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普通唱導集大将棋は104枚制か108枚制か(長さん)

普通唱導集大将棋の将棋の面白さとしての性能は、104枚制と
108枚制とで大差はないと私は考える。ここでは、文化的な
側面から、108枚制の方が、確立されたゲームとしての権威を、
日本の中世に於いては、保ちやすいと言う観点から、108枚制
ではないかという点について述べる。なお現代人がこの点を理解
するには、

お寺大晦日の除夜の鐘の数の将棋が、昔有ったと言うのは
尤もらしいから108枚なのだ

と表現した方が、何を言いたいのか、直接的で判りやすいかも
しれない。つまり、

私の108枚制の普通唱導集大将棋の駒数は、人間の煩悩の数に
由来しているのである。

 普通唱導集は西暦1300年頃の作であるが、それより少し後
の南北朝時代の異制庭訓往来に、将棋の説明があり、
「小さいもの(小将棋)の駒の数は、36の獣の列位を象り」と
あって、この36の獣とは、座禅を組んでいるときに、行の邪魔
をする、人間の煩悩に由来する魔物を表すと、増川宏一先生が、
「ものと人間の文化史 将棋Ⅰ」で解説されている。なお、将棋
の駒が、仏教的に煩悩を表すという、別の根拠としては、最近
曼殊院で発見された、中将棋の駒の字を習字の手本にした、江戸
時代初期作とされる「将棋馬写」という書に、邪念の「邪」の字
を書く練習が何度か現れている点等を、挙げる事ができると思う。
 ちなみに辞書を適宜調べると、この36の獣が現れる時期を、
現在・過去・未来に分類して、108とするのが、除夜の鐘が
108つ、つかれるときの、鐘の数の根拠になる煩悩の数の
説明となっている。つまり、

9×9升目36枚制平安小将棋のちょうど3倍の、108枚制で
鎌倉時代後期に大将棋が存在するというのは、将棋の駒を煩悩
の数と合わせるという事からすると、かなり尤もらしい

事なのである。ちなみに13升目盤に108枚の駒を、本体が概ね
計8列になるように並べると、どうしても、びっしり駒が並ぶ
形になってしまう。駒数多数の将棋で、摩訶大大将棋以下では、
自陣に、初期配列で空の升目が必ずあるため、普通唱導集大将棋
を104枚制にした方が、他の例と同じになっている、という別の
尤もらしさは確かに有る。しかし、小将棋の3倍ちょうどの駒数
を、大将棋の駒の数にしたというのは、上記観点からすると、
よりありそうだし、

水無瀬兼成が成立に絡んでいると疑われる泰将棋や、江戸時代に
大橋家が成立に絡んでいると疑われる大局将棋が、自陣初期配列で
空き升目の無い将棋であるから、他例が全く無いとは言えないと
考える。

それに、そもそも駒がびっしりになったのは、事実上平安大将棋
を骨組みにして、新たな駒を機械的に加えていった結果、遂には
満杯になってしまったという経緯であるから、こうなってしまった
理由は、理不尽とまでは言えないだろう。私は、

しょせん、二中歴の平安大将棋の権威が続いていた以上、他人に
新たな大将棋が認められるには、平安大将棋の元々の駒配列に、
新たな駒を加えるより、その新大将棋の生き残りの道は無かった

という観点からも、普通唱導集大将棋の形を限定している。以上
の事から、私の仮説13×13升目駒数108枚制の大将棋は、
仏教文化が支配していた日本の中世の感覚と、大きく違っている
という理由で、有り得ないという事は少なくとも無い、大将棋の
一つの仮説モデルだと、私は現在考えているのである。
(2017/05/13)

大将棋における嗔猪の動かし方のルール(長さん)

前に、中将棋に興味を持つ方が自身のホームページで、水無瀬兼成
の将棋部類抄の、嗔猪の動かし方で、後ろの隣接升目に動けない
とされている点を問題にされていた事があった。このケースは、た
とえば江戸時代の将棋の書で、西暦1694年版の諸将棋図式(正
しくは、「将棋」は「象戯」。以下簡単のため、現代字に代えている)
の筆写本で、故松浦大六氏が所蔵し、増川宏一先生が自身の著書で
本文を紹介されている、将棋図式に、嗔猪の動かし方のルールは、
「前後左右歩む」との旨になっており、図にも四方向動きで書かれ
ているので、水無瀬兼成の将棋部類抄とは、確かに違っている。
 従来駒の種類が多く、小駒が目立たない日本の駒数多数将棋、
たとえば後期大将棋で、嗔猪の異説だけが取り上げられて問題にさ
れる事はほとんど無かったと思う。しかしながら、私の場合、西暦
1300年時点で、68枚制の平安大将棋から、その時代の大将棋と
私が考える、108枚制の普通唱導集大将棋に、新たに加わった、
隣接升目だけに動かせる小駒は、嗔猪ただ一種類だと考えている
ため、嗔猪の動向はかなり重大な事項となってしまう。

