りの割合が少ないことを匂わせている

と、私には強調できる。
 そしてそのためこの出土駒の発見が、未だに特定の説の補強
力として、どの程度と評価できるのかさえ、わからないと言う、
宙ぶらりん状態で、あり続けていると見られる事は、毒にも薬
にも幸いなってはいない。しかし私はこの駒の、不思議な
外見と字を思い出すたびに、現在の扱いが不当に低く残念な
事だと、相当強く感じられ続けているというのも、現物が確か
にあるだけに、正直確かな所である。(2016/11/29)

「駒が金に成る」将棋の南北朝時代の一時流行要因(長さん)

 南北朝時代の、駒数が190枚から360枚までの長多数
将棋の駒の成りが、走りであっても金将であり、その事実が
安土桃山時代にまで残っている事と、当時駒数36枚の
南北朝時代の小将棋が、玉を除いて敵陣で皆金将であると
言えるのなら、駒数104枚程度の大将棋の成りも、走り駒
であっても金将に成ると、一応は推定できると私は考える。
駒数190~360枚の長多数将棋と、駒数104枚の
大将棋は、指す階層が同じ知識人であろうから、真ん中の
駒数領域だけ、ルールを変える必要が無いと思うからである。
さて何回か前に結果を述べたが、
金に成る将棋は「敵陣で軍事的手柄を立てたら、都に戻って
セレブとして、のし上がれる」ような社会であってほしいと
願う辺境九州の、下級武家のマインドで将棋を指す、人間に
支持されたものであり、
逆に、
金に成らない将棋は、自分が現時点ではセレブであり、
贅沢品を現実には身にまとう身分にあるが、中身も複雑な
ゲームまで指せる、知識人であると見られたいと考えて、
金成り将棋を嫌った反動で、誇り高き貴族のマインドで
将棋を指す、人間に支持されたもの
と私は、大昔の棋士の心理を解析している。
なお通説では、走り駒が金に成る、南北朝時代異制庭訓往来
「多いの(将棋)は」の指すゲーム

「摩訶大大将棋等の特殊な成りは、ゲームの調節」との説
が強いが、私はこれには反対の立場だ。

摩訶大大将棋等の走り駒の成りも、現在の中将棋のように、
飛車を龍王、角行を龍馬、竪行を飛牛、横行を奔猪と、
金将、銀将、銅将を奔金、奔銀、奔銅にしたままで、更に
強い走り駒にした方が、ゲームが進んで、だんだん駒数が
少なくなるのを補うため、よりゲームとしての面白さは、
増加すると考える。従って、成り金を南北朝時代だけ増やす
のは、ゲームの改善とは別の理由によるものであり、

平安時代西暦1010年代の刀伊の入寇時点での、大宰府の
下級武士の腹ペコ・マインドが、全国の裕福な藤原氏の一族、
たとえば、守護大名にのし上がった、有力武家のセレブ層
にさえ、南北朝時代には、一時的に広がったから、

としか、今のところは説明できないのではないかと、私は
考えている。なお、
刀伊の入寇時点で、大宰府の下級武家には、「藤原氏では
あるが、分家の端くれのため、足軽のような身分の武家」
が、混じっていたのだろうと私は推定する。
彼らは藤原氏でありながら身分は低く、西暦1010年代に、
「自分も、やがては藤原隆家のように、都でセレブの暮らし
ができるように、裕福な藤原貴族として、のし上がりたい」
と感じる、下級武家の立場だったという事になる。
 さて高校の教科書等を紐解くと、西暦1330年代から
1390年の頃の「大将棋の道具を持っていて、指す事が
できそうなセレブ」は、足利尊氏によって伸張させられた、
守護やそれに準じる有力武家層の、頭領格だったと推定
できる。
 そこで、彼らには南北朝時代にだけ、その心の奥底に、
「藤原氏端くれの大宰府下級武家」の腹ペコ・マインドが、
隠し持たれており、その時代の前後に、それが消失して
「誇り高き、藤原氏」のマインドに戻ってしまうような事情
があれば、大将棋の金成り駒の頻度の、奇妙なピークが、
実際にそれが確かにあったとして、説明できるかもしれない
と言うことになると私は推定する。

 ここまで議論の準備をすれば、答えはなんとか出てくるよ
うに思う。南北朝時代には新幕府の、北朝方・室町幕府のも
とで手柄をたてれば、藤原氏(うじ)末裔の守護や守格の
武家には、埼玉県の1/3とか、新潟県の全部とかを、簡単
に勢力内に収めることが出来るというほどの褒章が、武家
幕府方から、もたらされる、「夢の時代」であったからで
ある。
つまり、藤原末裔武家の小山義政は、栃木県の南などに、同
県の40%の広さの土地を、元から支配している下野守護で
あったが、南朝残党勢力の大将、新田義宗を仕留める手伝い
を西暦1368年にした、という程度の活躍で、
更に、埼玉県の1/3程度の領地を拝領したり、同じく藤原
末裔武家の伊予守の宇都宮氏綱は、観応の擾乱で、1351
年等に、勝ち組の足利尊氏方についていただけで、新潟県
全土が、栃木県中央部と、群馬県の一部とは別に、新たに
知行地として加わったりというふうに、「セレブ」にとって
南北朝時代は、元の大きな財に匹敵する、新たな巨大な財が
更に手に入る、おいしい時代だったというのである。
 よってこの時代は、有力武家の中にも存在する、藤原氏の
末裔には、「一族の誇り」よりは、「藤原隆家のような、
のし上がり」の方に、武士としての興味が傾いたに違いない。
たとえば藤原氏(うじ)の一員で、茨城県の1/3を領有し
ていた、鎌倉時代の草創期には八田が苗字の、有力武家小田氏
の南北朝時代の頭領・小田孝朝が、自身が将軍・源頼朝気分で、
家来に「所領安堵の下文」を出すほどのセレブであったにも
係わらず、室町幕府の墨付きで、1381年に「賊」小山義政
を討った鎌倉公方の足利氏満を裏切って、「賊」小山方の
小山隆政を1386年に匿ったのが発覚して、足利氏満に
攻められ、降参して問い詰められると、「小山義政を討つの
を手伝ったときの褒賞が、少ないのを教訓にして、賊方に
寝返ったのだ」と、足利氏満に告白した事にも、それは
象徴される。このように、守や守護・準守護大名の親方格の
藤原氏セレブには、南北朝時代にだけ、現実の自分よりも
ずっと経済的に貧しいはずの、平安時代の大宰府下級武士の
心が、意外にも、各地に充満していたと、推定できるので
ある。
 しかも、南北朝時代以外は、鎌倉時代や室町時代のように、
幕府が安定して、巨大な富の変動が、足利尊氏の時代のよう
に派手には起こらないため、地方有力武士としての自分の
上に、将軍や執権としての「玉将」が居るという、気分が
希薄になっていった。そのため、室町時代の安定期に戻ると、
再び「鶏頭の立場に居る、藤原一族・知識人としての誇り」
が重視されるようになり、大将棋系は、金に成る駒の少ない
ゲームに戻っていった、と考えればよいと私は思う。
 なお、それからほどなくして中将棋が発展した。この将棋
は前に述べたように、ゲームとして面白くするための改善
という立場で生まれたものだったので、室町時代に入ると、
駒数多数将棋は、新不成りの大将棋から、強い走り駒へ成る
中将棋へ、比較的早いテンポで、主に指させるゲーム、その
ものが交代していったのであろう。(2016/11/28)

