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下河辺荘新方の歴史講演会(2)(長さん)

6月7日に引き続いて、埼玉越谷市郷土研究会顧問の加藤幸一氏に
よる、表題の講演の聴講をさせていただいた。内容は、
埼玉県越谷市大吉(おおよし)~埼玉県北葛飾郡松伏町田中付近の近
世・近代の歴史と、付近を流れる古利根川との関連についてが、ほぼ
中心であった。
 が前回、新方郷の鎌倉時代の歴史について、話の出た、
埼玉県越谷市向畑と、埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に掛かる、
堂面橋付近とも推定される、鎌倉時代中期の、荘園中心”十丁免”に
関する、補充史料の紹介も有った。埼玉県越谷市向畑の廃寺に、”極
めて古い仏像”が、非公式に存在するのを、加藤先生が、個人的に
知っているというのが根拠であった。しかし写真で現物が、実際に
あるらしいことは、私にも判ったが、

具体的に仏像が、現在何処に確かにあるのか正確な情報は、盗難防止
の為公開できない

との事であった。非公開な点が多い事は、誠に残念な事であり、これ
では学術的には、証拠になりにくいのではないのだろうかと、個人的
には、この情報の行く末が心配・懸念された。その他、埼玉県の石仏
に、”西新方”の地名が、彫られたものがあり、下河辺荘新方郷は、
東西2つに分けられていた事が、ほぼ確実視されるとの、話もあった。
なお、埼玉県越谷市恩間は、比較的現在の、元荒川付近に近い所に
あるため、西に属する事はほぼ確かであろう。よって、だいたいの
見当では、戦国時代に新方氏の館の有った、埼玉県越谷市向畑のあた
りが、東の中心になりそうな事は、そう言われれば、そうも言えなく
も無いように、感覚的には、私にも思えた。
 なお、下河辺荘新方郷を2つに分けたのは、鎌倉時代中期に、下河
辺氏が、鎌倉幕府の役人へ荘園の荘司から転身した後、それを引き継
いだ金沢氏や、氏寺の称名寺が、鎌倉に住んでいる者の目線で、定め
たもののようだった。

 だからそこに、そもそも下河辺行光の館に関する情報が有るとは、
最初から、余り期待できないと言えば、できないのかもしれないと
私は思った。

 更に埼玉県越谷市向畑の廃寺の仏像の出土地点を、鎌倉時代の荘園
の中心地とする根拠にする点であるが、茨城県結城郡五霞町釈迦と、
小手指の間付近に相当古く、古代にも遡るとされる仏像と、推定され
ているものが、現地に存在するという話を、私は一般向けの史跡案内
書で読んでいる。しかしながら、五霞町小手指~釈迦が、同じく
五霞町元栗橋に比して、少なくとも中世に、下河辺荘野方の、中心の
あった場所という事を、

その仏像の存在で、そう推定するという話には、特になっていなかっ
たように、私は認識している。

 よって、埼玉県越谷市付近にあった、近世の旧新方郷地区のあたり
のうち、特別に埼玉県越谷市向畑(字)堤外付近を、そこだけ狙うと
いう考えは、とんでもない所から、ミニチュアの五色宝塔が出土した、
埼玉県児玉郡美里町の例から見ても、余り賢明な、更なる史料の探し
方とは、必ずしも言えないように、私は2回の講演を聞き取り、一応
結論付ける事とした。(2017/06/15)

平安小将棋の馬と車の修飾詞はなぜ、桂と香なのか(長さん)

ほぼ定説によると、日本の小将棋は鎌倉時代の草創期頃、片方に将駒が4~5
枚、馬駒が2枚、車駒が2枚、兵駒が8~9枚で、構成されていたとされる。
このうち、前に述べたように、馬、車、兵に、日本人が輸入後、桂、香、歩の
修飾詞を付けたらしいと、私は考えている。ただ、兵駒については、動かし方
のルールから”歩”にしたのは、ほぼ異論が無いのではないかと思う。しかし、
桂、香については、解明がこれほどには簡単ではない。かなり有力な説として、
駒の名称の桂と香も、仏教用具に起源を求める説が先行して存在する。しかし
お香は仏教から連想するのは容易だが、桂の方はどうであろうかと、私は疑う。
 他方、中将棋、大将棋と、このブログで題材にしている、駒数の多い将棋に、
なればなるほど、必要な修飾詞の数も増加する。のでその類推から、逆に
桂と香の謎が解けないのかと、考える向きもあるかもしれない。しかし、香に
ついては、象駒に別例があるだけ。桂については、他に転用した別例が、余
り知られてい無い。しかも、駒数多数将棋には、逆に同じ修飾詞、例えば”奔”
”猛””飛”を付ける例が、複数ある等、ケースバイケースで、そのつど、修
飾詞は適切なものを、いつも考えていたとも言えない、議論の不規則性がある。
そのため小将棋で、仏教とのつながりは自明でない馬に、なぜ桂をつけたのか。
車のうち、日本で使われたのが、最も早かったものが、なぜ香なのか。ヒント
になるような情報が、そもそも少ない事が、調べてみれば、少なくともほぼ、
だいたいの方に、納得される状況なのが現実ではないかと、私は認識している。
 その証拠に中将棋駒名との比較から、桂や香を論じている例を、私は少なく
とも知らない。また大局将棋では、他のいわゆる、大大将棋等の六将棋で使わ
れている駒は、たとえば、蟠蛇・猛熊の成りを奔蛇・奔熊ではなくて、蟠龍・
大熊に変える等して、伝統的な駒名の成りを、大局将棋の発案時とみられる、
駒の系列とは区別している。これは察するに、成り規則を敢えて変則的にし、
”江戸時代の人間は、これら六将棋の駒名の起源は、知らないので、成りを、
大局将棋固有駒と、同一のパターンにする事はできない”と、主張するかのよ
うに、工夫していると思われる、フシがあるのである。
 以上のように、相当に困難な”桂”と”香”の字の謎であるが、とりあえず
私は、前回述べた、原始平安小将棋の輸入当時の立体駒が、馬は材質が桂の木
木彫り、車は、貴族の使う人力車のような形に、精密に細工されていたので
はないかと思っている。その修飾詞の”孤立した使われ方”から、こう考える
のが、最もすわりが良いのではなかろうか。ただし繰り返すが、証拠を挙げる
のは、”藤原摂関用黄金の将棋具”の存在自体が仮説であるから、現時点では
非常に困難である。
 ただ、これではあまりに平凡で、大宰府の将棋仲間の心中に、駒名に関して
強い印象を残すには、名前の付け方に工夫が、多分に足りないのではないかと
懸念している。そのため、この”桂”と”香”には、もう一ヒネリが、ネーミ
ング時に、隠されているのかもしれないと疑っている。以下、私の考えた、
仲間に将棋の駒の新作名を、忘れさせないようにする、もう一ヒネリとは、
やはり藤原摂関用贈答品高級将棋具の、オリジナルな作りの別の性質に関係し、
次のような事があったのではないかと、想定する事から出発している。
すなわち、

