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チベットにはアジア象が居無いことの確認(長さん)

前回、日本の将棋が11世紀前後の大理国起源とすると、象が中国雲南に当時生息
していたにもかかわらず、象駒の無い将棋が、大理国で発生するという問題が、
あると指摘した。私見だが、はっきりとした、この矛盾の回避方法は、まだ無いと、
考える。そこで、その後とりあえず、中国雲南省に将棋が、私によると8世紀程度
には伝来する時点で、伝来元のチベットのラサ付近には、アジア象が居無い事を、
確認した。講談社発行西暦2000年版の、動物世界遺産「レッド・データ・アニ
マルズ 第四巻 インド・インドシナ編」編者 小笠原秀雄氏他によれば、

1995年時点で、中国でのインドゾウの生息数はゼロ

になっていた。
 むろん、中国には象牙を取るためや、骨を漢方薬に使うために、アジア象が捕獲
される以前には、生息していたし、大理国のあった、中国雲南省は、生息域の北限
の近くであるから、なおさら、11世紀には、象は居たのだろう。ただし、同書に
よると、

ヒマラヤ山脈の北側には、アジア象は、もともと生息していなかった

との事である。つまり、大理国へ来る前の、原始平安小将棋の伝来ルートであると、
私が個人的に推定する茶馬の道は、象の住めない寒冷域だった事が判る。
 もし仮に、ここがインド・チャトランガの象駒の、”一旦の消失地”であったと
したら、

チベットが、平安小将棋の銀将駒のある意味、発祥の地

と考えれば、日本の小将棋に、象駒が無い理由は、旨くすると説明できるのかもし
れないと、私は考えた。つまり、チャトランガの象は、チベット・ラサ付近で、象
が居無いために、戦争に象を使用するという、概念が例えば、当時の吐蕃国に起こ
らず、

象が僧に変化した

という経緯は、どうだろうかと思う。つまり、750年頃に、インドの僧と一緒に、
インドチャトランガが、インドからチベットに伝来したという考えである。もし、
そのような事があれば、南詔国に入ってから、大理国で銀将として成立するまでに、

象→僧→銀僧→銀将

と、象駒は一旦消えて、仏像と大理国の出家王族との類推から、将駒へ変化したの
かもしれないという事、なのかもしれない。
 これでも玄怪録と比較すると、金象将軍国の名に、象が入っているという点で、
完全に矛盾の無い説にはまだ見えない。が、少なくとも、チャトランガから、日本
の平安小将棋までの、私の説の伝来ルートでは、象の住めない寒冷域として、当の
日本以外では、チベットしか考えられない事は、調査の上、取り合えず鮮明になっ
たとは言えると思っている。
(2017/07/24)

”仮説”大理国の原始平安小将棋に、象の無い理由(長さん)

私が若い頃聞いた話に、西洋流の星座に”わに”や、”象”が無いから、
エジプトやペルシャ起源ではなく、メソポタミア(イラク)起源だという話
がある。その類推からすると、もし、原始平安小将棋が、大理国起源とすれ
ば、大理国には象が余り居無いので、象駒が銀将へ変化した事になる。
しかし実際には、東南アジアに近い中国の雲南省には、所々の森林に、今も
インド象(アジア象)が生息していると、聞いている。これは、星座の話と
は合わないが、どう説明すべきなのであろうか。結論を述べると、

象を武器として盛んに使用する地域が、インドからヨーロッパ・北アフリカ
までであるためだと思うが、びしっとした説明は出来ない

ように、私は思う。なお、現在インド象は、インド・ビルマ・タイと、その
周辺だけに居るが、昔は中国の南東部や、中東はペルシャまでが生息域だっ
た。だから、シャトランジに、象駒が有るのは同然であって、更にはヨーロ
ッパ人も、アレキサンダー大王が遠征の結果、武器としてのインド象を、
ペルシャから持ち込んだため、ヨーロッパ人にも、象をチェス型ゲームの駒
に加えるという点で、違和感は無かったとの事である。いずれにしても、
中国や、ほぼその伝来と推定される、朝鮮半島の象棋には、中国人が古代よ
り象を知っていたため、象が有っても不思議はない。なお、象棋の”象”は
天象の”象(しょう)”であって、動物の象ではないと、私は聞いている。
そして、

日本には象が、居無いので、北から小将棋が伝来したとか、国内起源だった
としたら、象が銀将に代わって、当然だったのかもしれない。

ただし、モンゴルのシャタルは、象駒は確か”ラクダ”だから、何れにして
も伝来だと、びしっと説明できたとはならない。更に「タイのマークルック
が、象駒が”根”になっていて、日本の将棋とは、象が無いと言う点で同類
である」という説を聞いたことがある。が今の所、タイの象棋の象駒は、
”根または象”であると、個人的には認識しているので、上記”根と銀将を
同質化する説明”にも、私は充分には納得はしていない。なお、タイ王国は、
戦いに象を使った、最後の国との情報がwebにもある。
 何れにしても今の所、

