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中世の変則チェスと、中国・朝鮮シャンチー/チャンギ類(長さん)

アラブ・シャトランジの時代に、変則チェスのカテゴリーに入る、駒数
が32枚よりも、かなり多い、チェスの仲間が中東で指されていたとい
う紹介が、法政大学出版・1977年の増川宏一著「ものと人間の文化
史 23-1 将棋Ⅰ」にも載っている。ただし、同書には、それらの
アラブ駒数多数変則チェス類の、ルールの説明までは無い。そして、そ
の流れで成立したとみられる、ヨーロッパ・中世スペインの、12×12
升目48枚制の変則駒数多数チェス類の、グランド・アセドレフという
名のゲームが、岡野伸氏自費出版の「世界の主な将棋」(1999)に
載っている。後者の方には、ルールの説明があり、駒の動かし方が載っ
ている。最大行ける升目が無限大でなく、3升目という金剛の縦横動き
の駒は、走りに近い、比較的ありきたりの駒と私には、思える。しかし
ながら、日本の駒数多数将棋では、余り見かけないタイプの動かし方を
する駒として、

(1)鳥のグリフィンという、斜めに1升移動して、そこから縦横走り
という割り箸走りの駒

と、
(2)キリンの名が当てられた、縦横三升目行ってから、最後の1歩だ
け、斜め向こうに進む

という駒は、日本の駒数多数将棋の縦横が斜めに、途中で変化しない
タイプばかりという、状況とは違う。しかし、たとえば、チャンギの象
は、縦横隣接升目に行ってから、2升目斜めに進むというものであるか
ら、1の2を、3の1に取り替えれば、(2)のキリンといっしょであ
る。つまり、

アラブや中世ヨーロッパの変則チェスには、チャンギの象とかシャンチー
/チャンギの馬のパターンの動かし方をする駒が、しばしばかなり古く
から考えられていた事を示している。話は前後するが、縦横→斜めパター
ンを、斜め→縦横にひっくり返して、チャンギ象の1の2パターンを、
1の∞パターンに変えたのが、(1)のグリフィンである。だから、

(1)のグリフィンも(2)のキリンも、例えばチャンギの象の類で
ある。

何故なら(1)と(2)の両方に、

西洋のナイトや、日本の桂馬には無い、途中の升目は跳ぶのではなくて、
恐らく走らなければならないというルールが、ある

からである。そして、この意味するところは、

シルクロードを東から西へ、逆に辿って、朝鮮半島のチャンギの象とか、
中国シャンチーや朝鮮チャンギの馬の動きが、アラブからヨーロッパは
西の端のスペインまで、だから恐らく、北アフリカ海岸にも、伝えら
れている。

ということであろう。つまり、中国シャンチーの類は、アラブ・シャト
ランジと、密接な関係があるという推定に関する、小型ゲーム類のそれ
ぞれの対応駒の、動かし方がほぼ同じ事とは別の証拠が、上記のように
存在するという事だと、私は以上の現象から、個人的には推定するので
ある。(2017/08/18)

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チェスのような”終盤引き分けが過多”、”逆転困難が早々”防止の工夫(長さん)

 八方桂のナイト駒は例外なのであるが、チェスは取り捨てルールで、大駒が
走りなため、日本将棋に比べて、終盤ミスしても、それほどまでには逆転しに
くい。また中盤に差が開くと、逆転また逆転は起こらないし、引き分けのケー
スも、日本将棋のように、少なくはならないと私も認識している。これについ
ては、すでに上の文で答えを言ってしまっているのも同然だが、ようするに、
それを防ぐには、跳び越えルールの駒を、もっと終盤で、増やす必要がある。
この事については、前にも、駒の動かし方ルールで、上記問題を克服する必要
があると、このブログでも指摘した。では具体的に、とんな駒の動かし方ルー
ルにすれば、良いのだろうか。結論から書くと、

ずっと下段で、中盤の最末期に、ようやく前面に露出してくる小駒が、たとえ
ば、相手の攻撃駒を取ったときに、日本将棋と違って成れるようにして置いて
から、その成りも、単なる跳び越えではなくて、玉駒と幾つかの例外以外は、
幾らでも、前方にのみだが、跳び越えられるようなルールにし、更には跳び越
えた相手の駒は、全部排除するどころか、相手の駒は、自分の駒に全部向きを
変える(裏切り)ルールとする。

更に、向きを変えた駒は、成れるとまでする。以上で持ち駒ルールと、ほぼ局
面評価値の一手指すごとの変動幅が、同等になる事が、経験的に私には判って
いる。制限無い、格のある跳び越えルールは、天竺大将棋の、大将駒類が有名
であり、跳び越えが格の自分と同じか、高い駒以外は跳び越せ、跳び越した相
手駒を、全部取り去るルールは、大局将棋の、大将駒類が有名である。しかし、
実際にチェックした限り、繰り返すが、相手駒を単純に排除したのでは、終盤
の逆転の可能性は、まだ少ない。火鬼のように焼いてもだめだし、広将棋の弓
駒のように”射ても”、たぶん不足だと私は思う。
 日本将棋のように、相手の駒が、戦力に追加されるような、”裏切りルール”
にしないと、日本将棋並みの終盤の局面評価の発散は起こらないと、私は思う。
逆に言うと、盤升目が玉駒周り空間に比べて極めて大きく、見栄えから、持ち
駒ルールの適用が困難な、駒数多数将棋でも、相手駒を自分の駒に変えるという、

