So-net無料ブログ作成
検索選択

唐代玄怪録の象棋と西暦800年~900年頃のチャトランガ(長さん)

 前回、中国唐代の牛派の頭目、牛僧儒の作と言われる、玄怪録の将棋類似ゲー
ムは、南詔国の西暦800年頃の象棋が、物語の下敷きと見るとの私説を述べた。
とすれば、この南詔国の将棋は、元々は、西暦800年までのインドチャトラン
ガが、チベットのラサを経由して、中国の雲南に伝来したものと見られるから、
元々のインド・チャトランガゲームは、前々回のべた、西暦800年より前の
インド・チャトランガ・バージョンか、追っ付けで伝来したとも考えられる、
西暦800年~900年までの、インド・チャトランガ・バージョンを、取り
入れたものかとも、考えられる。前回までは、玄怪録の将棋、一名”宝応将棋”
の、個別の駒の動かし方ルールについては、私はこのブログで、推定したり、
議論した事は無かった。が、インド・チャトランガ、個別構成駒の動かし方の
ルールの変遷の議論が出たついでに、ざっとだが、玄怪録の将棋(宝応将棋)の、
駒の動かし方ルールと、とりあえず、増川宏一氏の「将棋Ⅰ」西暦800年~
900年バージョンの、インド・チャトランガとの、比較をしてみた。いつも
のように、結論を先に書くと、

象駒が西暦800年代頃に、飛車だったというのは、この物語と、その点では、
良く有っている

ように思う。上将が象将の言い換えだとすれば、記述の通りになるからである。
そこで、

”南詔国の将棋が原始平安小将棋そのものである”というのは、間違いだった
可能性が強い

と、ごく最近私には、思えてきた。まだインド・チャトランガからそこまで、
変化はしていないようだ。
 南詔国の象棋が原始平安小将棋そのものと言うには余りにも、南詔国の将棋
の象駒が、これだと実際にも上将の飛車の動きであって、銀将とはかけ離れて
しまう。また、玄怪録のフィクションの方が、むしろ同じになるのだが、車駒
も香車ではなくて、現実の南詔国の象棋では、跳ぶ猛牛や、前回のページの、
コメントに書いたように、飛龍の動きだったのかもしれないからである。
 玄怪録の”上将”が、作者の口からでまかせの、フィクションであってほし
い所だが。象駒が銀将の動きに変わり、原始平安小将棋が、中国雲南の地に発
生するのは、残念ながら、南詔国が大理国へ変化し、追っ付けで西暦1000
年には有った、銀将動きの象駒が、木村義徳九段曰くのインド発の新しい波と
して、日本にではなくて、中国の雲南に10世紀後半に押し寄せ、象駒が銀将
動きに近くなった、五代十国から北宋の時代に、なってからだったのかもし
れないと、私は以上の事から、思うようになってきたのである。(2017/08/08)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

インド・チャトランガはアラブ・シャトランジでどう変化したのか(長さん)

 インド・チャトランガは、イランに伝わり、シャトランジと名前を変えたと
言われている。しかし、これがもう一回、インドに逆輸入され、インド・シャ
トランジとなったが、大内延介将棋九段著書の「将棋の来た道」に文中に記載
されているように、結局の所、現代では、古典的アラブ・シャトランジか、西
洋チェスと、2通りの意味に使われている。
 さて、アラブ・シャトランジにも、前回述べたように、中国シャンチーと、
ほとんど構成駒の動かし方のルールが、等しくなったとみられる、西暦800
年頃までの間に、何らかの変遷が、無いとは言えないと考えられる。ただし、
この点に関する情報は、少ないと認識する。すなわち、このシャトランジの前
史に、更に歴史があるかどうかは、チェス史の学習が足りない私には、今の所
よくわからない。前回述べた内容からすると、インド・チャトランガは、アラ
ブに伝来してからしばらくの、西暦800年~900年の頃には、1段目駒の
動きは、

玉駒が玉将、副官駒が玉駒近似で金将かも。象駒が飛車の動きで、桂馬が桂馬
かも。車が跳ぶ猛牛の動きかも、という事であった。

なお、この動きと、当時のアラブのシャトランジ駒のルールは、違うはずであ
る。なぜなら、増川宏一氏「将棋Ⅰ」によると、上記のインドチャトランガを
記録した人物が、アラブ人のアル・アドリだからである。チャトランガとシャ
トランジが同じなら、アル・アドリは、