象を銀将にしたのは、象はその地域に居たが、北宋時代の大理国が初めて
だった、

という線で、私は理由を考えてみるつもりで居る。イメージとして、山岳地
帯の戦闘では、象は山登りが苦手でかつ、人力等別の力を使って、象の山越
えをする事も、重量が大きすぎて困難なため、川沿いで農業用の家畜として
は使えるものの、軍人や敵を蹴散らす武器として使用するための、象使いの
乗り物等には、使用し辛いのが、理由かもしれないと思う。がこの説明が、
銀将に置き換える理由付けとして、どんぴしゃであるとは、私は思って、い
無い。雲南の鉱山の銀の産出量が、南詔の時代より、大理の時代の方が格段
に多くなり、王朝宮殿での、銀の食器や装飾品等の使用量が増えたため、

駒としての象の名称が、雲南では、象→象将→銀将と変化した

とか、何か経緯があるのかもしれない。何れにしても、2~3の既存の説明
を、私も知っているが、

既存の説には、充分に納得すべきものが無い上に、だからといって私にも
良い案が無い

と、このブログには現時点では、とりあえずはっきりと表明しておくことに
したいと考える。(2017/07/23)

大理原始平安小将棋駒の抽象化。元代”サイイド・アジャッル統治”が原因(長さん)

先に、原始平安小将棋用の立体写実駒が、マークルックの抽象的な仏塔駒に変化
したのは、(1)11世紀~12世紀と、比較的早い時期の、タイ国内モン族、
海岸交易国家での、イスラム教の受け入れと、私は説明した。しかし、良く考えて
いるうちに、(2)日本の戦国時代後期の山田長政が活躍した時代の、タイの交易
都市での、ムガール帝国文化との接触による、マークルック駒の抽象化でも、説明
が出来る事に気がついた。なお、(2)だと、マークルック駒が仏塔に抽象化した
のは16世紀だから、モン族とタイ族は、どちらもタイ国内に居る事になる。
 ところが、その後web等で、中国雲南省の歴史を調べていた所、タイ人自体
が、原始平安小将棋を11世紀初頭の日本へ伝えたすこし後の、13世紀、蒙古
帝国の支配下の時代に、イスラム文化と、表題に示したように、接触していた事
が判明した。従って、(1)で、マークルック駒の抽象化を説明した、私のページ
は、他に幾つもの説明が有り得るという点で、不十分だったと、深く反省させられ
た。ここで、雲南省のたとえば盆地で、蒙古帝国支配下の時代に農業を営んでいた
タイ人が、イスラム文化と接触したというのは、

蒙古帝国が中国雲南省を管轄する、提督として派遣した(3)サイイド・アジャッ
ルという人物が、ジンギスカンに忠誠を誓った、イスラム教徒だったためである。
つまり、タイ人の多くもその影響を受けて、立体原始平安小将棋駒を、偶像崇拝を
連想させない、抽象的な駒の形へと、変化させた

可能性があるという、意味である。なお、大理国の王族だった、白族(ペー族)の
段氏一族は、蒙古帝国支配の時代には、蒙古の提督の補佐官へ、降格していたと、
私は理解している。なおその後の調査では、タイ国内モン族が、日本の平安時代に、
海岸交易国家を形勢していたとしても、影響度は、イスラム教よりも、インドの
ヒンドゥー教の方が、大きかった疑いが強いと調べがついた。なおモン族自体も、
大理国の王族といっしょで、仏教徒として、かなり厳格な民族だったようである。
 従って、以前の私の、”(1)11世紀~12世紀と、比較的早い時期の、タイ
国内モン族の海岸交易国家での、イスラム教の受け入れ”説は、可能性が比較的
小さく、

(2)日本の戦国時代後期の山田長政が活躍した時代の、タイの交易都市での、
ムガール帝国イスラム文化との接触による、マークルック駒の抽象化

が、一番可能性としては大きく、つづいて、(3)サイイド・アジャッルという
人物が、ジンギスカンに忠誠を誓った、イスラム教徒だったため、元代にタイ人
の多くも、その影響を受けて、象棋駒を偶像崇拝を連想させない、抽象的な駒の形
へ、変化させた可能性も、否定できないという事ではないかと、修正を余儀なく
された。なお、(3)より(2)の方が、可能性が大きいと私見するのは、

蒙古帝国は、個別の征服地域の文化に寛容で、サイイド・アジャッルという人物も、
雲南では当時人気が高かった

という情報から、個人の宗教を、現地のタイ人に、余り強要しなかった可能性が、
強いのではないかと、推定されるからである。しかし、可能性が薄いと、その後
思われるようになった日本の平安から鎌倉期の(1)の他に、戦国時代後期の(2)
と、鎌倉時代の(3)の可能性が有り得、解明が簡単で無いという事だけは、
マークルックの駒の形の歴史に関して、ほぼ確かだと、現時点で私も、さすがに
思い知らされた格好である。(2017/07/22)

平安大将棋から普通唱導集大将棋まで、升目数が無変化だった理由(長さん)

少なくとも、私の説では、鎌倉時代初期の平安大将棋から、鎌倉時代末期近くの
普通唱導集大将棋まで、大将棋の升目は13のままであった。なお、院政期に、
平安小将棋の9升目が最高の状態から、余り時間をかけずに13升目に増えたと
私は考えている。9升目から13升目に増やしたとき、少なくとも8×8升目制
の原始平安小将棋よりは、13×13升目の大将棋の方が、勝負がつくまでに手
数がかかって、定跡が見えにくくなると、デザイナーは考えたに違いないと思う。
なお、9升目制の平安小将棋は、局面が膠着しやすく、棋士の評判が悪かったと
考えられる。では、その後もっと升目の多い将棋を作る動きが、鎌倉時代の間は、
余り無いように見えるのは何故だろうか。結論から、いつものように書くと、次
の通りである。