貴金属駒を多数使った、立体駒将棋道具では、何と将棋駒ばかりではなく、
将棋盤も超高級で、”桂”材を用いて作られた一級品だった。そのためその盤
は、芳しい、本当に良い”香り”がした。」

という情報を、摂関用原始平安小将棋立体駒付き将棋具に、実際に接した事の
あった、大宰府の古株の将棋指しが、新参の棋士への語り草として、話を聞か
せるつもりで、馬と車の駒名に、桂、香の修飾詞を洒落て付けてみた、という
アイディアである。
 むろん、桂馬の元となった馬駒も、桂で同じ材質なら、同じ桂の芳香が有っ
たのだろう。だが駒より盤の方が大型で、体積も表面積も大きいから、芳香は
盤からの方が強く、近くに居るだけで、気が付いたのではないかと私は考える。
馬は桂の木の木彫り、車はデザインが、貴族用人力車である事も確かだが、
将棋盤の性質についても、駒名に入れ込んで、後輩も興味を持っている”黄金
の原始平安小将棋道具”に関する情報を、増やして見せたのではないかと、言
う事である。
 以上は、証明は現時点では無理だが、酔象から後の、将棋駒とは、全く別の
命名系列であるため、桂馬と香車については、伝来時の個別の何らかの事情で、
その名前に、たまたまなっている可能性も、完全には否定はできないのではな
いかと、私は考えているのである。(2017/06/14)

8×8升目32枚制原始平安小将棋(仮称)の立体駒成り表現(長さん)

現在日本の将棋は、五角形駒を使用し、成りは駒の裏に字を書いて示して
いる。前に述べたように、私はこの将棋が、鉱山国家、中国雲南省に、
かつて存在した、大理国から来たゲームであるとみる。そして大理国では、
立体駒で、ゲームが行われていたと、推定している。経帙牌でゲームを
するというのは、私の説だと、日本人、特に九州大宰府の僧ないし、武家
の発案である。これに関して、かつて将棋史研究家の(故)溝口和彦さん
は、「立体駒では、成りが表現しくいため、日本の将棋が、チェスのよう
に立体駒で、指された事は無かった。」との旨、何回か主張されていた。
そこで今回はこの、立体駒での成り表現について、考えてみる。私は、
オリジナルの大理国の将棋具でも、そこまでそうであったとまでは、敢え
て言わないが、日本に最初に輸入された立体駒将棋道具については、
少なくとも、

金将駒は30枚作られており、初期配列では2枚使用、残りの28枚は、
並べて盤の横に、これらの黄金駒が成り駒として使われるまで、整列待機
させるような、控えの陳列の座までが、恐らく作られていた

と推定している。つまり北宋の商人が、藤原摂関の贈答品として持ってき
た、原始平安小将棋の駒では少なくとも、成るたびに、全部駒を交換して
いたのだと思う。溝口さんが、駒を交換して成りを表す事に、かつて言及
されなかったのは、彼には持ち駒ルールしか、念頭に無かったからである。
だが、8升目制の原始平安小将棋が、取り捨てルールだと認めてしまうと、
相手の駒を討ったときに、成る前の駒を探して戻す、めんどくささがない
から、せいぜい回り将棋で、駒を取り替えるのと、この成り表現では、手
間は同じレベルになる。だからそれで、特に問題はないと私は考えている
のである。なお、私が、藤原摂関用の立体将棋駒贈答品が、金将30枚1
セットであると考えているのは、次のように考えているからだ。すなわち
北宋商人が運んで来たに違いない、藤原道長なり、藤原頼道用の贈答品が、

それほどの、きらびやかな黄金の将棋具であるからこそ、都で金将に成っ
て、彼ら摂関の副官として西暦1020年頃に出世した、かつての同僚な
り上司の、藤原隆家に自分も続こうと、大宰府の国境警備兵の武士達は、
経帙牌で、敵陣3段目で歩兵が金に成る、原始平安小将棋を熱心に指した
のだ

