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15筋列×14行段88枚制拡張シャンチー試作象棋は、朝鮮広象棋か(長さん)

以前今年の2月頃のことだったと思うが、九宮型のシャンチー・チャンギ
型の駒数88枚制の駒数多数象棋を、試作した事が有った。
あのゲームは、

実は当時、岡野伸さんの”世界の主な将棋”または”シャンチー・チャ
ンギ”という、彼の自費出版の小冊子でしか、紹介されていない、
朝鮮の高麗時代とも言う、朝鮮広将棋の事を知らずに、私がそのとき
試作したものだった。

その為、そのときには”将来はこういうタイプのゲームも、検討の余地
があろう”などと文末で締めくくる等、とんだ的外れだったようである。
現在では、童遊文化史第二巻の大将棋の記述により、江戸時代の文献、
倭訓栞と和爾雅に、”後期大将棋は広将棋の言い換え”ととれる旨が、
載っているとの情報が得られている。そこで後期大将棋の升目数に、
路数が14×15と近い、朝鮮広将棋はいまでは、

私によると、勘合貿易が盛んになった、室町時代前期に、日本に紹介
された結果、それまでの13升目の普通唱導集大将棋が、15升目の、
後期大将棋型に変化する原因になった、可能性のある史料と見て、
重要視する、隣国のゲーム

になっている。
ここでは、その朝鮮広将棋と私の試作した将棋が、近いのかどうかを
考え、ついで、朝鮮広将棋が後期大将棋に、江戸時代に同一視されるに
至った理由を考えてみる。
 まず、わたしが以前試作した、15筋×14段の88枚制シャンチー
拡張ゲームの駒の初期配列は、中央列から左袖方向を、相手の陣を見る
向きで示すと、次のようになっていた。

一段目を、師、仕、相、騎、馬、車、馬、車
二段目を、空、空、麟、象、空、空、空、空
三段目を、空、空、鳳、空、馬、車、馬、車
四段目は、空、空、空、空、空、空、空、空と、皆空交点。
五段目を、空、空、炮、空、炮、空、炮、空
六段目を、兵、兵、空、兵、空、兵、空、兵

と、六段組に並ぶ。七段目と八段目の間が河になって、9段目より先が、
相手の陣である。当時はチャンギではなくて、シャンチー
の試作だったので、歩兵は摩訶大大将棋の嗔猪の動きになるのは、河を
超えてからであり、それまでは歩兵の動きだった。また、師は朝鮮チャ
ンギのように官にはなっておらず、斜め動きは無いし、2段目中央では
なくて、1段目に配列されていた。九宮の位置は、チャンギもシャン
チーも同じで中央9升目である。なお、相は中国象、象がチャンギの象
のつもりであった。

ぱっと見で、麒麟や鳳凰が15×14路の古朝鮮広象棋に有ったはずは
ないから、これが、古朝鮮広象棋と、全く同じでは無いことは多分明ら
かであろう。

では、たまたまだったが、かなり良く似たというレベルのものなのか。
そこで、もう一度、
岡野伸さんの小冊子”世界の主な将棋”等で、古朝鮮広象棋をチェック
してみる。
 まず著書によると。
1.この象棋は、32枚制のチャンギよりは駒数がだいぶん多いこと。
2.本文では、盤が筋14、段15。別表では盤が筋15、段14で
  あると述べられていること。
3.内営という、九宮に当たる内陣のほかに、中軍が陣地としてあり、
  自陣内だがその外に、中軍のほかに、上軍という陣があった事。
4.指されたのは高麗時代であると、される事。
5.日本にゲームが輸出されたこと。
6.文献が雷淵集という文書であり、北朝鮮の文献である事。

が、述べられていて、貴重である。しかし、これ以上の記載は無く、ま
た、北朝鮮の文献の雷淵集に、更に詳細があるのかどうかも、不明であ
る。そこで、判っている事だけからでも、私の最近の試作品と、とりあ
えずは、比較してみる。

まず路の数だが、別表とは有っているが、岡野さんの本文とは合わない。

ただ、段が奇数になると河は作れないし、筋が偶数だと九宮が真ん中に
は置けないので、表の方がもっともらしいと、私は一応は思う。ただ、
私も試作して気がついたが、この筋数には、

中央に兵駒が置けない

という問題がある事が判っている。私の場合は、しょせん試作だったの
で、中央に無理やり兵を一つ、上で紹介したように入れ込んである。
だから

なぜ古朝鮮広将棋は、13や17でなくて15筋らしいのか

を、一応は考えてみる必要がありそうだ。なお中国の古象棋には、北宋
将棋と仮称された、11筋(恐らく)10段の古象棋があり、玉駒同士
が向かい合えないルールとの関連で、議論が行われているようだ。玉頭
の歩兵が欠けるのに、日本人ほどには、気にならないのかもしれない。
 なお、本家の朝鮮広将棋の作者の心を察するのは、難しいが、試作品
の方は、作った本人であるから、事情が判る。すなわち私の試作品では、
シャンチーとチャンギを混ぜ込んで相、象を両方入れ、八方桂馬、飛車
の数を、もとのシャンチーの4倍増させても、中央がやや、厚くなれば、
ディフェンス・オフェンスのバランスが取れるだろうと考えたのである。
そこでチャンギの象、一段あたり1つから2つづつに増やした八方桂馬
と飛車列の増加分で、9筋から6筋増えて、15筋になったのである。
 そこで、高麗時代の朝鮮半島で、私と同じような事が行われたのかど
うかであるが、八方桂馬・飛車を含む中軍を、最下段列の八方桂馬・飛
車の攻め駒とは別に作ったと解釈すれば、

中軍が3段目だったかどうかの謎は残るが、私と同じような事を、
絶対しなかったとまでは、言い切れないように私には感じられる。

少なくとも、私の試作品は、後期大将棋よりは、朝鮮広将棋にずっと良
く似ているという点までは、確かなのではないだろうか。なお、私自身
は、攻め駒が全体として袖の下段に固まっている。だから私の、試作大
型シャンチーは、後期大将棋に、似ているとはほぼ思ってい無い。むろ
ん、この北朝鮮の古将棋に関して、詳しい事が、少なくとも私にはわか
ってい無いため、私にははっきりとは言えないが、江戸時代の日本の
史料では、

筋が15升目であるという共通点だけで、朝鮮広将棋と後期大将棋が、
同一視指摘されているだけの、疑いがかなり濃い

と私は感じる。だから、

普通唱導集大将棋のように元々、大将棋は私によると13升目だったの
が、後期大将棋で15升目になった主要因は別に有り、朝鮮広将棋が、
15升目で「中国の広象棋は伝統的に15升目」というのは、大将棋を
13升目から15升目に変える、口実の一つに過ぎなかった、

と、私は今の所、考えざるを得ないのではないかと思っている。が、
古朝鮮広象棋の実体は、恐らくまだ、日本では明らかにされてい無いの
が、何とも無念である。当然だが、

大将棋の歴史に決定的に影響しない要因であるという事は、北朝鮮の
古朝鮮広象棋の実体が、より詳しくなる事によって、確定する事

である。北朝鮮からの情報の入手は、前回に述べたように、今の所日本
ではかなり難しい。私が前回の終わりの所で、この将棋の情報の必要性
について言及し、北朝鮮と日本との関係が、元寇のときの高麗国並みに
悪いことを嘆いたのは、以上のような経緯によるものである。(2017/05/31)