跳び越えオセロ型のルールを加えさえすれば、取り捨て型のチェス系ゲーム
有の、”引き分けが多いゲーム”には、恐らくならない

のではないかと言うのが、少なくとも日本では、恐らく私だけの持論である。
ただしこのやり方をとると、駒の一部が対局中に入れ替わるため、前回述べた、

駒の初期配列の作法のための、駒の2分割化が困難になる

という、欠点がある。ただし、上記のオセロルールが導入される、駒数多数将
棋は、コンピュータディスプレーで、駒が表示できるような、極めて駒の数
の多い将棋であれば、そのような作法の問題は、駒は予め並べて有るだろうか
ら、ひょっとすると存在し無いかもしれない。なお192枚制の摩訶大大将棋
で、将駒の成りに”跳び越えオセロ”を、加えてやってみた事が私にはあるが、

192枚程度の駒数の場合は、前の二人の競技者によって崩された2分割分は、
余り駒が、駒を配列しているうちに出てきたら、相手に手渡しして対応する

しか、今の所無いのではと、私は思っている。(2017/08/17)

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駒数多数将棋の駒を初期配列に並べる作法は、どう有るべきか(長さん)

前回、中将棋より駒数の多い将棋に、室町時代初期から、駒の初期配列
の作法が存在しないのは、使い手の居無い獣駒が、日本将棋には存在し
ないが、中将棋以上には、存在するので、作法があるというのが変と、
考えられたからではないかと述べた。だが、配列するときには、象や虎や
豹にも、調教師が居ても、おかしくないのかもしれない。そこで「これら
の駒も左から」と、順序の決まった配列は、配置するときだけに、調教師
が存在すると仮定してみる。そして中将棋以上でも、駒並べの作法を考え、
具体的にそれがどうなるのか、試案を作ってみた。以下は一例として、
だいぶん前に私の考えた、後期大将棋を例にとって、説明する。さて駒数
3桁の将棋類では、そもそも、駒の配列を作法に従って並べるのは、

駒の総数が多くなると、駒を探し出す手間が、駒数のだいたい2乗で増加
するため、日本将棋と同じ方法でするのは無理

である。そこで、以下の点について、着目する。日本将棋の駒の並べ方の
作法である大橋流にしても、伊藤流にしても、

中央の駒ほど位が高いと、仮定して、その順番で配列する。が、駒数多数
将棋では、そのような陣は、袖に弱点が出来るので、初期配列は、中央に
重要駒が来ると、敢えて仮定はしない

事にする。すると、

駒は玉駒は最初に並べるにしても、玉以外は、同じ種類の駒は左側から、
常に並べることだけを、重視

すれば良い事になる。そこで、予め2人前の競技者の駒を、1人づつ、
2つに分けて保管する。つまり、後期大将棋の例では、玉将・王将を除
いて128枚の駒を、駒箱の中に2つの袋を入れることにして、片方分
64枚づつを、

分けて保管

しておく。そして、
(1)上手が王将を並べ、下手が玉将を並べた、あと、
(2)それぞれの駒袋を、上手、下手と取り、中身をそれぞれに、捕獲
して、取り捨てるために、これらの将棋種では使用する、捨て駒入れに
全部移してから、左右対称駒については、上手は右辺から並べてゆく。
下手は少し時間を空けて並べを開始し、左右対称駒については、上手と
は逆だが、前方に上手の既に並んだ駒の多い、左辺から先に、並べてゆ
くのである。
こうするのは、

駒を並べる作法というのは、年長者が若年者に、その将棋のルールを
伝承するという、”儀式”の意味があるからで、このケースは、若年者
が、左辺が上位である事を、正しく認識するための行為と意味づけでき
る。なお、繰り返すが、駒数多数将棋に、中央駒が重要度の高い駒との、
性質は無いと考えるので、並べる駒は、たまたま、手に取った駒からで
良いとする。なお例外は歩兵だが、歩兵は、後期大将棋のケースは、概
ね伊藤流で、並べて良いのではないかと思う。ここでただし、

(3)左右非対称駒で、1枚目は上位者から、盤の中央段のやや手前に、
升目ではなくて、交点付近に、その駒を、一時保管する。
(4)(1)~(3)を、駒袋内の全ての駒について、行う。すると、
例えば、後期大将棋では、中央段の升目間の交点付近の上に、麒麟、
鳳凰、の2枚が並ぶ。そこで、若年者も駒袋内の全ての駒を、並べ終わっ
た所で、年長者が、麒麟を取って、左盲虎の上に置く。ついで、それを
まねるように、若年者が麒麟を並べる。ついで、年長者が鳳凰を取って、
右盲虎の上に並べる。それを若年者がまねれば、初期配列はめでたく、
完成するはずである。なお、中将棋では、麒麟、鳳凰、師子、奔王と、
以上の順番で、4枚づつ並べる事になるだろう。

(1)~(4)のやり方は、左右対称性が強い、駒数多数将棋種ならば、
かなり、駒の枚数が多くても、適用可能である。ただし、大大将棋のよ
うに、左右で対称性が低くなると、中央段に置く、”一時保留駒”の数
が増えすぎて、適用困難になるし、また、対局中も、取った駒を別々に
保管して、局後に交換し、2分化が容易なようにしなければならないた
め、感想戦のときに、注意が要る等の問題はあるだろう。(2017/08/16)

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中将棋には初期の駒の配列に関して、”作法”が無いのは何故なのか(長さん)