という事なのではあるまいか。むろん、彼らの使用する、経帙牌へ字を書
いて、立体金将駒等を表現した、オリジナルの贈答品よりは、はるかに地
味な将棋道具には、牌の在庫数にも限りが有った為、また実際には、その
方がむしろ、当然便利な事にたまたま気が付いて、裏に字を書いて、成り
を表すようにしたのであろう。
 すると、敵陣の金将が、ただの金将ではなくて、と金である場合には、
それが直ぐに判るという効果が新たに生じた。そのため、ますます将棋を
指すとき座が盛り上がって、将棋が大宰府では、更に盛んになったに違い
ないと、私は思う。
 なお同じく溝口さんにより、タイのマークルックの兵駒が、ひっくり返
して副官駒に成る仕掛けの、立体駒である点も指摘されていた。私は、こ
の仕掛けは、日本の戦国時代から近世の初期にあった、タイの日本人居住
区からの、伝来かもしれないと疑っている。西洋チェスとは異なり、兵駒
が、日本の小将棋系列と同じく、敵陣3段目で成るマークルックでは、兵
が他の8升目制チェス型ゲームより成り易いため、副官化の表現手法につ
いて、日本の小将棋の方式を、ずっと後になって、逆輸入した可能性は、
あるいはあるのかもしれないと思う。
 なお私は、平安小将棋系列では、成り先が最初から存在する駒種の金将
であるため、駒道具の管理上も、金将駒30枚なり32枚が、駒の収納
所に混在して保管されていても、さして煩雑にならないと思う。
 しかし確かに、本将棋系列では将棋・象棋・チェス型ゲームに、成り駒
待機交換使用方式というやり方の前例は無い。しかし日本では、回り将棋
という将棋遊びが公知である。にも係わらず、頭から交換法を煩雑である
という理由で、否定する意見が仮に有るとすれば、「持ち駒ルール以外に
認めない」というなら話は別だが、そうでなければかなり不可解だと、私
は感じる。(2017/06/13)

日本人が囲碁を初めたのは、西暦602年頃か西暦690年頃か(長さん)

前回、日本人が始めて囲碁を打ったのは、元嘉暦~儀鳳暦の頃ではないかと
述べた。しかしこの記載では、日本人がを打った始まりは、

5世紀中旬から西暦690年までのどこか

という程度しか、絞れ無い事が、広瀬秀雄著「日本史小百科暦」1978
年/近藤出版社を読み直してみて、その後判った。ので前回の議論には、
更に補充が、絶対に必要だと、それで気が付いたのである。
まず、通例どおり結論を先に書くが、

西暦690年の少し前が、日本人がある程度碁を指した最初で、それ以前
の日本での碁の記録は、有っても百済の帰化人等の遊戯について記載して
いる

のではないかと私は考える。奈良時代の少し前から、ようやく日本人は
日本で、囲碁に興じているのではないだろうか。
 ところで、前回の言い方で時代が絞れないのは、
「元嘉暦を、日本人も百済に真似て、西暦450年頃から、そのまま知識
階級が使用している」と、広瀬秀雄先生の、上記の著書が現在でも正しい
のなら、そうされているからである。
 ただし、知識人が同盟国である百済の暦を、西暦553年までは、真似
ているだけであって、百済から暦学者を国内に確保するという、トップの
発言すらまだ無かったようである。よって私流の考え方が正しいケースで
は、5世紀中~西暦553年までの日本人に、囲碁の棋士は、い無いはず
である。更に西暦553年から西暦602年までは、日本のトップの意向
は、暦の編集能力は百済だのみであって、日本に常駐する人間に、恒常的
に暦の編集能力を、日本のトップが要求した記録はない。西暦602年に
なって、初めて暦学者を国内で養成しようと、推古天皇名でトップダウン
の指示が、あったという事らしい。しかし、

西暦602年から西暦690年までは、多くの日本人が囲碁を打たなけれ
ばないないと忖度するような、意向がトップには、さほど無かった

と私は思う。なぜなら西暦602年に、暦法を学んで特定の人間が習得し
た、と言っても当時は、百済・任那・日本は、ほぼ同一国内に近いため、
飛鳥での布暦が無いのなら、以前の状態とは大差が無いだろうと、私は思
うからである。私の前回の議論の筋に従うのなら、

日本で布暦自体を始めた、西暦690年頃の持統天皇こそが、元嘉暦か
儀鳳暦か、どちらの暦を、日本の国暦にするかで、バタバタした時代の
日本のトップ

その人の事だと私は解釈する。囲碁史では日本の囲碁の記録で、最も早い
のは、隋史倭人伝の西暦600年前後になっていたと、私は記憶するが、
記録に残るような、当時の日本国内の知識人棋士は、百済からの帰化人
(帰化僧か?)の誤認ではないかと、私は疑う。
 それにしても、日本のトップ層の配下の官たちは、どうして690年の
少し前に、暦の詔等に忖度されて、囲碁を打つようになったのであろうか。
そこの所は、囲碁に詳しくない私としては、良くわからない所ではある。
が、渋川春海の和星図を思い出すと、囲碁を打っている最中に、石の並び
が、何を意味するのか、即座に理解できる能力というのは、いわゆる天文
マニアの言い方で、

星座をよく知っている

という事に、通じるのかもしれないと思う。なお上のフレーズは、星座の
種類をもれなく記憶していることではなくて、特に日本では北天の星座内
の恒星の具体的な天球での並びが、慣れにより良く理解されている事を、
通常こう言う。それにしても、西暦690年よりも、少し前に、”星座を
よく知っている”能力が、何故尊ばれたのかを、説明できないと、
暦と囲碁との関係と漠然と言っても、かなり唐突なのかもしれない。これ
については、持統天皇が、どちらを使うか思い悩んでいた、元嘉暦か儀鳳
暦かとで、同じく広瀬秀雄先生の上記著書等によると、中国唐代6~7世
紀の暦法の変遷によって、たまたま

元嘉暦が平朔、儀鳳暦が定朔である

のと、何か関係があるのかもしれないと、私は思う。平朔は実際の月の厳
密な満ち欠けは無視して、朔望月の平均値で日付けを決める方法、定朔は、
月の軌道も地球の公転軌道も真円ではないし、月については太陽・地球・
月の万有引力における3体問題で軌道が決まるので、公転軌道が楕円でも
なくなり、以上の事から、朔から朔の間隔は複雑変動であり、それを訂正
して、実際の新月に一日を合わせるような、暦の事である。そこで、月が
天球つまり、囲碁の盤面の、碁石が散乱したような星座の中で、何処に
居るのかを、正確に知ることによって、本当に元嘉暦ではなくて、儀鳳暦
を使えばよい事が、判るという意味であろう。つまり、囲碁たしなみは、
主に日本の官一般にとっては、月の天球上の位置が直ちにわかる
”役に立つ人間”と、トップから見られるようにするために、必要だったの
ではあるまいか。そういうわけで、持統天皇の部下の当時の官僚達が、