「自国のゲームと、ルールは同じである。」と、記録すれば良いだけ

だろう。私に言わせれば、インドのゲームよりも、自分の国の将棋のルールに
ついて、アル・アドリには、詳しく書き残してほしかったように思う。
 以前書いたように、

(1)インド・チャトランガからアラブ・シャトランジに移行するときに、副
   官駒は、例えば金将の動きから、士の動きになった

と、私は考えている。その他についても、全部、今に記録が残る、アラブ・
シャトランジに変化したとしか、今の所私には言えない。だから、変化の内容
は、恐らく次のようだったのだろう。

(2)象駒の飛車と、車駒の跳ぶ猛牛が先ず交換された。位置が元もとが、逆
   だったのかもしれない。
(3)象駒が跳ぶ猛牛から、縦横を斜めにする変化をした。つまり、跳ぶ猛牛
   から、跳ぶ後期大将棋の飛龍に変化した。
(4)インドのゲームの影響も受けながら、後に桂馬も桂馬の動きから、八方
   桂馬の動きに変わった。

なお、以上の論で、(1)・(2)は、駒の名称から来るイメージにあわせた
もの。(3)は、木村義徳九段の「持駒使用の謎」に、賛成して同じ考えを、
示した。特に(1)と(2)が、インド・チャトランガの、たとえば西暦
600年~800年の間の変化によるものなのか、アラブ(イラン)に伝わっ
てからの、西暦800年頃までの変化なのかは、浅学の私には良くわからない。
 ただ、(2)の変化がアラブに特有の物であるとすれば、その後のインド・
チャトランガの変化に、アラブ・シャトランジは、追随しにくいので、遊戯の
歴史の流れは、説明が判りやすくは、なるかもしれない。一応今の所、
欧米のチェス史の研究の権威H・J・Rマレーと意見が一致しないが、
シャトランジ内部での変化説、つまり、日本駒名訳した”イランでのシャトラ
ンジ時代の飛龍駒の猛牛起源説”の方を、私はとっておきたいと思う。
(2017/08/07)

nice!(0)  コメント(1) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

アラブ・シャトランジと中国・シャンチーは駒の動かし方ルールが対応する(長さん)

今まで、判る人には当然と考えて、このブログでは明示しなかったのであるが、
今に残るアラブ・シャトランジの駒の動かし方のルールと、中国・シャン
チーのそれは、砲の存在と、兵の成りを除けば、良く対応する。以下、念のた
め、今回まとめてみた。

アラブ・シャトランジ 中国・シャンチーで、
玉駒は、九宮ルールが無ければ、本来動かし方ルールは同じであった可能性が
高い。中国シャンチーと類似するゲーム、朝鮮のチャンギの玉駒は、初手で、
八方へ移動できるからである。
副官駒は、猫叉の動きであって、全く同じ、動かし方ルールである。数が
倍化したのは、中国の官制を模したゲームに、変化したからに過ぎない。
象駒は、走りと跳びの違いだけで、その他は同じである。日本将棋の銀やマー
クルックの根が、5方向隣接升目動きと、全く違うのとは、対照的である。
馬駒は、塞馬脚のルールを無視すれば、八方桂で全く同じである。
車駒は、両方とも飛車の動きで同じである。
兵駒は、前に1歩が基本であり、ほぼ同じである。

特に他のゲーム種に比べて、少なくとも視覚的に目立つのは、象駒の一致であ
る。そして、以下私論だが、

兵の1升目ごとの隙間空けと、数の半減。4段配列、10段盤への変更は、砲駒
が加わったせいの調整のためで、全部説明できる

と私は思う。
 以上のような認識と論理で、中国シャンチー、朝鮮チャンギは、日本の将棋と
は異なり、アラブ・シャトランジ段階を経たゲームと、私は考えていると、言う
事になる。
 なお、現在中国には、四人制シャンチーという創作象棋があるとも聞くが、こ
れは、駒数を2倍に増やしたものであって、四人制チャトランガのように、競技
者一人分を、真っ二つにして二人に分けたようなゲームでは無い。また、シャン
チーという名称には、象棋が充てられていて、タイのマークルックの別名と見ら
れる、ジャドルングのように、四色とか四人制という意味があるとの情報もない。