麒麟抄の「将棋駒記載部分」の評価(長さん)

聞くところによると麒麟抄は最近、平安時代の文献として
間違いであり、「この書に基づいて、平安期の将棋の状況を
語る事には根拠が無い」との指摘が、強まっているようで
ある。つまり成立年と著者が、どうも偽情報らしいと私も
聞いている。が、私の解釈では、この書の「将棋駒の成り
の記載について、一文字『金』を習字する」部分について、

南北朝時代の、成りのルールについての情報が含まれると
いう意味で、無名著者によって発信された、なおも有力情報
で有り続けているのではないかと、評価している。

確かに、「西暦1019年に将棋存在」というパラダイムは、
根拠が揺らぐと、日本にネアンデルタール人が住んでいた
とは証明できなくなったのと似て、その議論としては疑問視
されたのかもしれない。しかし麒麟抄の将棋部分が、平安
時代以外の、たとえば南北朝時代に、その時代の常識を知
る、無名人によって書かれたのが確かとなれば、たとえば
南北朝時代の将棋の状況に対する情報源には、なおもなる
だろうと思えるからである。つまり麒麟抄には、平安時代
ではないにしろ、本当に執筆された時代の、将棋事情に
関する情報は含まれるため、間違いなら以後将棋史学会では、
無視して良いとまではいかないのではないかと、私は思う。
 前回までのところで私は、大将棋の成りについて、
平安大将棋時代は、2段目の中央部以外は全部金成り。
後期大将棋成立時は、ひょっとすると金将に成る駒全く無し、
と述べてきた。前者は、私によると鎌倉時代草創期を中心
に指された将棋であり、後者は室町時代前期に指された
将棋である。
 単純に、この2つのゲーム比較すると、駒が金に成る
ケースは、単調に減少したとしか結論できないように見え、
西暦1200年から西暦1450年の250年間を全体と
して見れば、金成り単調減少と目下のところ考えざるを得な
いと私見する。

しかし、麒麟抄の記載は、これとは完全には合わない物であ
る。

つまり南北朝時代の西暦1330年から1390年の間だけ、
単調減少のグラフの中に、「駒が成ると、ほとんどの駒が、
『金一文字』という、『異常ピーク』が生じる時代」が、
現実として孤立して、有ったとしか思えなくなる。

麒麟抄が平安時代の文献として偽でも、最近作られた偽の
話ではなくて、南北朝時代には実際に成立した書で、誰が
書いたにしても習字の部分は、本当のことだったとしたら、
それが著書全体としては「出所に関して人を騙すことを
目的とした悪書」で最悪あったとしても、

先にのべた13×13升目 104枚制の、普通唱導集時
代の大将棋が、たとえば、

西暦1300年には、酔象が太子成り、麒麟が獅子成り、
鳳凰が奔王成りは変わらないとして、歩兵だけが金成り
程度の状態から、

西暦1345年には、歩兵だけでなく、玉・金・酔象・
麒麟・鳳凰・奔王および、ひょっとして龍王・龍馬を
除いてすべてが『金一文字』に成りが変わり、

西暦1390年には再び、酔象が太子成り、麒麟が獅子成り、
鳳凰が奔王成りは変わらないとして、歩兵だけが金成り程
度の状態に、また戻ってから、後期大将棋の方向へ変化し、
中将棋と対抗した。

とでも、考えなければならなくなる等の影響がある、重要
文献で有り続けるのである。もっとも、
麒麟抄だけに、駒数多数系将棋の成りに関するヒントが
あるだけなら、この情報は、小将棋に関するだけのものか、
あるいはノイズとして、切り捨てても良いのかもしれないが
実はそうではない。実際には、南北朝時代の別の文献、
異性庭訓往来の「360の数字に関連する多いもの(将棋)」
に対応するとみられる、摩訶大大将棋と泰将棋が、
安土桃山時代の将棋部類抄以降、飛車、角行、竪行、横行
等が「一文字」金に成る将棋として伝わっており、南北朝
時代を基点とすると疑われる、192枚や354枚制の
きわめて駒数の多い将棋は、強い駒まで、異常に金に成る
事が多いという点で、麒麟抄の記載と調子を合わせている
のである。

さらには最近、西暦2007年になって、南北朝時代の
武将、小山義政の館跡と目される、栃木県小山市神鳥谷
曲輪にて、角行裏一文字金の古形の将棋駒が一枚、単独
で実際に発掘された。

目下のところ、この駒は摩訶大大将棋で、成りに金翅を
含まない一亜種の、聆涛閣(れいとうかく)集古帖の
の「摩訶大将棋」か、水無瀬兼成の将棋部類抄の、文献
限定摩訶大大将棋か、将棋部類抄では大大将棋の成りに
は合わせないとしたときの泰将棋の、角行駒とすると整
合性がある。しかし、普通唱導集の時代から、室町時代
の初期、足利義満の時代の大将棋の、成りの進化につい
ての知見が増えると、将来的には、ここでのべた仮説の
「西暦1345年型13×13升目、104枚駒程度の
普通唱導集大将棋亜種の駒」の可能性も、あるいは
出てくるのかもしれない。それを示唆するのが、麒麟抄
の成りの習字と、異性庭訓往来の一年の日付にちなんだ、
きわめて駒数の多い将棋の記載、将棋部類抄の摩訶大大、
泰将棋の、成り駒規則とが整合するという、三つの知見
が組み合わされて、関連付けられているためで、その要
素の一つの麒麟抄の、「成り駒は崩し字金(一文字)」
記載は、今もたいへん重要な、知見を含むものと私は考
えている。
 なお、前記、小山市神鳥谷曲輪に、大将棋も指せそう
な藤原氏(うじ)の武将の頭目、小山氏の頭領小山義政・
家族等が終結したのは、第2次小山義政の乱のあった、
西暦1381年の年末の事だったと、私は聞いている。
ちなみに埼玉県にある、鷲宮神社の棟札の記録によると、
小山義政は正妻の小山よし姫も、藤原氏(うじ)だった
という。南北朝時代の大将棋系も、藤原氏の末裔が指し
た例があるようだ。高価な中国・明の国の磁器破片も、
いっしょに出土している場所だから、たぶん「小山義政
ら家族が、そのころそこに居た」で間違い無いのだろう。
 また、他の出土駒としては、鎌倉時代から室町時代
初期のものと、時代の不確定性の幅が広く、大将棋だっ
たとしても、前記1300年型か1390年型かは判定
できないが、鶴岡八幡宮の「奔王に成る鳳凰駒、金に成
る歩兵駒と一緒に出土した、不成りの香車駒」がある。
 以上のように、たとえ平安時代の将棋史の資料として
の価値が希薄になり、出所に関して、調査する人間にと
って元著者に、正体を惑わそうとする悪意がたとえあっ
たとしても、実際の執筆年代がわかるのであれば、無名
作家の麒麟抄に、将棋史に関する情報がある以上は、そ
の作者に騙されたと気がついても「以降は無視する」と
いう、わけにはいかない将棋史重要文献なのではないか
と、私は麒麟抄については考えるのである。(2016/11/27)

水無瀬兼成の将棋部類抄(象棊纂圖部類抄)と大将棋史(長さん)

 15×15升目制後期大将棋には、縦横と斜めの駒の動かし
方について、それらを逆にすると、別の種類の駒でペアーをつ
くる組み合わせが幾つかある。ここでは、それらが水無瀬の象
棋図(以下将棋部類抄と記す、正しくは「象棊纂圖部類抄」
である)で、