しかもルールは、安土桃山時代の文献より、江戸時代の文献が正しい
方が、実は私の説にとっては都合が良いのである。

なぜなら私の説では、当時大将棋に存在した、猛虎の動きの斜めと
縦横を入れ替えて、嗔猪にしたと考えるからである。これは、
当時のシャンチーの象・相動きの酔象、猛虎が、酔象と猛虎の間
に麒麟か鳳凰が挟まる点に目をつぶれば、当時のシャンチーの象・相
動きを斜めと縦横とで入れ替えた、猛牛、そして嗔猪が、4つ一組
で、比較的ルールが覚えやすいように、並べられたと推定している
点からきている。なお嗔猪が小駒であるという点に関しては、相手の
走り駒、角行の攻撃を、小駒である、仲人・嗔猪・桂馬で防がなけ
れば、駒得で有利にはならないから、普通唱導集の第2節の内容
から見て、少なくとも小駒である事だけは、確かなのではないかと、
私は思っている。

ただし、水無瀬兼成の将棋部類抄の、後退できない嗔猪という説が、
絶対に正しいという事も無いだろうと思う。

そもそも、嗔猪が一歩後退するという手を指すというのは、かなり
稀であり、もともとどちらでも良いという程度の差だろうと、私は
思う。ではなぜ、より時代が下った新しい将棋の書の方が、
もともとの鎌倉時代後期の正しいルールを記しているのかだが、

江戸時代の将棋図式の著者が、誠意情報を収集した結果、江戸時代
にかすかに残っていた、嗔猪の正しいルールが、たまたま記載された
という事が、絶対に無いとまでは言えない

と、歯切れは悪いが、その程度の事しか私には言えない。そもそも
将棋図式には近代になって、だいぶん調査が進んでから明らかにな
った、36×36升目804枚制大局将棋の情報が載っているし、
猫叉の2回動きで、天竺大将棋の奔鷲の動きを説明している点も、
麒麟の元々のルールをどこからか、知りえた可能性もあり、興味
深い点と私は考える。なお、将棋図式の著者が嗔猪を、計4方向
隣接升目動きにしているのは、明らかに、猫叉と対駒と考えている
からである。
 大局将棋を知りえる人間が、二中歴の平安大将棋を知らないとは
考えにくく、平安大将棋は将棋図式には書かなかったので、平安
大将棋の猛虎を大将棋の猫叉で置き換えて、天竺大将棋の奔鷲
の動きを、説明したのかもしれないと私は思う。猫叉は平安大将棋
の猛虎と同じ動きであると、将棋の進化過程に関する、何らかの
情報源を持っていたのかもしれない将棋図式の著者には、特に注目
されていたのかもしれない。
 更には、将棋図式の著者の鉄将の動きの説明が「前進方向の、
三つの角に、それぞれ一歩歩む」となっていて、ややおかしく
独特である点が挙げられる。実はこれは、平安大将棋の二中歴の
鉄将の動きが、「後退方向の三つの方向に、行けない」となって
いるのに、説明のしかたが似ている。個人的に私は、平安大将棋も
江戸時代の将棋図式の鉄将の説明の仕方の方が、二中歴の説明より
正しく、平安時代中期の二中歴の元著者が、ルールを間違えた
可能性も有るとみている。根拠はあまりクリヤーなものではないが、

平安大将棋で、最下段の駒が金将から袖に向かって、香車が走り
である点に目をつぶれば、鉄将が後期大将棋の動きでさえあれば、
順に6、5、4、3、2、1方向動きと、規則的になって、より
覚えやすくなると考えられる

からである。将棋図式の著者は、江戸時代の人ながら、平安末期
の将棋のルールに関しても、我々が知りえるより、詳しい情報を、
どこかから、仕入れていたのかもしれない。大局将棋の発見の
一件が前例として有る以上、将棋図式の後退できる嗔猪が、絶対
に間違ったルールだとまでは、以上の事から、今の所は言えない
のではないかと、私は思っている。(2017/05/12)

現代鳳凰の斜め動きのルール(長さん)