その点、唐代、牛僧儒の怪奇小説、玄怪録で、将棋の駒の1隊と思われるものが、
四人制の残存を暗示させるかのように、4つの鼠の穴が変化した、門から出てく
るとの物語中の記載は、原文そのままであるとすれば、中国シャンチーの原型に
しては、かなり変だと私は思う。

以上の事からも、牛僧儒が玄怪録で下敷きにしていたのは、当時中国の首都長安
で指されていたと見られる、後の中国象棋のアラブ・シャトランジの類ではなく
て、雲南の、南詔国で指されていた、実は後の、玉と金に性能差が少ない、日本
の将棋の可能性が高いと、以上のように、私は個人的には考えているという訳な
のである。(2017/08/06)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

将棋Ⅰに記載された、チャトランガの変化(長さん)

前回、チャトランガの副官駒が、9~10世紀には玉将~酔象~金将程度の
動き。それが、アラブ・シャトランジから、ルールが逆輸入されて、現在で
は、平安大将棋の猛虎、猫叉の動きとして伝わると述べた。
 その後、この件に関しては、それに関する情報が無いようだった。そこで、
この副官問題については一旦置き、増川宏一著「将棋Ⅰ」法政大学出版
1977年に、少なくとも端方3種駒の変化について、書かれている事を、
読み直す、作業から私は始めた。その際、現在では四人制チャトランガは、
11世紀に発生したと、論が大きく変化している。ので、増川宏一氏の
上記著作本のチャトランガ関連のルール記載で四人制に関連する、私が前回、

四人制生成期二人制チャトランガと表現した、四人制から類推されるルール
は、最初期の1世紀とか3世紀のルールではなくて、10世紀のルールと
読み替える事が必要

とみられる。以上の点のみ注意すると、次のように読み取れるようである。

(1)西暦800年~900年ころには、”象”は、飛車の動きであった。
   ただし、この頃の観察された象は、端位置に有ったのかも、しれない。
   すなわち、象については、北朝鮮のチャンギと同じで、配列そのもの
   も変動した。
    以下私の想像であって、同書には記載されて居無いが、車は動きが
   ダブってしまうので、この頃は飛車の動きではないと見られる。
   また、増川宏一氏は、次のようにも述べた居る。
    インドより北の地方や、南インド南端地方の、駒の配列が同書では、
   紹介されていて、北の地方については、その地方にだけあるの駱駝を、
   仮に車と読み替えると、結局、全インドについて総合すると、北朝鮮
   チャンギのように、象・馬・車は、取り得るパターンで、いかように
   も、位置が交換された。

(2)恐らく西暦900年~西暦1000年までの象は、象駒の位置に有り、
   象は角行の動きと見られる。なお、この時点で馬駒が八方桂馬ではな
   くて、桂馬。車駒の位置に居る車が、飛車ではなくて、猛牛に近い動
   きだった。時代から見て、これが恐らく、四人制生成期二人制チャト
   ランガであった。

(3)西暦1000年~西暦1048年までの象は、恐らく象駒の位置で、
   銀将の動きであった。

(4)15世紀頃、ビクマデイテイア王の物語に出てくる将棋の話によると、
   動かし方のルールは、増川宏一「将棋Ⅰ」の内容からは不明だが、
   象の位置が、副官駒だったという。そして、象駒の位置には、将が、
   馬駒と車駒の位置に、馬と、車ないし舟が、置かれていたらしい。

 なお私は、増川氏の、法政大学出版局の「チェス」を、まだ読んで居無い。
(3)の時点での、馬駒と車駒のルールが、八方桂馬と飛車の動きと、
恐らく書いてあるのだろうと、木村義徳九段の「持駒使用の謎」の論旨から、
推定出来る。
 少なくとも、1977年版の「将棋Ⅰ」からは、以上の内容程度しか、
読み取れないと、今の所私は考える。
 そこで、ごくマクロに、象・馬・車の1段目端方3枚組の駒の中身を考え
てみると、以上の増川宏一「将棋Ⅰ」(1977)の以上の私の整形情報に、
間違いが無いとすれば、象・馬・車の1段目端方3枚組の駒の変遷には、

ゲームの質を決定的に変える要素は、何も無いと私は思う。ようするに、
飛車か角行の動きのどちらかが、片方のプレーヤーに、常に2枚づつ、
存在する状態が、継続しているようだからである。

