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なぜ大大将棋や摩訶大大将棋には、耐久度の低い、瓦将等があるのか(長さん)

日本の将棋で、将駒名で有るのは、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、
石将、瓦将、土将、木将、火将、水将、大将、副将、飛将、角将、
雑将、左将、右将、その他、概ねそれなりに強そうな、大局将棋の、
七国将棋系+将駒、動物名+将駒等である。このうち、固体かどうか
不明等の理由で、火将、水将、大将、副将、飛将、角将、雑将、左将、
右将、大局将棋の、七国将棋系+将駒、動物名+将駒等は、的確性は、
有りそうだが、議論がごちゃごちゃになるので、これらの駒種につい
ては、今回は、その的確性を、それ以上つっこんで議論しない。
 残りの泰将棋にもある、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、
瓦将、土将、木将のうち、それが鎧等の材質の名称だとして、
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将については、敵側からの攻撃に
対し、将の体を守る効果がありそうに見える。が、残りの、

瓦将、土将、木将

については、鎧の材質からみて、存在がクエスチョンだと思える。す
なわち、瓦は、石でも投げつければ割れそうだし、土は木の棒で叩け
ば、こなごなに砕けそうだし、木も火をつければ燃えて、将は、焼け
死ぬように思える。なお、これらの将駒を加えたのは、恐らく大局将
棋や泰将棋の作者ではなくて、大大将棋と摩訶大大将棋の、ゲームデ
ザイナーだったと思われるが、そこでいったい彼らは、この

戦争をするにしては、いかにも弱そうな名称の駒を、なぜ加えたのか

を、今回は論題とする。ちなみに、この回答は既に、だいぶん前に
した記憶がある。回答の要旨は、ようするに、

大理国の三塔主塔からの、ミニチュア出土仏の材質から、将棋駒の
名称が来ているという事を、デザイナーは実質知っていた

との事だったと思う。なお、”大理国の三塔主塔からの、ミニチュア
出土仏”ではなくて、”将棋の伝来元の、ミニチュア仏像”程度の、
やや曖昧な知識が、大大将棋と摩訶大大将棋のデザイナーの頭の中に、
情報として存在したのだろうとは思う。また、仏像が将の人形の形と
同じと見なせるという事は、これも前に述べたと思うが、

大理国の将(王様)は信心深く、人生の後半で仏門に入る習慣がある

という情報が、彼らデザイナーに伝達されていたか、あるいは、

ミャンマーのシットゥインの象棋の将駒等の形態が仏像形である

という情報が、同じく大大将棋や摩訶大大将棋のデザイナーへは、
伝達されていたかのどちらか、または、どちらも知られていたのだと、
私は見る。
 ところで瓦将、土将、木将、のうちの後2者と、それに大局将棋の
火将、水将については、”五行説から、鎧の強度に関係なく、土将、
木将、火将、水将が、金将と共に加えられた”という説明も、成り立
つかもしれない。が、そのように五行説を持ち出しても、

残りの瓦将だけが、どうにもならない

のである。
 ようするに、特に瓦将等という、将棋駒として相応しくない、
弱そうな駒が、実際には無造作に加えられている事から、

日本の将棋の駒の原型が、大理国の王室に、当時陳列されていたと見
られる、立体の仏像を思わせるものであったという事が、かなりの後
世、室町時代の初期頃までは、日本に情報として残っていた

と、考えざるを得ないのではないかというのが、

本ブログの独自の見解

である。
 ちなみに、以前、大理市の三塔主塔からの、玉系の駒に相当する
仏像や、仏教関連物として、水晶仏と、琥珀仏塔(宝塔)を紹介した
事が有った。つまり、ずばり

ネフライト(ホータン玉・軟玉)の小型仏像を、本ブログでは示した
事が無かった

のである。大理市三塔主塔からは、西暦1200年以前の遺物なため、
塑像の

土仏だけが、劣化して残らないため出土していない

と見られる。が、文献ではその他の、鎧の材質名で、その名称にはな
って居無い、左将、右将を除けば、泰将棋に存在する将駒の分の、

玉、金、銀、銅、鉄、石、陶磁、木、の全種類と、それに、金銅、
水晶の仏像が出土している

と、聞いていた。日本に情報が、断片的にしか無いためかと思い、も
う一度、雲南博物館のカタログを当たったところ、かんじん要な物で、
日本に情報が来ていないと思っていた、ずばり玉将相当の、

ホータン玉(軟玉・ネフライト)の仏像も、高さ16cmと、ちょっと
大きめだが、観音菩薩像が発掘されている

という事実が、日本でも知られていた事が判った。

玉仏.gif

そのホータン玉仏は形から、

南詔(唐代)ではなくて、大理(宋代)のもので有る事も、間違いない

とも聞いている。同様なものが、当時の大理国北端部(今の四川省)で
も発見されている、というから、大理市でかどうかは不明だが、大理国
内の細工師によって、11世紀頃の当時、作成された可能性が高い事は、
ほぼ確かなようである。つまり、南詔時代には、玉将が無かったとして
も、大理国の時代には、雲南で”玉将立体駒”は、作成できたのである。
(2018/02/15)

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中国シャンチー。交点に駒を置くルールになったのは何故(長さん)

中国シャンチー、朝鮮チャンギ、沖縄シャンジー、ベトナムの象棋は、
良く知られているように、日本の将棋や西洋チェスと違い、駒は升目
の中に置くのではなく、路の交点に置く。なお、元を辿れば、中国シャ
ンチーが、これらのゲームの出発点だというのが、今の所定説なよう
だ。そこでここでは、仮に中国シャンチーの駒の、配置の仕方のみを
問題にする。今回の設問は単純で、シャンチーでは駒を交点に置くよ
うになったのは何故か、というものである。ただし今回は、最適解で
はなくて、