今の所、中将棋の指し手の人口は、ゼロになるという事が無さそう
なので、中将棋に於いて、鳳凰は斜めに1升目跳びの動きである事
は、誰もが知りえる事である。ところで仮に、最近の文献が全部
消失して、かつ口伝は全く信用しないという条件の中で、鳳凰の
斜め1升目跳びルールが、再現できるのかというと、かなり怪しい
ように私は思う。
 そもそも、文字で書かれた文献で、鳳凰を斜め跳びと記しているの
は、過去何回か述べた、プロ将棋棋士七段の岡崎史明氏が1970年
頃に記した「中将棋の指し方」が、古いといえば、なんとか納得でき
る程度に古い、唯一の文献である。
 そしていわゆる古文書で、この鳳凰の斜め跳び越えを証明しようと
なると、かなりきついと感じられるようになる。そもそもの源の文献、
安土桃山時代の水無瀬兼成の、将棋部類抄には「鳳凰の斜め動きは、
(踊りの動きとされる)飛竜の動きではない。」と書いてあるだけな
ので、走りとも跳びとも、決定できない。
 また、江戸時代の中将棋のルールを記載した、2~3の書籍
見てみれば判ると思うのだが、鳳凰の斜め動きについては、以下のよ
うに書いてあって、パターンが決まっているのである。すなわち「

鳳凰は斜めに2升目まで行く。ただし隣接升目へは行けない。

」と表現されている。
つまりこれでは、動きが2升目という升目数限定型である事が判っ
ても、ここでは動きのタイプが、将棋部類抄にあるように、「飛竜
の踊り型とは違う」として、跳び型なのか、シャンチーの象・相の
走り型なのか、型が問題なのに、さっぱりそれが判らないのである。
つまり、故大山康晴栄世名人とともに、中将棋を指していた、プロ
日本将棋棋士岡崎史明七段のような方に再登場してもらえない限り、
ゲーマーが実際にい無いと、現状かなりの自信を持って、

鳳凰は斜めへは一升目跳ぶ

とは、主張しづらいほどなのである。ただし、現在では中将棋を指せる
人が実際居るので、多勢に無勢の原理でもちろん、こんな、基本的な所
では問題は起こらない。以上の事から、これからも未来永劫、ある程度
の人数を保ちながら、中将棋が存続するよう、よって心から願わずに
居られないところである。(2017/05/11)

現代における、後期大将棋の麒麟の格(長さん)

日本将棋と異なり、駒数多数系の将棋には”麒麟”という駒がある。
江戸時代以降の大大将棋、摩訶大大将棋の一部、泰将棋では、大龍
という駒に成るが、概ね師子に成るとされる場合が多い。何れも、

不成りとの説が、見あたら無いのが特徴である。

動かし方は、縦横が2升目先に跳び、斜めが歩みである。成りの大龍
の動かし方には諸説あるが、前後に2つ踊り、斜め後ろに3つ踊り、
横に走ると共に、3升先まで跳ぶと解説する書が多いと思う。
 師子については、動くたびに方向が変化してよい2歩踊りと、隣接
升目への歩みを兼ね備える、最高に強い駒である。また、中将棋と、
現代後期大将棋に関しては、師子に関する特別な規則が、適用される
場合がある。なお、一部の史料に、天竺大将棋以上で、師子の動きは、
より強くなると、主張するものもある。
 この麒麟に関しては、以前から紹介している、将棋プロ棋士の
故岡崎史明(執筆当時)七段が、「中将棋の指し方」の中で、

「麒麟は(中将棋では)小駒」と表記されている事で知られる。

が、今世紀に入ると後期大将棋では、麒麟の格は大駒として、取り扱
われていると、私は認識している。
ここで誰が後期大将棋で、麒麟を大駒として扱っているのかと言えば、
スティーブ・エバンスと言う、オーストラリア人の開発した「将棋類」
という、PC対人対局ソフトのAIが、「麒麟は、後期大将棋では並の
走り駒との交換には応じず、失わないように指す」と、実践している
のが根拠である。つまり少なくとも後期大将棋では、

今世紀に入ると、”麒麟”は機械には大駒扱いされているのである。

ただ、上記のオーストラリア人の開発した、将棋のコンピュータソフト
は、1998年頃に出来たままのため、たぶんディープラーニングの
技術は使用されてはおらず、麒麟の価値は、人間がマニュアルで決定し
たものと、推定される。たぶん開発者は、後期大将棋では「麒麟を取ら
れないよう指すべきだ」と、人づてに、誰かから教わって、そう調節
しているのであろう。しかし残念ながら、後期大将棋では、人間同士の
対局例が余り、残っていないため、麒麟の格を21世紀の人間が、全般
的に大駒と認識しているかどうかについては、現在でもぼやけている。
 何れにしても麒麟は、ゲームによって小駒扱いされたり、大駒扱い
されたり変化する、可能性のある駒である。なお、