むろん、角行駒は早攻め駒だし、飛車駒は決定打を相手に与える駒であると
いう違いはある。しかし、その交換は、少なくとも私に言わせると、

副官駒を囲いの能力を持った、多方進み駒から、その能力がより弱い、少方
進み駒に変える効果の方が、上の変遷の効果よりは、かなり大きい

と思う。むろん、飛車角を両方加えて、一方の攻め走り駒を、4枚にしたり、
更に、奔王駒を加えれば、ゲームは大きく変化するだろうが、飛車角駒を両
方加えたり、更に、奔王走り駒を加えるような事を、保守的なのか、
インド人は、約1000年間、全くして居無いと疑われるような内容である
というのが、増川宏一「将棋Ⅰ」記載のルールを読んだ、私の感想である。
ひょっとすると、

副官駒にお付き合いして、象駒が、玉駒と合計で、3種類の将駒に変わった
事以外、チャトランガの変化と、日本の将棋との間には、特に注意すべき
重要な関連性は無い

のではないかとさえ、増川宏一「将棋Ⅰ」の上記記載だけからは、私には
疑われたのである。(2017/08/05)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

四人制生成期二人制チャトランガの定義(長さん)

前回、チャトランガの副官の駒の動かし方のルールを推定した。が、その後
大内延介日本将棋九段の「将棋の来た路」(1986年)をチェックして、
この言い回しだと、現在のインド・チャトランガと、ごちゃ混ぜになり、
表現として、良く無い事に気がついた。なお、大内九段の紹介によれば、
現在、インドでチャトランガと呼ばれているゲームの、駒の動かし方のルール
は、ほぼ、マークルックの対応する駒の動きと同じである。
 それに対して、増川宏一氏の「ものと人間の文化史・将棋Ⅰ」(1977年)
の四人制シャトランガの駒の動きは、象駒が角行、馬駒が日本の桂馬、車駒が
猛牛に類似であり、

両者は大きく異なっている。

なお、最近の研究では、4人制チャトランガは、日本に将棋の記録が出始める
少し前の、10世紀頃の2人制チャトランガからの分岐と、見られている。
そして、前回のべた、私の「チャトランガ」は、その4人制のチャトランガを、
生み出した、

恐らく「9~10世紀ころのチャトランガ」をイメージしていて、より後世と
見られる、将棋の来た道紹介の「今に残るチャトランガ」とは別

である。そこで、今後は混同を避けるために、表題のように、私の表現する
チャトランガを「四人制生成期二人制チャトランガ」と、呼ぶことにしたい。
私は、増川宏一「将棋Ⅰ」の記載から、玉駒が玉将の動きで、副官駒と玉駒を
同一視する事によって、2人制から4人制が発生したとすれば、

四人制生成期二人制チャトランガの副官駒は、玉将の動きで、取られても勝敗
に関係の無い、近王とか、前牛とか、熊目、毒狼のような動きとイメージした

のだが、正確なルールについては、更に調査してみないと、何ともいえない所
だと思う。なお、増川宏一「将棋Ⅰ」によると、日本に将棋が伝来した頃の、

少し後、11世紀のチャトランガでは、象駒の動きが角行ではなくて、銀将の
動きと目撃された

とも言う。インド・チャトランガの駒の動かし方ルールは、安定的なものと
は考えられていないようである。従って、

たまたま、チベット・ラサ経由で中国雲南に入った、後に日本に伝来する事
になる分岐は、象駒が副官駒よりも少し弱い、後に銀将になるべき素質を、
たまたま供えていた

のかも、しれないとは考えている。が、これも更に調べてみないと、何とも
言えないとの心象を、今の所同様に持っている。(2017/08/04)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

金将駒の動きは、誰が考え出したのか(長さん)

日本将棋連盟発行の木村義徳九段著「持駒使用の謎」(2001年)によると、
「金将のルールを、中国シャンチーの士の動きから、現行の6方向隣接升目動き
に”改善”したのは、日本人である」との旨、記載されていると認識する。私は
個人的には、この説には反対する。

中国シャンチーの士の斜め4方向隣接升目動きの方が、金将の6方向一升目に
比べて、取り捨てルールのケースは、より優れているので、賢明な日本人棋士が
そのようにルールを変える、可能性はほとんど無い