江戸時代以降、日本将棋には、初期の駒の配列手順に関して、大橋流と伊藤流
という、駒を並べる作法が存在する。大橋流では、玉、左金、右金・・・と1
段目を配列後、角行、飛車と2段目を配列。次に3段目の歩兵を、先手の升目
で、5七、6七、4七・・・と、左右に配列するものである。それに対して、
伊藤流では、1段目の桂馬までは同じであるが、そこから3段目の歩兵を、
9七、8七・・・と、左から配列し、ついで、1段目の香車を左右へ、2段目
の角行、飛車と配列するものだったと、私は理解する。大橋流は、中央が大事
で、次に左隣、右隣という考え方であり、伊藤流は、中央の駒が上位で、次が
その隣の駒で、その駒のうち左の方が格上、香車、角行、飛車は、兵器と見て、
配列前に戦闘開始が起こるという、”戦闘が開始された道理の矛盾”を避けた
ものなのかもしない。何れにしても、この”作法”は、日本将棋固有であって、
日本の他の将棋時代から、有ったとの証拠は、今の所無い。茶道や華道等、作
法が有る、稽古事が盛んになったのが、安土桃山時代であったからだと、言っ
てしまえば、それまでなのかもしれない。が、能・猿楽等、芸の世界は室町時
代の足利義満の頃から盛んであるから、たとえば、中将棋に同様の類の、駒を
並べる作法が、全く発見されていない理由は、考えてみても、一応ばちは当た
らないのかもしれない。なお、花営三代記や看聞御記の将棋の記載からみて、
足利義持や足利義教の時代には、中将棋だけでなく、恐らく9升目制で持ち駒
有り型の、平安小将棋(標準型)を小将棋として、それも指していたらしい。ここ
で平安小将棋の駒を並べる作法なら、日本将棋から類推する事は可能であり、
小将棋には何か、並べ方の作法があっても、本来はおかしくは無かろう。とも
あれ、中将棋(より駒の数の多い六将棋)に、初期の駒の配列の作法が無い
理由について、理由を結論から、何時ものように書く。すなわち、その理由は、

適当に首輪の鎖を外して、敵陣に突入させ、相手を蹴散らすだけが、実際の戦
闘での使われ方とみられる、制御しない生物兵器、酔象、盲虎、猛豹が、自分
の意思で、左側から行儀良く、順番に並ぶとは考えにくい

からだと私は思う。つまり桂馬と違って、これらの動物は、人間の動物使いが、
戦闘中に、使い手として存在する、兵器ではないからだろう。だからこうした、
めちゃくちゃに、相手陣を暴れまわる、畜生としての象、虎、豹駒の加わった
将棋では、そこだけ作法を考えにくいため、全体として、並べる順序が決まら
ないものと、あるいは、当時から考えられたのかもしれないと、私は思う。た
だし、日本将棋でも、先祖の”横行”は、荒くれ者とは言え、一応人間だった
ようであるが、類似の”角行”は、人間が制御していない、単なる魔物か、ロ
ボットの類なのかもしれないという、問題は有ると思う。(2017/08/15)

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「朱仁聰と周文裔・周良史 : 来日宋商人の様態と藤原道長の対外政策」(長さん)

前回、大理国の黄金将棋具を日本にもたらし、日本に将棋が発生した
原因となった、中国北宋時代の交易商人として、周文裔の名を挙げた。
3年ほどまえ(2014年)に東洋大学の森 公章氏が、「朱仁聰と
周文裔・周良史 : 来日宋商人の様態と藤原道長の対外政策」という
論文を発表し、そのPDF版がweb上に流れている。
 ここでは、かなりの量の、この論文の全紹介は出来ないので、周文裔
が、日本に将棋をもたらした人物だと、匂わせる情報のみを書く。
西暦1015年に彼が来日して、藤原道長に払い下げられた孔雀等を
献上して以後、実は後一条天皇が即位してからしばらく、北宋商人の
来日は無かったようである。そして、次に来日した北宋商人も、周文裔・
周良史親子であって、上記論文によれば、なんと

刀伊の入寇の翌年の西暦1020年の事だった

と言うのである。つまり、次の西暦1020年には、

字の書いていない経帙牌を例えば数百枚、持って再度日本にやって来た

と考えれば、話は良く合うという事になる。また、彼ら以外に、将棋の
発生と関連しそうな、別の中国人交易商人が、かなり考えにくい、とい
う事でもある。
 なお、周文裔には日本人の妻が、たぶん日本におり”大宰府の条坊に
在庫の経帙牌を使い、日本の九州で、西暦1019年から将棋が指され
だした”との旨の情報は、自分の日本人の妻を通して、事の次第の詳細
な連絡が、中国の夫と息子の居る所へは、事前に行ったのかもしれない。
 それにしてもこの情報には驚いた。提供してくれた、東洋大の森公章
先生には、なんとお礼を言ってよいものか、私には判らないほどである。
(2017/08/14)

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藤原道長は、自宅に宝物(金銀製品)は、余り置かなかった?(長さん)