”星座をよく知っている”事は、持統天皇に喜ばれる事なので、それに
ちなんだ、星図の中の恒星の並びのような囲碁を、日本の官の間で、
このとき初めて、盛んにたしなむようになった

のが、囲碁が日本で定着したと、大宝律令等にも示唆された、もともとの
起源なのではないかと、私は推定する。以上の主張が、前回の私流の思考
法からすると、恐らく本筋であろう。
 以上の事から、それ以前の囲碁の道具は、ほぼ在日の百済人用だったの
であり、日本人同士で実際に囲碁が盛んに打たれたのは、飛鳥時代では
あるものの、奈良時代からは、さほど遠くない末期だった、のでは無ない
かと私は考える。恐らく白村江の戦いの後、唐と再度の戦争になる事よ
りも、百済という国が消滅して、百済頼みであった暦の編纂配布を、自前
で国内で、全てまかなわなければならなかった事が、日本のトップにとっ
ては、むしろ悩みだったのであろう。そのため、対唐戦争が再度起こる事
を警戒して、戦術ゲームである将棋が流行ることは、この時代には無かっ
た。それに対してむしろ、星座の把握力を鍛える事に通じると、連想され
た囲碁が、飛鳥後期の時代には、日本の官の間では天皇の意向を忖度して、
急速に広がったのではないか。以上のように私は、今の所囲碁のわが国で
の起源を、このように推定するのである。(2017/06/12)

江戸時代の暦学者、渋川春海はなぜ、碁の役人も兼ねていたのか(長さん)

日本では、飛鳥時代に設定された宣明暦が、古代後期、中世を通じて使われ、
次の改暦が江戸時代の暦学者、渋川春海によって、ようやく貞享暦として、
行われたことは、よく知られている。この事から、少なくとも渋川が暦学者
として、有能な事は明らかである。他方、この渋川春海が囲碁の名手であり、
元々は江戸時代に、会所を取り仕切る、役人であった事でも知られている。
私は囲碁に詳しくないため、意味は良くわからないが、囲碁盤の10十とい
う中央位置に、置石をする定跡を、提唱した事などで、確か囲碁史の方では、
有名だったように記憶する。なお、彼の囲碁好きが、半端で無いのは、
暦学者は江戸時代は、天文方の仕事もしており、彼は日本式の星図を作って
いるのだが、恒星の明るさを無視して、囲碁の石が繋がったような独特の、
恒星表現をしている事からも、証明されるようである。
 以上の事は、私も昔からよく知っていたが、囲碁盤の交点の数が361で、
一年の日付け365.2422日に近いので、囲碁と暦とが関連すると、
将棋史に興味を持ってから、漠然と考える程度で、最近まで来た。しかし、
ひょっとして、これは日本の遊戯史についての、あるヒントを含んだ重大な
事実が隠されているのではないかと、最近になって思うようになった。
つまり、

元嘉暦~儀鳳暦を導入するのでばたばたしていた頃が、日本人が囲碁を打ち
始めた、ひょっとして始まりの頃と、一致するのではないか

という、疑いが心をよぎったからである。ようするに、

日本のトップが「日本にも暦が必要だ」と言い出すと、日本では官僚等の家
来は、何時の時代の場合であっても、ほぼただちに忖度して、その時点で、
暦に関連する事柄は、皆急激に流行りだす

という体質が、なぜここまでなのかは、将来解明されるべき問題なのではあ
ろうが。
太古から日本の官の世界には、こうした忖度体質が現にあると、とりあえず
経験則として仮定すると、物事の始まりの時期というのは、特定できる傾向
が強いという特質が、日本での事柄の始まりの歴史については、経験法則と
して、有るのではないかと、思うようになったからである。ようするにこれ
は、同じ遊戯で、生物種で言えば、科までは同じ

将棋と囲碁とで、成立年代が、
飛鳥時代と平安時代後期というように、少なくとも日本では、大きくズレ
ているのは、不思議であるが何故なのか

という問いに対する答えを、渋川春海が示唆しているような、気がしてきた
という事である。つまり本来、

将棋は暦よりは、対外国戦争の方に事柄上、関連性が高い

と言うことなのであろう。たまたまだったが、白村江の戦いの時には、恐ら
く2人制チャトランガも無かった。しかし、元寇に比べればやや小粒だが、
かなり大規模な次の対外戦争であった、刀伊の入寇のときには、北宋とは
断交もしていなかったので、大理国将棋や中国のシャンチーなどは、中国交
易商人が日本に紹介できる環境だった。そして、都のトップである藤原道長
等によって当然、刀伊すなわち金王朝の前身の軍隊との、対外戦争の対策が
議論として提起された。
だから、そのときに、
日本の官、特に国境警備兵たちは、藤原道長という、隠居したばかりとはい
え、当時の実力ナンバーワンの人物の意向を、官は皆充分に忖度して、実は
彼らの間で、

野火のように、日本で始めて将棋が、流行始めた。

つまり、囲碁と将棋とでは、
暦の導入、対外軍事対策というふうに、

日本のトップが問題にしたカテゴリーが、たまたま全く違う事柄なために、
囲碁と将棋とでは、遊戯の種族がやや近縁でも、開始の時期は全く違ってし
まった

と私は推定した。以上のように昔から個人的にも名を聞いていた、渋川春海
という江戸時代の幕府役人の性格を見て、将棋に比べてとても早い、囲碁の
始まりの謎について最近、ようやく合点がいったような、気がしたのであっ
た。(2017/06/11)

岩手県平泉志羅山遺跡、両面飛龍出土駒の共出土物(長さん)