チャンギの象の動きが、日本の将棋に痕跡として無いのは何故か(長さん)

中国象棋、シャンチーの駒に象があるが、朝鮮半島の象棋・将棋である
チャンギにも象がある。しかしチャンギの象は、シャンチーと異なり、
シャンチーの馬系統の動きのルールであり、その動きは日本古将棋に、
痕跡として、ほとんど残ってい無い。類似の動きの例外は、七国象棋の
騎駒だけである。少なくとも日本の象系統の駒に、チャンギ象の類と思
われるルールが、はっきりとは残らなかったのは、何故なのであろうか。
 私の考えでは、一つには古文書で大将棋のルールが、伝達される傾向が、
日本では強かったため、墨と筆でルールが書きづらい、チャンギの象には、
日本での伝達に、ハンデがあった事。および残るとすれば、酔象が復活
した時点からであろうが、酔象が復活したときの、日本と高麗国の関係
が悪く、コンピュータ将棋で、北朝鮮製のソフトについて、最近はほとん
ど言及が無いのといっしょで、該当国のイメージの悪さから、その時点で
の文化が、たまたま、それを必要とした時代に、取り入れにくい空気が、
日本国内にあったからだと私は思う。
 逆に言うと、日本の将棋駒に、3二跳びの駒が全く無いという事は、

酔象が大将棋に再取り入れされた時代が、高麗が元王朝の属国だった、
蒙古来襲の、ちょうどその頃だった

と考えられる証拠だと、私は思うのである。よって京都上久世遺跡酔象駒
には、本来裏に太子と書いてあり、その時点での新酔象だったと、私は推
定する。更には、酔象が復活した時に、そのルールを日本人が、南宋より
は地理的に近い高麗人に聞かなくても済む、何らかの別の情報源がある事
を、この事はまた、示唆しているのではないか。恐らく”酔象”は、
鎌倉時代中期に復活したとして、その時代に、酔象の駒カタログが、日本
には残っていた。つまり、院政時代に酔象の使用は、上流階級では禁止と
なったため、小将棋が書いてある程度の普通の将棋の文献には、酔象の記
載は、無かったのであろうが。別の”平安時代の将棋大事典”とでもいう
内容の文書には、酔象が載っていた。そこで外国人に、動きのルールを教
わらなくても、酔象を大将棋の中央列下から第二段に、再取り入れできた
のであろうと私は推定する。それには、平安大将棋とは別の、恐らく、駒
数が、それより多い平安時代の将棋が、その今では見出されていない古文
書に、載っていなければならないと思う。だから、平安大将棋よりも升目
の多い将棋が、平安時代後・末期に、実在したと考えた方が、チャンギの
象のルールの痕跡が、わが国の将棋に余り見出せない点から見ても、より
自然だと、私には思われる。
 なお、蛇足であるが。チャンギの象が馬系の動きなのは、日本で平安
時代末期に、象を排除した影響かもしれないと思う。象駒の無い、日本の
将棋文化が、逆に朝鮮半島の象棋に、チャンギの駒形が、シャンチーと
日本将棋の中間的な八角形なのと一緒で、相互作用を及ぼしているのかも
しれないと私は推定する。しかしその作用は、たまたま日本と高麗の関係
が、一時期悪かったという理由で、連鎖が止まってしまったようだ。個人
的には、桂馬跳び系列の動きの拡張というルールは、今も検討の余地があ
ると、私は考える。だから相手が悪とする情報を、テレビで、ただただ
連日流すだけで、友好関係の模索もできないという事態が、もし現実に
あるとするならば、経緯はともあれ、それはたとえば将棋史で、15×
14路の北朝鮮広将棋の解明も、ままならない不幸な時代の事だと、私は
個人的には、残念な気持ちで見ているのである。(2017/05/30)

西暦1992年頃美里町出土の五色宝塔に水晶玉宝塔が無い理由(長さん)

前回、埼玉県児玉郡美里町広木で、25年位前に出土した、金、金銅、銀、
銅、鉄の貴金属ミニュチュア宝塔(大きさチェスの駒並み)に、玉製とも
言える、水晶製の宝塔は、欠けた5種類である事を述べた。これらは、
大将棋の将駒のモデルとなった、人物達の墓石の象徴模型であるようにも
見え、平安時代から南北朝時代までの、大将棋に関連する品のようにも、
いっけんすると見えるのだが、やはり、玉将用が無いのが気になる所であ
る。ちなみに、この遺物の解説成書「埼玉の遺跡」には、水晶製の仏塔・
宝塔が、鎌倉時代に製作されている事が、これらの遺物との関連性として、
言及されている。そこで以下、この五色が大将棋の5将と、数が同じなの
を、だから偶然なのだと考えて、あきらめてしまわずに、この五色仏塔は、
大将棋の将駒に対応すると、なおも考え、水晶仏塔が、出土物に含まれな
かった理由を、以下追求してみた。結論を示すと、ようするにこれは、

武蔵七党の法事に使われた品のため、首領のもとに集団化していなかった、
武士団だった彼らには、玉将に当たる仏が、存在していないことを、ひょっ
として、厳格に表現しているのかもしれないと、私は思う。

なお、前回の所で、檀家を「児玉党ないし猪俣党」と表現したが、南北朝
時代には、鎌倉公方や関東管領によって、本来ばらばらな”党”は、一揆
として再編成されている。ので、法事の喪主・施主は、南北朝時代だとす
れば、”児玉党の有力者”ではなくて、「武蔵北白幡一揆の有力者」と、
表現すべきだった、かもしれない。何れにしても彼らはたとえば、当時の
関東管領の、上杉憲方の号令で、互いに並立に、軍事行動をとっているだ
けで、殿様がい無い。なので、法事で、有力者の墓模型を使うにしても、
玉将の墓、金将の墓、銀将の墓、銅将の墓、鉄将の墓とは表現せずに、
金将の墓、金銅将の墓、銀将の墓、銅将の墓、鉄将の墓と、現状に合わせ
て、”補正”したのが、結果として出土品になったと考えれば、説明が
できるのかもしれないという事だろう。つまり、美里町の五色宝塔は、
水晶宝塔が無いので、かえって武蔵七党の持ち物だったらしいと、確かに
なるのかもしれない。
 なお、「埼玉の遺跡」の解説によると、5色のうち金銅宝塔は、表面の
処理が、他の4塔に比べて手が込んでおり、金色と銀色が、モザイクに
なった配色だったのではないかと言う事である。つまり金銅宝塔は、
ランクとしては金と銀の間に挟まるらしい。
 さてその後、埼玉県児玉郡美里町の城跡について併せて調べてみたが、
猪俣小平太範綱の館が、猪俣の百八澄の会場になっている、美里町猪俣の
高台院付近にあるだけで、その他には有力な城館は無いとのことである。
なお、五色宝塔はたまたま、中世寺跡だとは判っていて、調査する理由は
有ったとはいえ、美里町猪俣の高台院よりは、なんと5キロも北西に離れ
た、猪俣小平太範綱の城の周囲を探す、とは表現しがたい、美里町でも、
かなり離れた広木で発掘されたと、調べてみて私にもわかった。なお、
美里町広木は、猪俣党の隣りの武族、児玉党の本拠の埼玉県本庄市の、
JR高崎線本庄駅からも、今度は逆に南東に10キロ位離れた所にある。
 よって本来、ここに武蔵七党の持ち物の出土を期待して、発掘するのは
不可能に近かろう。ほとんど当てずっぽうに、ほうぼう掘っていると、不
意に出たというイメージで、宝塔が発掘されたというのに、実際には近い
のではないか。この出土は、まるで神の手の仕業のように、私には思える。
(2017/05/29)