いままで私がこのブログに述べた私説の内容によると、日本の将棋は西暦
1010年年代に、北宋の商人が、藤原道長・頼道親子の何れか用に、玉
将は、写実的にホータン玉でできた将の模型という調子の、大理国産の宝
玉・黄金製の将棋具を、献上したのが、そもそもの発端という事になって
いる。そのため、今までその贈答または献上されたお宝は、藤原道長と頼
道の本宅、京都の土御門第(亭)に、刀伊の入寇の1019年まで保管さ
れていたと見るのが、自明だと考えていた。しかし、藤原道長の日記、
御堂関白記を紹介した、倉本一宏著「藤原道長『御堂関白日記』を読む」
2013年(講談社)によると、西暦1016年(長和5年)の宣明暦
7月21前後に、藤原道長・頼道の本宅である、土御門第(亭)は、火事
になって、何と消失しているらしい。この事から、たとえその前に、黄金
の将棋具が藤原道長等へ、北宋交易商人から贈答されて、土御門亭に保管
されていたとしても、火災で1019年時点には、存在無い可能性がある。
ただし火災時、藤原長者の神器である、大饗の朱器という品は、火が回る
前に持ち出されているし、藤原道長が趣味で収集していた、中国の漢詩関
係の蔵書も、同じく持ち出されたと、上記成書の日記に書かれている。よ
うするに、火災の発見から、延焼までに時間差があったようである。ただ
し、黄金製品の類が焼けて、そのとき消失したかどうかは、御堂関白日記
には無く、被害状況は、想像するしか無いようである。上記の「『御堂関
白日記』を読む」の著者の倉本一宏氏は「自宅が焼けた事に関して、藤原
道長は不思議なほど、さほど落胆していない」と、著書の中で評している。
 あるいは、将棋駒の大きさの金塊22本位では、痛手を感じないほど、
藤原道長には財産が、もともとあるせいかもしれない。が、ひょっとして、
これは、

西暦1016年時点で、黄金の将棋盤等の、”宝物”は、漢詩の書籍のよ
うな「唐物」とは違って、藤原道長は自分の本宅には置いていなかった

可能性も、有るように私には、御堂関白記の解説書を読んで、思えるよう
になった。では、どこに西暦1010年頃に来たはずの、黄金の将棋具が
あったのかと言えば、

天皇の居所である内裏かもしれないと、私は疑い出した。

とにかく黄金将棋具は、表向きは国有財産として、天皇の居所に置いてお
き、藤原道長・頼道等は、自由に使用できる状態にしておけば、自宅に置
くのと、余り差が無いように、私には上の成書をチェックし思えてきた。
何故なら上記成書には、藤原道長は、その前から、その傾向が有るのだが、
西暦1016年に、天皇が自分の孫の、後一条天皇になってからは特に、
自宅と天皇宅・内裏の公私の区別を、余り気にしていないという印象の
内容が、書かれているからである。つまり、天皇の居所は藤原道長の家屋
の一つも同然と言う事である。藤原道長にとっては、”自分も含めて、天
皇家一家や、有力な来客との間で遊ぶ道具”として、黄金将棋具は位置づ
けられたという事ではなかろうか。だが実は、天皇の居所の内裏であるが、

内裏自体も、西暦1016年の道長宅の火災の、2年前の三条天皇の代の
西暦1014年に、別の大火で大破していて、このときは、道長宅と違っ
て、大量の金銀製品が、破損してしまった

事が、web上に紹介されている。そのとき破損した金銀製品を「熔かし
て、再生するように」と、西暦1014年の内裏の大火のときには、ほか
ならぬ、藤原道長が、”その家の者”の立場で指示を出しているらしい。
従って、

黄金将棋具は、天皇の居所に置かれていたが、西暦1014年の大火で、
実際には、消失していたのかもしれない。あるいは北宋商人の、この大理
国将棋具の贈答も、火災翌年西暦1015年に来日した、まさに、

大理国黄金原始平安小将棋具はガチョウと、孔雀といっしょに来たもの

であり、天皇宅の火事の見舞いや、天皇宅に陳列する貴金属製の宝物の、
補充のつもりでの寄贈あって、形の上では朝廷に、献上されたものだった
のかもしれない

とも、上記成書を調べて、私は考え直すようになってきた。すなわち、岩
波新書・河添房江著「唐物の文化史」(2014)には、
西暦999年に来日した北宋商人の曽令文が、決まりを破って10年満た
ない、西暦1006年に再来日したが、1005年にもあった、内裏の火
災で消失した唐物や宝を献上したため、罪が問われなかったとある。これ
は北宋交易商人が、京都の大火の情報をキャッチすると、見舞い品を持っ
て、来日するのが、恒例になっていた事を示していると私は思う。なお、
前記「藤原道長『御堂関白日記』を読む」によると、天皇の住まい、居所
である内裏は、その他、西暦960年、976年、980年、982年、
999年、1001年、1015年と、多数回火事になったらしい。
黄金の将棋具が、西暦1019年の刀伊の入寇時点でも存在するケースは、
土御門亭に置いても、内裏に置いても、余り来日が早すぎると火事で消失
して、可能性は少なくなり、

大宰府で、将棋が盛り上がるためには、来日年がほぼ、西暦1015年の
パターンだけのようだ。またこのときガチョウと孔雀を持ってきた、
中国北宋商人は、周文裔(しゅうぶんえい)

であり、この人物についてはweb上で、藤原道長の交易政策に絡んで、
詳しい解説も、出ているようだ。
 なお、少なくとも「藤原道長『御堂関白日記』を読む」には、
火災の年の記録の中で、せっかく西暦1015年に贈られた将棋具が、
消失する恐れのある、同西暦1015年の火災に関して、詳しい記載は無
い。火事の被害の規模は西暦1005年と1014年が特に大きく、
西暦1015年のケースは、被害が少なかったので、無視して良いのかと
も、私には読み取れる。
 何れにしても、日本の古代史の常識だったのかもしれないが、