どのように、記載が分布しているかを調べ、各将棋の初期配置
と駒の動かし方の点入りの図を、各将棋種について作成した
著者自らが、後期大将棋を大将棋の代表と、心の奥底で本当
に考えていたのかどうかを、以下で意地悪くチェックして
みようと考える。

ここで将棋部類抄を選んでいるのは、作成時代として、
普通唱導集の大将棋の記載の時代に、一番近い、より後の、
まとまった文献だからである。
 ちなみに、後期大将棋につき、そのペアーを具体的に示すと、
龍王と龍馬、飛車と角行、竪行と横行、嗔猪と猫又、そして
麒麟と鳳凰、飛龍と猛牛の概ね6つのペアーである。
なお、前回私が提案した、104枚制、13×13升目制、
私の示した普通唱導集大将棋では、
上のペアーのうち、嗔猪と猫又で猫又が無く、より大切
な点は

飛龍と猛牛で、猛牛が無い事である。

ここでは、将棋部類抄の記載で図面以外で、一文程度で示
されている、駒種の説明箇所の分布を問題にする。たとえば、
そこには嗔猪も猫又も出てこないので、2つのモデルの
うちどちらが優位なのかは、嗔猪と猫又のペアーでは、
判断できない。
また、龍王と龍馬のペアーは一連の説明が、中将棋の図の後
にあり、どちらのモデルでも良く会う。ついでに、金剛と
力士、鉤行と摩羯(正しくは魚偏)の説明が、続きで摩訶大
大将棋口伝部の後に出てきており、将棋部類抄の著者に、
ペアーの片方だけを説明して、残りを省略する癖が、特には
無いと結論できると考える。

そこで、その分布を、具体的に見ると以下のようになる。
麒麟と鳳凰
麒鳳-1)中将棋の図の後で、「鳳凰の斜め動きは、飛龍
  の動きではない」との記載があるが、「麒麟の縦横動
  きは、猛牛の動きではない。」という記載は現れない。
  (非対称)
麒鳳-2)中将棋の図の後で、「鳳凰・仲人等には中将棋
  の中のそれと、大将棋の中のそれとの間で、動きのルー
  ルに変化が無いケースがある。」との旨の記載がある
  が、この中に麒麟が出てこない。(非対称)
麒鳳-3)泰将棋の図の後で、「摩訶大大将棋の小駒の成り
  に奔をつけて作るケースがあるが、その動きは、走りで
  あって、麒麟・鳳凰のよう(少なくとも鳳凰は跳越え)
  ではない」という旨の記載があり、この中には
  麒麟・鳳凰が両方現れる。(対称的)

飛龍と猛牛
龍牛-1)麒鳳-1)に示したように、飛龍が鳳凰とは斜め
  動きが違うことが述べられているが、猛牛と麒麟とを、
  比較した文が近い箇所に無い。(非対称)
龍牛-2)摩訶大大将棋口伝部後で、「驢馬の前後動きが、
  猛牛の前後動きと同じ、2目限定踊りである。」事を
  述べているのに、おなじ摩訶大大将棋の図
  から見て、たとえば「夜叉の斜め動きが、飛龍の斜め
  動きと同じ、2目限定踊りである。」との説明が、
  有ってもよさそうなのに、それが無い。(非対称)

結果からみると、3例、2例で母集団が少ないため、確定
とまでは行かないが、飛龍と猛牛は後期大将棋で、配置が
接している事も加味して、ペアー対の認識が妙に低く、
麒麟と鳳凰も、強く対称性を意識しているのかどうか、
疑わしいと私には感じられる。
 特に飛龍と猛牛のペアーのケースについては、

大将棋に猛牛が無かった時代が、安土桃山時代を起点に
して、比較的その時代の近くまで続いていた事を示唆して
いる

と私は疑う。つまり長く見積もっても、西暦1300年
程度から、ずっと大将棋が、15×15升目の130制
後期大将棋だったという事はなく、飛龍が有って、猛牛
が無く、かつ、その飛龍もひょっとすると1300年頃
は角行の動きであって、「2升目だけ踊り」と表現され
る動きではなく、その記憶が将棋部類抄(象棊纂圖部類抄)
の元著者にまで、痕跡として残っている証拠なのではない
かと、私が疑っているという事だ。それに対して、

104枚制、13×13升目制の、私が前回示した
普通唱導集大将棋では、特に、飛龍、猛牛の説明が出て
くる箇所の分布のパターンが、15×15升目制後期
大将棋より、良くあっていると思う。

それに対して麒麟と鳳凰の非対称性については、引き
分けであり、不思議であって、私の示したモデルでも、
補足説明が要りそうだ。
これについては、「踊り」という駒の動かし方を
発明した時点で、「正行度駒の踊り」が存在しなかった
のではないかと、私は仮定する。「不正行度駒
の踊り」、具体的には「歩む動きの天狗踊り」だけが、
存在し、それが踊りの起源だったのではないかという事
である。
 更に、踊り駒は、最初期には、獅子は別として、
麒麟も踊りであり、かつ、踊り駒はこの2種類のみ。
そのため結局、104枚制13×13升目の大将棋では、
麒麟と成り麒麟の獅子の、駒一枚だけが踊り駒だったと、
私は断定する。そしてさらに、

 麒麟は西暦1300年の頃、動かし方のルールが、
「平安大将棋の猛虎の2歩動き」と表現された

と私は考える。なお、獅子の踊りは、

 最初期には、不正行度1~2升目踊り、では厳密
には無く、「玉将の2歩動き(自駒は、跳びこせない)」

と、少し弱く表現されていたのではないかと疑う。
「踊り」の言葉の辞書的意味に、”現在一般に、獅子の
ルールを元に、それと矛盾が起こらないように、推定
されている「踊り」”の定義=「自他駒共決まった行度
で跳び越えて、他駒だけ排除できる」よりも、”踊りの
定義”自体が、むしろ「同じパターンを繰り返す」と
いう、辞書的意味に近かったのではないかと、言う事で
ある。

それに対し、鳳凰もほぼ同時期に、麒麟の縦横と
斜めとをひっくり返して作られたが、その斜めの動
きは、同じ動きの2歩では、表現できなかった。
そのため、104枚制13×13升目の大将棋でも、
鳳凰は斜めは2升目先に、跳び越えだった。跳び越え
は、踊りとは完全に違うから、成りが考えられたとき
にも、獅子並みに強い駒であって、踊りの要素が無い
走り駒の奔王が、鳳凰には選択されたのだと私は
推定する。
 そのため、縦横と斜めが入れ替えの麒麟と鳳凰は、
当初は、似ていても踊り駒と、跳び越え駒の別々に
分類され、麒麟の縦横動きが跳び越えで無かった為、

将棋部類抄には、元々の動きのルールでは記載に
矛盾が起こる場合には、(恐らく昔の記憶が当時の
著者の頭の中に残っており、それとなく)記載を
しなかったのではないか

と、私は疑う。そう考えると、
麒鳳-1)は、麒麟が元々は、不正行度踊り、猛牛は正行度
  踊りと違うが、どちらも踊り駒の類には含まれるため、
  「別(種族)」とは、書きづらくなって省略。
麒鳳-2)普通唱導集時代の別の13升目の大将棋を大将棋
  の本当の代表だと心の中で思い出すと、中将棋の麒麟が
  跳び駒で、普通唱導集時代の麒麟が、不正行度踊り駒で
  あるため、鳳凰、仲人と、同列にしにくくなり省略。
麒鳳-3)古い時代の麒麟は踊り、鳳凰は跳びだが、摩訶
  大大将棋の奔付き成り小駒は、走りだから、この部分は
  どちらにしても合っていて並べて記載。