と、考えるからである。つまり、このケースは、より駒の動きが弱い方向が、
退化ではなくて進化と、私は見ているのである。そして、日本に流入したゲーム
に副官駒が、士の動きになっているゲームが、たとえ有ったとしても、それは
日本では流行らずに、廃れたゲームのルールであり、日本の将棋に、繋がる
ものではないと、私は考える。
なぜなら、士を金将へ取り替えるのは、

進化ではなくて、退化

だからである。
では、何故、金将と士では士の方が、より良いのかと言えば、

玉囲いの構成員になる、能力が金将に比べて、士の方が劣るから

と私は、ほぼ断定する。もともと駒数の少ない小将棋、小象棋、西洋チェス類で
は、大駒の数が、限られているので、玉駒守りは弱いほうが、対局両者とも、
守り駒が排除しきれずに、玉駒の取り逃がし、引き分けるという確率の増加が、
防げると見る。そこで、

玉駒を守る能力が強い副官が存在するよりは、玉駒を守る能力が余り無い副官し
か居無い方が、よほどまし

なのだと私は思う。なお、女王は攻め駒としての能力を持ち、士より更に優れて
いたので、西洋チェスは、現在では世界を席巻しているとみられる。さてそこで、
実際には、

インド・チャトランガからアラブ・シャトランジに変化するときに、玉駒の動か
し方ルールの、動ける隣接升目が8か、それに近い数である、副官駒ルールが、
斜め4升目へと、8近辺から4に減らされた

と、私は見るのである。これが、チャトランガからシャトランジへの変化である
という証拠としては、

サイコロを使った4人制ゲームが10世紀頃、チャトランガについては発生した
が、シャトランジ経由でも、4人制ゲームが出来たと、いうような話はない

という点が、挙げられると思う。従って、表題の問いであるが、

金将の動かし方ルールを発明したのは、日本人ではなくて、インド人だ

と私は推定する。というよりは、

シャトランジが成立するまでは、そもそも将棋・象棋・チェス型ゲームの元祖
のチャトランガは、副官駒が金将か、酔象の類の動かし方ルールだった

のではないのだろうか。であるから、副官駒は玉駒と混同されて、玉将の動き
に戻せばよく、スムーズに2人制チャトランガから、サイコロゲームの4人制
チャトランガが、10世紀頃インドで、発明できたのではないかと、私は思う
のである。
 なお、私のような将棋の力の弱い者が上記を述べるのは、木村義徳九段には
失礼かもしれないし、面と向かって述べても、相手にされないかもしれない。
ただし、私には、上記の論には、多少の自信がある。なぜかと言うと10年
ほど前に、日本将棋連盟の2代前の会長で、亡くなった米長邦雄永世棋聖が開
設した、将棋の掲示板に、「隣接升目に行ける数が多い小駒ほど、玉囲いの構
成駒としての性能が高い」との旨書き込み、米長永世棋聖から「その通り」と
の御褒めの言葉を、私にしては珍しく頂戴した事があったのである。従って、
上記の論は、木村義徳九段には仮に通じなくても、日本将棋連盟の元の会長の

故米長永世棋聖が、以上の論に関しては、あの世で見ていて、大きくうなずい
てくれるだろう

と思っているのである。蛇足だが、私は日本将棋の素質は、ほぼ無いので、
故米長永世棋聖から褒められたのは、このときともう一回、国立公文書館が、
同所が所蔵している、将棋古文書の一般人向けの展示会を行っているのを、
目ざとく見つけて、将棋連盟に通報したときの、計2回だけだった。

 ともあれ以上の事から、中国シャンチーはシャトランジ経由、日本の将棋は、
原始的なチャトランガの面影を、金将が残したゲームだと、私は推定する。

駒名の表示が1文字か、2文字かの差も、根本的にはそこから来るのだと思う。
唐でも特に都の長安では、当時最もモダンとされた、アラブのシャトランジが、
象棋としては、主流だったのであろう。実際都で指されたゲームが元になって、
現在のシャンチーが、出来たと考える方が、例えば中国であっても山奥の、
南詔国のゲームから進化したと考えるよりも、陸のシルクロードの存在から見
て、イスラム圏と繋がりが容易であるために、自然だと私は思う。
 そして副官駒と玉駒とが余り差が無い、チャトランガに近いゲームが、王権
が余り強くなくて、日本の安土桃山時代のように、諸侯の連合国家のような国に
インド~ネパール~チベットのラサを経て伝わり、しかもそこが、たまたま
鉱山国家だったために、その国すなわち当時の大理国に於いて、将駒が玉・金・
銀と3種も有るゲームが、たまたま発生し、日本にはほぼ、そのまま伝わった
のが、原始平安小将棋の正体だと、私は今ではほぼ断定するのである。
(2017/08/03)