中将棋で麒麟が小駒なのは、一局の中で、成り麒麟の師子のできる、
確率が低いからである。

これは、中将棋では斜め走り駒が、序盤に急激に斬り合いをしないよ
うに、駒の初期配置が、全般的に巧妙に調整されており、その結果、
縦走り駒の先の歩兵が、突き捨てられた列ができにくく、特に縦横走り
駒が終盤まで残って、麒麟の前進を邪魔するためである。すなわち、
中将棋では、小駒をジリジリ上げてゆくような、将棋が多くなるため、
最後に、縦走り駒の斬り合いになり、麒麟が登って師子となって、相
手陣を壊す展開になる前に、終局になるというわけである。そこで、

師子に成る機会が無いのであれば、麒麟は麒麟の動き本来の強さだけ
が問題になるので、中将棋では麒麟は、ほぼ小駒なのである。

当然だが、斜め走り駒で、歩兵の列が崩れて、縦走り駒の斬り合いが
中盤には進む後期大将棋では、麒麟は本来の麒麟の動きではなくて、

麒麟は師子に成る駒であるという点が重要になる。そのため後期大将棋
では、並の走り駒では、交換には応じずに、温存するように大駒扱いで
当然指すのである。

何分対局に関する情報が乏しいため、私の場合麒麟の、この駒の価値
判断の実体については、スティーブ・エバンスの「将棋類ソフトのAI」
程度しか、きちんとした根拠を、今の所挙げる事が出来ない。
 なお大将棋では、普通唱導集の時代に既に、麒麟は大将棋では師子に
成っていたと、私は推定している。つまり、普通唱導集大将棋と後期
大将棋で、麒麟の価値は高いことで一致すると、私は見ている。
普通唱導集は鎌倉時代の西暦1300年頃、水無瀬兼成の将棋部類抄は、
安土桃山時代の西暦1580年代であるから、麒麟のルールに関する
根拠は、将棋部類抄ではなくて、14世紀と推定されるとも言う、

鎌倉鶴岡八幡宮の、成り奔王鳳凰駒と、不成り香車駒の対の出土である。

この事から、駒の出土史料が重大な結論を及ぼす例が多いと、私には
しみじみと感じられる。(2017/05/10)

西暦1300年から1330年の30年で高麗は主権を回復している(長さん)

世界史をざっと調べれば判るが、13世紀の後半モンゴル帝国が、
元王朝を樹立して、朝鮮半島を制圧すると、高麗は元の属国とな
っており、宋代までの中国文化を吸収しながら、朝鮮文化を樹立
し、その影響が日本に及んでいる国との機能が、停止してしまっ
ていたとされている。少なくとも日本人向けに、日本人が書いた、
大人向けの教科書では、元が滅んで明代になるまで、朝鮮半島から
宋代以前の、古典的な文化の流入は、貨幣のような物量的なもの
と違って、精神的な物に関しては乏しく、元化された朝鮮高麗と
の交流になっていたととれる記載が、ほとんどである。
 しかしながら、意外だったが、在日韓国人向けに、ナショナリ
ズムを鼓舞する目的で書かれたとみられる、児童向けの図書には、
元王朝の支配下にあった時代の、高麗の国王に関する独立国家を
取り戻すための努力に関する美談だとか、それまでの朝鮮半島に
おける文化の保持・継承のために尽くした”英雄の話”といった
内容が、かなりのページを割いて、書かれているのに、私は調
べていて気が付いた。
 少なくとも新安沖沈没船の時代には、物量としての貨幣等の
中国産物が、大量輸入されるまでに、元王朝の朝鮮半島における
統制は変質していただでなく、

1330年頃に、それまで元の支配に抑えられていたため、モン
ゴル文化の浸透が主体だった朝鮮半島内には、国内に復古的な
もともとの韓国文化を保持・継承するための、学問所等ができて、
高麗国学が復活しつつあったと、とれる事象があるらしいと、
上記韓国人向け歴史児童書を読んで、私は最近になり初めて知っ
たのである。