さいきん、河出書房新社から2013年に出版された、平泉文化遺産
センター所長の大矢邦宣氏著書「ふくろうの本 図説平泉」に、平泉
志羅山遺跡の両面飛龍駒が、掲載されているだけでなく、志羅山遺跡
で、出土した他の出土物の情報が、写真で載っているのに気が付いた。
なお現地は、平泉駅からほど近い所に有ると、認識される。さて、
 以前、このブログで、この平安大将棋用そのものではないかと疑わ
れる、志羅山遺跡の両面飛龍駒については、法事に使われたような、
メモリアルな物品と、書いたように記憶する。しかし、共出土品を見
ると、

どうもそうではないようだ。

すなわち共出土品は、同書には
1.白磁水注(磁器製の水差。中国福建省産の優品(上記著書))
2.常滑三筋壷(陶器製の壷)
3.オシドリの文様を銅で象嵌の形と同じにした鉄製の馬の轡
4.中が空洞のサイコロ(盤双六を”いかさま賭博”に使用か?)
となっている。
 なお、法事に使われたようなメモリアルな物品のように、少なくと
も私には見える、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡出土の、裏一文字金角
行駒の共出土物は、以下のように認識している。
1.磁器製の製品の破片
2.盆栽の入った植木鉢
3.火鉢の破片(8号井戸跡に1破片と別の20号井戸跡に3破片)
4.仏塔(昔の墓石
5.櫛の破片(将棋駒とあわせて、8号井戸跡)
6.下駄(8号井戸跡。サイズが女物)
なお、栃木県神鳥谷曲輪遺跡は、大字神鳥谷の下の字地名が、青蓮寺
堤であって、4の中世の墓石が出ている所から見ても、お寺が連想さ
れる。それに対して、岩手県平泉町志羅山遺跡の場合には、以下私見
で、私は真偽を確認していないが、少なくとも

私には志羅山の名は、城山が訛ったようにも聞こえ、武家の館の中に
あった物品の出土

との先入観を、もともと受けてしまう傾向の、有る物のように見える。
 ただし栃木県小山市の神鳥谷曲輪からも、1.磁器製の製品の破片
が出土している。そして発掘者から、私が聞き取った所によると、
それは、中国宋代の高級骨董品のカケラだと言い、岩手県平泉町志羅
山遺跡出土の1.白磁水注(中国福建省産の優品)と、類似となる。
ただし、小山市の方の磁器製製品の破片は、発掘者の説明では、
南北朝時代の、小山城関連の出土品という位置づけのものであって、
室町時代から戦国時代にかけてだと見られる、同じ位置に存在した
”小山市市内の古廃尼寺”の所有物ではないと、解釈されているよう
である。そうすると、小山市の1.磁器製の製品の破片は、
裏金一文字角行駒が、そこにあった時代の建物の種類を、余り反映
してはいないと、言う事になるので、リストから削除しても良いと
考えられる。つまり、

栃木県小山市の方は2~4より、お寺に置かれた将棋駒のようであり、
それに対して、
岩手県平泉町の方は1~3より、武家屋敷の備品の将棋駒のよう

に見えると、言う事になる。
更に用途についても、

栃木県小山市の方は5と6により、お寺の特設の開基者の尼用かと想
像される、仏壇に供えられた将棋駒のようであり、それに対して、
岩手県平泉町の方は4と5により、武家屋敷厩の横の”遊戯の間”に
置かれた、双六、将棋、そして恐らく囲碁の備品の一部のよう

に見えると、言う事になる。
特に、岩手県平泉町の平泉志羅山遺跡出土駒のケースは、室町時代末
期に、狩野元信が書いたと伝わる、厩図を、少なくとも私には連想さ
せるので、興味深い出土品の組み合わせだと、私には思われた。
 思えば、当時は草書体の方が、楷書よりも、当時は普段使われる、
見慣れた字であったとされている為、平泉両面飛龍駒は、仏教崇拝用
ではなくて、実用品として、作られていると、最初から決めて掛かっ
た方が良かったのではないかと、私は以前の間違った解釈を、反省し
ている。
 それにしても、このような貴重な駒が、現地で盗難にも合わず、そ
のまま、伝わったのは奇跡と言えば、奇跡だが、何かの秘訣があった
のだろうか。ひょっとすると、窃盗犯が現われても、おおかた、将棋
は、小将棋しか指さなかったので、使わない飛龍駒等は、そのまま
残していって、くれたのかもしれないと思う。
 何れにしても、こんな貴重品が出土した事は、誠にありがたい事だ
と私も思う。(2017/06/10)

日本の将棋の最も初期の将棋盤升目(長さん)

前と同様、13×13升目や15×15升目の大将棋のブログの本題
からは外れるが、日本の将棋の最も初期の、将棋盤升目について、以
下考える。私見でマイナーな説であるが、私は

8×8升目32枚制原始平安小将棋がオリジナルである

と、考えている。主流は9×9升目の標準型平安小将棋と見る向きが、
平安時代の出土史料を、含めて考えるとすれば、現在圧倒的に強いと、
認識する。9×9升目が主流なのは、現在の日本将棋の盤升目と同じ
なので、判る気もする。が、私がそれに反対するのは、日本将棋を