大理国の多素材仏教造形物が埼玉県児玉郡美里町でも出土している(長さん)

以前、大理国のあった雲南省大理市の遺跡で、その時代の崇聖寺千尋塔
の主塔の内部から、複数種類の貴金属を素材として使った、小型の仏像群
が出土し、雲南省博物館カタログに載っている事を指摘した。しかも、
同様の例は、中国のほかの地域には、見られ無いようだとも述べた。
 その後、他の国の例についても捜索したところ、ごく最近になって、
日本の埼玉県児玉郡美里町の広木上宿遺跡から約25年前に、仏像では
ないが、同じく仏教関連の造形物である、ミニチュア宝塔が、5種類
別々の貴金属で同時に作成され、遺物が出土している事を私は知った。

 しかも、その大きさは3センチから概ね5センチ位で、チェスの駒に
近いものである。

 材質は、金、銀、銅、金銅、鉄の5種類で、宝石玉の宝塔は無いが、
金銅製が加わり、平安大将棋の将駒、および13×13升目108枚制
普通唱導集大将棋の将駒の種類数と一致する。なお、6種ではないの
で、後期大将棋の駒よりは、1種足りない。場所は中世の寺院跡とされ、
平安時代末から南北朝時代の間と、埼玉県埋蔵文化財調査事業団(西暦
2000年当時)の山本靖調査員によって、特定されている。室町時代
より前だと判った点が、ありがたい所である。なお、何らかの儀式のた
めに、5つが一組で埋設されたように見え、”5つセットの何者か”が
有ったと、解明もされている。この点もうれしい所である。webにも
サイトがある。が、山本靖研究員の報告は書籍にもなっており、その書籍
では5個組のうちの金宝塔が、本の表紙を飾っている。5つ並べた本文中
写真が、表紙の図案になっていたら、多少より早く、私は気がついた
かもしれない。

五色小型宝塔.gif

 ところで、山本靖調査員の少なくとも、2000年当時の見解によれ
ば、「全国にも類例が無いため、この遺物が何を意味するのか謎」との
ことである。が、

私には大理国の、日本ではレアな仏教に関する情報が、埼玉県児玉郡に
南北朝時代までの間に、何者かによって伝えられ、関係者が当時相当裕
福だったのだろう。当時の地元の寺で、大理国パターンの仏教法事を行う
ためのものと見られる、出土遺物がその関係者の弔いに関連して作られた

ようにしか、どうみても見えない。
むろん特定は難しいが、大理国の仏教事情という中世の日本人にとって
は、レアな情報に興味を持つのは、何か特別な事情があるのであろう。
一つには、寺に将棋史に詳しい僧侶か居たか、檀家に将棋史をよく知る
者が、平安時代末期から、南北朝時代の間に居たという、事情かもしれ
ないと私は思う。
 平安時代の末期から南北朝時代までは「大将棋の将駒の数は、玉将、
金将、銀将、銅将、鉄将の5種で、こうしたいろいろな素材の将駒は、
大理国の仏教造形物が、金、銀、銅、金銅、鉄といった、いろいろな
種類の貴金属を別々に使って、似たカテゴリーの物を作成した事に由来
する」という情報が、上記5品を出土した寺に、伝わっていた。そこで
たとえば、その情報にからんでいた、金持ちの檀家が亡くなって、多額
の寄付が、寺にもたらされれば、出土遺物のような5品を、寺は記念に
製作して、檀家の墓地に、供えるのかもしれないと、私は思うのである。
 では、金持ちの檀家は何処から、この日本の将棋の歴史に関する情報を
得たのであろうかと、言う事になるのだが。遺跡の付近は、平安時代末期
から南北朝時代までは、武蔵武士が住んでおり、南北朝時代には児玉党
と猪俣党という勢力が、強かったと聞いている。ちなみに彼らは、
もともとかなり、信心深かったらしい。美里町には「猪俣の百八燈」とい
う、先祖を崇拝する信仰の儀式が、平成の現在でも残されている。裕福で
金が有りさえすれば、信仰心が高いので、寺への寄付を惜しみなくする
武家が、中世に美里町周囲に住んでいたと言う事であろう。そこで具体的に、
児玉党や猪俣党の武士が、南北朝時代までで、羽振りがよくなりそうな
要因が彼らにあるとすれば、それが何時なのかであるが、

西暦1381年に第2次小山義政の乱で、小山義政を討伐するための軍列
に、児玉党、猪俣党は、白旗一揆等の名称で、足利氏満の配下となって
加わり、勝って相当の戦利品を受け、南北朝時代の後期には、はぶりは
かなり良さそうだった

と私は想定している。出土物の形式からは、特定できなかったようで
あるが、出土物の年代は、武蔵七党が最も盛んだった、南北朝時代も、
有力なのではなかろうかと、私は想像する。
ところが実は、小山義政とは、以前から述べているように、将棋関連で、
2007年に、第2次小山義政の乱の陣地の栃木県小山市神鳥谷曲輪で、

裏一文字金角行駒が出土した

事で有名な、あの小山義政の事である。仮に小山義政が、第2次小山義政
の乱で負けて、児玉党や猪俣党の武家の頭と接触したおりに、小山義政
の知っていた、将棋史に関する情報が、和解と文化交流により、小山氏
から武蔵武士に、1381年の冬頃伝達されていれば「羽振りの良い、
将棋史をよく知る、武蔵七党の有力者の謎」は、一応は解けるというわけ
かもしれない。

つまり、駒数多数将棋と、なにか絡んでいるらしい、小山氏一族ではない
のだが、埼玉県に在住していた武蔵武士は、栃木県の小山氏とは、代表的
な合戦で、たまたま敵味方だっため、両者は互いに、人的接触のある一族

なのである。しかも児玉党は武蔵七党の中でも、最も有力な武士団なため、
その大将が亡くなれば、縁あって、大理国の多色仏教造形物に生前興味を持
った大将の為に、鉱山国家で金銀が豊富で、羽振りの良い大理国式の仏事で
弔いが行われても、さほどの不思議は無いのかも知れないと私は思う。
 思えば今まで私は、神鳥谷曲輪遺跡の、裏一文字金角行駒に関する調査と
言えば、小山氏関連のみを、集中的にターゲットとしてきた。しかし、
考えてみれば、小山義政の乱に関連した一族で有力な者も、何かを知ってい
るのではないかという点で、疑わしいと言えば、疑わしいのかもしれない。
 そこでこれからは、少なくとも児玉党、猪俣党の本拠地、埼玉県児玉郡美里町
については、駒数多数将棋に関する、チェックリストに挙げておこうと、この
出土品情報を見て、私は考えた次第である。(2017/05/28)