成りを、駒をひっくり返して表現したのは、誰が最初か(長さん)

最近、元の将棋博物館の館長、木村義徳先生(将棋の棋士として九段)の、
「持駒使用の謎」日本将棋連盟(2001年)を読見直してみて、
このブログに私が今まで書いた事と、異なる見解の中で、最も私が気になる
のが、表題に書いた事であると感じた。

持駒使用の謎によると、駒をひっくり返して成りを表現したのは、タイ居住
のモン人が最初、との旨書いてある

ように、私には読み取れる。私の説では、

それは日本人の発案であり、恐らく西暦1010年代前後の、大理国から
将棋が伝来した時点での、九州大宰府、条の御坊の僧侶が、ひっくり返した
とき、表示された字が違えば、成りが表現できるとの着想を元に、経帙牌の
裏に、成りの駒名を書いた、五角形の駒を発明したのが始まり

である。私は、持駒使用の謎から読み取れるような、タイの原始マークルッ
クのピア駒のひっくり返しにより、成りを現すという情報が、日本に伝来し
て、日本将棋駒の成り表現が、成立したという事実は、無いと思う。理由は、

タイのモン人の将棋駒は本来、厳格な仏教徒だったために、写実駒である。
そして彼らの将棋駒が抽象化し、兵駒が、貝のような抽象的な形に変化する
最初のチャンスは、相棒のタイ人が、中国雲南省で、蒙古帝国が派遣した
イスラム教徒の提督に支配される、13世紀までは、全く無い

と考えるからである。モン族の海岸都市国家は、日本に原始平安小将棋が
成立した11世紀の初頭は、インド・ヒンディの影響を受けてはいても、
イスラムの影響は無いし、彼ら自身は、厳格な仏教徒だったはずである。
そのため、当時の彼らの、インド・チャトランガに近い象棋の駒は、抽象化
していたとしても、高々、増川宏一氏の「将棋Ⅰ」に、写真が載っている、
ミャンマー・シットインの、兵駒程度に留まるのではないかと私は思う。
なお、同書の写真によると、シットインの増川宏一「将棋Ⅰ」で紹介されて
いる、シットインの兵駒は、”樹木”のように、私には見る。だから、ひっ
くり返して使うのは、貝の形と違い、かなり難しいように見えるのである。
 従って、たとえ13世紀に、タイでマークルックの貝駒をひっくり返して
成りを現すというアイディアが発生したとしても、日本で成りを裏に字を
書いて現すことは、出土駒として西暦1058年頃より行われているから、

タイの方が明らかに後発であって、日本人が最初の発明者と見るべき

である。タイの将棋の駒の成り表現方法の発明は、独立に後日行われた
可能性は否定できない。が、山田長政の活躍した16世紀に、日本の移住者
から、タイ人の方が、そのアイディアを教わった可能性が、むしろ強いの
ではないか。
 そもそも、日本の将棋は”金と玉を除いて、敵陣3段目に入ると皆金に成
る”というルールから出発しているため、その表現方法は最も難しく、裏返
して成るというアイディアの発明の恩恵は、最も大きい。よって、その

発明自体が必要性から、日本人自身の手で行われたという可能性は、相当
に高い

と私は見る。
 思えば私のこのブログも、私の非力で、世の中に対する寄与は、今の所
ほとんど無いと自己評価する。が「日本人の文化は所詮、元をただせば、
ほとんど外来」だと諦めておられる諸氏に、今述べた最後の記述が、
いくばくかの力になれば、このブログの存在価値も、多少はあったかなと
感じる今日この頃である。(2017/08/02)

増川宏一著、将棋Ⅰのシットインの仏像駒(長さん)

