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大大将棋の成立年代(長さん)

前回、鎌倉時代末期に以下の情報が、日本に入ってきたと述べた。つまり17路
囲碁盤が、それよりずっと前の中国にあり、将棋盤は、それに合わせて、升目
模様に関して、端から、等間隔で聖目の星を打つのが正調であると、朝鮮半島の
人間が、当時考えている、という旨の情報である。そして、その影響で日本に、
17升目の大大将棋も、ひょっとしたら、発生したのかもしれないと述べた。
 特に大大将棋の成立時期が、室町時代の初期の頃までだと、その大陸からの
情報が、日本の後期大将棋の升目数について、影響を及ぼした可能性が、更に強
く示唆され、このブログに対する影響が、大きいのかもしれない。今の所、
新安沖沈没船出土の、碁石を置いて使うと見られる16路かと思われる遊戯盤が、
鎌倉時代最末期の品であるというのが、唯一の証拠だからである。なお先に述べ
たが、古代の17升目の囲碁盤は、端から4升目模様ごとに、3つ聖目の星を打
つ囲碁盤。新安沖沈没船遊戯盤は、端から5升目模様ごとに、2つ聖目の星を打
つ遊戯盤、というように、模様の具体的な形は、数値と数は異なっている。そし
て、後者は前回述べたように、五目並べかとも、現代の成書では推定されている。
 そこで再度、そのような視点で、大大将棋の配列を良く見直してみた。結果、

大大将棋は日本将棋の成立時期、すなわち西暦1500年程度の、戦国時代の頃
の作である、疑いも残念ながら残る

と私見された。理由は、

龍王、龍馬、飛車、角行が、一方に1枚しか無い将棋は、朝倉小将棋以前には、
知られてい無い

からである。なお、大大将棋の成立時期が15世紀の中期より後だと、水無瀬
兼成の将棋部類生抄の元文献である、曼殊院の将棋文書のうち、大大将棋に、
後での書き加えが、ある事にはなる。よって、学会では全くの少数意見となるが、

大大将棋に関しては、曼殊院のオリジナルの将棋文書の第1版とでも言うべき
古文書には、もともとは無かった疑いを、一応想定した方が良い

と当方は私見する。なお曼殊院の文書の将棋の、他の将棋種の加筆については、
前に、摩訶大大将棋で、「王子のオリジナルは太子であり、西暦1532年の
天文錯乱、奈良県への一向一揆侵入の際に、書き換えた疑いあり」との旨を書い
た。
 その他については、私は敢えて疑いを表明しないが、何れにしても、これ以上
は、本ブログの本題からは外れるので、ここでは書かない事にしたい。ちなみに
後期大将棋が西暦1443年に存在しても、普通唱導集の西暦1300年より
後なので、ここでは問題にはならない。
 なお、大大将棋については、角行が、朝倉小将棋等と同様、端から2列目に
配列される事、曼殊院の将棋には無い泰将棋と、全体としての駒の配列が、1枚
駒を左右に分散させると、比較的似ている点、後者については特に走車が、飛車
といっしょで、端列に片方2枚づつ無い点で、泰将棋に近い将棋を、分散させて
作った結果のけはいがある等、比較的後の時代に、出来た事を示唆する点が、
他にも所々にあると私は思う。
 以上の事から、よって大大将棋の存在は、

安土桃山時代までには、昔中国では囲碁が17升目制だったという話が、入って
きていたという事を、証明するに過ぎない

と、私は考える。恐らく駒数で異制庭訓往来の多い将棋と、つじつまを合わせよ
うとして、水無瀬兼成自身が泰将棋を作成した時期に、余り遠くない時点で、
何者かが、中国の古代の囲碁盤筋数と、同じ升目数の駒数多数将棋を作成して、
いわば駒数多数将棋類体系の、体裁を整える意味で、大大将棋が作られた疑いが、
有ると言う事ではないかと、少なくとも現時点で私は、思っているという事であ
る。(2017/07/03)