二中歴の盤双六と違い、将棋はルールの説明で中身が占められている理由(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも載っているが、二中歴は加賀前田家に
伝承された写本が唯一の残存する史料であり、将棋のほかに、囲碁や盤双六
の項もある。しかし、平安時代末期時点で囲碁には歴史があり、ルールが
広く行き渡っていて、いまさらながらの解説で、言及されないのは判るの
だが、盤双六の所でも、達人の名や、その素性に関する情報等が挙がっている
ばかりで、初期配列の覚え方の記載も無いのは、将棋と比べると、不自然に
カテゴリー内容が、大きく違いすぎるような気も私にはする。これは、
いったい何が、背後にあるのであろうか。それが、今回の話題である。
 一般的には、二中歴は忘備録であり、大事だが、ごちゃごちゃしていて忘
れそうな内容を網羅的にまとめて、更に暗誦に便利なように、韻をうまく
付与させた文献だと言われている。そう言う事なら、平安末期に、たとえば
都で新ルールが、少し盛んになってきて、その双六のルールを、新参貴族
が多少誤ったとしても、”大事には至らない”のに、将棋ではそうではない、
という事になるのかと思うのだが、以前より、これはいったいどう言う事
なのだろうかと、私はあれこれ理由を考えてきた。
 いろいろ思い浮かぶ事があるが、二中歴の将棋の記載で、間違えると
命取りなのは、ひょっとすると、一言で

大将棋が13升目で小将棋とは違い、玉将を中央に置く事

なのかもしれないと私は思う。恐らく

1.玉将を中央に置く事
2.9升目の小将棋だけでなく4升目増やして13升目にした将棋がある事

の1.2を知らないと、宮中に出入りしたとき等に、恥をかく。つまりは、
1.と2.に関して、その時点からみても、数十年という桁の、だいぶん昔
に宮中で、それに絡んで、政治的にひと悶着あった。そこで、どんな名前の
達人が、存在またはかつて、存在したのかを知らないと、宮中では恥ずかし
い、双六や囲碁とは、覚えておかなければならない、カテゴリーが全く別で、
それはゲームのルールだった。つまり囲碁や双六のように、先達の名手の行
きざまについて、共通の話題が話せる教養としての、知識がある事が重要で
はなかった。そうではなくて、そんな事よりも将棋では、9升目の将棋とは
違う、13升目の大将棋が、摂関等の上層部の因縁からみで、指されている
事を認識しなければなかった。更に玉将が公式の平安各将棋では、中央にあ
る事にも、因縁があり、しかも、それにつき政争のドラマがあるという事を、
実際には内容まで知っている必要があった。そして万が一、それを知らずに、
お偉いさんの前でさいしょの顔見世で、間違ったルール、特に平安大将棋を
並べるとき、玉将を置くのに、もたもた等すると恥をかいて、以降後々まで、
出世に影響するという事情が、平安時代末の日本の宮中には、存在したと、
言う事なのではないかと、私は推察する。つまり、
1.藤原摂関をかつて院政期初期に、上皇派が追い出そうとして、上皇派が、
  8升目で、玉将が、中央二列のうちの左側最下段だった原始平安小将棋
  系を、摂関が実支配する国家のイメージと、だぶらせながら、その点を
  揶揄して、少なくとも公式の場から、全て追放した。
2.その後官位が12階である事を、13升目の決定要因としてうまく使い、
  9升目取り捨て平安小将棋が出来の悪いのを、今度は逆に攻撃材料にし
  て藤原摂関家が、将棋を政争の道具として使い、政治的に巻き返した
という事が、実際に宮中で有ったのだと思う。すなわち、
こういった、朝廷内での一騒動に関する経緯を常識として知っており、宮中
を出入りする際には、それに注意を払うことが、政治闘争とは特に関連がな
く、ゲームの改善等が目的だったために、最初は間違えても、特に恥をかか
ない、盤双六の、都の新ルールが仮に有ったとして、その理解とは違って、
将棋では、新米の公家にも都ルールの記憶は、必須だったのだろう。そのた
め、二中歴の記載内容のカテゴリーは、将棋だけが、囲碁や双六とは大きく
違って、ゲームのルールや、将棋種の記載になってしまったのだろうと、私
は少なくとも現時点では、推測しているのである。(2017/05/27)

「日本の将棋の駒は一般に、前後非対称動きが特徴」では無いのではないか(長さん)

 現在定説化されつつある事柄として、上記の事柄があると認識するが、私は
表題に示したように、この捕らえ方は、それ自身が正しくないと思っている。
そこでまず、私がどう事実認識しているのかを述べ、次にそうなった原因に
関する私見を記す。まず、事実認識だが。

兵駒が非対称でない古典的チェス・将棋型ゲームは、まだ見つかっていない
ため、それを特徴には入れ無い事にすると、日本の将棋は、将駒と、桂馬・
香車が、それぞれ、前後非対称な駒であって、その他については、鎌倉時代
以前の将棋に関しては、前後非対称動きの駒があるという証拠そのものが
実は、まだはっきりとは、見つかってはい無いと考える。

たとえば、

私の提唱している、鎌倉時代後期の普通唱導集時代の大将棋に、悪狼が無い
と考えられ、かつ、嗔猪は一歩後退でき、酔象は中国象棋の相/象と同じ、
盲虎はなく、まだ平安大将棋時代の猛虎があると、考えているからである。

つまり私の13×13升目108枚制普通唱導集大将棋では、
2段目駒と3段目駒と5段目仲人は、おしなべて前後対称動きのものばかり
である。よって、私の事実認識は”日本の将棋には初めから、前後対称性を
保存しない駒の動かし方ルールを、取らざるを得ない事情があった”という
ことは、特に無いのではないかと思う。そしてそうではなくて、前後対称化
が、特に不可能ではなかったにもかかわらず、

1.将駒が玉将が一番強くて、袖に向かって概ね少しずつ弱くなるように、
 ”特定の方向へ行けない玉将の動き”という形式で将駒のルールが表現
  されるという、他国の類似ゲームには無い特徴から、将駒に非対称駒が
  たまたま出来てしまった。
2.桂馬と香車が、それぞれ八方桂馬、飛車の動きではなかった。

と表現される特長があったのだと、私見する。
つまり、1については、だんだんに弱くするというルールにするために、
銀将は、初めから5動きにする必要があり、ルールブックの見栄えからも、
前だけ残し、他の縦横升目は行けなくなったという、ルールの作成方法だっ
たために、結果として前後非対称になったのだと私は思う。
 以上は、事実認識の問題なので、たとえば水無瀬兼成の将棋部類抄に書か
れている摩訶大々将棋が、鎌倉時代に存在する事が、この議論からは、独立
な証拠が出て確定してしまうと、崩れてしまう事も確かではある。
 さて、次には私の認識の線で仮に行くことにして、上の1と2の原因を、
どう解釈するのかについて、以下述べる。
 まず1だがこれは、日本の将棋の輸入元の将棋が、もともと、そうなってい
たというのが、私の考えである。原因は、

