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下河辺荘新方の歴史講演会(1)(長さん)

2017年6月に2回の予定で行われる、NPO法人埼玉県越谷市郷土
研究会の加藤幸一氏(同研究会顧問)の、「新方地区の歴史」の講演第
1回目を聞き取った。栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡、裏一文字金角行駒
ゆかりの、小山義政と同族100年以上前生存、又、静岡県焼津市小川
城出土の裏飛鹿盲虎、裏飛鷲龍王関連小川法長者の先祖、下河辺行平、
下河辺行光の館関連の情報を得るのが、目的であった。なお、
加藤幸一氏は、埼玉県の地元で教員をされたが、今は定年で退職されて
いる方だそうだ。また石仏の研究を主体に、郷土史を研究されている方
である。中世~近代昭和期までの、遺跡調査、民間伝承の聞き取り、
河川施設の史料・歴史的水周り遺構の調査等に、特に詳しいようである。
 残念ながら「埼玉県越谷市内に限定すると、鎌倉時代初期の、下河辺
氏の挙動に関する情報がある」という話は聞けなかった。しかしそもそ
も下河辺荘新方の荘園に関する、古文書の記載が大量にあるわけでもな
いようだ。事実、鎌倉時代中期の金沢氏の菩提寺で、下河辺荘を鎌倉末
期には領有していた、神奈川県鎌倉市の称名寺に記録された文書上では、
明治時代の埼玉県新方村周辺の、その時点から見て、だいぶん昔の荘園
関連の地名としては、

恩間と十丁免という2箇所の名が挙がる程度で、判っていない事が多い

との話を聞かされた。ちなみに、恩間という地名は、かろうじて現在で
も残っており、埼玉県越谷市恩間を指し「東武スカイツリーラインの、
大袋駅周辺一帯の事であろう」との事であった。ちなみに十丁免の方は、
「ひょっとして、埼玉県越谷市向畑と埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に
掛かる、堂免橋の周辺かとも考えられるが、確定はしてい無い」らしい。
 なお、南北朝時代以降となれば、堂免橋のたもとに人が住むように
なって、埼玉県越谷市大松に清浄院が、室町時代の初期に開基され、
更に戦国時代になると、武蔵武士の末裔と見られる新方氏が、堂免橋の
西側の現埼玉県越谷市向畑に、新方氏館跡として名が残っている、館を
築いて住むようになったとの事のようだ。以上の情報のうち、

東武スカイツリーラインの大袋駅の西側の恩間付近は、だいぶん開けて
おり、ほとんど成果は期待できない

と思う。が鎌倉時代にも、大袋駅付近よりも西に、利根川が流れていて、
そこが下河辺荘に、属していたらしいという事が判っただけでも、かな
りありがたい情報だと感じた。
 なお、新方氏屋敷跡付近に、

船が沈んでいるという伝承がある

というのを、このブログで前に紹介した事が有った。少なくとも加藤幸
一氏の、6月7日の講演では、その話に言及が無かったが、類似の話が、

埼玉県越谷市平方と埼玉県越谷市大泊の境目付近にも、別にある

との話を聞いた。ここには現在、用水路程度の水路しか無いようだが、
聞くところによると、昔は会野川という、幅の広い川が、東西に流れて
いたらしい。そして、航行していた船が沈んで、難破船として存在する
という、話があるようだ。更に、戦国時代の新方氏の館のケースとは違
い、平方~大泊沈没船のケースには貨幣を運搬していたため、

埋蔵金伝説の噂も有る

との事であった。
以上の事から、たとえば
埼玉県越谷市大泊から将棋駒が出土する確率は、埼玉県越谷市向畑から
将棋駒が出土する確率と、ほぼ同じなのではないかと、私は思った。
場所は千間台から大正大学入口まで走っているバスで、当てずっぽうで
いうと、「山谷」というバス停の南側付近だろうか。開けている場所だ
と認識するため、行くと何かわかるかどうかについては、余り期待は、
こちらの方も、出来ないような気が私にはした。
 以上のように下河辺荘でも新方は、実は鎌倉~南北朝時代については、
状況が余りはっきりしていないような印象を、加藤氏の講演から私は受
けた。
 6月14日にも同じ加藤幸一講師が、第2回目の講演会を越谷市市立
図書館の、同じ場所でされるようなので、こちらも聞き取る予定である。
(2017/06/08)