で、つじつまが合っているように、私には思える。
つまりは猛牛が無かっただけでなく、飛龍が正行度の踊り駒
で無く、更にはまた、猛虎の動きを2回繰り返す
麒麟という、たった一枚の駒が、踊り駒の起源である事が、
水無瀬兼成の時代から見ると、極めて遠い過去にだけ、そう
だったとまでは言えない為に、彼らに記憶が薄く残っている
事を、象棊纂圖部類抄の記載部分の元著者が、駒のルールの
補足説明の部分で、うっかりと自白してしまっているのでは
ないかと、私が疑っているというわけである。(2016/11/26)

普通唱導集の大将棋記載と中将棋(長さん)

少なくとも、現代中将棋と平安大将棋とを比べると、
最も大きな差は、”獅子”の存在である。しかも、
この獅子には、ただの強力駒であるばかりでなく、
次のような同種獅子駒による排除を防ぐ特別規則があ
り、消失しにくくなる事によって、更に存在感を増大
させている。
1)獅子を獅子でとったとき、次に獅子をとられた側が、
 ただちに取り返せるような手があるとき、2升先の
 獅子を獅子で取るケースについてだけは、獅子を獅子
 で取る手そのものを禁手とする。
 (基本則。足付きの獅子則、含む影の足則。)
2)獅子を一般の駒で取られた側が、別途相手の獅子を
 こんどは自分の一般の駒で取り返す手があっても、
 先取り側の獅子を自分が狙っている駒について、獅子
 を取らせた直後に先取り側が 取り返せるような手が
 あるときには、続けて▲獅子捕り手△獅子捕り手とは
 指せない。(先獅子弱則)
3)1)には例外があり、1)のようなケースでも、
 獅子の2歩移動規則によって、1歩目に別の駒を併
 せて取る手は、獅子の自殺手であっても指せる。
 (付け喰い則)
4)3)には例外、すなわち1)から見ると、例外の
 例外があり、”別の駒”が、歩兵か仲人のケースは、
 1)と同じく禁手のままである。(付け喰い則の例外)
5)3)に述べたように、付け喰いでは、獅子による
 取り返しの利く獅子取りは自殺手になるが、2)の
 先獅子弱則の適用される、もともと相手の獅子には、
 獅子以外の自分の一般駒も、二重に当たっている
 ような、特別な場合も理論上ありえる。この場合は
 2)の先獅子弱則が適用されるかどうか、最初の
 取り駒が一般駒ではない、獅子自身のケースになる
 ため一見して合禁が判らなくなる。しかし、そうした
 複雑なケースも含めて、付け喰い直後には、
 付け喰いした獅子を、相手はただちに一般駒で、
 取り返せるものとする。(獅子討ち則)

 強いゆえの獅子駒の使い道の多彩さ、特別規則から
生じるアヤにより、中将棋はそれまでの大将棋等に比
べて、変化にとんだおもしろい将棋になって、好きで
将棋を指す人口を、増加させる第1の理由になったに
違いない。
第2の理由は、中将棋では12×12升目と偶数升目に
変化し、これにより、玉のすぐ前の守り駒が、奇数升目
から偶数に変わると同時に、最下段の横(右)に移動
せざるをえない事が、大きかったとみられる。そのため、
陣はかなり弱体化し、玉将は詰み易くなって、ゲーム
としてのバランスが取れた。上記の獅子諸規則から来る
戦術の”アヤ”と、具体的には酔象の移動による終盤
のスピードアップの2点が、それまでの駒数多数将棋
には無い、中将棋の伸張を作り出したと、私は予想
する。しかしながら、私がここで強調したいのは、

中将棋には、更に特長の第3というものが、あった
のではないかと言うことであるだ。それは、ずばり

普通唱導集の大将棋にある、端攻め定跡を消失させた

という点である。前回のべた、普通唱導集大将棋の
記載内容の解析が正しいとすると、仮説13×13升目
自陣4段組普通唱導集大将棋で、端攻め定跡を成立させ
た要素は、次のようなこの将棋種の駒配列の性質である。

1)飛車が端列にある。
2)左右逆側の角行が、横行と反車を睨む前段位置に
  ある。
3)横行が角筋に当たっている。
4)仲人の足となり得る、嗔猪という駒が存在する。
5)おなじく、桂馬が仲人の足になりえるように存在
  している。

私見では、中将棋を成立させたとき、作者は上の5つ
の要因を、これでもかと徹底的に排除したと見る。
つまり、
1)は飛車を龍馬と竪行の間に場所換えをして解決。
2)は角行を2段目に退かせて、中盤最初の走り攻め
  駒には、なりにくくした。
3)は横行の位置を、端筋に移動させた。
4)と5)は、もっと徹底していて、これら2種の駒
  は、定跡の戦犯として、完全に排除してしまった。

 中将棋を指すと、日本将棋と違って桂馬が無いのが
目立つが、私見では、理由が普通唱導集大将棋の2段
目の記載と、繋がっているのではないかと考えている。
 ただし、普通唱導集の大将棋記載の内容は、たぶん
普通唱導集の作者が、考え出したものではないと思う。
この定跡は、今は語る者が少ないが、その時代の
大将棋の棋士にとっては、常識的な内容だったので
あろう。しかも以下は、あくまで私の棋力で考え
出せる範囲であるが、

普通唱導集時代の大将棋は、ほぼそれに記載された、
端攻め戦法ばかりが、西暦1300年の頃には
行われていたのではないか、

と、私は推測する。将棋が官制を表し、位の高い順に
駒を内から外に置き、また端列に車、端から2列目に
馬駒を置くため、端列の自陣の頭は強いのだが、端か
ら2列目の頭が急所になるのは、将棋の種類によらず、
一般的傾向だと私は認識する。
 普通唱導集大将棋の端攻めは、端から2列目の頭を
攻略するための、端の邪魔な守り駒群の排除であり、
将棋の種類に係わらず、そのように指すのが、常識的
になる傾向は、元から有るのだと思う。
 しかし、普通唱導集時代の大将棋では、角行と龍馬
を前列に置いていたため等により、端攻め定跡が、
定番レベルに上がってしまったのだろう。しかし他方、
指し方のワンパターン化というのは、ゲームをより
つまらなくする、大きな原因である。
 普通唱導集の大将棋の記載は、それをこれみよがし
に表現することにより、内容の情報としての価値を
上げ、仏教のめざした唱導集の目的にふさわしい、
良く”惟って”作ったものにしようとしたものだろう。
 逆に言えば、普通唱導集の大将棋の時代。この
端攻め定跡のワンパターン化により、駒数多数将棋
は行き詰まっていた。そしてそれを、中将棋が
大将棋を超え、更には小将棋が有っても流行り続ける
ようにする為には、絶対に解決する事が必要だった。
 そこで中将棋の作者は、上のように要因をあげて、
「とにかく全部を切捨てる」という、私に言わせる
と比較的安直な対応ながら、実際にそれを
やり遂げたのだと、私は考える。そして以上の
ように考えると、私が提案した、104枚、
13×13升目制普通唱導集時代の大将棋こそが、
92枚、12×12升目制中将棋へ、ここから
変化したものであると、上の思考過程から当然
考えさるを得なくなる。
つまり、以下の状態