輸入元の国が、中央集権国家では無かったためだと、私は思う。

私は将棋は、輸入元の国の民にも自然に受け入れられるように、その当時の
その場所の、支配体制を模した形式になっていたと考える。
 ところで、将棋について、玉将、金将、銀将と並べてみると、それは、
オリンピックにおける、金メダル、銀メダル、銅メダルの価値の比率と、
だいたい一緒のように、私には思える。つまり、銀メダルや銅メダルな比べて、
金メダルの価値が、桁違いに高いとまでは、いえないと言う事である。それで
その事と一緒で、玉将が、金将、銀将に比べて桁外れに価値高までとは、言葉の
意味からはいえない構成になっていたと言う事である。つまり、玉将が、金将、
銀将に比べて、専制的に絶対君主として、一人存在しているという国の将棋を、
平安時代末期に、日本では行っていたという事はないと、言う事になる。
 ところが末期とは言え、小将棋が初期に指されたのは、封建的支配体制を
特徴とする中世ではなく古代であるから、

少なくとも8×8升目32枚制原始平安小将棋は、日本で生み出されたもの
ではない

と、私はほぼ断定している。同様に当時の北宋が、中世的諸侯分立の国家の
集合体であったという話もなく、皇帝中心の官僚国家のようであるので、
日本の将棋は、この点でも、中国中原起源のゲームではないと私は思う。
 では、どこが起源なのかと言えば、たとえば、アジア史の事典等を紐解くと、
それほど中央集権制が進んでおらず、姻戚を結んで諸侯の上に立った国王
が、皇帝を名乗っていた、当時の日本よりも、やや中世国家化した国として、
一例としては、

現在の中国の雲南省付近にあった、大理国を挙げる事ができる

のである。
そこで、玉将に対して、少しずつ働きを弱めた複数の将駒が有るという、
他国に例が無いゲームである事から、今は滅びてしまった、大理国こそが、
たとえば、日本の将棋のルーツの可能性がありと、私は個人的に見ている
根拠の一つとなっているという訳である。
 なお、古代に中世国家のゲームが日本で流行ったのは、藤原氏という
一族が、古代であっても、一族内部の力関係としては中世的であり、特定
の人物でなくても、複数の人間が”自分こそが日本を率いる人物だ”と、
自負する、保元の乱等、何かと内部勢力争い引き起こす、要因をはらんだ
貴族の存在する、公家国家だったからだと私は見る。その証拠として、
小将棋よりも、藤原頼長が指したとの記録の残る、平安時代末期の平安大
将棋の将駒の方が、更に、将駒の動かし方のルールが、まさにこの玉将から
の引き算システムだと、鮮明に判るようになっている点を、挙げる事が
できると私は考える。

 次に2の、桂馬と香車の前後非対称性の原因だが、これは、”と金”
よりも、この二種の駒の性能を弱くしたゲームしか、九州大宰府で日本の
国境警備の役割を果たしていた武士が、喜んでは指さなかったから

だというのが、私の説である。つまり以下あくまで私見だが、
八方桂や下端飛車形式のチェス・将棋型ゲームもときに、輸入されたの
かもしれないが、指し手の方が選択して、後の日本の桂馬・香車型将棋
だけを、好んで指した結果、日本の将棋は、桂馬と香車が下段袖にある
ゲームになったと、考えるのである。ここで注意したいのは、二中歴の
小将棋のルールでは、

恐らく玉詰みに相互に失敗したときには、引き分けにしないで、裸玉に
なるまで、相互に駒を取り合いながら指し続ける事になっている

という点である。以下私見だが、九州大宰府の西暦1020年過ぎの、
国境警備を任務にする初期武士は、その裸玉狙いの局面の平安小将棋を
指しているときが、最も座が盛り上がっていたと私は思う。なぜなら
と金が、両方の陣のあちらこちらで、相討ちになっているような局面は、
歩兵になぞらえられる、将棋棋士の大宰府の武士(下級武士・兵隊)
である彼ら自身が、藤原長者に継ぐ”ナンバーツー”の地位に、聖目を超え
る事によって、のし上り、活躍している図を表している事になるからである。

つまり将棋の局面としては、おおかた、残り駒が多いほうが勝つだけの、
現代から見れば、いたってつまらない将棋なのだが、彼らにしてみれば、
そのような将棋になるから、原始平安小将棋をよろこんで、指している
と考えられるのである。

なお対局者が何回か指して、すこし両者の棋力が上がると、原始平安小将棋
では、たいていは両者とも、定跡を簡単に暗記して攻めも守りも旨くなるため、
相手玉を取り逃がし、必然的に裸玉を目標とする、将棋にこの将棋はなるのだ
と私は考える。
 ところが、その局面で、仮に不成りの八方桂や飛車が残っている将棋だと、
”と金”の活躍の舞台にはならないのである。だから、いろいろな外国
将棋のうち、袖下段に桂馬と香車があり、それらも敵陣3段目で成って、
いろいろな成り金が入り乱れる、”裸玉を目ざす将棋”になってしまうのが
特徴の、

大理国起源の原始平安小将棋だけが、大宰府でもまとまった人数の人間に
大人気で指されたがゆえに、後にまで生き残り、日本の将棋文化が発生する
礎になった

のだと、私はほぼ断定している。なお、彼らはそれより少し前、刀伊の入寇
の手柄で、都で藤原道長の口利きで返り咲いた、藤原隆家の配下、または
同僚だったと、私は考えている。つまり日本の将棋で、と金は、もともと
藤原隆家を象徴してたのだろうと、私は個人的に見ていると言う事である。
以上で、1.2が正しいとして、なぜそうなったのかについても、説明した。
 今後さらに史料が見つかり、上記の問題に関して、真相が鮮明に明らかに
なるよう、願わない訳にはいかないと思う。(2017/05/26)

酔象の成りは、何時から太子になったのか(長さん)

前回、京都府上久世城之内遺跡の酔象駒は、たぶん太子成りだった
のであろうと、私は述べた。では、逆に、興福寺出土駒で、不成り
の酔象が、太子になったのは、何時なのであろうか。
 そのまえに、そもそも太子が、何を指しているのかについて、現代
でも、未だ定説が無い事を、まず指摘しておかなければなるまい。

私は私説として、太子は釈迦の事だけを指すと考えるが、定説では
認められてはいない。

太子は「シッダールタ太子の太子と、用例が同じ」と、されている状況
と認識する。
 つまり、私に言わせると、酔象とくれば、釈迦を暗殺するために、
提婆が放った、酔象の事しか思い浮かばないので、成りは物語の相手の
キャラクターである、釈迦以外、可能性が無いと、思われるのであるが、
賛成する意見は、余り無いと言う事である。しかしながら、一旦太子は
釈迦の言い換えだと認めてしまうと、僧侶が作成したのではないかと、
将棋六種の図式(正しくは象棋六種之図式。以下同義)で疑われている、
摩訶大大将棋が、戦国時代仏教宗派が本山がどちらの寺なのかをめぐって、
武力闘争をしているゲームと、ありあり見えるために、人の死の痛みが
その宗教を、創造させる根源になった、釈迦には”殺し合いへの参加だ”
と嫌われ、一抜けされて、酔象の成りが、若一王子と交代してしまった
と考えれば、摩訶大大将棋の酔象の王子成りが、すんなり説明できる
とみる。だから個人的には、どう見ても酔象の裏の太子は、釈迦の教団
結成前の称号の事にしか、私には見えないのである。
 では、興福寺出土駒の平安時代後期に、酔象が太子に、特に成らなか
った理由であるが、ずばり