本ブログの、固有な見方

について、紹介するに留める。シャンチー史が、本ブログのメインで
は無いから、このブログの説が広まることは、当座余り期待していな
いからである。そこで、とりあえず、先に結論を書くと、ここでは、

”中国では囲碁が盛んな為、象棋の駒も交点に置く”とは見て居無い

という点に、このブログの特徴がある。つまり本ブログでは、

都の条里が、直接的に、盤のデザインのモデルであると見ている

と、言う事である。つまり、
中国シャンチーは、中国の都市部、恐らく都のど真ん中で発祥した
ゲームな為、日本の京都ような、規則正しい碁盤目の道の中に、駒を
置く形式になったと、見ているのである。なお、11世紀の北宋時代
には、中国シャンチーの元の、北宋象棋は、チェスや将棋同様、駒は
升目中央置きだったという説が、現在の所強いと私は聞いている。
 本ブログの推定では、駒の交点置きと、九宮の発明は、さほどの
時間差が無いのではないかと思う。そもそも、京都のような碁盤の
目の街の中で、真ん中に小さな川が流れているとはいえ、日本の南北
朝時代のように、皇族が南北に宮を作って分かれて争うような、盤構
成は、実際の日本の南朝が、吉野に都を移したことから見ると、

それよりも更に合戦の距離のスケールが小さく、都という、狭い空間
の中で暮らしている、中国シャンチーのゲームデザイナーの、個人的
な心の世界観を良く写している

ように、私には見えるのである。
 従って、この事から、中国には

地方に別の象棋型ゲームが、シャンチーとは無関係に、北宋期には
存在していたのが、むしろ当たり前

だとも思える。そもそも、

雲南には、北宋とは別の、大理という国が存在していたのだから、
雲南の大理の、金回りの良い王室で、都の開封には無関係に、別の
王室専用のような象棋が有るのは自然

なのではないだろうかと、私は思う。

以上が、本ブログの基本的な、中国の古代象棋文化に対する見方

である。
 なお、中国シャンチーが都会で流行のゲームであると言うことは、
地理的には中国から遠くても、

都会の人間に、最も興味のある、科学技術文明がその時点では最も
進んだ国、イスラム・アッバース朝の、イスラム・シャトランジと、
最下段の帥/将周りの駒の、動かし方のルールが、全く同じゲームを
している事からみても明らか

なように、私には思える。前に述べたが”グローバル化に付いてゆく”
と、己の生き様を表現しながら、その実は、ローカル文化の吸収を
否定し、列強国の文化のみを選択的に吸収して、それに追従して行く
というのが、時代や民族文化に無関係な、都会人の一般的な特徴だか
らである。
 他方定説については、中国の囲碁文化の歴史の古さは、良く知られ
ているので、駒を交点に置くという点から、囲碁の影響との論が出て
くるのであろう。が、むしろ私は、

敵味方同士にしては妙に接近した、二つの九宮が有る、いわば首都の
真ん中で生まれた少年の、心の世界地図のように盤構成を見る方が、
シャンチー系ゲームの盤意匠を、より正確に把握したもの

ではないのかと、個人的には考えているのである。つまり交点置きは、
都での人や馬車の通行、往来の仕方を模したものであって、囲碁とは
直接には、繋がっていないのではないかと、私が考えているという事
である。(2018/02/14)

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プレ後期大将棋から後期大将棋には、なぜ更に進化したのか(長さん)

本ブログの見解によれば、普通唱導集で唄われた、普通唱導集時代の
大将棋が廃れたのは、”角行をタスキ掛けに発進させた上で、飛車を
退ければ、勝負がついてしまう”という、指し方のパターンの単純さ
という事であった。所で、前回述べた15升目124枚制のプレ後期
大将棋が、仮に普通唱導集で唄われた大将棋だとすると、
普通唱導集の編集者である良季等の認識は、間違っており、唄われた、
15升目124枚制のプレ後期大将棋で有る所の”普通唱導集大将棋”
は、終盤も猛豹/銅将の作る堅陣が、攻めきれずに、攻防が結構面白
いはずである。
 つまり、

15升目124枚制大将棋は、廃れたり、更に進化する理由が、その
考えだと、余り無いはずだ

という事になる。にも係わらず、実際には大将棋は、その後、恐らく
小駒(一例として悪狼)と、獅子が加わって、15升目130枚制の、
現在も記録の残る、後期大将棋へ変化した。今回の論題は、15升目
の後期大将棋の、124枚制から130枚制への変化に関して、

ゲームの面白さ以外に、改良の原動力として何があったのか

である。
 そこで、最初に答えを書くと、

①”普通唱導集に記載のように、大将棋を指す”という、序盤の戦術
の単純性が嫌われたため、終盤面白いとしても、124枚制大将棋は、
好まれなかった事
と、
②中将棋の、”特別の規則”が有る状態での生獅子の導入が、一応
ゲームとして優れ物だったため、中将棋のように、獅子を入れ込まな
いと、指す人間が居なくなった事
と、
③中将棋の初期配列で、角行の両側が空の升目になっている形、およ
び、歩兵列で陣の内外が区別される形が、見栄えとして、室町時代の
棋士に好まれたため

だと私は考える。
 特に①は、普通唱導集大将棋から中将棋を作成するときに、中将棋
の現在の形から推定して、

これでもかと、要因を排除し(すぎ)ている点から見ても、この要因
の存在は、明らか

であると、前から私は思っている。
 しかし、それだけでは、現行の後期大将棋に、獅子が元から存在す
る事は説明できない。だから、②の要因も、獅子を入れ込むために、
実質的に陣を、4段配列から5段配列に膨らませる、要因になったと
私は思う。
 また本ブログの推定では、中将棋の進化に関して、