藤原道長の時代に限定して言えば、皇室と藤原摂関家とは同じ家

という話の中身について、最近になって私にも、ようやく理解が出来るよ
うになって、きつつある。(2017/08/13)

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アラブ・シャトランジと天文学(長さん)

マレーの「チェスの歴史」は、書かれてから大分年月の経つ、大著である。
そこには、日本の将棋の章もあり、中将棋の駒の動かし方ルールも載って
いて、すこぶる貴重な著作である。
 ところでチェス史に浅学の私には、論の背景が、はっきりとは掴めてい
ないのだが、アラブ・シャトランジと、その時代のイスラムの天文学との
間には、繋がりがあり、チェスと天文学とは繋がっている、と評する学説
があるらしい。そういえば、上記マレーの著でも、チェスの駒の一つ、
ナイトの、仮に連続して動かした場合の升目移動を、曲線で結んだ図が載っ
ていて、「ナイトの旅」とのコメントが、図の説明で付けられていたと記
憶する。
 増川宏一氏の「チェス」で、天文学との繋がり説の、説明が載っていた
と記憶する。が、「将棋Ⅰ」には、特に古典的チェス類と、天文学との繋
がりについての言及は見あたら無いようである。
 なお、アラブ・シャトランジ時代(西暦700年~800年)の日本で
の天文学は、空を眺めて星空に異変があれば、それを記録し、占うという、
占いのカテゴリーに近かった。しかし、アラブ世界では、天文学の暗黒時
代に入った、「西洋中世」に於いて、アルマゲストのイスラム語訳等も行
われ、科学的な天文学が、古代ギリシャ文明期に、取って代わって、ゆっ
くりと進展していたというのが、私の若い頃からの認識である。つまり、
この場合の、西洋チェス史学の”天文学”に、陰陽道や、その類との関連
性は、比較的薄いと私は見る。従って、

この場合の、「天文学と、アラブ・シャトランジの繋がり」というときの、
”天文学”は、現在では天文学の中で、古典的で正統な、学術領域である、
太陽系の天体運行理論のイメージで、だいたい良いのではないか

と私は推定する。なお、同じような内容が、水無瀬兼成の将棋部類抄の、
出だしに書いてある。が、日月星辰の動きの研究は、日本では江戸時代ま
では、天文道では無かったと、言う事になろう。つまり、「チェスの歴史」
のマレーの「ナイトの旅」は、ほぼ、天文学・イスラム・シャトランジ関
連説を下敷きにしているとして、的を得た説明図になっているように、私
は思うのである。
 ところで、この学説は正しいと思うのかと言えば、

私は否

だと見る。理由は、

基本的に特に太陽系内の天体は、他の天体と衝突はせずに、事実上永遠に
存在して、動き続けるという点が、チェスやアラブ・シャトランジの駒と
は大いに違う

と思うからである。恐らく、アラブの中世にシャトランジを指した棋士が、
たまに数日置きに、夜空を眺めて惑星を観察し、その位置が星座に相対し
て動いているのに気がついても、シャトランジの駒に、なぞらえる事は、
無かったろうと、いう事である。つまりマレーの「ナイトの旅」図も、
この場合のナイトは、基本的に、有限の動きの中で、相手の駒に衝突して、
相手を破壊し、また、しばしば、それ自身も相手の駒で、取り返されるこ
とを覚悟の上で、運行しているのである。この点で、慣性の法則により、
もともと止まることができず、また、空間が広いために、めったな事では、
他の天体と衝突しない、アラビア天文学で題材にされた、太陽系内天体の
多くの行く末とは、大いに異なると私は思う。
 つまり、マレーのチェスの歴史の図ように、

たとえばチェスのナイトが、いつまでも、”変わった曲線”を描きなが
ら旅を続けることは、基本的に無い。

ので、少なくとも”ナイトの旅曲線”は、架空の話だと私は見る。よって、
天文学が、チェスやアラブ・シャトランジと繋がるためには、太陽系の中
でも、衝突する天体を探すしか無いと思う。そのような天体が、全く無い
のかと言えば、18世紀頃からは、存在が認識されており、

流星物質が典型例

だと私は認識する。なお流星物質の”対局相手の駒”は地球の大気分子で
ある。
 では、たとえば駒数多数将棋の完全解析をして、太陽系内天文学の一分
野である、流星天文学に寄与する可能性があるのかと言えば、

大気中での高速突入塵(流星物質)の発光光度の挙動を、初学者が、理解
しやすくなるという点では、多少の効果は出るのかもしれない

と私は見ている。流星体単位断面積あたりの発光光度が、衝突大気分子の
数に比例しないのは何故なのかという、大気の突入角度による、流星の光
り方の挙動を解析する問題と、駒数多数将棋の競技の進行とは、関連して
いると、私は考えるからである。どういう事かと言えば、流星物質が輝く
とき、攻められれば攻められるほど多く、弾き飛ばされて、流星物質に対
して、ほとんど同じ速度で運行する、小駒に例えられる”弾き飛ばされた、
流星物質の蒸発気体分子”が、流星物質の方を止めた座標系で見たときに、
実際には激しく膨張しながらも漂う、遮蔽物群(ガス球)として存在する。
そこで大気分子に対応する、走り駒の数を増やしても、遮蔽ガス粒子群に、
大気分子が行く手を阻まれて、走り駒としての平均自由行程が、大きく減
少する。ので、相手の本陣への衝突数に依存し、さらにそれに比例する、
単位断面あたりの、流星の光度(明るさ)は、大気の密度を増加させても、
ある密度より上では、ある一定以上の光度よりも、大きくはならない。
すなわち、