以前、日本に伝来した写実的立体駒を用いた原始平安小将棋の玉・金・銀
は、一例として、仏像のような形で、それぞれの素材が、玉(ホータン玉)・
純金・純銀であったろうと述べた。そして仏像で、”将”という名称の駒が、
表現できるのは、発祥地の大理国の王・副官等が、仏教が盛んであるため、
しばしば、第一線を退いたのちに、仏門に入って僧侶になり、やがては仏
になるという、観念から来るのではないかと述べた。以上はそのとき、
現物として何か根拠を示して、述べたものではなかった。仏像で、将棋駒
を表現した例が、そのときには、特に私には思い当たっていなかったのであ
る。ところが最近、今まで何回も引用した、表題の増川宏一著、
「ものと人間の文化史23-1 将棋Ⅰ」法政大学出版局(1977年)
に、その例が、写真で載っているのに、やっと私も気がついた。現物が残っ
ているミャンマーのシットインの駒に、大王と、司令官(副官)が、仏像の
例があるようだ。

この事から、仏教が盛んな国の、王や司令官(副官)が、僧や仏と、同一
視される例がある事は、そのような駒が実際に有り確かである。

ただし、言うまでも無く、そのミャンマーの駒は、大王と司令官とで、別の
貴金属素材で、仏像型を形成していない。だから、ミャンマーから、玉駒と
副官駒が玉将と金将である、日本の将棋の源が、やってきたとは、考えら
れないと思う。なお、岡野伸氏自費出版の「世界の主な将棋」(1999年)
によると、シットインは、ミャンマーがバガン朝の時代に、モン族の都市国
家タトンをミャンマー側が11世紀、日本に既に平安小将棋が有った時点で
攻撃して、降伏させ、モン族をミャンマーのパガンに強制移住させたときに、
モン族から伝わったという、伝承があるという。つまり、シットインは、
比較的タイのマークルックと、民族的に関連性のあるゲームとの事である。
 それにしても、私は上記の、増川宏一・将棋Ⅰは、何度も見ているはず
なのだが、東南アジアの将棋駒の写真の、少なくとも一部の内容を、みごと
にスルーしていたとは、なんとも情けない話だったと、気がついて相当ショ
ックを隠せなかった。(2017/08/01)

酔象が、他の将棋駒に比べて、伝来が遅い根拠(長さん)

前々回述べたように、本来、原始平安小将棋の伝来と、同時に日本に紹介
されるはずだった、8×8升目32枚制大理国小将棋に、”含まれる”象は、
西暦1010年代前後には伝来せず、1050年代の興福寺に於いて、使用
されたと私は推定した。西暦1010年代頃に、他の駒と、いっしょに来な
かった理由は、私によると、貴金属写実将棋駒を特徴とする、藤原摂関用の
贈答品を、より目立たせるために、純銀製の、銀将を棋士の一方に1個から
2個に、増加させる為等という事である。その結果、本来上記の大理国
小将棋に、片方に1個有った象駒は、削除されて、1010年頃には伝来
しなかった。

 しかし遅くとも40年程度後に日本でも、恐らく中国の文献等を介して、
大理国小将棋の本来の駒の構成が伝わったため、1058年頃の、興福寺
出土駒に、酔象が含まれるという、仮説になった。

 さて以上の仮説は、藤原摂関用の、黄金の将棋具が出土していないため、
あるいは、そこに酔象が存在しないという証明には、なっていないのでは
ないか、考える向きもあるかもしれない。しかし、私は藤原摂関用の原始
平安小将棋遊戯具に、象は確かに無いと思う。根拠は、

桂馬、香車の、”桂””香”という修飾詞の系統とは明らかに違う”酔”
が使用されている

ためである。桂や香は、桂製将棋盤そのものと、その性質という点で共通
である。しかし、その香りで酒のように酔うという話は無い。桂は、たと
えば葉が、醤油の良いにおいと表現されるから、醤油で酒酔いはしない。
また逆に酔から辿ると、酔うというのは飲酒を連想し、これは、仏教の戒
律違反行為である。しかし、桂や香に、仏教の戒律違反を連想させる意味
はない。たとえば、香は、逆に、それを用いるのは、仏教では推奨される
行為であるから、類語にならない。むしろ反対語である。
つまり、