最初期には、角行の袖横の位置には、猛豹が有って空ではなかった

と、推定している。猛豹の位置が、盲虎と並んでおらず、当時の雄雌
の認識にしては、おかしいからである。本ブログでは、すなわち、

中将棋には最初は鉄将が残っており、角筋に当たる堅行を逃がすため、
少しのちに鉄将を取り除いて、猛豹を、猛将と洒落て、一段落として
将列に加えた

とみる。その結果、空き升目に関して、各辺に対し、中将棋では、
1升目から跳びとびの2升目になった。恐らく、この

中将棋の、袖の駒の並びの形が、かっこうが良いと、当時考えられた

のであろう。特に③の要因が、結構大きく、

中将棋が現在の形になってから、後期大将棋に悪狼等が一種類入って
陣が一段、餅のように膨らみ、現在の15×15升目130枚制の
後期大将棋になった

のではないだろうか。むろん、その方が、小将棋、中将棋、大将棋が、
3、4、5段配列であり、升目数、9、12、15のちょうど1/3
になっていて、更に全部、歩兵の列で自陣が始まるため、

書物等で初期配列を書いても、その方が見栄えがしたし、李氏朝鮮の
ゲーマーにも褒められ、外人の煽てもあって、そうした

に違いない。
 以上の事から、ほぼ見栄えと、中将棋に合わせるという観点から、
124枚制の、前に比べれば性能の改善された大将棋は更に変化し、
かつその結果、中将棋に対する差別性が薄れ、結局は室町時代の間に、
ほぼ廃れたのだと、私は考えるのである。(2018/02/13)

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普通唱導集大将棋には、別解が有るようだ(長さん)

前回最後の方で述べたように、15×15升目124枚制の、130
枚制後期大将棋を、4段目までに、押しつぶしたような、
プレ後期大将棋でも、普通唱導集第2節、”仲人に、嗔猪と桂馬で、
紐をつける駒組”が、可能かどうかを、実際に15升目盤に、四段組
の駒を並べてチェックしてみた。
 結果を先に書くと、
 予め嗔猪を堅行で守りながら、七段目まで嗔猪を上げる、駒組の仕
方の工夫が、この124枚制のケースには要る。が、普通唱導集の、
第2節に書かれた、相手右角の、タスキがけ走りの攻撃を避けるため
と見られる、仲人位置で、利きを止める陣を組むのは、13升目で
108枚制の場合と同様、15升目124枚制でも、一応可能なよう
であった。つまり、普通唱導集大将棋には、普通唱導集の大将棋の古
文書の唱導内容の文言を満たす別解があり、

解が、ざっとで2つは有りそうだという

事になった。
 以下の写真は、124枚の駒を、前回の説明したように初期配列で
並べたものである。ぎっしりと、15升目に4段まで、駒が並ぶ。
前回説明したように、この124枚に、獅子2枚、悪狼4枚を加える
と、登場する駒は全部揃い、後期大将棋になるのである。

プレ大将棋.gif

続いて、下の写真が、普通唱導集の第2節を満たすように、”仲人と
嗔猪が腹を合わせ、桂馬を上げて支えた”ものである。
 ここで13升目モデルと違い、15升目モデルでは、仲人が守って
いるのが、横行ではなくて、袖の飛車になり、そのため仲人は、初期
位置から2升目上げて、角行筋に、当たるようにしているのである。
従って、前回の説明に加えて、後升目の歩兵も2歩動かしている。
 写真で赤い○で示したのが、両者の守りの右仲人、灰色の○が、仲
人と”腹を合わせ”ている嗔猪、青い○が”支え”ている桂馬である。

普通唱導集陣.gif

このケースは、以前示した13升目108枚制の仮説普通唱導集大将
棋と違い、成り麒麟を横行前の歩兵ではなくて、麒麟は、端筋から
真っ直ぐに進み、端列の飛車前の歩兵の地点で、獅子に成らせる作戦
になる。従って、飛龍は角行の動きではなく、”1目をば踊らず”の
踊りのルールに、なっていなければならない。飛車前の歩兵に、斜め
隣の飛龍が、更に利いていてはまずいのである。
 そこで、この将棋をさらに進めてゆくと、飛車を退けてしまうと
確かに成り麒麟を、飛車の前の歩兵の位置で、突入させる事ができる。

だから、普通唱導集の記載と、第1節の”飛車を退け”では、ドンピ
シャ

だ。ところが、13升目型から15升目型へ変えたときに、普通唱導
集から、小駒として導入された、猛豹と、恐らく中将棋の成立時に、
猛虎から改善されるはずの、盲虎という、小駒の改善が、このケース
には、当然だったかもしれないが、ディフェンスが、強くなりすぎる
という、効果をもたらす。特に、このゲームは、後期大将棋に近いわ
けであるから、後期大将棋型ゲームの守りに特徴的な、縦に2段目と
1段目に並んだ、下の写真の囲みの、猛豹と銅将の存在が大きい。

124終盤.gif

つまり、

飛車を退けても、成り麒麟攻撃だけでは、今回の将棋は通常、”勝ち
を取れ”ない、終わりにくいゲームになる

のである。その点だけがどうやら、

13升目108制型と、15升目124枚制型の違いによる、普通唱
導集の記載との、つじつまの合い方の差になる

ようだ。何れにしても、普通唱導集時代の大将棋が13升目の仮説
普通唱導集大将棋である事を証明するには、

”石将は無かった”等の、何らかの別の証拠が、更にあった方が良い

事は、ほぼ確実だとみられる。(2018/02/12)

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水無瀬兼成の将棋纂図部類抄。”(或説云)仲人立聖目外”の謎(長さん)