一段目中央から玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
二段目中央から酔象、麒麟、猛虎、空き、嗔猪、飛龍、反車
三段目中央から奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
四段目は歩兵13枚、五段目は、角行の前の升目に2枚の
仲人を置いて、13×13升目、104枚制大将棋

から、たとえば14列に増やして2段目を反車以外に
ついて内に寄せる(猛虎は盲虎に強化)と、3段目に
獅子を入れ込める。これで、獅子が加わり、酔象が
玉将に並んで、偶数升目になる。ついで残りの、端攻
め定跡を排除する、変化の過程は次のようになる。
 まず”戦犯”の桂馬と嗔猪を除く。
 次にそうしてから、角行位置に飛車を置いて、角行
は一段落とす。
 更に、竪行と横行を端に一つ移動させる。
以上、上でした説明のように、端攻め定跡徹底排除の
ための駒位置変更をすると、結局配列は、以下のよう
に、だんだん中将棋に近づいてゆく。

つまり以上により、
一段目中央から玉/酔、金将、銀将、銅将、鉄将、空き、香車
二段目中央から麒/鳳、盲虎、空き、角行、飛龍、空き、反車
三段目中央から獅/奔、龍王、龍馬、飛車、空き、竪行、横行
四段目は歩兵14枚、五段目は、飛車から龍馬の前の升目に
2枚の仲人を飛車先の仲人は合掛りのじゃまなので移動する
とし、14×14升目、100枚制の将棋になる。

ここまで来ると、中将棋の名に相応しいようにすべく、
もともとの大将棋の13升目よりも、1升目少なくするため、
鉄将の列を除いて12升目にし、最後に一段目の端か
ら2列目が空いているので、猛豹を加えれば、以上の簡単
な変化で、12×12升目の現中将棋が完成する。
 つまり以上のように、13×13升目 104枚制
の、(私の仮称)普通唱導集大将棋からは、もともと
自陣が4段型であるため、中将棋へ移行させる事も、
主に端攻め定跡をなくす、変化だとわかってしまえば、
さほど複雑な経過をたどらないのである。
 実は、近代の中将棋の棋士、岡崎史明氏の冊子、
中将棋の指し方の13ページに、「古来、中将棋には
定跡がないと言われるが」とあり、おそらく口伝で、
中将棋の定跡の無さが、伝わっているものと推定される。
この記載で「古来」がいつの事を指すのか、明らかに
されてはいないが、中将棋の作られた、南北朝時代か
少し前、西暦1300年~1350年程度を指し、

「定跡が無い」のではなくて、
「定跡が出来ないように工夫して作成された」旨が、

ぼんやりと、現在も伝わっている可能性もあるので
はないかと、私は個人的に、この箇所に注目している。
 いずれにしても「いつもの端攻め」を、中将棋では
やりにくくした結果、それまであった普通唱導集時代
の大将棋が、中将棋に取って代わられる、要因の、
少なくともひとつになったと、私は考えている。つまり
中将棋には、「普通唱導集の大将棋記載の逆を行く」
という”普通唱導集の痕跡”が、配列の中に残っている
と、見てよいのではないだろうか。(2016/11/25)

普通唱導集の大将棋(長さん)

普通唱導集の大将棋の記載に関しては、駒名に”嗔猪”
が出てくる点と、”端列に飛車が配置されている”と
の意が読み取れる、という二点が、従来最も注目された
部分である。15×15升目制後期大将棋では、この
2つの点が両方満たされており、よって西暦1300年
前後に成立の普通唱導集の頃に、後期大将棋が、比較的
メジャーに指されたとの考えが、現在定説と見なされて
いる。なお、将棋の歴史のブログ等に、普通唱導集の
大将棋の内容が、漢文等で紹介されている。

大将基 伏惟 々々々々
 反車香車之破耳 退飛車而取勝
 仲人嗔猪之合腹 昇桂馬而支得

 そして上のブログの、将棋史研究家のmizo氏は
「普通唱導集に大将棋として説明されているゲームは、
15×15升目制の後期大将棋ではない」と述べている。
根拠は、彼によると、普通唱導集大将棋に現れる駒種で、
強さで最高なのが飛車でかつ「飛車を失うことによって
敗勢になる。」との内容が書かれているが、これが後期
大将棋にしては、おかしいと言うのである。なぜなら、
後期大将棋には、飛車より明らかに強い駒として、龍王、
龍馬、奔王、獅子等があるはずなのに、これらの駒を失
う話等が、出てこないからである。彼は、以上の観点か
ら、従来の平安大将棋とも後期大将棋とも別の、飛車よ
り強い駒を含まない、後期大将棋と駒名同系統の
普通唱導集大将棋(mizo氏 15升目バージョン)、
および、同(mizo氏 13升目バージョン)を、
自身のホームページにて紹介している。

「もともと、飛車、反車、香車、嗔猪、桂馬、仲人が
存在し、かつ飛車、反車、香車が端列にある」という
条件から、「15×15升目制後期大将棋が、一義的に
導き出せる」と厳密に言えるほどでもない事、また、
鎌倉中期とされる徳島県川西遺跡にて「奔横」ないし、
「本横」と読めるとされる駒が発掘され、現在知られた
将棋種以外に、我々がまだ知らない将棋種は無いとい
う論に、陰りが全く無いとまでは言いがたいわけだか
ら、mizo氏の説を、頭から否定する事だけは、すべ
きで無いと私は考えている。

 さて、以下私見であるが、従来の普通唱導集第2段の
解釈について、どんな駒の名が出てくるのかや、嗔猪、
桂馬、仲人の位置関係のチェックという点ばかりではな
くて、この部分は、将棋の話として、どのような内容
を、聞いた相手に伝えようとしているのか、中身の事も
考えてみるべきなのではないかと、私は思っている。
 確かに普通唱導集の記載で(小)将棋については、ルー
ルで歩兵が、金将に比較的大きく成れる事のゲームと
しての特長と、銀と桂馬では桂馬の価値の方が低いので
あるが、動きの差がわずかであるため、銀と交換させら
れてしまうと(以下少数意見であるが、持ち駒ルールが
ある関係で、)銀桂交換で銀得側が、有利になる形勢急
転の特長を、2つ並立に並べているようである。
同じく、mizo氏のブログで、漢文が紹介されている。

 小将基 伏惟 々々々々
 昇歩兵而成金 入聖目既無程
 飛桂馬而替銀 驚敵人亦有興

 しかし、普通唱導集の大将棋は「2つの並立話」と
決め付けると、この場合は第2段の話の内容
 仲人嗔猪之合腹 昇桂馬而支得
が、いかにもおかしいのではないか。

 つまり、第1段で小将棋と違って、香車の他に端列に
反車と飛車が、初期配列で存在する大将棋では、数の
論理で、端列を破る展開の規模が大きくなり、ゲームと
して面白い、と次のように言わんとしていたとして、
 反車香車之破耳 退飛車而取勝
                  次に第2段で、
 仲人嗔猪之合腹 昇桂馬而支得
と仲人の初期位置つまり、大将棋が後期大将棋だとして、
▲5十の拠点を支えるために、嗔猪を▲4十嗔猪まで動
かして、仲人の横の位置に付けるとか、桂馬を▲3十三
桂馬~▲4十一桂馬と動かして「支える」というのは、
大将棋の、どんな特長を述べようとしているのか、私に
は、さっぱり判らないのである。というより、そもそも
上の桂馬は、5十の地点を支えてはいない。正しくは、
まず、5十に配列された仲人を▲5九と、6段目から、
7段目に進め、ついで嗔猪を▲4九嗔猪まで動かして、
仲人の横の位置につけ、桂馬を▲3十三桂馬~▲4十一
桂馬と動かして、初めて仲人が飛ばした桂馬と、腹を
合わせた嗔猪で支えられるのである。しかし問題は、