流星物質表面の単位面積あたりの明るさは、大気圧が一定以上になると、
飽和するのだが、これは駒数多数将棋の、駒枯れに至らない終盤、中盤、
仕掛け局面を、この順番(逆順)でイメージすれば、理解がかなり、しや
すくなる

のではないかと、私は思うからである。つまり、攻め走り駒が多いという
のになぞらえられる、大気が濃いほど、流星は明るく輝くのではと勘違い
するのは、将棋の中盤初期の、味方の小駒に例えられる、流星物質の蒸発
分子の、地球大気分子が、流星物質本体への衝突をめざした、走り駒運行
に対する、遮蔽物として働く効果の存在を、忘れているからという事にな
る。

以上の事から現代的には、戦争に似た、衝突破壊現象である、流星物質の
発光学と、駒数多数将棋の親類であるアラブ・シャトランジとは関連する

のかもしれない。が、西暦700年~800年頃に、流星本体が、地球外
からやってきた、微小な塵であるとの認識は無く、ギリシャのアリストテ
レス以来、

アラブの中世では、流星は大気現象だと思われていた。であるから、
アラブ・シャトランジと当時の天文学とは、繋がっているとは言えない

のではないかと、私は結論しているのである。
なお、明日の明け方あたり「ペルセウス座ガンマ流星群が、たくさん出る
が、月明かりに邪魔されて、今年は例年より見える数が少ない」との旨、
さいきん私の知人から私宛に、手紙で連絡が来ているので、一応末尾に
紹介しておく。(2017/08/12)

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平安大将棋から私説108枚制普通唱導集大将棋への進化過程(長さん)

前回、概ね13世紀中ごろの、大将棋の状態を説明したついでに、以下
私説の大将棋進化について、記しておく。ただし、以下の内容は、元より
暫定的であり、詳細は、より詳しい情報が、得られない限り確定できない
と考える。
まず、出発点として、
西暦1200年頃の、大将棋は、二中歴に記載されているように、13×
13升目68枚制二中歴大将棋で、次の形だったとみられる。
なお相手陣を、こちら側から見る向きで、表示しているので、相手陣の右
辺が左に、左辺が右に来る。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②奔車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、横行、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、奔車
③歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
④空升、空升、空升、空升、空升、空升、注人、空升、空升、空升、空升、空升、空升

成りは、私の説によると、次の通り。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、空升、空升、不成、空升、不成、空升、不成、空升、空升、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
④空升、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、空升

二中歴大将棋では、異説があるが自陣は3段かもしれない。ただし、
これが30年程度で、4段目になったと私は考える。理由は”奔横”が、
発生したためである。以下30年ごとの、変化を記載するが、この30年
という数値は、不確かで暫定的である。すなわち、

西暦1230年頃の、大将棋は、4段配列になり、徳島県の川西遺跡の、
奔横が加わったものだと、私は推定する。また、飛車は飛龍と香車から、
自明に思いつけるので、この段階で、一応有ったものと仮定した。以上
により、大将棋は、74枚制になったと見られる。また奔車は、飛車が
発生した時点で、イメージが名前と合わなくなり、反車に取り替えられ
たと見られる。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、横行、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
③飛車、空升、空升、空升、空升、空升、奔横、空升、空升、空升、空升、空升、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、空升、空升、空升、注人、空升、空升、空升、空升、空升、空升

成りは、次のようなものかもしれない。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、空升、空升、不成、空升、不成、空升、不成、空升、空升、不成、金将
③不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、空升

 西暦1260年頃の、大将棋は、前回述べた96枚制程度の形と見られ、
蒙古来襲の世相から、龍神がもてはやされて、龍王、龍馬が加わり、酔象
が太子(私の推定では”釈迦”の事)を導入する目的で、復活した。
 駒を空いているところに加えるという着想は、二中歴の大将棋の記載は、
もともと防備録であり不完全というその文書の性格イメージから、省略さ
れた駒の”正当な追加”として容認され、そのパターンでしか、大将棋は
鎌倉時代は、変化しにくかったというのが、私の持論である。
 しかしその例外として、この段階で、酔象を入れるために、横行が端に
移動させられると共に、竪行と角行が考え出され、横行自体も一歩後退で
きるようになったと、見られる。これよりまもなく、奔横は、横行が、下
の段に居なくなったため、奔王という名に変わったとみる。なお、平安時
代の院政期以降は、玉駒として、玉将と王将が、混在していたと考える。
更に、鎌倉時代の戦争は、内戦で土地争いが多いため、スパイの意味の注
人は、土地争い等の調停者の意味の仲人に、取り替えられ、すぐ前升目の
歩兵に利かない角行の、前方に2つへ、中央部から移動したと見られる。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、酔象、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔横、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

成りは、次のようなものかもしれない。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、空升、空升、不成、空升、太子、空升、不成、空升、空升、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

西暦1290年頃に、シャンチー動きの酔象と、猛虎の斜め動きを竪横に
変える等して、猛牛、嗔猪、鳳凰、麒麟が発生したとするのが、私の推定
した108枚制のモデルである、普通唱導集大将棋(私説)である。なお、
猛虎が盲虎に変わったのは、私によると中将棋からである。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、鳳凰、酔象、麒麟、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