取り捨て制で飛車角なしにすると、桂馬が合い当たりになり、攻めが
停滞するにも係わらず、それが流行るという不自然さ

ほぼ、この一点に集約される。さらに、何回か述べたように、小将棋
は外来種であると見ており、インドチャトランガ、アラブのシャトラ
ンジ、東南アジアのマークルック、西洋チェス等と、同じ盤と駒数が
最初であって、おかしくないと見ているという点もある。ただし、そ
うすると、8×8升目制を、日本人も真似た理由を、一応考えておく
必要はあるだろう。5×5、6×6、7×7、9×9、10×10、
11×11・・・ではなくて、なぜ8×8升目なのであろうか。
 そもそも、私が考えているように、大理国が日本の将棋の伝来元で
あったとして、たまたま日本人は、大理国の8×8升目将棋を、すっ
かり、そのまんまでコピーしたとしても、大理国の人間がそもそも、
8×8升目を選んだ理由を、今度は考えるべきなのかもしれない。
 貴金属宝石類のうち、玉、金、銀の3種類を選ぶのは、3は、ま
あ、程良い数といえば、程良い数なのかもしれないが。大理国のあっ
た、雲南省大理県大理市の仏塔の主塔では、玉、金、銀のほかに、
金銅、銅、鉄、石の各仏像も出土しているので、これが駒のモデルだ
として、金将を2枚に変えてから、この金銅、銅、鉄、石の8種類に
将を付け、更に象駒を入れて10駒増加させれば、19×19升目の
将棋を、大理国ではオリジナルとして指しても、おかしくないという
事になるのかもしれないからである。
 以下答えを書くと、更に私見だが、ユーラシア大陸規模で、8×8
升目制のチェス・将棋型ゲームが指されているのは、
玉を中央の2列左側だとして、順に右下段駒が袖から、飛車型の車駒、
桂馬または八方桂馬型の馬駒、角行またはシャンチー象または平安大
将棋猛虎型の象と並んでいる将棋は、先手を日本将棋式に8列目に、
玉列がある表記で、日本将棋式で盤升目の番号表現をした時に、

先手から見て相手後手位置の、1二の位置に、先手の右の車駒、右の
馬駒、右の象駒の攻め筋の焦点が有り、かつ相手の駒は、左の車駒し
か利いていないという点で、副将駒(金将)の駒のルールを少し変え
る等しても差が無く、安定して普遍的に、攻め筋のあるゲームとして、
楽しめる面白さがある

と、民族によらずに認識された。そしてその認識が、ユーラシア大陸
中に広がったのが、8×8型だけが、選択的にゲームとしてインター
ナショナルに広がる、原動力に主としてなったのではないか、と私は
思っている。つまり、8×8升目型には、上のカラクリが、ゲームと
いっしょに口伝されれば、民族によらずに、たいがいは広がるという
要素が、あるのではないかと言う事である。つまり、

以上の戦術情報が、チェス・象棋・将棋型ゲームの戦術では、他の升
目型の戦術情報よりも、ゲームを流行らせるという目的にとっては、
説得力があり伝わりやすいので、選択的に8×8升目型が広がった

という意味である。そしていったん、8×8型でゲームが定着すると、
それ以上に、ゲームを進化させるのには、ある程度のハードルがあっ
た。そのため、9×9升目制標準型平安小将棋や、19×19升目
原始摩訶大大将棋といったものは、少なくとも10世紀ころには、
大理国には、できにくかったのではないかと、私は疑っている。
それが恐らく、仏象として大理国には、玉仏、金仏、銀仏の3種の
他に、金銅仏、銅仏、鉄仏、石仏が有っても、17×17升目や、
象駒を入れて19×19升目にした、将棋が指されないとすれば、
それが原因なのだと思う。
 恐らく「玉は中央左に配置し、右の車駒、右の馬駒、右の銀将で、
相手の1二位置を伺う、最近舶来のゲームは面白い」という情報は、
将棋の伝来と同時に日本人にも伝わり、それもほどなく確認されたの
であろう。そしてその上で、8×8升目32枚制原始平安小将棋は、
九州大宰府では少なくとも、ある程度盛んに指されるようになったの
ではないかと、よって私はこのように推定している。
 なお、今回の話題と同じ系統の題材で、現在議論をされており、
また私に、以前”個人ブログの開設”を勧めてくださった、大阪電気
通信大学高見研究室のブログの、摩訶大大将棋関連のログ数と、単純
ログ数で、本ブログは本日ほぼ並んだ。高見先生の益々の御活躍と、
摩訶大将棋のブログの更なる進展を、心よりお祈りいたしたいと思う。
(2017/06/09)

下河辺荘新方の歴史講演会(1)(長さん)

2017年6月に2回の予定で行われる、NPO法人埼玉越谷市郷土
研究会の加藤幸一氏(同研究会顧問)の、「新方地区の歴史」の講演第
1回目を聞き取った。栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡、裏一文字金角行駒
ゆかりの、小山義政と同族100年以上前生存、又、静岡県焼津市小川
城出土の裏飛鹿盲虎、裏飛鷲龍王関連小川法長者の先祖、下河辺行平、
下河辺行光の館関連の情報を得るのが、目的であった。なお、
加藤幸一氏は、埼玉県の地元で教員をされたが、今は定年で退職されて
いる方だそうだ。また石仏の研究を主体に、郷土史を研究されている方
である。中世~近代昭和期までの、遺跡調査、民間伝承の聞き取り、
河川施設の史料・歴史的水周り遺構の調査等に、特に詳しいようである。
 残念ながら「埼玉県越谷市内に限定すると、鎌倉時代初期の、下河辺
氏の挙動に関する情報がある」という話は聞けなかった。しかしそもそ
も下河辺荘新方の荘園に関する、古文書の記載が大量にあるわけでもな
いようだ。事実、鎌倉時代中期の金沢氏の菩提寺で、下河辺荘を鎌倉末
期には領有していた、神奈川県鎌倉市の称名寺に記録された文書上では、
明治時代の埼玉県新方村周辺の、その時点から見て、だいぶん昔の荘園
関連の地名としては、

恩間と十丁免という2箇所の名が挙がる程度で、判っていない事が多い

との話を聞かされた。ちなみに、恩間という地名は、かろうじて現在で
も残っており、埼玉県越谷市恩間を指し「東武スカイツリーラインの、
大袋駅周辺一帯の事であろう」との事であった。ちなみに十丁免の方は、
「ひょっとして、埼玉県越谷市向畑と埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に
掛かる、堂免橋の周辺かとも考えられるが、確定はしてい無い」らしい。
 なお、南北朝時代以降となれば、堂免橋のたもとに人が住むように
なって、埼玉県越谷市大松に清浄院が、室町時代の初期に開基され、
更に戦国時代になると、武蔵武士の末裔と見られる新方氏が、堂免橋の
西側の現埼玉県越谷市向畑に、新方氏館跡として名が残っている、館を
築いて住むようになったとの事のようだ。以上の情報のうち、