盤升目を増やし、駒数を多くして勝負が着くまでの手数を多くしても、指し方の
コツが見えるときには、見えるものなのであり、複雑化の効果は、意外に出ない
のに気がついた

からである。従って、平安大将棋で3段目配列を恐らく、奔横を導入した時に、
4段目に変えた以外は、先人の批判をかわすため、駒を付加する事しか、実質
行われなかったのではないか。つまり、敢えて升目数を変化させて、別の盤升目
大将棋を作る事すら、ほぼ誰もしなかったのはないかと、私は考えるのである。
 ところで、岡野伸さんの1999年の著作「世界の主な将棋」のシャンチーの
歴史に、中国北宋時代の中国に、「盤升目を増やし、駒数を増すことによって、
象棋が面白くなると考える、一派があった」と記載されている。こういう一派の
存在は、日本での平安小将棋から、恐らく19升目の将棋を経由して、13升目
の平安大将棋の変化の時点での、デザイナーと考え方はいっしょである。だから、
中国にも、日本にも、そうした「将棋ゲームデザイナーの派閥」が有った事自体
は、事実だと私も考える。
 しかし、結果としては、その論自体、余り正しいとも言えなかったのかもしれ
ないと、私は思う。勝負が長時間続く事だけが、正しかったのではないか。
 ちなみに、鎌倉時代には、少なくとも私に言わせると、大将棋では強い駒を
導入するという、動きは続いたとみられる。中国には「強い駒を増やすと、増や
せば増やすほど面白くなる」と主張した、”西洋チェス派”の別の派閥が、居た
かどうかは、私には良くわからない。が、とにかく状況からすると、日本の大将
棋デザイナーが、強い駒を特に3段目に加えて、増やし続けた事は、確かなので
はないかと、私は考えている。
 では、この強い駒を増やし続けると、面白くなると主張する、日本の鎌倉時代
の、大将棋デザイナーの派閥の意見は、正しかったのであろうか。それに対して
は私は、

強い駒を導入すると言うのは、麻薬中毒といっしょで、中盤の特定の局面で、
それまで有った、強い駒が、取り捨て将棋で有るがゆえに、切れてしまうと、
急激に局面変化が鈍くなるので、その将棋種は”出来損ないだ”と、棋士に感じ
させてしまうので、駄目なのだ

と、私は個人的には思う。逆に言うと、初めから、隣接升目へ歩む駒ばかりの、
チェス・将棋型ゲームならば、局面変化が鈍いのに、棋士が慣れてしまえば、
最初から最後まで、一定だといえばそうなのであり、ひよっとしたら不満を
感じないのではないかと、私は疑う。つまり、強い駒の多い大将棋は、その

強い駒の数が中途半端だと、それが切れたときに禁断症状を、プレーヤー
感じさせてしまうので、いったん強い駒を加えた大将棋は、終盤まで強い
駒が途切れないように、強い駒を増やし続けるしか、なくなるのではないか

と、私は考える。以上が、極めてザックリと言えば、走り駒として、香車、奔車、
飛龍、横行の有った平安大将棋から、仮説普通唱導集大将棋までの、大将棋の
変化だったのではないか。
 なお、終盤の駒枯れ問題や、”取り捨て将棋は、引き分けになりやすい”とい
う問題については、別途考える事にし、今は、以上の話とは、別に分けて考える
べき話とだけ、指摘しておきたいと、私は希望している。(2017/07/21)

11世紀初頭の大理国の立体駒に、前と後ろの区別のある根拠(長さん)

岡野伸氏著書、1999年自費出版の「世界の主な将棋」によると、チベッ
トに、チャンドラキという古将棋があり、ルールはシャトランジ型(副官が
中国象将棋、シャンチーの士型)だが、立体駒の形は写実的で、玉駒等には、
顔があるという。なお、同書にチャンドラキの詳しい解説は無いが、立体駒
はほぼ、モンゴルの現シャタルの形であると解説されている。
 以前私は、大理国で11世紀に指された原始平安小将棋は、西暦750年
に中国雲南省に、南詔国が存在した時代からあり、それ以前は、チベット
通りインドから、直接伝わったのだろうと述べた。従って、チベット古将棋
のチャンドラキの駒が、イスラムのシャトランジや、中国シャンチー、朝鮮
半島チャンギと違って、イスラム教の影響を受けていないのならば、写実的
であるのは当然で、そこから来たゲームならば、雲南南詔~大理国の古将棋
の駒も、写実的であろうと、当然推定できると思う。すなわち分類としては、
西暦1010年頃に、日本の九州大宰府に上陸した、大理国の原始平安小将
棋の立体駒は、分類として、チベット古将棋のチャンドラキの類となり、