桂、香という修飾詞と、酔という修飾詞は互いに、明らかに別の時点でか
つ、たとえば九州大宰府と奈良の興福寺というように、全く別の場所で、
命名に使われた文字

である。なお、象という駒に付ける修飾詞として、酔以外が考えにくい、
特別な事情があるなら、九州大宰府の武士が、酒に酔いながら将棋を指して、
その勢いで、象に、酔象という修飾詞を付ける事も、考えられなくは無い
とは思う。そこで、将棋盤の桂の木の芳香に感動した、大宰府国境警備の
武家が、仮に象駒も、そこに存在したとすれば、”酔”以外に、単語が無
いのかどうか、さいきん一応考えてみた。webを調査したところ、結論
を書くと、

象が馬、車といっしょに伝来したとすると、緋象という名称にする可能性
も有る

と私は思う。これは、桂板に緋桂と青桂という2種類があり、前者の方が
柾目の板で高級品だと、net上に公開されているためである。なお、緋
色は、官位が成立した時代から有り、平安時代後期なら、緋桂板の概念も、
日本に桂の木があるため、存在しただろうと私は今の所、考えている。
なお、桂の木は日本が著名だが、中国にも自生が少数あると、専門書で
別途確認した。中国の桂の木は、葉の裏に毛があるので、日本の桂の木と
は、違いが少しあるらしい。少なくとも、中国産の桂の木を良く探せば、
緋桂板の将棋盤は、中国でも、作れ無い事は無いと、私は思う。
 以上のように、現実には馬と車駒の2種だったので、大宰府将棋対局場
の盛り上げ言葉は、実際には「将棋盤の高級桂は良い香り~」だったのだ
ろうが、仮に象、馬、車の3種だったら、これが、

「将棋盤の高級”緋”桂は良い香り~」

と、少し変化したのではなかろうか。
つまり、

象駒には酔だけでなく、緋という修飾詞も考える事が可能なわけだから、
伝来将棋道具をほめている流れの中で、それとは関連の薄い、仏教の戒律
関連の内容を入り込ませる可能性は、かなり薄い

のではないかと、私はやはり考えるのである。(2017/07/31)

興福寺出土駒1993年No.4”裏面成将?玉将”駒が物語るもの(長さん)

上記年の興福寺の出土駒には、玉将が3枚含まれるが、そのうち2枚に、裏面
にも、文字が書かれているという特徴がある。一枚は両面が玉将というもので、
玉将が不成りである事を、示すもののようにも見える。ところが、もう一枚の
”両面文字記載玉将駒”は、成りの字がはっきりしないのだが、”成将”である
との説が、行き渡っているように、私は認識する。この”成将”とは、いった
い、どのような、ルールの駒なのであろうか。まずは何時ものように私見による
と、

玉将の事

だと私は思う。ただし、上記の問題は、

答えが大切なのではなくて、それの意味する事

だと思う。私見だが、これは、日本では全く流行らなかったが、

北宋将棋が西暦1058年までには、日本の少なくとも奈良の興福寺には伝来
していた事を示す

と私は見る。なぜなら、大理国の将棋しか、その当時知らなければ、一文字の
”将”が、玉将、金将、銀将のうちのどれを意味するものか、日本人は、明確
には、理解できないはずだからである。つまり、「玉将は成ると、将になる」
と示せば、玉将だと判る棋士用の駒、つまり、西暦1058年当時に、玉駒が
”一文字の将”である北宋将棋を、知っていた人間が、興福寺境内内に、存在
するという事だと言う訳だろう。
 なお、玉将の裏に、玉将等を書かなければならない理由としては、棋士が、
三段目に入ると、金将以外は、駒をひっくり返す癖が付いている上に、玉将の
成りは、ルールブックには特に露に書いていないため、徹底させる必要がある
事。駒箱から出したとき、金将および、ひょっとすると酔象と区別つきやすく、
盤に駒を正しく並べやすくするため。場の雰囲気を盛り上げるための、単なる
御ふざけ。習字のための駒。等、いろいろな可能性が考えられるため、確定は、
し辛いかなと私は見る。
 恐らく、興福寺に1058年頃、北宋から渡来した僧も居て、日本の将棋を
指したので、将という一文字で、玉駒を現す、原始シャンチーとしての北宋将
棋の知識が、興福寺の僧へは、伝わっていた。そのため、これで判ると思って、
このような駒を、駒師は作成したのではないかと、私は推定する。
 なお裏成将玉将駒の裏面”成”の字は、余り明確なものではないようである。
 よって、以上の説は”出土駒の字の読みが、正しいとすると”という条件付
きである事を、予め断っておきたい。(2017/07/30)