後期大将棋で「5九の位置を▲側が支えること」に、
いったいどんな、意味があるのだろうかという事だ。

つまり後期大将棋には、”5九の位置を支える”為に、
たくさんの手数をかける、意味は無いと私は考える。
「手数をかける必要がある事に気がつく面白さ」も、
同様に無いと私は思う。 強いて一つ考えられるのは、
5九の位置は、相手の龍馬の筋に、△9六歩と龍王の
頭の歩を上げれば当たる事だが、5九の位置が”陥落”
しても、後期大将棋では、相手の10四位置の龍馬の
利き筋が睨むのが、2十二位置の飛龍だけであり、
この飛龍には猛牛の紐が付いているので、もし龍馬で
2筋にキズをつけられても、そのキズは浅いのである。

以上のべた事から、私は普通唱導集の大将棋は、後期
大将棋では無いと断定している。

 私は前回のべた、13×13升目制104枚前後の
将棋が、普通唱導集大将棋であるとの立場をとる。この
将棋でも、登場する駒の種類や、端列の車駒の構成は、
内容と一致するし、仲人が初期配列で5段目の、先手
4九の位置なので、3十二の位置に配列された嗔猪を、
▲3十一嗔猪~▲3十嗔猪~▲3九嗔猪と上げた後、
2十三位置の桂馬を、▲3十一桂馬と飛ばせば、仲人
の初期配列の位置に、むしろより簡単に支えが出来る。
次がポイントだが、この仲人は、相手が△9五歩と、
龍馬先の歩を上げると、この将棋では、初期配列の
10三位置の角行筋が当たる。実はこの角行の筋が、
ポイントで、13升目の自陣四段組の大将棋では、
初期配列で2十一の位置にある横行と、同じく1十二
の位置にある反車が、4九の仲人の拠点が崩されると、
角筋に睨まれてしまうのである。横行が取られるのも、
守りが崩されるので辛いが、反車があらかじめ10三
や9四の位置の、相手の斜め走り駒で、取られた上で、
こちらから見て右端攻めをされると、反車が無い分、
数の論理で負けて、端筋が崩されてしまうのである。
よって私は、

普通唱導集の大将棋の記載の第1段第2段は、互いに
独立した記載ではなく、第2段目には、飛車を取られ
て敗勢になる、第1段目でのべた端攻めの、ほかなら
ぬ防ぎ方が、述べられていると考えている。

つまり、このような結論は、13×13升目自陣4段だ
から生まれるのであって、15×15升目自陣5段の
後期大将棋には適用できない。13×13升目中間型は、
15×15升目に比べて、玉将が幾分か、詰みやすく
なるだけでなく、普通唱導集の記載とも、相性がよいの
である。
なお「右端筋が崩されると、”私の104枚制普通唱
導集大将棋”では存在する、奔王龍王等の挙動を論じ
なくても、敗勢になるとまで言えるのか」点については、
次のように考える。すなわち「よほど棋力に差が無け
れば、走り駒龍王等は局面が進めば、相打ちになり、
勝敗は、右端筋と右2列目の陣から利き駒の消えた、
袖に深いキズができた側が、2列目から、相手の中央左
よりに初期配列されている麒麟の侵入を先に許し、以降
麒麟が獅子に成って、守りの陣が、先に喰い荒らされて
投了になる展開が、私の仮定する、駒104枚、
13×13升目制自陣4段型大将棋では、ほぼ一本道
であるため、敗勢から後の手筋を自明のものとして、
普通唱導集では敢えて記載していない」という事、
なのではないかと考えている。
 つまり手数をかけても、4九の仲人位置の拠点を守る
面白さというよりは「端攻め戦法とそれに対する対処
方法」と言う、将棋本「指し方編」に近い内容が、
普通唱導集の大将棋部分には、2段一組で記載されて
いると、私は推定する。しかもそれは15升目、自陣
5段型の後期大将棋ではなく、13升目、自陣4段型
中間大将棋であって、初めて話の筋が通るのである。
 よって、普通唱導集の上記の議論と、大将棋は連続
的に変遷したという仮説から、普通唱導集の時代、
西暦1300年という、中将棋が文献に現れる数十
年前の時点で、未だ13升目型、自陣4段型の、中間
遷移期型の大将棋が指されていたものと、mizo氏
とは独立に推定する、定説を疑問視する者の一人と私も
なっている。(2016/11/24)

大将棋の進化過程(長さん)

以下、後期大将棋が平安大将棋の後継であるとひとまず
仮定し、まず後期大将棋(水無瀬兼成時代)に、新たに
加わったとみられる駒種についてまとめてみる。なお、
後期大将棋は江戸時代になって、更に中将棋の成りが取り
入れられ、飛鹿、飛牛、奔猪、飛鷲、角鷹、白駒、鯨鯢
といった駒名が更に加わるが、ここではその段階までは
考えない。成るのは酔象が太子、麒麟が獅子、鳳凰が
奔王とし、更に成り金になる駒種範囲の問題については、
追って別に考えることにする。

まず、15×15升目制後期大将棋の駒名に着目し、
①平安大将棋の、別の駒のそれぞれ一文字をとって
 組み合わせると、概ねできる駒類は、
①-1走り駒の、
奔王、龍王、龍馬、飛車
 であり。
②平安大将棋に有る駒の文字を一つ変える事によって
できる駒種は
②-1走り駒では
角行、竪行
 であり、
②-2小駒では
猛豹、猛牛、石将
 である。
更に、
③新たに駒名を考える必要のある駒種は
③-2小駒の
 悪狼、嗔猪、猫叉、酔象、太子
と、
③-3跳び駒または特殊な駒として、踊り駒の
 麒麟、鳳凰、獅子
である。
ちなみに、反車は奔車、仲人は注人、盲虎は猛虎と同じとし、
字の少しの違いには、目をつぶる。横行、銅将、鉄将等々の
動きのルールの違いも、後日意味を更に考えることにしたい。
さて、
平安小将棋の他に平安大将棋が考案されたとき、香車の他に
奔車(後に恐らく飛車と紛らわしいので、反車に変化)と、
定説では角行の動きとされる、飛龍を加えて、走り駒の割合
を増加させて、局面変化を大きくし、ゲームとしてより面白
くなるように改善されたものと思われる。これは、元々
の副官駒と象駒を、女王と僧侶という走り駒に改善する
ことにより、局面変化を激しくし、更にキングの守りを、
金気を少なくすることによって弱くし、キング駒が詰むまで
の手数を、適度に短くして発展を遂げた、チェスと、
本質的に改善の仕方は、ほとんど同じである。ただし、
平安大将棋には歩兵以外にも、多くの小駒が
ある点で、チェスと大きく違う。そこで走り駒の割合を更に
増やさなければ、チェスのような面白みは出ない。よって、
平安大将棋を指し、更にゲームとしての改善を試みた者が
居たとすれば、13×13升目四段組説の平安大将棋の、
三段目の空き部分に、上記のうちの走り駒を、逐次加えれば
それは出来ただろう。
しかも、自明とまではいえないが、既に有る平安大将棋の
駒名を組み合わせればすんだ、上記①-1タイプの駒は、
上記③-2タイプの駒以下に比べて、明らかに駒名を
思いつくのが簡単であると推定できるだろう。