日蓮上人が、その時代にはまだ出現していなかったため、法華経でも言
及されている、”提婆の酔象を使った釈迦暗殺未遂事件”が、平安時代の
日本では、釈迦伝記を読んでいる識者が、かろうじて知っている程度で、
公に著名にはまだ、なっていなかったから、

だと私は思う。つまり絶対そうだと、ここでは敢えては言わないが、た
ぶん鎌倉中期に、酔象の成りが、釈迦を意味する太子に初めてなったと
私は考える。この事から、私の説を取ると仮にすれば本来、象駒に”酔”
という修飾詞を付加したのは、それより前の平安末期だから、法華経の
経典が元になったのでは、ないという事になる。では何故、日本の将棋
の象は、酔象なのかだが。それは元々日本では、将棋の駒を、心の中に
住む煩悩という魔物と見たため、将棋の駒の修飾詞には、仏教の戒律で
違反で、地獄に落ちるとも言われる原因となるような字を、しばしば
それとして用いる習慣が、比較的初期に出来上がったためだとみる。
つまりこのケースは、修行僧が酒を飲むという戒律違反に相当する
酔の字を、中国から”象”が輸入された直後に、その相/象駒に、修飾詞
として、たまたま用いたのが起源ではないかと、私は推定する。なお、
それ以前に、日本の将棋の駒の名前が、なぜ2文字なのかであるが。
私によると、

玉将、金将、銀将の3種類の駒の名前が、輸入された当時から、日本語
に訳すと、2文字になったからだと思う。

つまり残りの、馬、車、兵という、原始平安小将棋にも存在した駒は、
1文字で輸入されており、体裁を整えるため、それぞれ日本人、恐らく
大宰府の人間によって、桂、香、歩の修飾詞が考えられたと、私は見る。
少し遅れて輸入された酔象も、恐らく輸入された当時は、単なる”象”
で、体裁のため二文字化が必要だったと考えると言う事である。
 そして既に、平安時代後期には、将棋駒は、仏教徒の修行の邪魔をす
る魔物とみる、という考えがあったため、戒律違反の酒飲みによる”酔”
を、たまたま、象に当てたのではなかろうか。
 ところが、時代が進んで鎌倉中期になり、法華宗が隆盛すると、提婆
達多による、酔象を使った釈迦の暗殺未遂話が、知られた話から著名な
話へと、当時の日本の社会で変化していった。そこで鎌倉中期頃に、

加害者と被害者の関係で繋がるので、酔象の成りを釈迦の意味の太子に
した

のだと私は考えている。なお、仏教の戒律違反では、その他、怒る事を
意味する”嗔”の字も有名である。私は長らく、マイクロソフト
IME辞書で手書き入力しないと書けない、この”嗔”の字が、猪駒の
修飾詞として何故使われたのか、不思議に思っていたのだが。仏教修行
を邪魔する煩悩に、将棋駒を関連付ける習慣があると判りさえすれば、
その謎が、即座に解けることに、ある日ふと気がついたのであった。
 さて、酔象に戻すが、その結果、中国象棋・シャトランジ等々では、
将駒より格下だった象駒は、仏教が盛んだった日本の将棋に於いて、
玉将に次ぐ駒に、成りが釈迦に決定された時点で、格上げされ、以降
日本の将棋では、酔象のある将棋種では、酔象は玉と同じく中央列か、
玉隣りに置かれ、動きも2歩歩み等から、7方向隣接一升目行きに、
少したってから変化したのだと思う。
 そこで逆に言うと、興福寺の酔象駒が不成りかつ、日蓮出現以前の
時代である事から、中近世とは全く違い、酔象は古代末期には、銀将
に近い位置に、初期配列されるような、まったく別の使われ方をして
いたのではないかと、私は想像もしているのである。
 なお私は、酔象平安末期削除、鎌倉中期復活を唱えている、増川
宏一説に、賛成である。理由は、

隣国で象駒は健在で使われ続けているので、復活できない根拠が無い

と、考えるからである。しかし、この考え方には、”酔”の字も含め
て、忘れ去られなかったのが何故なのかを、説明はしていないので、
その点からの、難点もあるかもしれない。むろん、興福寺出土駒の一部
が、平成の現代ではなくて、鎌倉時代にも出土しても良いわけだが。
しかし私は、19×19升目100枚前後制程度の極めて原始的な、

摩訶大大将棋が、平安時代後期に、その進化結果である、13升目制
の平安大将棋に先行して実は存在し、

その文書記録が、鎌倉時代中期には、比較的容易に入手できたためなの
ではないかと、想像している。つまり、

19×19升目100枚前後制極めて原始的な摩訶大大将棋の文書記
録が、日本の将棋駒種カタログとしての役目を、鎌倉時代に果たして
いた

と考える。上記原始的摩訶大大将棋では、最下段に五行説の影響で、
中央から両袖に向かって、右袖だけ表記すると、おおかた私によると、
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、土将、木将、酔象、桂馬、香車と、
10枚組で、駒が並んでいたのではないかと思う。これが結局の所、
13升目制の平安大将棋になるのだが、重要な点は、

現実に存在する武具の使用頻度が両方高かったため、
銅将と鉄将を13升目制では、どちらも削除できなかったのであろう

という事である。
 そこで、土将と木将は5行説に則っていても、武具としての性能は
低いため、削除する事にしても、もう一種の袖位置の駒を、はずす必
要が生じたのであろう。その結果、原始的摩訶大大将棋に有っても、
平安小将棋標準型からは、ひょっとすると大江匡房の進言等によって、
少なくとも排除される等して、既に存在しなかった酔象が、13升目の
平安大将棋生成時に、結果として駒数多数将棋の類からも、削除され
一時ほぼ消えたのだと思う。しかし、原始摩訶大大将棋の文書記録が、
鎌倉中期程度までは残っていた。そのため、酔象の太子成りのアイディ
アが発生すると同時に、この駒が、中間期の大将棋に、中央駒として
再度取り入れられ、使われるようになったと言うのが、真相なのでは
ないかと私は考える。つまり、酔象が少なくとも約100年間、忘れ
去られなかったのは、19升目制の、原始的摩訶大大将棋が平安時代
から恐らく存在し、その記録が鎌倉中期までは残っていたためだと、
私は考えているのである。(2017/05/25)

京都府上久世”酔象駒”を、再度よく見てみる(長さん)