成り(1290年)は、それまでの流れからすると、次のようなものかも
しれない。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

あるいは、水無瀬兼成の将棋部類抄に、後期大将棋のパターンに合わせる
とすれば、一段目駒等も不成りになり、玉頭3枚を除くと、歩兵以外は、
不成りと言う、次のような変化も考えられる。なお表面の駒種は、基本的
に、1300年以降、それ以上は変化しなかったと、今の所見る。

普通唱導集大将棋の成り、水無瀬兼成/将棋部類抄型(1320年頃?):
段目
①不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
②不成、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、不成
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升

なお、個人的には麒麟抄の記載からみて、南北朝時代の、最末期普通唱導集
大将棋(1350年版)では、逆に金成が、一時的に増えたのかもしれない
と考えている。私説では原因は、足利尊氏の、守護の重視政策に起因した、
大将棋を指す富裕層の、意識の変化である。
 また具体的な増加は、横行を人と見たのか、飛車も奔車の類と見たかもし
れないという、推定による。猛牛、嗔猪等が、江戸時代の文献の一部に記載
されているように、金将に成ったかどうかは、良くわからない。以下では、
一例として、猛牛と嗔猪も、不成りとしてみた。

普通唱導集大将棋の成り、南北朝時代のみ(1333年~1350年頃?):
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

なお、以上の全ての将棋は普通唱導集大将棋をも含めて、西暦1320年~
1350年程度の間の、中将棋化の流れと、その成立と共に指されなくなっ
た。そして遅くとも、安土桃山時代までには、15升目制の130枚制後期
大将棋が、”大将棋”の名で呼ばれるようになったと見られる。(2017/08/11)

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興福寺出土の酔象駒は、とのような動かし方ルールだったのか(長さん)

以前述べたように、西暦1000年ころ、大理国の写実的立体駒を用いる
8×8升目32枚制原始平安小将棋将棋(右銀と象を交換)は、次のような
初期配列になっていたと、私は推定する。
相手陣を見る表現で
一段目:車、馬、象、金、玉、銀、馬、車。
二段目は全部空升目、三段目は全部兵なので、以下2~3段目は略す。象は
上の表現は相手陣を、こちらから見る向きなので、右辺に居る。
そして、この将棋は西暦1058年頃、奈良の興福寺で指され、酔象駒が、
出土していると、私は考える。が、動かし方のルールは、どうなっていたの
であろうか。以下、結論から書くと、

確定は困難だが、興福寺で指された、上記大理国の将棋の象、すなわち日本
名の酔象は、”角行の動き”とするのが、最もありそうな答え

と、私は思う。ここで酔象が角行になるのは、西暦900年~1000年頃
の、

インド・四人制生成期2人制チャトランガの象が、角行だから

である。
ただし、日本に大理国から原始平安小将棋が伝来した、概ね西暦1010年
頃、インド・チャトランガの象は、増川宏一著「将棋Ⅰ」から、銀将の動き
だったと思われる。では、なぜ大理国で、酔象を銀将の動きに変えなかった
のかと言えば、

銀将の動きは、大理国の原始平安小将棋へは、第3の将となった銀将の駒の
動きに当てたため、酔象の方は、元のままの角行にせざるを得なかった

と考えるのが、一応尤もらしいと見ている。なお、大理国では、それ以前の
馬と車は、桂馬と跳ぶ猛牛の動きであったが、こちらの2枚は、問題なく、
インド・チャトランガ、西暦1000年~1048年バージョンの、桂馬な
いし八方桂と、香車ないし飛車に変えたと思う。なお日本の将棋について、
馬が桂馬、車が香車になったのは、

4つの地方変種のうち、日本の大宰府に伝来したバージョンが、たまたま
それだったから、

と私は、もとよりはっきりしないが、今の所推定する。なお、話が前後した
が、上記3将以前の、南詔から引き継いだ、五代十国期の大理国までの、
プレ原始平安小将棋の、一段目配列は、次の通りである。

一段目:車、馬、象、銀、金、象、馬、車。

二段目は全部空升目、三段目は全部兵なので、以下2~3段目は略す。金将
は、元々は玉駒で、中央部の左側に配列されていたとみる。また、五代十国
期時代までの大理国の、ブレ原始平安小将棋の、金将と銀将の

動かし方ルールは、金将が現在の玉将の動き、銀将が現在の金将の動き

だと、私は推定する。つまり2将から3将になったのは、銀将の加入ではな
くて、玉将が発生して、金将・銀将が、ずれたからだと、玄怪録の金象将軍の
文字列から、私は推定するのである。
 だからブレ原始平安小将棋期や玄怪録の将棋の歩兵は、副官格である、
当時の金将動きの銀将に、3段目で成ったとするしかないだろう。また玄怪
録の解析により、車駒が出しやすい、3段目歩兵配列であるとの溝口和彦さ
んの説には、説得力が有ると私は考えるので、中国雲南では3段目歩兵配列
が、比較的早く発生したと思う。
 なお、私の推定だと、興福寺の酔象は、西暦1080年頃の院政期に、
大江匡房の、9×9升目標準平安小将棋(玉駒王将型)の提案で一旦消えた
後、蒙古来襲前後の西暦1250年頃に、平安大将棋と普通唱導集大将棋と
の間に位置すると、私が推定する13×13升目駒数96枚程度の大将棋

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、酔象、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔横、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