現存する駒としては、モンゴルのシャタルの駒の範疇に入るもの

だと私は推定する。
 そこでそれを理解したうえで、少なくとも、岡野伸さんのシャタルの駒の
イラストを見ると、

モンゴルのシャタルの駒には、人物や動物の類には、全て顔があって、目鼻
が付いていてその事からも前後の区別が、ほぼ全ての駒について可能である

と私は認識する。従って原始平安小将棋、藤原摂関用高級立体駒は、それを
始めて見る日本人が形だけを見れば、色(たとえば白黒)で、更に区別しな
くても、駒の前の側の向きを、相手に向けて対局する事にすれば、駒の向き
で、敵味方が区別できる事は、

原始平安小将棋、藤原摂関用高級立体駒を、仮に岡野伸さん紹介の、モンゴ
ルシャタルの立体駒に置き換えて、思考実験すれば当然可能と結論される

のではないかと、私は見るのである。従って、どんな将棋の駒を新たに考え
るにせよ、日本人には駒には前後の区別があるべきであり、敵味方を、駒の
向きで区別するのが当たり前と、当然認識させたであろうと、推定もできる
のである。
 なお、チベットのチャンドラキのルールは調べても確定しないが、駒の形
が近いと岡野氏が記載した、モンゴルのシャタルは、シャトランジ型である。
それに対して原始平安小将棋は、副官金将駒のルールからみて、4人制に移
行しやすい、チャトランガ型というように、モンゴルそして恐らくチベット
と、中国雲南とでは、ルールが合っていない。これは、シルクロードに面し
ているか、茶馬古道という、険しい山道を越えないと、通りに出ない山の奥
かの違いなのだろう。すなわち、木村義徳氏の「持駒使用の謎」のような
表現をするとすれば、シルクロードを通って、アラブのシャトランジが、東
アジアに、地理的には東向きに反射して伝わるという、将棋伝来の、チベッ
ト・ラサには有った、”第二波”が、雲南省の南詔国には、8世紀に届かな
かったからそうなったで、充分説明できると私は思う。
 ちなみに、上記のチベット将棋は、歴史的なものであるから問題は起こら
ないが、モンゴルのシャタルについては、何故中国シャンチーのように、イ
スラム教の影響を受けて、立体駒が現代までの間に、抽象化しなかったのか
を、岡野伸さんも、紹介した自著書で不思議がっているように、説明する必
要が出る。しかしこれは、私が思うに、そう難しい話ではないのではないか
と思う。すなわち、

中国と違って、モンゴルとイスラムの国とは、モンゴル帝国・蒙古(元)の
時代に、征服したり、衰退して領土を取り返されている仲

だからである。つまり中国と違い、モンゴルにはイスラムの大国と大規模
戦闘をした経緯があるのである。そのため、モンゴル民族の領地内で、イス
ラム教文化を拡散させるのは、中国国内と異なり、かなり難しいのではない
かと私は考える。そのためモンゴルでは、チベットから伝わり、中国雲南で
は、大理国の滅亡と共に消えてしまった、写実的な象棋の立体駒が、イスラ
ム教排除の影響で、抽象化しなかったため、今も残っていると理解できると、
以上のように、私は考えるのである。(2017/07/20)

一乗谷朝倉氏遺跡、角行駒の過剰度(長さん)

前回の記載と前後するが、一乗谷朝倉氏遺跡の出土将棋駒について、”角行が多い”
と、前回私の書いた、詳しい状況について、以下記載する。たとえば、
天童市将棋資料館編の「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」(2003年版)に
よると、一乗谷朝倉氏遺跡から、その時点で、180枚の将棋駒が、発掘されて
いるという。そのうち、書いてある字の不明な遺物が、34枚程度あり、それを
除くと、全部で146枚程度になる。酔象以外が、定説のように全部日本将棋の駒
とみなせるとすれば、1を引いて20で割って、7.25人の競技者分の駒
(約3.63セット分)である。なお、酔象は1枚だけなので、もともと以下の
計算には、ほとんど影響しない。
 もし、公平に駒種が分布しているとすれば、
玉将3.6枚、王将3.6枚、金将14.5枚、銀将14.5枚、桂馬14.5枚
香車14.5枚、飛車7.3枚、角行07.3枚、歩兵65.3枚程度のはずである。
実際には、
玉将2.0枚、王将5.0枚、金将12.0枚、銀将11.0枚、桂馬15.0枚
香車17.0枚、飛車7.0枚、角行12.0枚、歩兵64.0枚
と、”理論値”と比べやすくするため、小数点以下桁数を、合わせて書くと、この
ようになる。以上のように、4.7枚過剰と、著しく差があるのは、確かに
一乗谷朝倉氏遺跡の将棋駒については、角行だけである。
 次に前に、興福寺出土駒の金将をチェックしたときと、同じ手法で、ポアソン分布
表で、7.3回出るのが平均のケースで、12回も出る確率を調べてみる。数表を
引くと、

約31回に1回と出る。これは、偶然にしては、やはり多いと見るべきではないか。

なお、10枚だったとすれば、12.5回に1回位になる。このケースは、角行
が二桁出土になったら、”角行を更に他所から集めてから、駒を捨てた理由”を
一応考えるべきだと、個人的には思う。ただ飛車が、ピタリと理論値に合っている
のは、前回私の述べた+角2型と、+飛車2+角2型が、偶然ほぼ同セット数、
たまたま有るとして、本当に良いのか。あるいは、角行が多い、別の訳を示唆
しているのか。これだけの情報からは、あまり詳しい事は判らないように私は思う。
(2017/07/19)