つまり、1300年頃には、将棋文化で言えば、宋王朝から伝わっ
た駒数多数将棋より発生した、15升目や路盤程度を使うと見ら
れる広将棋の文化は、消えかかっていたのであろうが、1330年
頃に朝鮮半島の高麗国内に、学問所ができて、古典文化の復古が
始まると、高麗国内ではほどなく”日本に広将棋を伝承する”
程度までに、情報の保存が強化されたという事にもなるらしい。
だから、

西暦1300年なら無理だろうが、1330年ごろだと、新安沖
沈没船に、15×15升目盤を、積む事も可能なのかもしれない

と私は思うようになった。もともと西暦1300年から1330年
の間の30年間に、朝鮮半島と日本の間の交流は、いっきに盛ん
になったとは私は聞いている。西暦1300年から1330年の間
に、元王朝の朝鮮半島付近での支配力が、少なくとも精神のレベル
では、かなり低下したという事なのだろう。
 以上の事から、在日韓国人の子女向けの通俗歴史書を読んだだけ
なので、未だはっきりとはしないのだが、

ひょっとすると、西暦1330年頃沈んだ船に、後期大将棋用の
将棋盤が積んであっても、その、たった約30年前の、1300年
頃の、普通唱導集の大将棋の時代に、15升目の”韓国広将棋の
影響を受けた大将棋”が指されていたとは、限らない可能性もある

と、疑われるようなのである。(2017/05/09)

後期大将棋の対局規定の問題(長さん)

以下いままでと少し視点を変え、中世の大将棋のルールではなくて
現在の後期大将棋のルール、特に全般的な成りの条件等の、”対局
規定”について、議論する。西暦1970年頃に、将棋のプロ棋士
だった故岡崎史明氏(執筆当時7段)が、冊子「中将棋の指し方」
で”本論”部を記載されていた。その出だしに、後期大将棋の紹介
があり、「西暦1967年頃に、当時渋谷に有った東急百貨店の、
『将棋まつり』で、盤駒が(恐らくは、初期配列で駒が並べられて)
出品されたが、残念ながら西暦1970年時点では、『対局規定等は
さっぱり判らない』と、(説明ブースにいた方等から)聞かされた」
と、述べている。ところで西暦2017年現在、この後期大将棋の
対局規定は、どう考えられているのかといえば、

中将棋のルールのパターンに準じる

というのが、定説のように私は理解している。では、何を元史料と
して、そう考えるケースが多いのかといえば、たとえば、水無瀬兼成
の将棋部類抄の、中将棋の駒の補足説明の、最後の部分で、

或説云居喫師子許也鳳凰仲人等行度如大象戯
等と書いてある事等によるだけだと思う。つまり、

少なくとも、この文献のより手前に記載された中将棋に、少なくとも
駒の動き等を、江戸時代の文献等を参考に口伝も含め、成り先につい
ても、現在の後期大将棋は、中将棋にぴたり合わせているのであるか
ら、現在の後期大将棋の対局規定一般は、中将棋と、同じと解釈で良
い、と2017年の現時点では、見る場合が多いと言う事であろうと
思われるのである。ちなみに、江戸時代の将棋の本は、上の一文を、
今の意味に取って習ったのか、たとえば前回紹介した、象戯図式では、
後期大将棋のルールの説明で、

駒用行小中象戯有之分畧之

等と書いてある。実は、私は前の水無瀬兼成の将棋部類抄の一文を、

”或る説によると仲人を師子が付け喰いする事が許されるという。な
お、鳳凰や仲人等の動かし方のルールは、次に述べる大将棋では中将
棋と同じとする。”
と意訳しているが、大阪電気通信大学の高見先生は、

”或る説によると仲人を師子が居喰いする事が許されるという、また
その異説では、中将棋の仲人と鳳凰の動きは、特殊な動きをする、
後期大将棋の仲人と鳳凰の動きと、いっしょだと言う。”

と訳されている。ところでここでは、問題がより複雑な、

異説が、どこの部分に掛かるのかというのが、問題なのではなくて、
”中将棋は大将棋の対局規定に従う”と高見先生が訳されたのと、
私が、書籍の構成上、
”大将棋は中将棋の対局規定に従う”と意訳しているのとで、反対で
あるという、より原始的な部分

が問題である。なお、水無瀬兼成の将棋部類抄の、中将棋と大将棋の
初期配列図での、駒の動かし方ルールを説明する赤点は、写本によっ
て、鳳凰、仲人の部分が一致しておらず、上記の正否は自明ではない。
ひょっとすると、私の漢文に対する知識の基本は欠落しているので、
基本文法に従わない私の解釈は、邪道なのかとも考えている。しかし、