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、中将棋の成り図の後にある、中将棋
のルールの注釈部で、項目名”仲人”以下の、6カラムの解釈が、しば
しば将棋史家の間で、議論の対象になっている。これに関しては、今回
議論しない5カラムの文についての解釈として、大阪電気通信大学の、
高見友幸氏らの先行研究が、特に名高い。そこでここでは、高見友幸氏
等の考察では、まだ言及されていないと私が認識する、表題の、
”仲人立聖目外”について考えてみる。
 そこでいつものように、最初に結論を述べる事にしよう。

水無瀬兼成は大将棋について、13升目の普通唱導集大将棋型と15升
目の後期大将棋型の中間種について、なんらかの情報を持っていた、可
能性が、この事から言えるかもしれない

と、私は思う。
 次に私が、この項目名”仲人”の中段左カラムをどう、解釈している
のか、私見を述べる。

”或る説によると、大将棋・摩訶大大象戯・泰将棋の仲人も、そこで成
りが可能な自陣のラインの、直ぐ外の段に配置されていると言う事だ。”

というのが、私の意訳である。そもそも、この一文に言及のある、先行
研究例はたぶん、まだ無いと思うので、以上に対して賛成意見も反対意
見も、特に無いのではないかと、私は思っている。
 次に、この”或る説”が正しいのかどうか、という点に関する私見を
述べる。
 普通唱導集大将棋、後期大将棋については正しい。摩訶大大象戯につ
いては、室町時代の摩訶大大将棋の作者は、成りの条件について、元も
と述べていないと私は見るので、恐らく本来不定なので誤り。泰将棋に
ついては、作者の水無瀬兼成が、自分で決める問題だが、関心が薄く考
えなかったのだろうから、間違いだろうが、水無瀬兼成は、自分の著作
の中で、他人を責めてもしょうがないと思う。蛇足だが中将棋の仲人は、
聖目の直ぐ外段に、将棋纂図部類抄では配置されているのが、図から明
らかなので、正しいのは自明と見る。

 つまり、大将棋に関して、水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄の中で言う
ようには、”奇説”になって居無い、謎が存在する

と、言う事である。
繰り返すと摩訶大大象戯については、将棋纂図部類抄の書き方は、正し
いとみる。すなわち、摩訶大大将棋・象戯等については、何らかの情報
に基づいて、松浦大六氏所有の象戯図式の著者は、江戸時代に”それら
は、自陣・相手陣の区別が無く、相手駒を取ると、駒が成るというルー
ルだと述べた”と、私は了解している。摩訶大大将棋、象戯の成りルー
ルは、江戸時代に、それまで何も無かったので、成りのパターンから想
像して、後世新たに作られたのでは、ないのだろうかと、確証は無いの
で曖昧性は残るが、とにかく存在自体を疑う。つまり、摩訶大大将棋類
の聖目(成りラインの印)は、元々無かった疑いが強いという事である。
 そこで以下、或る説についての信憑性の問題を大将棋に限る事にする。
 後期大将棋の仲人が、聖目の直ぐ外段なのは、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄では、恐らく誤記で抜けているので証拠が無いが、

新安沖沈没船出土の将棋盤(?)の聖目が、升目5個毎になるように、
打たれている等から、或る説が正しい

と、私は思う。後期大将棋の自陣が5段で、升目が15升目なのは、盤
のフォームにあわせたのだというのが、このブログでの見解である。そ
のために、その前の時代の普通唱導集大将棋は、道具の見た目が悪形と
見られて、室町時代前期に消滅させられたのだろう。
 次に、その普通唱導集大将棋の仲人が、自陣ラインの、直ぐ外升目配
置だった事も、以下の点から、ほぼ確実だと私は考えている。すなわち、

そうしないと、成り麒麟の獅子が、早く出来すぎてしまう

のである。この将棋は、成りは太子成りの酔象、奔王成りの鳳凰、獅子
成りの麒麟、と金に成れると見られる、歩兵の4種類だったとみられる。
 実際にゲームしてみると、後半鳳凰と麒麟が成るから、この将棋は
バランスが取れるのである。また、その成りの段も、相手陣歩兵の列で
ある事は、ゲームバランスから確実視される。だから、4段目で麒麟や
鳳凰が、獅子と奔王に成るのは、確実だと私は今の所見ている。
 そうしてみると、水無瀬兼成にも真相は不明なはずの、摩訶大大象戯
と、自分で決めれば何とでもなる、泰将棋は別として、

ほぼ、仲人立聖目外は確実なのに、”ひょっとしたら違うかも”を匂わ
せる、或説云が、”仲人”の節中段左の所に確実に掛からない様に、
水無瀬兼成は、なぜしっかりと文面を組み立てなかったのか

という謎が発生する。
 そこで、私はひょっとしたら、”プレ後期大将棋仲人立聖目内”なの
かもしれないと、一応は疑ってみようと、考えるようになった。
自陣の歩兵段が5段目ではなくて4段目。仲人が5段目で、自陣が、歩
兵段まてではなくて、仲人段までの5段目である、

15×15升目124枚制プレ後期大将棋の存在が、水無瀬兼成の時代
には情報として、まだ残っていた可能性もある

と、一応は疑うという事である。たとえば、その大将棋には、後期大将
棋には有る駒のうちで、特別な禁止手が、まだ未発明だったため獅子と、
たとえば小駒でどれでもよいのだが、一例として悪狼が無く、向こう側
の左辺の1/4の配列を、こちら側から見た配置を書くと、
麒麟は右辺が鳳凰に変わるから、その点に注意するとして、

向こう1段目が、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車
向こう2段目が、酔象、麒麟、盲虎、猛豹、嗔猪、猫叉、猛牛、反車
向こう3段目が、奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛龍、飛車
向こう4段目が、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
向こう5段目が、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升

という、びっしり駒配置の15×15升目124枚制大将棋という、
仮説普通唱導集大将棋と、後期大将棋のの中間形も考える事は、一応
は可能だと思う。そして、このプレ後期大将棋という