小将棋デザイナーは、いったい何を考えて酔象を導入したのか(長さん)

現在の定説では、西暦1500年の少し前、日本将棋と共に、酔象が初期
位置で、玉将の前升目にあった、朝倉小将棋というゲームが、一乗谷朝倉氏
遺跡付近で少なくとも、指されていたとされる。この将棋は、持ち駒ルール
でプレイすると、玉将が交換されるだけでなく、片方に玉駒が3枚存在して
しまう可能性があり、後奈良天皇により、天文年間、西暦1530年ころに、
日本将棋に改められたとも言う。では、そもそも西暦1300年頃には、
持ち駒ルールで、9×9升目36枚制平安小将棋標準型を指していたとみら
れる、小将棋の棋士やデザイナー等は、持ち駒制にしたとき、ディフェンス
も異常に強くなる太子成り酔象を、何を考えて玉の前に、わざわざ加えたの
であろうか。何時ものように答えを先に書くが、私は、

そもそも、玉駒の前に酔象を入れる9×9升目の将棋は、12×12升目の
中将棋指しが、日本将棋がベースでは無い、”取り捨てルールの”小型の
中将棋を指すつもりで、導入したのではないか

と疑う。ひょっとして、朝倉小将棋の類は、複数種類有ったとしても、全部
取り捨てルールであって、”持ち駒ルールのある、朝倉小将棋”というのは、
ほとんど指されてい無いのではないか。つまり、

後奈良天皇に、今更言われなくても、朝倉小将棋の類を考えたデザイナーは、
最初から取り捨てでしか、この将棋の類を実際にはする、つもりは無かった

という事である。そもそも、中将棋に太子に成る酔象が存在するのは、少な
くとも私の説では、普通唱導集時代の大将棋に、太子に成る酔象が、玉将の
前の升目に、配置されていたからである。その時代は、私の説によると、酔
象は、中国象棋のチャンチーの象と同じ動きであって、中将棋や後期大将棋
のような、盲虎と組み合わせての玉将守りの効果は、薄かった。なぜこんな
ムダな駒を、平安大将棋から13×13升目108枚制の仮説普通唱導集の
時代の大将棋に、加えたのかと言えば、

日本が仏教の強い国だったから、たまたまである

と私は考えている。ちなみに、私は太子とは、釈迦の意味であると取る。つ
まり、”王様(王将)が居なくても、釈迦が居れば、日本は潰れない国”と、
デザイナーは、言いたかったのであろう。成り麒麟の師子等、強い駒が多い
13×13升目108枚制仮説普通唱導集大将棋では、酔象が2升目動きだ
ったとしても、太子が出来る可能性は、そう大きくない、働きのはっきりし
ない駒だったろうと、私は推定している。
 なお、私は一乗谷朝倉氏遺跡では、実際には”42枚制の朝倉小将棋”を
指すよりも、次の”46枚制将棋”の方が、頻繁に指された可能性も、ある
のではないかと、最近は、個人的に疑っている。その将棋は、
向こう側の相手の駒を、こちらから見る向きで、初期配列を書くと、

一段目が、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車
二段目が、空升、空升、角行、飛車、酔象、飛車、角行、空升、空升
三段目が、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵

となるものである。なお、この将棋は、取り捨てで指す。
 そもそも、9×9升目の平安小将棋を取り捨てで指すつもりなら、日本将
棋のように、

角行を左桂馬の前に1枚だけは置かない

と、私は思う。1枚だと1手損位は覚悟の上で、しばしば”角替わり”して、
消えてしまうので、最初から無いような駒になってしまうからである。恐ら
く、駒数多数将棋のデザイナーの感覚なら、取り捨て型なら角行を、

平安大将棋流に、2枚桂馬の前に置くか、後期大将棋流に、相手香車の前升
目に当たるように、銀将の頭に角行を2枚置く

のではないだろうか。以上のように、角行は2枚づつ使う事が有ったと思う。
根拠は、一乗谷朝倉氏遺跡で、出土した角行駒の数が多いことである。そこ
でこの考えを、今少し推し進める。すると、酔象を導入する理由は結局、

角に加えて飛車の数も2倍にすると、玉が2枚無いと、守りきれないから

という事に行き着く。
 そこで以下、”飛車を更に入れる経過”を説明する。そもそも、平安小将
棋は、取り捨てルールだと当然だが、持ち駒を有りとしたとしても、攻め駒
が不足であった。そこで飛車・角の導入は、理にかなっていた。しかし、
持ち駒ルール有りなら、良い考えだったが、持ち駒なしルールのケースは、
角を左桂馬の前升目に1枚だけ配置するアイディアは、余り芳しくなかった。
そこで上に述べたように、繰り返すが、

角行を2枚、たとえば銀将の前升目に入れる取り捨て将棋も、しばしば指さ
れる事が、あるいは有ったのかもしれない。

その取り捨て将棋は、それで良かったが、中将棋の形から、更にその角二枚
制の9×9升目40枚制取り捨て平安小将棋+角2に、金将の前の升目に、
飛車を2枚加えた、9×9升目42枚制取り捨て平安小将棋+角2+飛車2
が試しに駒数多数棋指流に、指されたのかもしれない。ところがその、
9×9升目42枚制取り捨て平安小将棋+角2+飛車2は、今度は、攻撃力
が強すぎて、玉は簡単に詰んでしまった。そこで、後期大将棋では、玉の
前升目に酔象が加わる事を知っていた、中将棋棋士やデザイナーは、更に、