 ここで大事な点は上記まとめのように、簡単に作れる駒
つまり新たな字が無い駒が走り駒ばかりで、小駒には無く、
逆に最初から駒名を、新たに考えなければならない走り駒
が無く、小駒等には、そのケースが多いという事実である。
 この事から、大将棋の変化が、前半期においては主とし
て、チェスの成立に似た、走り駒の追加等によるゲームと
しての、面白さのアップという、前向きな文字通りの進化
に、動機づけがあったと結論して良いと私には思える。

そこで異論は承知で、奔王(横)、龍王、龍馬、飛車は、
比較的早くから有った、との説を私は独自にとる。

 更に私には、横行とは別に竪行と角行を考えるのが、
反対語とか類似語の思いつきであるから、そう、難しかっ
たとは思えない。ついでこれらが、更に付け加わ
ったのだろうと思う。つまり13×13升目の三段目に、
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行(移動)、飛車
と並ぶ新走り駒で、相手の将駒と猛虎(後の盲虎)で形成
される駒組を崩してゆく配列の、中間的大将棋は、(仮称)
川西大将棋の時代から、ほどなくしてできたと想像する。
 ただし、駒の種類が、多くなりすぎるようになるまで、
13×13升目制を15×15升目制には増やさなかった
のではないかと言うのが、私の独自の予想である。升目
を増やすと、玉の逃げ場を増やし、走り駒の割合を増やし
た効果が、薄れるからである。
 この状態で10年位、13×13升目で駒数92枚前後
の大将棋が指されているうちに、走り駒の中に2升目跳び
駒を加えると、攻撃のバリエーションが増える事に、気が
つく者が現れたのかもしれない。玉の斜め前升目が平安大
将棋では元々空いており、さらに脇に動きが緩慢な猛虎があ
ることから、この猛虎の動きの改善を目指したような、二
回猛虎動きで、結果2升目縦跳びの麒麟と、縦と斜めの動き
が逆パターンになる鳳凰が、更に攻め駒として、あるい
は考え出されたのかもしれない。すなわち、少し遅れて、
③-3の駒も、鎌倉時代の後期には、現れていたのではな
いかと私見する。ただし、この跳び、または踊り駒で獅子
だけは、この時代の将棋には、麒麟の成りとしてしか存在
しなかったと考えないと、普通唱導集大将棋の第一号モデル
の提唱者、mizo氏が指摘するように、普通唱導集の
大将棋の記載で、獅子の活躍に触れられていない理由が、
全く説明できない。
 なお、獅子が仮に麒麟の成り駒として発生したとすれば、
玉将の守りが、余りに手薄になるので、玉将の前の空いた
升目に動く方向の多い、小駒を置く必要がでてきた。徳島
川西遺跡廃寺、金剛光寺の例に限らず、大将棋の棋士には
僧侶がしばしば伴っているようにも見え、酔象が釈迦伝説
から来る事から、釈迦太子にちなんで、成りが太子になっ
たが、仏教が盛んなわが国では、釈迦駒は重要視されて、
元駒の酔象が、動きが七方と多くなり、玉将の前に配列さ
れたのかもしれないと思う。更に太子は、王子と混同され
て王将の跡取りとイメージされ、後に”酔象が成れば二枚目
玉将の太子ルール”が生まれたに違いない。
 最後に、ゲームの改善にとっては実はマイナスなのだが、
平安大将棋で猛虎という小駒を、2段に配置している事の
習いから、改善された大将棋の2段目空きに、②-2小駒の
猛豹、猛牛か、③-2小駒の悪狼、嗔猪、猫叉、のいずれ
かが、跳び駒配置の時期から、しだいに取り入れられたのか
もしれない。なお普通唱導集の時代、西暦1300年時点
で、大将棋に”嗔猪”があった事が知られており、私見では
13×13升目制の時代に、元々の第2列2段の位置に
あった飛龍の内隣に、嗔猪を第3列2段位置に配置したもの
と、私は独自に推定している。
結局、以上をまとめると、普通唱導集の時代付近で、大将棋
については、
一段目中央から玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
二段目中央から酔象、麒麟、猛虎、空き、嗔猪、飛龍、反車
三段目中央から奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
四段目は歩兵13枚、五段目は、角行の前の升目に2枚の
仲人を置いて奔王頭の注人を除いた、
13×13升目、104枚制程度の大将棋が指されたのでは
ないかと想像している。(なお麒麟は左側だけに有り、右側
は鳳凰に入れ替える。)
 そして、その後、中将棋が成立した頃に、元々の獅子駒を、
この中に加えようとして破綻し、13×13升目を15×
15升目へ、このときしかたなく変更したのだと思う。つま
り、獅子を中央列に置こうとしても、このままでは奔王や酔
象と、かち合った。
 そこで、3段目よりも上を、1段上げて自陣4段から5段
にまずし、2段目の駒を中央からそれぞれ、酔象(2段のま
ま)、麒麟/鳳凰(新3段)、盲虎(旧猛虎。2段のまま)、
嗔猪(新3段)、飛龍(新3段)、反車(2段のまま)と半
規則的な互い違いにし、13行では中段が3行と少なくなり
すぎるので、13升目から15升目に増やし、2列目に、飛
龍を3段目から4段目へ移動、1段目に石将とする列を加え
た後、盲(猛)虎を内に1升目寄せ、以上の変更によって、
新たに発生する歯抜け隙間に、残りの小駒の類、悪狼、猛豹、
猫叉、猛牛を、ゲームとしては改悪になるのだが、形の整え
のためだけに、加えさえすれば、後期大将棋が完成するとい
う訳である。これはゲームを改善しようとしたのではなくて、
ただただ、中央列3段目に、中将棋の成立後中心的駒となっ
た、獅子の居場所を確保するためのものであった。つまり、
中将棋が成立すると、大将棋は進化の途中でそれに負けてし
まい、鎌倉期の大将棋の雰囲気を、中将棋全盛時代の、室町
時代前期に作り出そうとした形だけの物が、安土桃山時代に
水無瀬兼成が記録した、後期大将棋なのではないのかと私は
考える。すなわち私は、

15×15升目、駒数130枚制後期大将棋を、普通唱導集
の大将棋ではないと、比較的ネガティブにとらえる少数派の
一人である。

 ちなみに、前記の104枚制の大将棋型ゲームの、猛虎の
外の升目の空きに、猛豹を加えた、13×13升目、108
枚制の、泰将棋や大局将棋のような駒ギッシリ型のゲームを
考えると、その中には、後の中将棋の駒が、すべて含まれる
ことになる。実は私は、上記の13×13升目、108枚制
の中間的大将棋の一種こそが、後の中将棋の原型(親)なの
ではないかと、現在独自に疑ってもいる。(2016/11/23)

王将と玉将(長さん)