私のように解釈すると、江戸時代の将書のパターンとは一致するし、
最近のwebでの”大将棋の理解のされ方”とも、一致する

ので、いっけんして不思議なのだ。
基本文法の問題なので、”如”の字の使い方を、正しく理解している
方なら、基本的に高見先生の方が正しいと思われるのだが、それが直
ぐに判る程度の、漢文の問題には違いない。しかし、水無瀬兼成のこ
の文の部分は、”大将棋の仲人・鳳凰と”の「仲人・鳳凰等と」とい
う語句を省略してしまっている訳だから、そのために判りにくくなり、
論理も水無瀬兼成が、書いた本人が、間違えてしまっていると考える
のが、私の「読み」である。実際、この部分の解釈が将来、どういう
結論になるだろうかと、大将棋の対局規定の問題も含めて、私は興味
を持って、今後の展開を見守っている。(2017/05/08)

江戸時代の駒数多数将棋の書”象戯図式”後期大将棋仲人の位置の謎(長さん)

これまでこのブログでも、後期大将棋の仲人の初期位置は、角行の前
の歩兵の更に前の升目、すなわち先手の側で、5十および11十とし
てきた。しかし、私の知りえる範囲で、江戸時代、元禄7年の諸象戯
図式の筆写本とされる将棋の書、”象戯図式”の後期大将棋では、
4十および12十の、竪行の前の歩兵の更に前の升目に、仲人が記載
されている。

言うまでも無く、普通唱導集の大将棋の記載では”嗔猪と腹を合わせ
桂馬で、支えられるとみられる、仲人の記載があるから、この異説を
書写の誤りと、簡単には切り捨てないで、詳しく議論すべき

と私は見る。ただし、象戯図式の”大象戯”の4列五段の位置の、
聖目の打ち方は、4・5升目の聖目というのが、体裁として変であり、
後期大将棋と類型の摩訶大大将棋では、象戯図式でも、仲人が角行の
前の歩兵の更に、前の升目になっており、不自然さは確かに多い。
 研究者によっては”水無瀬兼成の将棋部類抄が、これらの江戸時代
の棋書の、元々のネタである”として、将棋部類抄の角行前の前の升
目の仲人にしか、言及しない場合も有るように思う。ただし将棋部類
抄には、天竺大将棋の初期配置図が無く、天竺大将棋では縦走り型の、
飛鷲の前の前に犬が来るので、誤写と頭からは決め付けられず、そこ
には何か、本当はあるのではないかと、かんぐりたくなる、悩ましい
事項である。
 ただ以下私見だが、象戯図式の後期大将棋配列が万が一正しいとし
ても、

やはり、後期大将棋には猛牛に、猫叉の紐が付いているので、斜めと、
縦の走り駒の連携で袖を破るのは、”竪行頭仲人ルール”でも難しい

と私は思う。つまりその場合は、相手右角行で右竪行前の歩兵が狙わ
れていると考える訳であるから、仮に嗔猪を1歩袖に寄せてから上げ、
歩兵の段、五段目で待機させて、斜め攻撃に対応させたとして、この
ケースは仲人が歩兵の所に、仮に一歩下がって守る展開に仮になれば、
3十一位置の嗔猪と3十三と跳んだ桂馬で、”支えられる”となる訳
である。つまり、仲人が、元々5段目にい無いのを、歩を取った相手
駒で取り返す事で、一歩下がって桂馬で支えられると、考えるという
事だ。普通唱導集大将棋が、後期大将棋であると紹介した、初期の文
献にも、このような展開を示唆する棋譜が、確か載っていたように
私は記憶する。しかしこのケースも、仮にその地点を更に破られ、2
十三位置の猛牛が取られたときに、同猫叉と取り返す事が元々できる
のであるから、

それまでして4十一の地点を支える意味が、本当にあるのかどうか謎

だと思う。つまりその後、1筋の後手香車、反車で、この後期大将棋
の”耳が破られる”事は、やはり無いのではないかと言うことである。
従って普通唱導集の大将棋が、歩兵が4列目に存在する、象戯図式
後期大将棋という事も、やはりほとんど可能性が無いように、私は思
うのだが、はたしてどうであろうか。(2017/05/07)

中将棋の「獅子の特別な規則」はいつ成立したのか(長さん)

以下、大将棋話題からは少し外れるが、中将棋が普通唱導集時代
の大将棋を、恐らく駆逐する理由になったと、少なくとも私は見る
「獅子の特別な規則」の成立時期について議論する。私見では、