飛車角2枚に加えて、玉が2つになる可能性のある、成り太子酔象を、9升
目制の小将棋の玉将の前の升目に、加える事もあった

のではないか。つまり、酔象は、持ち駒日本将棋+酔象の使われ方ではなく
て、取り捨て平安小将棋+角2+飛車2+酔象の使われ方の方が、多かった
という事である。よって、一乗谷朝倉遺跡の出土駒については、たとえば、

両銀将の前升目に2つの角行を置く

という取り捨て制の小将棋を中心に、朝倉小将棋ではない、複数の小将棋が
指されいて、各種小将棋の戦国状態になってしまっていた可能性もあり得る
と、私は最近ふと思うように、なったのである。(2017/07/18)

誰が指しても良い事にして原始平安小将棋類は、いつからあるのか(長さん)

 元将棋博物館の館長の木村義徳氏は、インドにチャトランガが発生してか
ら、そう遠くない時期の相当古くから、日本に将棋が伝来していたと、「持
ち駒使用の謎」等で主張している。私の論も、日本の将棋は西暦1019年
頃より、との説であるので、木村氏の批判を浴びそうだ。しかし、私は将棋
自体は、もっと古くから日本に来ており、記録が残らなかったのは、”日本
では識字階級が指さなかった”からではなくて、伝来しても流行らなかった
からだと、考えている。では、私の言うように、大理国から8×8升目32
枚制玉金銀付き原始平安小将棋が、結果として流行るように伝来したとして、
それ自身は、何時中国雲南省で、発生したものなのであろうか。以下、これ
も私見であるが、まずは私の考えを書く。

南詔国が雲南に設立した、西暦750年の日本の奈良時代、中国の唐の時代
で、玄怪録が書かれる数十年前には、原始平安小将棋と言える、それに近い
将棋が発生していた

と、私は思う。ここで、”言える”とは、次の点が、日本に伝来した時点の
8×8升目32枚制原始平安小将棋とは、異なる点であるが、他は同じと
いう意味である。
1.駒の名称で将駒は3種類有ったが、玉・金・銀とは限らない。金将が玉
駒で、以下上将、象将等で有っても良い。駒が貴金属製なのは、大理国時代
の3種類ではなくて、2種類か1種類と、やや、しょぼかったかもしれない。
2.馬が八方桂、車が飛車のルールだった。
3.相手陣の3段目で成るのは、兵だけだった。
4.兵がもしかすると、相手駒を取るとき、斜め隣接升目に進んだ。

つまりは、日本の将棋で副官に当たる駒が、金将と同じく、隣接升目だけに
行けるのに加えて、行ける数がマークルックの4方向ではなくて、玉将の8
方向と銀将の5方向の中間、たとえば6方向になる事(1)と、駒の名称に、
将を着く駒が3種類ある(2)という点、立体駒が写実的だった(3)とい
う点を除けば、

ほとんど、今のマークルックと同じ将棋ゲーム

だったという事である。
将駒に貴金属の名がつくものの種類が少ないのは、雲南省大理市で、南詔国
の時代の遺物に、大理国の時代の三塔主塔の遺物のように、さまざまな素材
で、同じ物(仏像や仏塔)を作ったミニュチュアが、今の所発掘されていな
い、というのが、唯一の根拠である。
 恐らく雲南の8×8升目32枚制原始平安小将棋(八方桂等)は、インド
から、チベットを通って直接伝わったため、副官駒を、玉駒からの差を大き
くするような調整は、シャトランジのようには、行われなかったのだろう。
また南詔国も、仏教が厳格な点は、大理国と変わらなかったので、イスラム
教徒は、西暦750~1000年の間も、そこには、ほとんど居住していな
いため、立体駒は写実的だったのだろう。だから、副官駒のルールと、立体
駒が写実的な点が、後のマークルックとは、違っていたのだと私は推定する。
 そして原始平安小将棋と同じで、このゲームの性能は低かったが、前に述
べたように、山岳地帯で娯楽が少なかったのと、写実的で高価な駒で遊べる
ことが、南詔王侯イ族王族の階級トレンドだったので、8×8升目32枚制

原始平安小将棋(八方桂等)は、中国雲南では南詔国の存在と共にほぼ発生

し、唐の玄怪録の時代の数十年前には、既に指されていたのではあるまいか。
 そして、それが日本に伝来する可能性であるが、8×8升目32枚制原始
平安小将棋(八方桂等)は、実存在はするのであるから、日本に伝来する事
が絶対無いとは、当然言えない状況であった。たとえば、中国の文書に記載
されたものが、