例外の存在を知っていたので、水無瀬兼成は、ひょっとすると、
”仲人立聖目外は、一説に過ぎない”と、断っているのかもしれない

と私は一応は疑う。
 ただし、この形のゲームの出来については、角行が、相手の反対側の
飛車に直射してしまうので、余り作りの良い大将棋ではないと、私は考
える。ゲーム出だしから、最初に左辺の飛龍前の歩兵を進めて、相手右
飛車を、いじめるように指すのだろう。が、面白いことに、この将棋も、

5手も余分に手数が掛かるが、”二つ進めた仲人と、五つ進めた嗔猪が
腹を合わせ、更に二つ進めた桂馬で支える”と、13升目の私の普通唱
導集大将棋モデルと同様、タスキがけの角筋の障害物にする事もできる。

 よって、今述べた事からも、将棋纂図部類抄の水無瀬の仲人節中段左
カラムは、要注意だと思うようになった。(2018/02/11)

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日本の将棋は”漢字圏だから、字書き駒”になったでは無いのでは(長さん)

日本の将棋のもとが中国起源なのか、東南アジア起源なのかに関して、
将棋駒が、漢字で名称を表記しているため、中国寄りだという議論が
されている。しかし、本ブログでは、以下述べる理由で、

日本の将棋駒が立体造形駒になるか、書き駒になるかは、元々微差だ
った

との立場を取る。五角形駒木地に近い木片のある経帙牌は、写経所の
坊主がたまたま役得で、それが入手できたから、将棋駒が誕生したの
だろうと、私は考える。だが実は、さらに発明者は、五角形駒の他に、
小石や木片等、より安定して入手できるものを、立体駒として用い、

将棋駒の完成品として、複数の案を元々持っていたのかもしれない

と私は推定する。小石で立体駒に代用するケースは、
玉用に2個、金将用に22個、銀将用に4個、桂馬と香車用にそれぞ
れ4個づつ、歩兵用に16個、それぞれ形や大きさを変えて、小石を
集め

32個ではなくて、52個で一組の将棋道具にしようとしていた

に違いない。なお、経帙牌を使うケースでも、
裏の成り金だけを書いた駒も、元々は独立して作るつもりであった、
のかもしれない。そしてそのケースは必然的に、52枚経帙牌が、
本来は要るところなのだが、

両面字書き駒を28枚作成し、

32枚で済ましたのは、たまたま、彼の居た写経所には、経帙牌が
52枚もは、無かっただけだった、可能性もあるかもしれないと思う。
 しかし、こうした複数の、将棋ケーム用の駒セットの案が有ったと、
疑われるのだが。実際にはそのうち、駒をひっくり返して成りが、
駒木地の裏に書いてあるケースが、道具として選択された。そしてそ
うしたのは、

発明者の恐らく僧侶ではなくて、実際に最も初期に将棋を指した武家

だったと、私は推定する。なお理由は、

その方がゲームがしやすいという、理由ではないと見られる。

なぜなら、二中歴の将棋の記載に”裸玉ルールが有る”事から、西暦
1015年頃には、取り捨てルールだったろうと、見られるからであ
る。持ち駒ルールがある場合、元駒と成り駒を分けると、成り立体駒
の形を、元駒毎に、元銀将金将、元桂馬金将、元香車金将、と金で、
微妙に形を変えておいてから、相手から成り駒を取った時に、寝かせ
た元駒を、いちいち、探し出して相手に渡さなければならない煩雑さ
がある。しかし、西暦1020年当時は、取り捨てルールだったろう
から、元金、元銀将金将、元桂馬金将、元香車金将、と金は、全部同
じ形でもよいし、使わなくなった、元駒は、復活して使わないはずだ。
 他方、少し前に述べたように、もともと伝来した将棋を、経帙牌の
駒で指した、恐らく大宰府の、国境警護を兼務する警備兵の武家は、

願掛け等、出来の良いゲームを楽しむのとは別の動機で、原始的な
平安小将棋を指した

と見られる。つまりは、
成る前と成った後とで、物体としては同じ物を用いる、経帙牌型の文
字駒の方が、物体としては別々の、52枚セットの立体駒より、仮に

願掛けだとしたら、その目的に合致していた

のである。なぜなら、歩兵駒が、物としてはそのままで、相手陣に突
入して金将に成った時こそ、満願成就を象徴する姿だからである。そ
のとき、元の歩兵小石と、成った後の多少大きめの”と金”小石とを
交換するやり方よりも、同じ歩兵という駒木地のままで、ひっくり返
して名称・肩書きが、金将に変わったとの表現のほうが、

歩兵としての国境警備兵の己の勇士を、ありありと映し出していて、
一種の”お祈りの場”としての、将棋場の雰囲気を、より盛り上げる
ことになる

のであろう。ちなみに、将棋を指す動機である、願掛けの願の具体的
な内容が、”藤原隆家のような「と金」の身分に、自分もなれますよ
うに”であるという証拠としては、時代は下るが、普通唱導集の、
小将棋の第一節の、”歩兵が進むと金に成る、さあ聖目は、もうすぐ
そこだ!!”という威勢の良い唱導文句が、ドンピシャ、その内容で
ある事を、一応挙げる事が出来ると思う。ともあれ以上の事から、
(推定)写経所の坊主が、日本の将棋用の駒の発明として、
第一案:32枚の経帙牌型の文字駒
第二案:52枚の小石から作られた立体駒
の2種類を、仮に実際のゲーマーとしての、大宰府武家に提示すれば、
その結果、経帙牌の費用を、地元の写経をする寺から、請求されたと
しても、当然