へ、上のように、玉将の直ぐ前の升目の、太子に成る酔象として、復活した
とみる。復活した理由は、猛古来襲期の当時の世相を反映して、”宗教的な
もの”と、私は見ている。なお、このときの酔象の動きは、鎌倉時代中期に
は、南宋の中国シャンチーは、充分によく知られていたので、角行や飛龍と
バッティングしてしまう、大理国の象の動きではなくて、シャンチーの象の
動き、すなわち、2升目のみでしか止まれない、2升目までの、斜め走り駒
リニューアルされて、いたのであろう。なお私見では、更に

 酔象が、現在の7方向動きになったのは、ディフェンスの調整を念入りに
行うことにより、西暦1400年以降急速に盛んになった、南北朝時代の
中将棋の発生以降

だと見る。
根拠は、上記の96枚制に、後に猛牛、嗔猪、成りが奔王の鳳凰、成りが
師子の麒麟が加えられ、108枚制の普通唱導集大将棋に西暦1300年ま
でにはなったが、猛牛、嗔猪、という十二支駒の動きを決定する上で、酔象、
猛虎の斜め動きを、縦横に変換して、猛牛、嗔猪の動きを決めた、と考える
のが、自然とみるからである。
 ちなみに、酔象は大理国で角行になる前、西暦900年以前にまで遡ると、
前に述べたように、玄怪録の上将、すなわち飛車の動きになる可能性が、あ
ると思う。以上まとめると、日本で

酔象と称される駒は、

800年~900年は飛車、900年~1010年は角行で、以上中国雲南
省に存在。1010年~1080年も角行で、日本に存在。その後日本では、
院政期の、平安小将棋9升目化改革政策により、一旦消失。ついで1250
年~1350年はシャンチーの象(日本で使用)動きで大将棋に復帰。
1350年以降は、日本の中将棋・朝倉小将棋等で、7方向隣接升目動きで、
現在に至る

という結論になる。(2017/08/10)

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増川宏一「将棋Ⅰ」記載の四人制チャトランガのルールは、2人制の転用(長さん)

増川宏一氏の1977年版の「ものと人間の文化史 23-1 将棋Ⅰ」
法政大学出版局に、現在ではインドの11世紀のゲームであると、されて
いる四人制チャトランガの駒の動かし方ルールが、紹介されている。

象が角行、馬が日本桂馬、車が跳ぶ猛牛である。

玉は玉将、歩兵はチェスのポーンだが、最後の2つについては、さして
大きな問題は無いと思う。問題は、1段目端3列駒であるが、このルール
は、良く考えてみると、なぜか

4人制チャトランガの駒の動かし方ルールとしては、最悪のパターンを
選択している

と、私は思う。

象と車が、筋違いのため、対面の玉に当たらず、馬は、実質、自分の左側
に居る、プレーヤーの馬1枚を狙っているにすぎない

からである。増川宏一氏は、著書の中で「対面同士のプレーヤーが、連合
を組むという、欠点がある」と、四人制チャトランガの弱点を、評してお
られる。以前は、四人制であるから、いつもそうなるのかと、漠然と私は
考えていたのだが、この四人制チャトランガの欠点は、

駒の動かし方ルールを、たとえば現代に伝わる、インド・チャトランガ
ルール、象を銀将、馬を八方桂馬、車を飛車にすれば、かなり良くなるの
ではないか

と、私には疑われ出した。
 逆に言うと、この四人制用にマッチしていない、西暦1000年頃の、
四人制チャトランガの「角・桂馬・猛牛」ルールは、

西暦900年から西暦1000年頃の、インドの二人制チャトランガの
個別の駒の動かし方ルールの、単なる転用

である事を、示しているのではないかと私は疑う。二人制ならば、象、
馬、車駒は、左右で互いに筋違いになるので、対面の競技者と、連合を
組む気には、ならなくなるからである。
 何れにしても、「将棋Ⅰ」に記載された、チャトランガの駒の動かし方
ルールの変遷部分と、アラブ・シャトランジのルールを記載した、アラブ
の古文書の年号情報を、WEB等で、増川宏一著「チェス」2003年の
記載内容情報として、比べてみた限りにおいては、四人制チャトランガが
インドで発生した西暦1000年前後時点で、アラブ・シャトランジは、
既に充分に熟していたように私には、認識された。そのため恐らく、イン
ド・チャトランガのルールが、迷走している間に、アラブ・シャトランジ
の方は、象・馬・車が、跳ぶ飛龍、八方桂、飛車に比較的早くに標準化さ
れて、著名な棋士も、発生していたという状態であった、という心象を、
私は今の所、日本語の成書を読んだ限りでは、崩す事が、出来ないでいる。
 つまりアラブ・シャトランジは、充分にアラブ域内では、著名になって
いたので、たとえば、上記で論じた西暦900年~1000年版の、イン
ド・チャトランガ新ルール(四人制生成期二人制チャトランガ)や、西暦
1000年~1048年の、”象駒銀将動き、八方桂の馬と飛車の車の発
生のルール”等は、これらの

どちらをとっても、大して差が無いような、気まぐれな変化と言える
インドの新ルールを、アラブ・シャトランジへは、ほぼ取り入れない状態

に、既になっていたのではないかと、私は疑っていると、言う事になる。
そして、既に安定化したアラブ・シャトランジは、その変化も、それまで
のインド・チャトランガのような100年オーダーから、日本の日本将棋
時代の変化のように、数百年オーダーと緩やかになり、ヨーロッパに伝来
しながら、西洋チェスに進化したのではあるまいか。(2017/08/09)

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