平安時代後期に酔象が将棋駒として存在した事を証明した、興福寺酔象駒、
戦国時代に酔象が、小将棋駒として存在した事を証明した、一乗谷酔象駒、
江戸時代にも、中将棋が依然盛んであった事を証明した、本郷元町酔象駒
と、それぞれが将棋史にとって、皆重要な3個の酔象駒に並んで、もうひ
とつ、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”を読む限り、
鎌倉時代から南北朝時代にかけての将棋種に、酔象が存在した事を、強く
示唆すると読み取れる、京都府上久世城之内酔象駒(以下、上久世酔象駒
と略記)を、再度写真等、今回よく見直してみた。
 発表された時代が、一乗谷駒と同一の1970年代のため、恐らく一乗
谷駒をリファレンスとして、駒種が何かを、研究者は推定したのだろうと
仮定し、同じようにして、模様からどう読めるのかを、私もじっくり、再
度見てみた。中央やや右の縦のラインに、墨が残っていると、考えるので
あろうか。右辺の中央より下に、象の字の上の、日の字が横になった図形
が見えると読むのか。やはりはっきりとは、私には良くわからない。
 ただし、ありがたい事には”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”には、駒
の大きさの一覧表が、詳しく載っている。それによると、上久世酔象駒は、
数百枚発掘されている駒の中で、

だいたい10番目位に、大振りの駒との事である。

この駒は、計ると長さが4センチ有るというが、長さ4センチ台の駒は、
この酔象駒を含めて、10枚位しか出土してい無いらしい。ただし、
興福寺酔象駒が、大きいのか小さいのか私は知らない。天童カタログ以降
に発掘されたので、寸法は別の情報を調べてみないと、私には良くわから
ないからである。何れにしても、上久世の酔象駒レベルの大きさの駒は、
作りがルーズで、大きさがばらばらな、一乗谷駒のような例外が、少し
有るものの、

上久世酔象駒の大きさの駒木地は、通常、玉将駒用に使用される事が多い

ようである。
この駒に書いてある駒の字の読みが、仮に間違ってい無いとすれば、これ
は、相当に重要な情報だと私は思う。
上久世酔象駒は、中将棋なら、文字通り玉の右隣に置く酔象か、師子に使
用される、重要駒用の駒木地に、字が書いてあるケースと見て取れるから
である。つまりこのケースは、どう成果を控えめに見積もっても、

上久世遺跡の時代の上限(南北朝時代、新しいケース)には、中将棋が
有った事を示すか、少なくとも成った状態で、太子に成るため、玉将が
取られても、負けにならない将棋種が、鎌倉時代から南北朝時代に1種以
上、京都付近に存在した事を示している

事になるからである。つまり写真を見る限り、裏はエグレていて、この駒
の場合成りを読むのが、あまり期待できないようなのだが、幸い、用途が
判るように、大振りに作ってあった事が幸いし、駒が劣化してしまった悲
劇を帳消しにして、太子成りを示している可能性が、強いようである。字
を読んだ研究者も、駒の全体的な雰囲気から、恐らく”一乗谷酔象駒に類
似”を、直感して新聞発表したのだろう。何れにしても、個人的には、
劣化が進んでいるので、一部の書籍に、クエスチョンマークが付いている
ように、読み間違いが無い事を、心より祈りたいものだと思う。
 万が一読み間違いなら、玉将の劣化駒である、可能性が最も高そうだ。
なお、私の13×13升目108枚制、普通唱導集大将棋では、中央筋の
下から2段目に酔象が無いと、猛牛が導入できないので、108枚制が作
れず、正直

この駒が酔象で正解であってほしい所である。

 どう読むのか。まだ私には、完全には理解できないではいるが。今から
約40年前に、この京都府出土駒を、執念で”酔象”と読んだらしい、研
究者の方には、よって私としては、頭が下がりっぱなしである。
(2017/05/24)

猛豹、猫叉が大将棋に導入された時期(長さん)

以前のべたが、私は、西暦1300年前後の、普通唱導集で唄われてい
る大将棋の時代に、悪狼、猛豹、猫叉、石将、それにもとからの師子は、
無かったと考えている。悪狼については、前回述べたし、石将について
は、15升目にならなければ、必要が無いのは明らかである。師子につ
いては、嗔猪や桂馬で支えても、攻撃側の駒に居喰い能力があると、
(右)仲人は助からないので、普通唱導集時代の大将棋に、元から師子
が無いのは、明らかだと以前に述べている。なお、盤升目が13升目だ
と、更に歩兵が4枚減るので、130枚制の後期大将棋と、108枚制、
除夜の鐘の数の私の普通唱導集大将棋とで、駒数が22枚差になるので
ある。
 そこで残りは、猛豹と猫叉についてであるが、この2種については、
数学の定理のように、厳密には証明できないが、

平安大将棋型の猛虎が残存し、後期大将棋や中将棋型の盲虎が生成され
ていなければ、大将棋には入っていない

と私は思う。平安大将棋の猛虎の、筋を変える事のできない”不便な
動き”は、動けない、縦横どこかの隣接升目へ、少なくとも部分的に、
動けるようにするしか、改善はできない。銀将も、そのシステムで、
できたのだろう。そして、仮に猛虎が平安大将棋の、銀将の前升目では
なくて、後期大将棋のように、金将の前升目に移動したときには、隣接
升目で行ける升目数が8升目(全方向)に近いほど、玉守り駒としての
能力も上がるため、加えてそのような改善が必要とされたと考えられる。
 すなわち、ここまで述べれば判るように、後期大将棋と平安大将棋の
虎駒の位置の変化で、虎駒は猛虎から盲虎に変化したとみるのが、妥当
だと思う。酔象も、普通唱導集大将棋の中央下から2段目に、初めて
導入された当初は、シャンチーの相/象駒の動きだったのであろうが。
後期大将棋の時代には、玉守り駒としての能力が弱すぎるのに、シャン
チーを指している中国人の、ひょっとすると指摘もあったのかもしれな
いが気がつかれて、7方向動きの現在の酔象の動きに、変化したのだと
私は思う。
 そして、猛虎が盲虎が変わると同時に、虎のメスと当時言われた、
豹駒が、盲虎よりも1升目行く升目の少ない、隣接升目6升目動きの、
猛豹として導入され、元の猛虎の動きの、猫叉が、紛らわしさが無く
なったため、盲虎との並存下で、初めて導入されたのではないかと、
私は思う。ただし、普通唱導集大将棋では、ひょっとして飛龍と、
角行の動きは、どちらも斜め走りで、全く同じだった可能性もあると、
私は見ている。だから、猛虎と猫叉が、絶対に普通唱導集時代の大将
棋に、共存できないと、証明する事までは出来ないのだが。猫叉は、
普通唱導集大将棋には、加えにくかろうと言える程度ではある。
 以上により、元々師子、悪狼、猛豹、猫叉、石将は普通唱導集大将
棋には無いと、大雑把だが、理由は全て説明できたような気がする。
ようするに歩兵の4枚を足して20枚の小駒と、2枚だけの大駒が
加えられて、普通唱導集の時代の大将棋から、後期大将棋へ変化した
わけで、後期大将棋は小駒の水増し将棋と、私が評した状況は、これで、
充分に説明され尽くしたと、言えると思う。
 むろんでは、その他の後期大将棋に有る駒は、普通唱導集大将棋に
あるのかという事を、上記の議論と対比的に示さないと、モデルの
正当性の証明にはならないとは思う。最下段駒は平安大将棋から、変
えなかったからこそ、大将棋として認められたと考える事にして、特
に第3段目の、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車列がどう
かと言う事だろう。これらについては、既にこのブログでは、理由
は述べたと、私は認識している。奔王は奔横として出土、龍王・龍馬
は、蒙古の来襲のとき龍信仰が流行ったため、溝口和彦さんからは
反対されたが、既に有ると私は見る。角行は無いと普通唱導集第2節
と合わないし、横行のほかに角行を発明したからこそ、竪行、横行が
並んで存在しえるのだと思う。飛車は普通唱導集の第1節で唄われて
いる。あと残り、2段目にあると私が見る、鳳凰、麒麟は、鎌倉
鶴岡八幡宮遺跡から、出土した駒種から見て、有るし、麒麟は無いと、
普通唱導集第1節が、師子に成る元駒として存在しないと、唱導集と
は合わないため、特に絶対有ると私は見る。酔象は無いと、横行を袖
に移動させる根拠が無いので、普通唱導集大将棋にもあると私は思う。
 残り2段目の、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍は、12支に有る、合戦に
使えそうな動物5種のうちの4種のため、選択的に、普通唱導集時代
の大将棋には、無いものについては加えられていたというのが、私の
仮説である。なお合戦に使えそうな動物の、残り1種は、桂馬である。
反車については、普通唱導集の第1節に記載が有る。
 以上のように、除夜の鐘と同じ駒数の、私の普通唱導集大将棋モデ
ルは、2017年の電王戦第2局の直前までに、仮説の域は出ていな
かったものの、内容は充分に鮮明化されていたと、このブログでは特
に、はっきりと公にしておく事にする。(2017/05/23)