南北朝時代の間と考えるが、文献としてはっきりとしているのは、
江戸時代、元禄16年松葉軒板「中将棋(基)指南抄」以降のよう
である。

ただし、個人的には安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋部類抄録の
「仲人 不行傍立聖目内成酔象或説云居喰(喫)師子許也」を、
”仲人は初期配列のときには横には動けず、相手陣の5段目(聖目
内)に突入して初めて、横にも動ける酔象に成る。さらに或る説に
よると、

師子は仲人については、付け喰いもでき(居喰いと付け喰いを、
間違えていると考える)、結果付け喰いの例外規則になっているのは、
歩兵だけだと言う。”

と、意訳しているため、獅子の特別な規則は、安土桃山時代からは
有ると考えている。であるにしても、

水無瀬兼成の将棋部類抄も、西暦1580年代より以降であるから、
中将棋が全盛だったとみられる、西暦1400年から1500年の
間に、”師子を師子で直接とる規則”とか”先獅子の規則”だとか
が、有ったのかどうかについては、史料は無いため、仮説といえば、
仮説だろうとは認識する。

 しかし、もし「獅子の特別な規則」が無かったとしたら、西暦
1400年から1580年まで、獅子の特別な規則の無い中将棋と、
持ち駒ルール有りの9×9升目36枚制平安小将棋の並存時代だ
ったはずで、さぞや将棋界は低迷していただろうと、想像するのは
容易なような気もする。そもそも、獅子の特別な規則の無い中将棋
が、普通唱導集大将棋を、本当に駆逐できたのかどうかも、ひょっ
とすると疑わしいかもしれないと、個人的には思うのだ。そこで、
獅子の特別規則の成立年代は、未だ仮説でしか無いのだが、
西暦1450年の南北朝時代に、中将棋が成立してまもなくの頃に、
盤が12升目と小ぶりなために、獅子の互い取りが起こりすぎる事に
容易に気が付いた将棋指しが、比較的早い段階で、導入したのでは
ないのだろうかと、今の所私は考えているという訳である。
(2017/05/06)

玉製仏像中国各地博物館のチェック(長さん)

以前中国雲南省の博物館、雲南省博物館に、11世紀ころの、
大理国の水晶製の仏像があり、玉仏、玉の大理国皇帝、つま
り、将棋の玉将の起源かもしれないとの旨を、このブログで
私は表明した。しかし考えてみると、水晶等、玉製の仏像が、
中国各地の博物館に、幾つも見られるようだと、日本の
平安小将棋、大理国起源説は、相当に怪しい事になってしま
うのではと、懸念する。そこで最近、中国各地の博物館の、
比較的有名な展示物に、同様な素材の仏像が、どの程度ある
のかを、ざっとチェックしてみた。その結果、少なくとも、
日本で紹介されている、中国の博物館の、有名どころの陳列
品の範囲では、

水晶製の仏像は、雲南省博物館だけのようであった。

ただし、素材として銅に金をかぶせた金銅仏は、中国でも
他の所にもあり、上海博物館の北魏時代の金銅仏や、浙江省
の金華市には、五代十国時代の金銅仏が発掘され、紹介され
ていた。ただし、上海博物館のケースも、金華市のケースも、
同一地点から、玉、銀、銅その他、いろいろな鉱山資源を
使用した仏像が、雲南省大理市のように、同時に出土すると
いう例は、ほぼ無いようであった。その他、磁将という将棋
駒は日本の将棋には無いのだが、磁器製の仏像や、囲碁盤が、
河南省の博物館に、隋の時代の物として、あるとの事であっ
た。ただし、河南省の博物館のケースも、同時にいろいろな
素材の仏像が、陳列されてはいないようである。
 以上の事から、今の所、日本の史料に将棋が最初に現れる
11世紀の頃に、玉・金・銀・銅・・・にちなんだ遺物が同
時に出土する外国の地域として、私には、中国雲南省の当時
大理国の首都があったとされる、大理市以外には、紹介され
ている外国の博物館の陳列品の例を、発見できてはいない。
 従来、小将棋が将棋史研究の主体であったために、昔の日
本の将棋には、玉、金、銀の将以外に、銅、鉄、瓦、石、土、
木の将が存在するという点に、余り注目がされなかったと思
う。しかし私に言わせると、日本の将棋の伝来元や起源を論
じる際には、玉、金、銀だけでなく、銅、鉄、瓦、石、土、
木に関連する事物も、概ね同時に存在する地点を、将棋伝来
の候補の一つと考える事には、現実には日本の将棋種として、
駒数の多い将棋が概ね古い物が多いため、全く意味が無いと
までは言い切れないのではないかと、思われるのである。
(2017/05/05)