日本の奈良時代中期の西暦750年以降、日本で実際に急激に盛んになった
西暦1019年までの約269年間に、散発的に伝来していた可能性もある

と私は私見する。しかし、日本の律令制度が西暦750年から10世紀頃ま
での250年弱の間については、少しづつ崩れてきたとは言え、

藤原氏の所有する荘園が増えて、都で優雅な暮らしをする貴族という階層が
発生

していなかったために、日本では贅沢は皇族に限られ、庶民には、それは高
嶺の花で、存在しても皇族のみが指し、自分に無縁という意識が、平安中期
の王朝絵巻物の時代までは支配していた事。及び”8×8升目32枚制原始
平安小将棋用五角形板駒で兵法を学習して、西暦1019年の刀伊の入寇の
おり等に、外戦で活躍すれば、今度は黄金の、8×8升目32枚制原始平安
小将棋用立体駒で、都で貴族として遊んで暮らせるような身分に、のし上れ
る”、という夢を、国境警備の九州大宰府武士たちに与えてくれるような、

藤原隆家という、特定の一人の人物が、たまたま、まだ存在し無かった事。

以上のために、もともとゲームとしては、たいした事の無かった、8×8升
目32枚制原始平安小将棋は、少なくとも西暦1019年より前には、余り
熱心には、日本人のまとまった人数には、指されなかったのではないかと、
私は以上のように考えるのである。
 なお、原始平安小将棋は、ゲームとしては、たいした事が無かったが、
外戦兵の歩兵が、”と金”という、”藤原道長の側近を連想させる駒に成る”
というルールがあった事と、玉を互いに中盤取り逃がすと、と金で斬り合い
をする将棋になるという、攻め駒の貧弱さ、と、”と金”の活躍、および、
将駒が藤原貴族と類似で、1人ではなくて、どんぐりの背比べで、複数居た
という、

その当時の日本の社会の、縮図のようなものであった

という点が、急激な日本の将棋文化の発生・伸張の、原因になったのだとも、
私は考える。
 以上のように、

日本に今の日本将棋の元になった、8×8升目32枚制原始平安小将棋は、
木村義徳氏の言うように、定説より250年前程度でよければ、早くから伝
来はしていた

と私は考える。つまり、私もある意味、古い伝来派である。しかし、私には、
それだからと言って、日本将棋は古いものであるとの認識が、気分的には起
こらない。原因は、原始平安小将棋と日本将棋で比較すると、相掛かりや、
角替わり戦法が、前者には飛車角が無いため、後者でしか、できないという
点が、一例として挙げられるように、

ゲームとして、同じものとは私には全く見えない

からである。以上の私の、日本の将棋大理駒よりの伝来説の推定ストーリー
が正しいとすれば、中国雲南省でマークルックに近い原始平安小将棋が発生
するのが、西暦750年でも、日本で急激に流行ったとみられる、西暦
1019年の直前の西暦1000年でも、日本将棋の歴史の重みには、さし
て影響は無いと思う。それよりも、

中将棋から飛車角を何時取り入れたのか、定説の西暦1500年頃という説
は、正しいのか。すなわちなるべく早く、成り竜王竜馬の飛車角を、9×9
升目36枚制平安小将棋(持ち駒有り型)へ取り入れる事の方が、ずっと日
本将棋を、皆に重く感じさせる効果は大きい

のではないか。私には個人的に、以上のように考える。(2017/07/17)

中国”砲”駒の砲の欧州式名称(長さん)

中国のシャンチーに存在する”砲”という駒の意味を、最近正確に調べなおして
みた。元寇のときに、中国軍がその類を使用して、日本の御家人武家を慌てさせ
たことで有名である。欧州の東ローマ帝国にも、この兵器は後に、東方から伝来
したという。中身は、”弾丸を火薬ではなくて、機械的な力で投げ飛ばして、遠
くまで飛ばす武器の系列”と、定義できる兵器群を指すと考えると、現実の状況
に合うように私には思える。欧州では、”平衡錘式トレビュシェット”と言う
武器があるらしい。原理の細かい点は、複数違うものが、ユーラシア大陸の各地
にあり、原始的なものは、相当に古い起源を持つらしい。
 ㈱原書房発行、ジョエル=レヴィ著、伊藤綺訳の「図説・世界史を変えた
50の武器」(2015年)によると、少なくとも1097年よりも前に、
中国で発明された武器が起源と、その著者は認識しているようである。ここで、
西暦1097年というのは、前に、凸型図形で、戦陣が現される経緯につい
て出てきた、北宋時代の武術の書「武経総要」に、この平衡錘式トレビュシェ
ットが、図で載っているのが、はっきり確認できる、最古のものだからのよう
である。なお、中国での言い伝えによると、中国型平衡錘式トレビュシェットは、
紀元前4世紀には存在したとされるという。これが正しいとすると、漢の時代
の、3人将棋の盤かと言われるものの時代にも、砲は有ることになってしまう
ので、真偽は重大である。ただし、三国鼎立の時代から隋の時代にかけて、
はっきりとした、象棋系ゲームの記録が中国には、見あたらないのではないかと、
考える。そのため今の所、個人的には、”三人象棋盤が象棋の類のゲーム盤”と
言う説は、かなり怪しいのではないかと、私は一応考えている。
 なお、上記著書には、平衡錘式トレビュシェットの発明年代について、それ
以上の情報は無い。増川宏一氏が、唐末とされている根拠となる文献は、
たぶん存在するのだろうが、私は確認していない。
 ちなみに、冒頭”平衡錘式トレビュシェット”の定義について、ゴムの弾性
力を使う、バチンコも含まれるように私は書いた。が、「世界史を変えた50
の武器」によれば、これには概ね3系統の武器が含まれ、純粋にメカニカル
な、腕状物体の急速なトルクを、砲弾の投げ飛ばし力に使うような機構のもの
だけが、類に含まれるらしい。よって、ゴム弾性という化学的な物質の性質を
使うパチンコのような、武器はこれには入らないらしい。
 これには2人で使用する小型のものも有ったというが、典型的には数十キロ
グラムの、大人一人の重さもある相当重い弾丸を、100~200メーターの
距離だけ飛ばして、敵を蹴散らすように設計されていたらしい。個人的には、
メカニカルな技術としては類似の、指南車が存在した三国鼎立の頃には、中国
人は、このような武器も、少なくとも原始的な物は、発明したのではないかと
思える。
 何れにしても、中国人がチェス・象棋型ゲームを本気でやり出したら、砲駒
は初期に入れる可能性が、大なのではないか。よって、唐代の将棋ゲームを
示唆する玄怪録の、”象棋駒を連想させるもの”に、”砲”駒に近い、跳び超
え落下型の駒が無いとすれば、中国に象棋型ゲームが有っても、中国人自体は、
あまり指してい無いか、その象棋は、中国の周辺国で指すゲームを、風物と
して述べているか、その両方が存在する可能性が有る、という事なのではない
かと、私は独自に推理するのである。(2017/07/16)