”仲人と腹を合わせ”ない、後期大将棋の悪狼の謎(長さん)

私の推定によれば、”端破りの対角角行の斜め攻めを防ぐため”、普通唱導
集に於いて、その時代の大将棋では、当たっている仲人の横に、嗔猪を袖側
から進めて、横利きを付ける事を第2節で唄っている。この将棋が後期大将
棋だと、このあと、更に仲人に桂馬で紐を付けるのが、仲人の初期位置が、
6段目であるために、困難であるという、大きな難点がある。だが、他にも
不明な点が存在する。
 そもそも、今回表題に示したように、仲人の位置に横から利かせる駒が、
嗔猪ではなくて、内側から登らせた、悪狼であっては、何故いけないのかと
いうのも、問題としてあると思う。なお、悪狼には銀将の動きとする江戸時
代の文献もあり、それだと横からは利かせられないのだが、水無瀬兼成の将
棋部類抄では、前、斜め前、横の5方向歩みなため、仲人と腹を合わせるこ
とができ、また、どちらの場合も、斜め下から仲人に紐を付ける事も出来る
ので、不思議な点がある事には変わりがないのではと思う。
 尤も、嗔猪は3方向歩み、悪狼は5方向歩みであるから、交換による得は、
嗔猪の方が上ではないかという、意見もあるかもしれない。
 しかしながら後期大将棋では、嗔猪を繰り出すのに竪行を動かすのと、
悪狼を出すのに龍馬を動かす事を比較すると、斜め動きの龍馬を、早い段階
で攻め駒として用いるようにする事をも兼ねて、悪狼を繰り出せるように、
龍馬はこのケースは動かされる事になる。そのため竪行を移動させるのと、
龍馬を初期に適所に移動させるのとでは、後者の方が起こりやすいのではな
いか。つまり私には、

悪狼で仲人に紐が付いているような陣形にするのは、嗔猪で仲人に紐が付い
ているような陣形にするのに比べて、後期大将棋では、より利得が多く、出
現しやすい陣形であるように思える

のである。なお実際には、内側で相手右角行の攻撃を防ごうという展開では、
龍馬先の歩兵が仲人よりも、先に当たることが多い。そこで悪狼と仲人が腹
を合わせるという陣よりも、後期大将棋では実際には、悪狼が龍馬の前の、
歩兵を守っているような、普通唱導集の記載とは異質の位取りに、普通はな
るように私には思える。それに対して普通唱導集時代の大将棋に、そもそも
悪狼は無かったと考えさえすれば、一例として私の13×13升目108枚
制普通唱導集大将棋では、龍馬の後ろは、前だけでなく、横にも行けない
猛虎が居るのであって、悪狼のような支えの働きは、猛虎には期待でき無い。
だから、猛虎で、無理に仲人に紐を付けるには、攻めの右角行を、動かす等、
かなりめんどくさくなる。よって、13×13升目108枚制の、私の普通
唱導集大将棋仮説なら、やむをえず竪行前の歩兵を上げた後、竪行自体も上
げ、更に嗔猪を仲人の段まで上げて、相手右角利きを止めるという展開に、
確かになり、普通唱導集の第2節に書いてある事は合っていると思う。

以上の事から、”普通唱導集時代の大将棋が、後期大将棋であった”という
説には、説明の困難な所が複数あるという点だけは、確かだと私は思う。

 なお、以前このブログでは、悪狼は”送り狼”という、妖怪の仲間のうち
で、タチが悪く、人間に危害を加える方の類の事、だとの旨述べた事があっ
た。しかし最近この私の説には、はっきりとした根拠が無いばかりではなく、
ひょっとすると、この説明は間違いだったかもしれないと、私は考えるよう
になった。
 つまり、なおもはっきりとはしないのだが、ひょっとして、悪狼とは、
鎌倉時代の末期が活躍の極であった、”悪党”という人間集団を指す単語の、
”と”を”ろ”に一音変えた、シャレなのではないだろうかと、私は思う
ようになったのである。つまり、

悪狼は実は、意味合いとしての”横行(人)”の類語ではないかという事

である。それは、平安大将棋の横行の初期位置と、後期大将棋の悪狼の
初期位置とが、何れも中央筋、ないし、それに近い所にあるという、共通
点があるためである。なお、その他の根拠としては、江戸時代に製作され
たものであろうが、大局将棋で、悪狼の成りを”毒狼”という、最後の音
を伸ばさないと”髑髏”になるような名前を成り駒につけ、シャレている
ように見える点を、挙げる事ができると思う。ようするに、

悪狼は、升目が13×13升目から15×15升目に拡張された直後に、
中央部に空きができたために、横行が、中央位置にかつて、二中歴の平安大
将棋の時代に有ったという故事にちなみ、その同義な駒として、3段目の
中央筋から3つ目に、後期大将棋の作者によって加えられたのではないか

という事である。もともと、どんな将棋種でも、その升目数のままで進化
を続けてゆくと、中央部から駒が埋まって行き、中央部には古くからの駒
が存在し続け、新たな駒種を考えなければならないのは、大概は袖の方の
駒のケースが多いはずである。そもそも中央列は、横行が袖に移動した後、
酔象がその位置に加えられ、一旦はそれで収まったはずであった。しかし、
後期大将棋では、升目を急に15升目に増やしたため、その直前の進化で、
中央部に、空きができてしまったのではなかろうか。それで、もっともら
しい駒で、空升目を埋めなければならなかった、ような事情があると思う。
 つまり、後期大将棋では、先祖帰りあるいは、いにしえにちなむような、
後で考えて追加したように、かなり疑われる悪狼という駒が、中央部に
存在する。そのため、この将棋が15升目になったのは、それが成立する
直前だったのではないかと、匂わせているような気が、私にはするのであ
る。(2017/05/22)