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日本人が囲碁を初めたのは、西暦602年頃か西暦690年頃か(長さん)

前回、日本人が始めて囲碁を打ったのは、元嘉暦~儀鳳暦の頃ではないかと
述べた。しかしこの記載では、日本人が碁を打った始まりは、

5世紀中旬から西暦690年までのどこか

という程度しか、絞れ無い事が、広瀬秀雄著「日本史小百科暦」1978
年/近藤出版社を読み直してみて、その後判った。ので前回の議論には、
更に補充が、絶対に必要だと、それで気が付いたのである。
まず、通例どおり結論を先に書くが、

西暦690年の少し前が、日本人がある程度碁を指した最初で、それ以前
の日本での碁の記録は、有っても百済の帰化人等の遊戯について記載して
いる

のではないかと私は考える。奈良時代の少し前から、ようやく日本人は
日本で、囲碁に興じているのではないだろうか。
 ところで、前回の言い方で時代が絞れないのは、
「元嘉暦を、日本人も百済に真似て、西暦450年頃から、そのまま知識
階級が使用している」と、広瀬秀雄先生の、上記の著書が現在でも正しい
のなら、そうされているからである。
 ただし、知識人が同盟国である百済の暦を、西暦553年までは、真似
ているだけであって、百済から暦学者を国内に確保するという、トップの
発言すらまだ無かったようである。よって私流の考え方が正しいケースで
は、5世紀中~西暦553年までの日本人に、囲碁の棋士は、い無いはず
である。更に西暦553年から西暦602年までは、日本のトップの意向
は、暦の編集能力は百済だのみであって、日本に常駐する人間に、恒常的
に暦の編集能力を、日本のトップが要求した記録はない。西暦602年に
なって、初めて暦学者を国内で養成しようと、推古天皇名でトップダウン
の指示が、あったという事らしい。しかし、

西暦602年から西暦690年までは、多くの日本人が囲碁を打たなけれ
ばないないと忖度するような、意向がトップには、さほど無かった

と私は思う。なぜなら西暦602年に、暦法を学んで特定の人間が習得し
た、と言っても当時は、百済・任那・日本は、ほぼ同一国内に近いため、
飛鳥での布暦が無いのなら、以前の状態とは大差が無いだろうと、私は思
うからである。私の前回の議論の筋に従うのなら、

日本で布暦自体を始めた、西暦690年頃の持統天皇こそが、元嘉暦か
儀鳳暦か、どちらの暦を、日本の国暦にするかで、バタバタした時代の
日本のトップ

その人の事だと私は解釈する。囲碁史では日本の囲碁の記録で、最も早い
のは、隋史倭人伝の西暦600年前後になっていたと、私は記憶するが、
記録に残るような、当時の日本国内の知識人棋士は、百済からの帰化人
(帰化僧か?)の誤認ではないかと、私は疑う。
 それにしても、日本のトップ層の配下の官たちは、どうして690年の
少し前に、暦の詔等に忖度されて、囲碁を打つようになったのであろうか。
そこの所は、囲碁に詳しくない私としては、良くわからない所ではある。
が、渋川春海の和星図を思い出すと、囲碁を打っている最中に、石の並び
が、何を意味するのか、即座に理解できる能力というのは、いわゆる天文
マニアの言い方で、

星座をよく知っている

という事に、通じるのかもしれないと思う。なお上のフレーズは、星座の
種類をもれなく記憶していることではなくて、特に日本では北天の星座内
の恒星の具体的な天球での並びが、慣れにより良く理解されている事を、
通常こう言う。それにしても、西暦690年よりも、少し前に、”星座を
よく知っている”能力が、何故尊ばれたのかを、説明できないと、
暦と囲碁との関係と漠然と言っても、かなり唐突なのかもしれない。これ
については、持統天皇が、どちらを使うか思い悩んでいた、元嘉暦か儀鳳
暦かとで、同じく広瀬秀雄先生の上記著書等によると、中国唐代6~7世
紀の暦法の変遷によって、たまたま

元嘉暦が平朔、儀鳳暦が定朔である

のと、何か関係があるのかもしれないと、私は思う。平朔は実際の月の厳
密な満ち欠けは無視して、朔望月の平均値で日付けを決める方法、定朔は、
月の軌道も地球の公転軌道も真円ではないし、月については太陽・地球・
月の万有引力における3体問題で軌道が決まるので、公転軌道が楕円でも
なくなり、以上の事から、朔から朔の間隔は複雑変動であり、それを訂正
して、実際の新月に一日を合わせるような、暦の事である。そこで、月が
天球つまり、囲碁の盤面の、碁石が散乱したような星座の中で、何処に
居るのかを、正確に知ることによって、本当に元嘉暦ではなくて、儀鳳暦
を使えばよい事が、判るという意味であろう。つまり、囲碁たしなみは、
主に日本の官一般にとっては、月の天球上の位置が直ちにわかる
”役に立つ人間”と、トップから見られるようにするために、必要だったの
ではあるまいか。そういうわけで、持統天皇の部下の当時の官僚達が、

”星座をよく知っている”事は、持統天皇に喜ばれる事なので、それに
ちなんだ、星図の中の恒星の並びのような囲碁を、日本の官の間で、
このとき初めて、盛んにたしなむようになった

のが、囲碁が日本で定着したと、大宝律令等にも示唆された、もともとの
起源なのではないかと、私は推定する。以上の主張が、前回の私流の思考
法からすると、恐らく本筋であろう。
 以上の事から、それ以前の囲碁の道具は、ほぼ在日の百済人用だったの
であり、日本人同士で実際に囲碁が盛んに打たれたのは、飛鳥時代では
あるものの、奈良時代からは、さほど遠くない末期だった、のでは無ない
かと私は考える。恐らく白村江の戦いの後、唐と再度の戦争になる事よ
りも、百済という国が消滅して、百済頼みであった暦の編纂配布を、自前
で国内で、全てまかなわなければならなかった事が、日本のトップにとっ
ては、むしろ悩みだったのであろう。そのため、対唐戦争が再度起こる事
を警戒して、戦術ゲームである将棋が流行ることは、この時代には無かっ
た。それに対してむしろ、星座の把握力を鍛える事に通じると、連想され
た囲碁が、飛鳥後期の時代には、日本の官の間では天皇の意向を忖度して、
急速に広がったのではないか。以上のように私は、今の所囲碁のわが国で
の起源を、このように推定するのである。(2017/06/12)