武士達は”縁起物には多少の金を出すべき”と考え、第一案を選んだ

のであろう。なお、大宰府の武家が、最初の日本の将棋の棋士である
と仮にすれば、

駒の字の読めない、より位の低い者も、かなり混じっていた

と見られる。しかしながら11世紀の初頭の頃、少なくとも字の読め
ない兵士の、上層部・仕官クラスは、駒の字位、読めたのではなかろ
うか。
 そして、判読しなければならない文字も、6種類の駒字であれば、
字数も限られていたから、字の読めない下っ端兵士は、その字だけ、
彼の上官に教わって結局、皆で将棋が指せたのではないかと、私は推
定する。なお識字問題については、前に同じような事を、故溝口和彦さん
も、彼のブログで書いていたような、記憶がある。彼の言っていた事
に一理が有ると、私も思う。
 以上のような経過で、日本の将棋が字書き駒に決まったとしたら、
それは、たまたま人間型の変身駒が、立体駒の造形では、作れなかっ
たからだという事になるだろう。以上の事から、日本の将棋駒が、字
で駒を区別しているという点で、中国・韓国型である事は、必ずしも、
日本の将棋とシャンチー・チャンギの、部分的な近縁性を、証明して
いるわけではないと、私は考えるのである。
 そして、そう考える事により、シャンチーの成立より幾分早い、
興福寺出土駒の謎も”シャンチー駒を真似て、五角形駒が作られたの
ではない”と考えれば、少なくとも部分的には、解けるのではないか
と、私は考える。(2018/02/10)

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玉詰みルールが無く裸玉勝ちルールのみの平安小将棋のチェック(長さん)

前回のべた、表題の玉詰みルールが無く、裸玉勝ちルールのみの平安小将棋
を、二中歴の時代は標準型(9升目)であると見て実際にチェックしてみた。

裸玉のみ小将棋.gif

写真の局面は、両者の玉が互いに相手陣に突進して、駒の取り合いが、始ま
ったばかりの所である。次は先手番で、▲9三歩成と指すものと見られる。
△同香で、

この場合は、▲同香ではなくて、▲同玉である。

更に△同桂は後手に勝ちが無くなるので、指さないとみられる。また、そも
そも写真では、後手の1七の位置の玉が、先手の桂馬に当たっている。が、
先手が▲1七桂と、後手玉を取る事も同様に、こんどは先手に勝ちが無くな
るので、そのような手は指さないとみられる。
 このゲームを実際にしてみると、コツは、
①玉をひたすら進めること
と、
②最後に切られる駒と、終盤の相手玉との距離が開くように、この例では、
香車だが、1枚だけ駒を、相手玉の位置から離すように指す
の2点位しか、見当たらないことがわかる。なお①は当たり前、②も、初め
て指す前に、私にも、概ね予想のできる程度の手法であった。
 その点”序盤に右銀、桂、香、歩の連携で、相手の左辺を破って行く”
といった、指し方に、曲がりなりにも多少のテクニックがある、8×8升目
32枚制玉詰ルール有・持駒ルール無しの原始平安小将棋とは、大違いの
ように、実際指してみて思えた。
 正直な所、実際にやってみれば、さすがに何か出てくるだろうと期待した
のだが、現実には

これほど、”勝つためのコツ”の乏しいゲームというのも珍しい

のではないかと、私は思ったほどだった。
 もともとが、ゲームを楽しむためのものでは、初期の頃には無かったとし
ても、このタイプが本当に、二中歴時代の平安小将棋だったとしたら、現在
の将棋文化が、発生するのかとうか、すこぶる怪しいのではないだろうか。
 毎度おなじみの結語になるが、100円ショップの将棋道具を用いる等に
より、出来るだけ多くの方に、以上の点の追試をお願い、致したいものだと
私は思う。(2018/02/09)

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平安小将棋「裸玉ルール」。玉詰め勝ルールが無かったらどうなるか(長さん)

本ブログでは、二中歴の小将棋の末尾の記載の裸王ルールは、「玉詰めに
失敗しても、相手の玉を裸にすれば勝ちである。その際、相手最後の一枚
の駒を、自分の玉で取ったとき、相手玉が、最後の駒に利いていて、自分
の玉が次に取られる場合でも、相手の負けである」の意味であるとの、
見解を取っている。
 しかしながら、先行研究の中には「玉詰めで勝ちというルールそのもの
が、平安小将棋には、そもそも無いのではないか」との、疑念の見解を、
表明している例が多い。というより、その疑念をきっちりと否定した見解
を、更に表明している例を、私は今の所、個人的には聞いた記憶が無い。
そこでせめてここで、もし平安小将棋に、”玉詰め勝ちというルール”が
そもそも無いとすれば、実際に、どんなゲームになるのか、今回は考えて
見たい。
 そこで何時ものように、結論から述べると、

独立したゲームの一種にはなるが、将棋系らしい、合戦のシミュレーショ
ン(合戦を模したもの)には、たぶんならないのではないか、

と私は思う。理由は、将棋系とは真逆で、

そのケームに於いて最適な戦略が、自玉を早く相手に取らせる事

だと私は思うからである。なぜなら、

自玉が裸になって、負けないようにする、最も有力な方法は、自玉をなる
べく早く切って、そもそも自玉が存在しないので、”裸玉で負ける”とい
う局面自体が、作れないようにしてしまう事

だと、私は見るからである。逆に言うと、この場合、

玉に関して、どんな本来の自殺手を指しても、相手はその玉を取ると
負けになるため、玉は事実上、取られる事の無い、とてつもなく強い攻め
駒になるはず

である。従って、その平安小将棋での指し方は、
玉で相手のどれでも良いから駒を、ひたすら追い掛け回して取ろうという
手を繰り返して指す事であろう。あるいはまた、逆に相手から、玉で味方
の駒に対して、しばしば、互いに当たりで、相手にとっては、それでは本
来、自殺手になるはずの、”一般駒の取り”を、相手の玉で掛けられたと
きには、その相手玉は、取れても取れば、取ったほうの負けなので、なる
べく消耗しないように、狙われた自駒を、ひたすら逃げ回らせるだけの、
将棋をもまた、指す事になると思う。恐らくそれでも、ゲームとしては、
成立すると、私は見るのだが。そのゲームは、