マークルック。何故、種・根駒が仏塔なのか(長さん)

タイの象棋マークルックでは、日本の平安小将棋の玉駒、副官駒、銀駒、馬駒、
車駒、兵駒に当たる駒が、それぞれ、君、貴族または種、象または根、馬、船、
兵または貝であると聞いている。ところが、駒の形が意味するものは、馬駒と
兵または貝駒を除いて、”仏塔(パゴダ)”であり、君、貴族、象、種、根、
船とは相当に違う。ほぼ同じなのは、馬駒が馬なのと、貝駒が確かに、コイン
なので、貝に近いという点だけである。では、なぜ君、貴族、象、種、根、船
は、仏塔で表現されているのだろうか。以下、私見であるが、理由は以下のよ
うに、2段階で説明されると考える。

もともと、タイのマークルックの、イスラム・シャトランジの影響の少ない、
第一成分である、タイ族原始マークルックでは、君、貴族か種、象か根、船駒
が、君、上級貴族、下級貴族、車、に近い概念で、認識された時代があった。
もっとはっきり言うと、玉将、金将、銀将、車(しゃ)と、呼ばれていた。
だから、駒形で表すとすれば、菩薩立像型、菩薩立像型、菩薩立像型、モンゴ
ル将棋の荷車型で、表現すれば写実的であるような、ルールであった。以上が、
第一段階。

そして、第二段階は、仏教の催事具の、以下の特徴から来るのだろう。確かに、
仏塔は墓石の類に近いものであり、仏像とは明らかに異なる物体である。しか
し、信仰の対象としては近いものである。それだけでなく、駒の形の抽象化が
起こると、仏塔の頭頂部の楕円形の部分は、人の頭のようにも見える。そのた
め、イスラム教の影響を受けて、タイのマークルックの駒が、抽象化した駒を
使用するようになると、仏の立像と、仏塔(パゴダ)が混同されて、本来、君、
貴族か種、象か根、船駒は、玉将、金将、銀将、車(しゃ)であったため、そ
れぞれ菩薩立像型、菩薩立像型、菩薩立像型、モンゴル将棋の荷車型で、表現
すべき所を、仏塔、仏塔、仏塔、モンゴル将棋の荷車型で、表現するようにな
った

のではないか。以上が第二段階である。そのうち、車駒もモンゴル将棋の荷車
型や海端でゲームが指されるようになったため、変化した船も形が煩雑なため、
どちらにしても、平たい仏塔型で、たまたま表現するようになったのであろう。
なお、タイ人が大理国に住んでいるときに、象ではなくて銀将駒を使っていた
のは、中国の雲南省では、象が余り活躍していなかったためだと、私は推定し
ている。逆に、大理国では中央集権制が緩んで、日本の安土桃山時代並みの、
豊臣、徳川、毛利、上杉景勝・・的な集団自治体制の類だったのであろう。将
駒は、君主もそれに加えないのなら、本来金将一種のはずだったが、大理国で
は、君主とは言うものの、それほどではない玉将、金将、それに銀将の3種に
なっていたのである。
 だから、それらが本来は、造形として菩薩立像型で表現されるべきものだと
すれば、和田玉、金、銀、銅、鉄、石、木等、いろいろな材料で作成されてい
た仏像・将軍像と、材質が同じで、金、銀等、いろいろある仏塔と、駒の形が
抽象化してどちらにも、取れるようになると、菩薩立像型から、仏塔型へ、混
同され変化したに違いないと、私は思う。
 そのあと、イスラム・シャトランジに寛容だった、モン族の、原始マークル
ック第2源流の影響を受けて、名前も、玉、金、銀が、君、貴族、象、に替わ
り、更には、君、種、根とも、呼ばれるようになったのではないか。
 以上の事から、マークルックの駒の仏塔(パゴダ)は、この将棋の原始、
第一成分(タイ族成分)が、日本の将棋と駒の名称が、ほとんど同じであった、
大理国の将棋起源である事を、証拠付けているものと、私は推定するのである。
(2017/07/15)


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