普通唱導集の大将棋では、なぜ「相手飛車を退けると勝勢」なのか(長さん)

故溝口和彦さんが、”普通唱導集の大将棋は15×15升目130枚
制後期大将棋ではない”と、考える発端となった、相手飛車を退ける
と、勝勢となる理由について考える。溝口さんは「これを普通唱導集
の大将棋には、飛車以上に強い駒が無いから」と解釈し、その考えか
ら出発して、初の後期大将棋以外の仮説、彼の普通唱導集大将棋モデル
は形成された。他方、私の後発13×13升目108枚制の普通唱導集
大将棋モデルには、飛車より強い駒が有り、

溝口さんの普通唱導集大将棋と私の普通唱導集大将棋とは別型である。

当然、溝口さんとは”飛車が無くなると負ける”別の理由付けが、私
のモデルの場合には必要になる。私は、

右仲人の地点が相手の右の角行等で破られて、更には三段目右端から
2列目の横行は、討ち取られた状態で、その地点に右飛車まで消失して、
飛車の利きが無くなり、更には中盤迄に、中央3段目の竜王等が、既に
捌かれていたとすると、もともと横行のいた、空の地点に大きなキズが
でき、以下ほぼ玉が、その三段目右端から2列目の位置に侵入した、
相手の成り麒麟の師子一枚だけで、簡単に寄せきられてしまう

以上を、普通唱導集第1節は唄っているのだと考えている。
これは、最近酔象と猛牛の2升目動きを、シャンチーの象型に変更した
ため、私の普通唱導集大将棋モデルでは、もともとの右横行の地点に
加えて以下の2地点の合計3地点、すなわち、右嗔猪が動けば利く駒の
無い、もともとの右鉄将の位置と、右猛虎の上の升目の、もともとの
右龍馬の居た位置に、利く守り駒が無く手薄な箇所が出来る為である。
つまり仮に、普通唱導集時代の大将棋にも、玉将二歩動きの師子に
成れる、麒麟が有ったとすれば、相手の右横行の位置、すなわち、
12三の位置に成り麒麟を入れてしまえば、あとは、11一成り麒麟、
9三成り麒麟と2手成り麒麟を動かせば、初期7一位置の後手玉には、
王手が掛かると認識する。よって右猛虎上升目で右猛虎や鳳凰に、
只居喰いが出来る状態で、9三地点の成り麒麟の師子で、7一の位置
に居る玉将に、王手が掛かってしまうと、以下概ね後手には以後、
詰めろや王手が連続して掛かる状態になり、守りきれずに、今の
局面での後手の投了は、必然なのではないかと、私は考えるのである。
以上の事から、

”飛車が退けられると勝勢”と唄う点から更に、この将棋には成ると
師子に変わる、恐らく麒麟が、既にあると私は推定している。

右飛車が退けられ、これが最大の強さの駒だったとしても、溝口さん
の言うように、果たして勝勢とまで唄われるものなのだろうか。
「袖に麒麟が成り込まれたら負けである」というのと、「飛車を退け
勝ちを取る」とがようするに、ほぼおなじ事だと私は解釈するので
あるが、他にどのような解釈がありえるのか。今後の研究に、私として
は待ちたいところである。なお、

普通唱導集第2節は、この将棋には相手陣に突入すると師子に成る
麒麟は有っても、元からの師子は、後期大将棋と違って、無い事を
示していると私は思う。

そもそも、右も左も仲人は、師子が最初からあると、嗔猪や桂馬で、
その地点を利かせた所で、居喰いされてしまえば、相手に取られて
しまうのであり、唄われているようには、”支えられない”と考える
からである。つまり、利き駒が有れば、中段地点の”位”は守れる、
と唄うという事は、

普通唱導集の大将棋に、師子そのものは無い事を示しており、その意
味では、溝口さんの”師子の活躍に関する記載が無いのは不自然”と
いう意見と、私は一致する。

そもそも少し前に述べたように、後期大将棋には現実、その類型が
三井文庫版大将棋、中大将棋等というように、別に存在するわけだか
ら、普通唱導集に唄われている大将棋が、絶対に後期大将棋だと、
断言でき無い事だけは、確かなのではないかと、現在私は大いに疑っ
ている。ともあれ、もっと直接的な証拠の出現が、いっけんすると
全く絶望的に見える現在の状態が、本当に未来永劫まで続く事はなく、
やがて、状況が打開されるよう、今は願うばかりである。
(2017/05/04)