合戦の雰囲気とは似ても似つかない、むしろ玉を牛と見立てたときに、牛
が闘牛士の群を退けて勝つことが、予め定めとなっている、やや不自然な
闘牛ゲームになる

ような気が、私にはするのである。二中歴に書いて無い事は確かなので、
敢えて「絶対に、平安小将棋には、玉詰めルールは有る」とまでは言わな
いが。少なくとも、以上で述べた裸玉ルールしか無いゲームが

異制庭訓往来の、「合戦を模したもの」との意味での、将棋の定義とは、
毛色が、かなり違う事だけは確か

なように思う。なお、現在のチェス型ゲームには、ルールブックで裸玉に
言及のある、普通に玉駒詰めルールのものが複数有る。800年前と今と
で、状況が違うと言われれば、それまでだが。少なくとも、ゲーム系統樹
で、孤立して来るのが、玉詰めと裸玉の両方があるゲームではなくて、裸
玉ルールだけしか無い方である事は、事実としては確かであると認識する。
(2018/02/08)

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興福寺駒という、初期の出土駒の成り金が2文字のような訳(長さん)

興福寺出土駒等、11世紀とみられる将棋の遺物で、玉や金自身の
ほかの種類の駒には、劣化して消えたとみなせる遺物を除いて、
裏の成り金文字につき、金く、金也、金・、金将等、金と、もう一
文字が、位置や墨跡から、推定できる場合が多い。言うまでも無く、
現在の日本の将棋では、成り金は一文字で、表駒が何かは、その字
体の崩し方等で、区別されるのが普通である。今回は、その違いの
理由を問題にする。
 答えを先に書くと、

駒の向きが厳格に、五角形の矢印角が前である事に関し、今より
11世紀の方がルーズであり、ゲームを円滑に行うためには、それ
を、より徹底させる必要性があった

とみられるからだと、私は思う。すなわち、駒をきちんと初期配列
時並べるのは、我々には自明に見える。が当時は、そうではなかっ
たからだと、言う事である。つまり、我々が将棋駒を

きちんと並べられるのは、単に繰り返し躾けられたから、それが当
たり前だと思っているだけ

だと私は考える。すなわち、11世紀の日本の将棋の時代には、
実際にはその時代には存在しないが、例えば仮に、”古猿”という
駒が、その時点でも有ったとして、その成りの”山母”が、一文字
で、”毋”とでも書かれていたとしよう。すると、

古猿が成ったとき、駒を横に寝かせて、”申猿”という駒だと主張
し、自分勝手に、駒の動かし方ルールを決めてしまうというような、
マナーを守るという事にほぼ無頓着な、乱暴な人間も居た位

だったのではないか。しかし、この場合も、山母を”毋”と略さずに、
山母と記載しておけば、山を横に倒したような漢字は、存在しない
し、他の駒は縦に二文字であるから、トラブルが防げるのであろう。
つまり、

金一文字という表記に、11世紀の時点では、信頼性がまだ無かった

のではないか。そのために、

ほぼ2文字の表記である、”金く”や”金也”で、駒の向きの信頼性

について、たぶんダメ押しをしたのであろうと、見るという事である。

そもそも、元駒は、このブログの推定では、

伝来当初は、桂馬が馬、香車が車、歩兵が兵と、”呼ばれていた”

はずである。
 そしてそれに桂、香、歩の修飾詞(文字)を加えたのも、車等の字
の向きから推定される、駒の向きに関して、安定性・信頼性に、問題
が有ったからだと、私は思うのである。成りの金将も、そのため、表
駒によって、差をつけようとしたときに、11世紀の最初期には、
2文字は、そのままの範囲内で、工夫されたのかもしれないと、私は
思う。ただし実際には、興福寺出土駒の劣化が激しく、確定とまでは
行かないようだ。
 何れにしてもその後、金の字体は、倒したり、ひっくり返したりし
ても、現実には、別の字に見えるような事が無かった。そのため、
金一文字成り表記に対して、じょじょに信頼性が増すようになり、

現在のように、金は一文字にし、やまとカナ生成流に字体を変えて、
元駒の種類が判るようにする形式に、やがて変化した

のかもしれないと、私は思う。何れにしても、私の推定では、玉将、
金将、銀将以外の駒名への、修飾詞の付与による2文字化は、日本の
将棋の場合、

駒の敵味方帰属を、より正確にするための、国内で発生した名称変更

である事だけは、確かなように思えるのである。(2018/02/07)

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本ブログ。日本へ五角形将棋駒が伝来し、将棋が発生したと見ない訳(長さん)

通常、現在の所、「五角形の日本将棋の駒は元々、中国なり朝鮮半島で
発明されたものであり、それが伝来して平安小将棋になった」との説が、
有力視されている。しかし、それが定説までとはなっていないのは、

大陸で、五角形駒出土の例が実際には無いという、考古学の未成熟のため

とされる空気が、将棋史界では強いように思える。しかしながら、本ブロ
グでは、そのような、発掘考古学の未熟さが”日本の将棋の字駒は、大陸
起源”との説が固まらない、理由になっているとは見て居無い。
 たぶん、五角形の将棋の駒は、かつて海を渡って日本に来たという、

日本将棋駒の大陸起源説は、かなりの確率で、何れ否定されるだろう

と、見ているのである。理由を最初に書いてしまうと、

日本の将棋駒は、意匠で他国のよりも優れた所は余り無いのに、機能だけ

が抜群に秀でているという、不思議な性質がある

というのが、私の個人的な見解だからである。なお、今の日本将棋は全く
違うが。伝来したはずの、原始平安小将棋は、二中歴の記載のように、
「裸玉にしないと、勝負が付かない」ほど、玉を詰める事を争う面白さが、
本来の姿である、チャス・象棋・将棋類の中では、ゲームとして出来が悪
いものである。そこで、