東武スカイツリーラインの大袋駅の西側の恩間付近は、だいぶん開けて
おり、ほとんど成果は期待できない

と思う。が鎌倉時代にも、大袋駅付近よりも西に、利根川が流れていて、
そこが下河辺荘に、属していたらしいという事が判っただけでも、かな
りありがたい情報だと感じた。
 なお、新方氏屋敷跡付近に、

船が沈んでいるという伝承がある

というのを、このブログで前に紹介した事が有った。少なくとも加藤幸
一氏の、6月7日の講演では、その話に言及が無かったが、類似の話が、

埼玉県越谷市平方と埼玉県越谷市大泊の境目付近にも、別にある

との話を聞いた。ここには現在、用水路程度の水路しか無いようだが、
聞くところによると、昔は会野川という、幅の広い川が、東西に流れて
いたらしい。そして、航行していた船が沈んで、難破船として存在する
という、話があるようだ。更に、戦国時代の新方氏の館のケースとは違
い、平方~大泊沈没船のケースには貨幣を運搬していたため、

埋蔵金伝説の噂も有る

との事であった。
以上の事から、たとえば
埼玉県越谷市大泊から将棋駒が出土する確率は、埼玉県越谷市向畑から
将棋駒が出土する確率と、ほぼ同じなのではないかと、私は思った。
場所は千間台から大正大学入口まで走っているバスで、当てずっぽうで
いうと、「山谷」というバス停の南側付近だろうか。開けている場所だ
と認識するため、行くと何かわかるかどうかについては、余り期待は、
こちらの方も、出来ないような気が私にはした。
 以上のように下河辺荘でも新方は、実は鎌倉~南北朝時代については、
状況が余りはっきりしていないような印象を、加藤氏の講演から私は受
けた。
 6月14日にも同じ加藤幸一講師が、第2回目の講演会を越谷市市立
図書館の、同じ場所でされるようなので、こちらも聞き取る予定である。
(2017/06/08) 

8×8升目32枚制原始平安小将棋、9×9升目36枚制平安小将棋に駆逐された訳(長さん)

以下大将棋ではなくて、小将棋の歴史の話題にはなるのだが。今までに何回か、
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、二中歴に曖昧に記載されている事を根拠とし
て、私は、元々の小将棋が8×8升目型、院政期以降に、上流階級では9×9升目
型の平安小将棋を、公式の場では指したと、繰り返し述べてきた。この説は、主流
の説とは全く違う、私だけの主張であるばかりでなく、

現実として8升目型が、結果として伝わらなかった理由を説明する必要

が、新たには発生する説である。なお、
8×8升目32枚制原始平安小将棋とは、こちらから、相手の陣を見る書き方で、
一段目が右辺から、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、銀将、桂馬、香車
二段目が右辺から、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
三段目が右辺から、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
と並んでいる将棋を指す。中段は9升目型と違い、2段しか無い事になる。
これに対して9×9升目36枚制標準平安小将棋は、同じくこちらから、相手の陣
を見る書き方で、
一段目が右辺から、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車
二段目が右辺から、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
三段目が右辺から、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
と並んでいる将棋を指す。中段は日本将棋と同じく、3段である。
なお「8升目型が、中間段2段だから行き詰まる」という説があるが、私はそうは
思わない。8×8升目型の場合、序盤で意味のある歩兵突きは、互いに右香車~
右銀将の前の歩兵の、3枚だけだと私見する。その他の5枚の歩兵で、位取り争い
をする将棋には、恐らくならないのではないか。そうではなくて8升目型の場合、
桂馬が互いに当たらないため、次は右銀将、右桂馬、桂馬先の歩兵を更にと、以上
の3枚の自駒を選択的に繰り出して、相手左辺破りを狙うのが、定跡になるのでは
ないかと、私は考えているのである。以上は、一人でも多くの識者の方に、100
ショップの将棋道具を用いる等して、今後御確認を御願いしたいと考えている。
 さて私は、8×8升目型は鎌倉時代中期までは指されたが、中将棋が指された、
南北朝時代までには、消えたと考えている。根拠は、前回述べたように、
異制庭訓往来の記載と矛盾が起こるからである。次に、8升目型が9升目型に駆逐
された原因は、主に

将棋盤が9升目で作られた

のが、最も大きな理由と想定している。持ち駒ルールは、異制庭訓往来の少し前の、
普通唱導集に記載された小将棋の時代には、小将棋に導入されていたと考える。が、
持ち駒ルールを9升目型に導入すると、8升目型取り捨て平安小将棋が、全く指さ
れなくなるほどの、影響が有ったとは考えない。というのも、

持ち駒ルールは、8升目にも9升目にも、やろうと思えば、どちらにも導入できる
ので、結局大差ないのではないか

と私は思うのである。それよりも、特定の将棋種が生き残るかどうかは、情報が
子孫に伝わるかどうかに、掛かっていると私は思う。つまり、

口伝でルールを説明しながら、地面に線を書くか、せいぜい布に線を描いて、
8升目型将棋を指して、後継者に情報を伝えようとしていても、地面の線は、
ゲームが終われば消されるのだし、布も十年とは持たなかったので、ルールが
確実に情報として、伝承できる手段では無かった