 摩訶大(大)将棋では、成りで奔と付く駒は、通例「元
の駒の歩める方向に制限無く走る(等)」と動かし方ルー
ルが表現されるケースが多いため、駒数多数将棋の研究家
には、「奔王が出来た時点で、あたかも玉将は王将と混同
されていた」と暗黙のうちにイメージされる事が多いよう
に思える。実際には平安時代1058年作と目される、興
福寺出土駒には玉将は有っても王将は無く、江戸時代より
前の将棋を記載した文献も、玉将だけだが、通説では「玉
将が王将に混同された経緯や、年代は不詳だが、江戸時代
中期には、そのイメージが固定された」と言われている。
なお、”王将”出土駒の記録で、最も古いものは、大阪
四条畷市の上清滝遺跡の駒で、推定年1184年のものと
聞く。
 以下私見だが、平安小将棋が奇数升目列将棋と確定した
時点で元々の玉将は、王将ないし玉将と、見なされてきた
だろうと私は考える。小将棋の二枚金将制が、官職の左右
対称を模した物と、私も考え、その時点で中央の玉将が、
大将軍ではなくて、帝王のイメージでも見られる傾向が、
出来ていたと思っているからである。元々漢字の”玉”が、
王に形が近いので、「それなら日本の将棋のキング駒は、
玉だが王(帝)のようなもの」に比較的早い時期になった
のだろう。そのような「玉将」観が確立したのは、よって
平安末期の西暦1100年~1180年の頃だと私はみる。
 私も先に述べたように、徳島の川西遺跡で発掘された奔
横駒は、奔王の類と見ているから、奔王自体は鎌倉時代中
期には、実質出来ていたと見なすべきだと考える。そして、
横行が列の中心部分から端の方に移動し、奔横の名称を、
変えなければならなかった時点が、その直後の、蒙古来襲
西暦1270年代の頃だったとしても、西暦1180年よ
りは前の、平安末期に上に述べた”王玉同視”が既に起こ
っていれば、玉将を王将といっしょとイメージして、
「玉将と同列配置であるから、奔横の変わりに奔王に名前
を変える」という現象は、鎌倉時代中期の時点で起こって
も、そうだとすれば、矛盾は無いと思う。
 なお、興福寺出土駒の時代、西暦1058年頃は、藤原
摂関政治の時代であり、院政が確定はしていなかったため、
9×9升目平安小将棋が確立した院政期の”王玉同視”に
は、まだなっていなかったと私は考える。すなわち西暦
1100年頃より以前は、オリンピックで一位二位三位が
金銀銅なのと似たようなパターンで「将軍のうち一位、二
位、三位が玉、金、銀」というイメージだったとみている。
そこで前に藤原隆家の、小将棋とのかかわりの仮説の所で
述べたように、その時代には王将の概念は無く、玉将はあ
くまで玉将であり、天皇や上皇ではなくて、藤原長者の、
たとえば藤原道長になぞらえられていたため、その側近の
藤原貴族が金将に、それより少し下の位の、都の藤原一族
一般が銀将に、大宰府で刀伊軍を討ち、道長にみとめられ
て、側近格に昇格した藤原隆家を、と金に、それぞれなぞ
らえる事も、そうしようと思えば、可能だったと私は見て
いるのである。(2016/11/22)
 

大きかった川西「奔横駒」の発見(長さん)

 現在、いわゆる大将棋として、以下の2種類の昔の
日本の将棋種が知られるというのが定説である。西暦
1100年ころ作られたと見られる、二中歴に記載さ
れた13×13升目駒68枚制の平安大将棋と、安土
桃山時代の将棋研究家で将棋駒作者、水無瀬兼成の、
将棋部類抄が元ネタの、15×15升目・駒130枚
制の後期大将棋である。前者は自陣が3段が定説、
人によっては4段かもしれないとされ、後者は自陣が
5段で、駒数が2倍近く大きく違うため、「関連性は
ある」と増川宏一氏に、当初から指摘はされたものの、
「後者が前者の進化で得られた物」と言う考えは、
川西駒の発見の以前には、少なくとも定説とは、誰に
も見なされてはいなかった。しかし、

 以下私見であるが。徳島県の川西遺跡より発見され
た「本横駒」と発表されたものは、将棋史の研究家
で、将棋駒の収集や作者としても著名な、熊沢良尊氏
が指摘したように、正しくは「奔横」であり、後期大
将棋が平安大将棋の、進化の結果得られた後継ゲーム
である事を示す、現時点では唯一の最重要な物的証拠
であると、私は考えている。

 なお、既に増川宏一氏は、最近改定した彼の、「も
のと人間の文化史 将棋Ⅰ」で、「本横駒は、正しく
は奔横駒であり、これは奔王駒の別称である」との旨
述べておられる。この点私見では「別称」は「古称」
が正しいという点を除いて、その他の観点については、
増川氏の言う通りであると私も考える。
 更に以下も私見で誠に恐縮であるが、この奔横駒は、
平安大将棋と後期大将棋の間の時代で、川西遺跡の時
代とされている、鎌倉時代中期の、これら二種類の
大将棋の進化の中間に位置する、未発見の大将棋類の
ゲーム用の駒の一枚と私は考える。
 この駒が何なのかは、平安大将棋の配列に関して少
数意見の、四段組モデルを出発点にして考えたほうが、
いくぶん判りやすいかもしれない。四段組モデルで
「横行の位置が中央3段目」との既説は、実は間違い
であり、そのすぐ後ろの升目で、玉(王)将の前の、
2段目の中央に、もともと横行があると考えるのが正
しいと修正した上で、その前の3段目中央の升目に、
川西奔横駒を足した、未知の3つ目の大将棋が有った
と考えれば私の説になる。なお厳密には、飛龍の位置
の平安大将棋四段組み説の議論ついては、未だ不確定
とすべきだと、私は思っている。
 つまり、この3つ目の鎌倉時代中期の大将棋では、
平安大将棋の端列で1段目、2段目に香車、奔車と
配置されていたのと同じパターンで、中央列で
2段目、3段目に横行、奔横と配列されていたと、
私は考える。
 そしてこの奔横は、15×15升目の後期大将棋
の4段目、歩兵すぐ下の段が、中央から順に全部走り
駒で、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、
飛車と配列される時代の、いわば先駆けであり、奔横
はこの走り駒に関して、飛龍を除けば最初に、歩兵の
すぐ下の段の、このケースは中央列に、新たに配置さ
れた、奔王相当の駒と私は考える。更に、

鎌倉中期の大将棋では、玉(王)将の前に横行がまだ、
中央に配列されており、後期大将棋のように、猫叉の
いる端より3列目の4段目に移動していなかったため、
奔横は玉(王)の2段上であると同時に、平安大将棋
時代と同じく横行の、すぐ前に位置した事となり、
これから「奔横」と呼ばれ、横行が中央列から3列目
に、後日更に大将棋ゲームが進化して移動したときに、
「奔王」に名称を変更したという経緯の、”奔王の
古称”なのだと私は考える。

 なお鎌倉時代中期の仮説的な大将棋において、奔横
がどのような動きのルールだったのかについては、私
には良くわからない。あるいは奔王と、その時点で既
に同じだったのかもしれないし、平安大将棋の横行よ
りは強いものの、「八方走り」では、あるいは無かっ
たのかもしれないとは思う。
いずれにしても「平安大将棋の横行の、すぐ前の升目
に配列されると同時に、後の奔王相当駒」を連想させ
る、川西「奔横(行)」駒の発見は、スカスカの平安
大将棋四段配列説の空いた升目に、後期大将棋には有
って、平安大将棋には無い駒を、それらしく足してゆ
けば、平安大将棋から後期大将棋へ、連続的に変わる
中間形が、随時作れるかもしれないというイメージを、
ぼんやりだったとしても、初めて作り出したと言う点
で、この将棋駒の2011年の発掘は、奇跡の大成果
の一つだったと、今でも私には、しみじみ思い出され
るのである。(2016/11/21)

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