ヘビー・ゲーマーが、ゲームする事自体の面白さに吊られて、日本の将棋
用の貧弱な意匠の駒を、渋々大陸の盤駒業者から買ったのが、将棋の始ま
りとは、少なくとも考えにくい

と、私は見る。つまり、ゲームの面白さ以外にゲームをする動悸があると
言う事であるから、当時の日本国内だけの、ローカルな事情が、将棋駒発
生の発端だったと、推定できるのである。
 さて話を移すと、私が日本の将棋駒の機能で、最も関心する点だが、

駒の裏側に、成り駒名を、しかも工夫の上で書いている

という点である。一般には五角形である事に、むしろ目が行っているよう
だが。しかし先端が、矢印の代わりになって、敵味方が区別できるように
したのが、基本的には駒が五角形の形の理由であり、

これは、他国のチェス・象棋ゲームの、色分け等のやり方と、引き分け

だと思う。
 他方、

他国の駒で、成り駒がこれほど判りやすいものは、日本の将棋駒の他に
は見当たらない

という点がある。この点を日本人は、先祖の遺産として大切にするべき
だと、私は個人的には思っているのだが。
 しかも、それでけではなくて、今では成り金の字体を工夫したり、少し
前に述べたように、かつては金将を金也とか、”金・”と表現したり
する事によって、

表の字の情報まで入れている

のである。なお、このようにする理由は、元の将棋博物館の館長等のプ
ロ将棋棋士の木村義徳氏が、「持駒使用の謎」で述べている、
①成る前の駒が何で有るかを知る事により、持ち駒としたときの駒の価
値を正確に把握できるようになる
のほかに、
②相手の成り金が、元は何の駒だったのかを知ることによって、相手が
その駒を成らせる事によって、局面評価値を、どの位変化させたのかを、
後把握しやすくする。
③元々、歩兵の成りの成り金等に、見物人が興味を持っているので、歩
兵の成り金かどうかが、成り金の字から、判断できることが好ましい
等、幾通りもの理由が考えられる。が、何れにしても、同じ成り金でも
表駒は、幾通りのケースも有りうるという事情が、日本の将棋にはある
訳であるから、成り金の字の中に、

表駒の情報が含まれているという、日本の将棋駒の性質は、極めて秀で
たもの

に違いない。なお、その為に

たとえば、金を”今”の字に代用する事も考えられた

のだと私は思う。そこで更に、話は脱線してしまうが、

理由が無くて、当て字を使うというケースは、日本の将棋駒には、この
ルール把握を道具ではっきりさせるという、機能重視の性格から見ても、
実際には、存在しないのが当然だ

と私は思うのである。つまり逆に、表駒名だけでは、成り駒に任意性が
出来るというケースは、成りに右犬と左犬の有る

大局将棋の口偏”奇犬”の一種類程度

だったため、現実には駒表の名称に、あて字を使う習慣は、日本には全
く存在しないと、私は予想する。

つまり”奔横”という駒は、あて字ではなくて、横行の前の升目に居る、
川西遺跡大将棋の奔王に似たルールの、未知の駒名だと、私は考える

のである。

何れにしても以上のように、日本の将棋駒ほど、見栄えはたいした事が
無くても、機能的に、プレイヤーにフレンドリーな道具は、世界中何処
を探しても、恐らく見あたらない

のではないか。
 それに対して、

日本の将棋駒の意匠としての地味さは、イスラム・シャトランジの駒に
次ぐもの

だと、私は思う。中国シャンチーやチャンギのように、色が付いている
わけでもないし、古代のチェス駒のように、駒を区別するという点では
過剰な、細かい装飾が、駒に施されているわけでもない。
 日本人は、最初は誰も将棋は知らなかったはずであるから、駒を着飾っ
て伝来させない限り、道具のデザインに引かれて、日本人が中国交易商
人等から、将棋駒を買うと言う事は、余り無いはずである。
 他方、どうみても、「そういう個別の事情なら、経帙牌を売ってやるか
ら、漢字でも、ヤマト仮名でも良いから、あなた方の好きなように、写経
所等で、字を書いてもらって将棋をしてください」が、五角形駒木地が、
経帙牌という名札と、近似の形なら自明なはずである。従って駒名を書い
て、字で名前を示せるのが当たり前の、地味な五角形駒に、実際にたとえ
ば中国にあった、原始日本の平安小将棋の源の駒の、漢字を中国人
の感覚で書いて輸出しても、ゲームを楽しむというよりも、たとえば例を
示すと、呪いや

願掛けに近いような、

特殊な理由で、一定の地域階層で、始められたゲームの駒の名札としては、
微妙に適合性が違っていて、受け入れられないだろう。たとえて言えば、
絵馬の製造業者が、個別のユーザーの願いまで、先に印刷しては売れな
いのと一緒で、完成品の輸出進出は、もともと、しにくいはずである。
 ようするに日本の将棋駒は、いわゆる商品や伝来品では無いのだろう。
そうではなくて冒頭近くで述べた、何らかのローカルな事情によって、
必要に迫られて、自分たちで作成した自家製の、筆と墨等で、どんな字を
どんな書体で書くかを、いろいろ工夫した結果生まれた、いわゆる家庭内の

ドイトの物品に、日本の将棋駒は近い

ように私には思える。
 つまり、日本の将棋の元ゲーム自体は、恐らく、かつて外国に有った
にしても、

五角形の将棋駒自体は、恐らく最初から日本の写経所等で、工夫の上で
作られたもの

と、ほぼ断定できるのではないかと、私は見ているという訳である。
(2018/02/06)

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