と考える。それに対し「公的な晴れの舞台で使用する」と、上流階級、たとえば
鎌倉時代の有力な、武家の棟梁のような家に伝えられた、9×9升目の将棋盤は、
将棋のルールを、情報として、きちんと伝える役割を果たしたのではあるまいか。
名の有る鎌倉武家の家なら、鎌倉時代初期の物が、ひょっとして室町時代になって
も、家伝の将棋盤として残っている事が、あったに違いない。以上の理由で9×9
升目型の平安小将棋は、将棋盤という道具が情報を伝える、伝達道具としての役割
をも果たした結果、遂には「8升目制の平安小将棋も、結構暇つぶし程度には面白
い」という記憶を、完全に消し去るに至ったのであろうと、私は私見している。
 むろん、宮廷では9升目制が公式となっており、更には、読み書きの出来る者の
うちで、その割合の多い上流階級が読み取れる形で、公式な平安小将棋のルール
ブックや、9×9升目の将棋盤を描いた絵巻物といった史料が、鎌倉時代末期には
残っていたとすれば、それが下世話の8升目型を、完全に駆逐し去った、別の原因
に、あるいはなるのかもしれないとは思う。
 以上の事から私の説によれば、現在の9升目制の日本の将棋は、9という一の位
で最も大きな数を縦横に持つ、たいそう由緒のありそうな、知識人宅に置かれた
将棋盤を、室町時代の人間が眺めているうちに、将棋は9升目制だと、思い込む事
によって、確定したのではないかと言う事になる。(2017/06/07)

日本の将棋は本当に初期配列で全ての筋の前列に歩兵が有ったのか(長さん)

少なくとも日本将棋では、中国のシャンチーや朝鮮半島で指されるチャンギ
とは異なり、チェス、マークルック等といっしょで、縦9筋全ての、自陣3
段目に、歩兵が9枚配置されて、ゲームが始まっている。では、図で初期
配列が示されて、い無いような、平安時代の将棋でも、そうなっていたと、
本当に証明できるのであろうか。

私は日本の将棋には、歩兵のい無い列は無いと思うが、理由は、8×8升目
制原始平安小将棋が、鎌倉時代の後期程度のけっこう後まで、布盤を使っ
たり、地面に升目を書いて将棋を指していた民間では、実際には公然と
残っていたのが、主要因

だと見る。奇数列でないと、シャンチーやチャンギのように、見栄え良く、
駒が並ばないので、一つ置き配列にはしないのではないかと、思うのである。
なお、上流階級への指導書である、二中歴の大・小将棋であるが、歩兵の
枚数についての、言及は無い。ただし、注人の説明で、中央に歩兵があるか
ら、二中歴記載の平安大将棋の歩兵数は、13枚か7枚か5枚だと判る。が、
飛龍が角行駒だと、3段目3列目に、歩兵がほしいのに加えて、将小駒で
下から紐を付けて、端から4列目の4段目で位の陣を歩兵で作るような手は、
指したいので13枚にするだろうと思う。
この時代の9×9升目制平安小将棋も、平安大将棋が各列歩兵配置型なら、
大将棋の方で言及が無ければ、同じと一応は推定できよう。また仮に、
大江匡房が8升目制平安小将棋を攻撃したとき、新案として計16枚ある
盤上の歩兵を10枚に減らせば「皇室の警護を5/8の規模に縮小する事
を、窺わせるような”政策”は、いかがなものか」と、

守旧派の摂関側から言いがかりを、付けられるのは必然だろう。だから、
どちらでも同じに近い事柄について、敢えて争うような事をしなかったので
はないかと思う。つまり歩兵は、そのため18枚になったに違いないと私は
思う。

 なお、二中歴の記載だと曖昧だが、南北朝時代の小将棋は、36枚制との
示唆から、最も駒数の少ない将棋でも、駒数は36枚だという意味にとれば、
異制庭訓往来の記載から見て、歩兵は18枚有ったのだろう。
 さらに、中国のシャンチー、朝鮮半島のチャンギで、歩兵が10枚なのは、
砲の攻撃力が、初期に強くなり過ぎないようにするための、調整とみられる。
同時に、そうする事により、車の活動が、より早く始まるようにもしている。
シャンチーやチャンギでは、斜め走り駒が早攻め駒であるため、定跡を生み
やすくなってしまう事に気がつき、駒が線動き表現である事もあって、斜め
走り駒を採用しなかった。そして、兵器としての本当の砲が、唐代後期に発
明されたのが彼らにとっては幸運で、今のような形になったのだと思われる。
また、兵力を減らすという批判はあったのだろうが「戦争は兵力よりも、
科学力である」と、厳しい大陸の戦争では、皆が気が付きやすかったこと。
更には九宮を発明したため、「建て屋で玉駒は守られている」と、言い訳す
る手が有ったのだろう。
 それに対して、概ね中国の模倣をしていたはずの古代のわが国で、飛び飛
びの歩兵配列が、なぜか、それだけは真似なれなかったのは、前記のように、
走り駒に香車しかない小将棋では、実はどちらでも良かったのだが、将棋史
の流れの、微妙な経緯が絡んでそうなっただけの可能性も有り、注意が必要
だと私は考える。初期院政派の大江匡房等による、人為的な原因ではなくて、
自然発生的に、9×9升目型の標準平安小将棋が、発生したのだとすれば、

興福寺出土駒時代頃には、9×9升目28枚制変形平安小将棋という、
9×9升目36枚制平安小将棋と、私の認識では、思ったほどにはあまり差
が無い将棋が、有ってもおかしくは無かった

と、私は見ている。なお
大将棋・中将棋の時代になると、

竪行、横行の成り駒を飛牛、奔猪にする等、縦や斜めの走り駒を、複雑に多
数入れて、攻撃が継続し、詰みまでの定跡が出来る原因となる、致命傷を
作らないようにする、複雑化による解決

の方向へ、我々の国の将棋は流れが移って、歩兵の配列に隙間を作ることを
考える余地は、かなり減って行ったのであった。そして小将棋に、持ち駒
ルールができ、遂に日本将棋が成立すると、角行は何度も”角替わり”され、
序盤で定跡の立役者になって消えてゆくような、将棋にならないように進化
して、中国晩唐のシャンチーの、生みの苦労の解決策とは別のやり方で、
問題が克服されて行ったと考えられるのである。(2017/06/06)