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(コラム)羽生善治氏、7冠永世を達成(長さん)

2017年12月5日の将棋竜王戦で、挑戦者の羽生善治棋聖が
竜王の渡辺明棋王に勝利し、日本将棋、人間の七タイトルについ
て、全て永世称号を得た。羽生善治氏は、
永世名人を2008年に、永世王位を1997年に、名誉王座を
1996年に、永世棋王を1995年に、永世王将を2007年
に、永世棋聖を1995年に達成し、最後となった永世竜王を、
通算7期で、今回達成したと、記録されている。なお、以下に、
当時の史料を示す。

羽生善治.gif
羽生善治氏は、将棋連盟内に於いては、これまで現役の花形棋士
として活躍してきた。しかし、今期で年齢が47歳に達し、棋士
一般としては、ピークを過ぎるころとなったようだ。様子から
私が察するに、現在は勝負一筋のようで、同世代の永世名人資格
保持者の、森内俊之九段等とは違い、直ぐには将棋連盟の運営に
係わる事に、興味は無さそうである。
 しかしながら、彼が将棋連盟組織の中核として、平成の次の年
号の時代に活躍する事は、私の認識として、巷の声無き声のよう
に思う。恐らく、江戸時代の囲碁の棋士の渋川春海のように、
将棋連盟組織の外にも広く顔の効く彼は、彼が元気で居る限りは、
周りに押し上げられて、自然に連盟の中心人物になってゆくので
はないかと、私は現時点で予言しておく。
 思えば彼は、コンピュータ将棋が、サイレントムービーの時代
の、最後の人間の花形将棋棋士となった。

コンピュータ将棋ソフトと、彼が、たまたま直接対決しないで、
どうやら終わりそうなのは、不思議だったが、めぐり合わせだっ
たのかもしれない。

そうではなくて、そのように仕向けさせた、将棋界の恩人の神様
が、天国には何人も居るのだとすれば、彼を無駄に消耗させ、命
を短くする事が無かったという点に、大いに感謝したい。

彼は、ソフト対決の局面では、これまでの所、ツマハジキにされ
た感じであったが、これが不運か幸運かは、まだ謎だろう。

つまり彼が更に、今後新設されるかもしれない、永世叡王を目指
して将棋を指し続け、叡王戦のスポンサーの意向で、彼が叡王に
なった時に、電王戦勝利ソフトとの直接対決が無いと、断言はで
きないからだ。何しろ未来は、基本的に知りえない世界である。
 何れにしても、彼には今後も体を壊すことなく、ソフトという
機械が、人間の上位に立つ世界に、否が応でも対応しなければな
らない、次の時代をより良い方向に導く、日本将棋界のリーダー
に、ゆっくりとで良いので、変貌していって、もらいたいものである。
(2017/12/07)

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摩訶大大将棋の奔成りには、なぜ例外が有るのか(長さん)

摩訶大大将棋に関する初心者が、ルールの教わりたてに感じると見られ
る疑問の一つに、1~3段目の小駒が、奔駒に成る駒で、概ね占められ
ているのは確かだが、全部そうしなかったのは、何故なのかという点が
有るのではないかと、私は自分の経験上考える。
 この点については、本ブログでは、まとまって居無いが、見解を既に、
個々の駒について述べている。
 ところで奔成りの例外となっているのは、具体的に仙鶴に成る淮鶏と、
蝙蝠に成る老鼠、山母に成る古猿、自在王に成る玉将、王子に成る酔象、
教王に成る提婆、法性に成る無明の七種である。このうち、玉将、酔象、
提婆、無明は、玉駒に近接して逆転を狙うための、特別な成りとして、
我慢する必要が有る。
 また、古猿が奔猿に成らないのは、奔猿が内容としておかしいからで
ある。雲に乗る孫悟空という例外は有るが、猿自体に、すばやく走ると
いうイメージが、無いからだ。そこで、もともと、その頃の大将棋系に、
妖怪駒が有るので、その中でまだ使用されて居無い、妖怪を持ってきて、
山母にしたのだろう。が、妖怪駒は、これで概ね、戦士になれるという
制約を考えると、種切れだったようだ。

問題は、奔鶏や奔鼠でも支障の無いはずの、淮鶏と老鼠の成りをどうし
たのかと言う事

である。これらの成りが奔駒になっていないのは、この2種の駒に限り、

摩訶大大将棋の作者が、中国の故事に対して知識があったために、特別
な成りになった

ようだ。すなわち主人が大成して、空を飛べるようになった淮南子の鶏、
古蜀のホトトギス(時鳥)のイメージに合う元駒としての、無精ひげを
はやし、しょぼくれた王様の姿の老鼠を、鶏と鼠として導入すれば良い
と、たまたま中国の故事に知識が有るため、摩訶大大将棋の作者が気が
ついた。そこで、それぞれ対応する故事に、ちなんで、淮鶏の成りを
(淮南子の)仙人の鶴、老鼠の成りを、古蜀の王様が化身した、ホトト
ギス(漢字で”時鳥”)に決めた。以上の経緯で、このような、元駒と、
成りの組み合わせになったというのが、本ブログの、これらの駒の例外
成りの、理由に関する従来からの見解である。
 なおそれとともに、安土桃山~江戸時代の古文書の記載と異なり、

大大将棋の老鼠の成りの、古(蜀の国の)時鳥が、摩訶大大将棋の元も
との、老鼠の成りであり、現時点で古文書に記録された、摩訶大大将棋
の”蝙蝠成り”は後に入れ替えられていると、本ブログにおいては見て
いる

点にも注意してもらいたい。
 つまり、むしろ大大将棋の老鼠の成りの名前が、動かし方の様子から
見て、本来”蝙蝠”であり、大大将棋が成立した時に、

大大将棋の老鼠の成りと、摩訶大大将棋の老鼠の成りは、前者の方が、
成立が先であるかのように、見せかけるために意図的に、名前だけ入れ
替えられ、改竄されている

と、前に経緯を述べたが、本ブログでは見ているのである。
 何れにしても、もともと摩訶大大将棋では、十二支駒を増やそうとし
たのだが、鼠と鶏は、そもそも戦力になりそうもなく、本来将棋の駒名
としては、加える事自体が、クエスチョンであったと見られる。そこで、
摩訶大大将棋の作者は、鼠と鶏を入れる口実を、主に見つけるために、
あれこれと考えた結果、中国の故事を持ち出したのであろうと、私は考
える。
 今回の議題は、いままでの本ブログの内容から、自明に導き出せ、
内容がやや軽いが、以上までとしておく。(2017/12/06)

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栃木県鹿沼市中粕尾・粕尾城の現状確認をした(長さん)

 栃木県小山市神鳥谷曲輪から、裏一文字金角行駒が2007年春に
出土している。簡単に言うと、小山義政がこの地点に、西暦1381
年冬に居住していた事が、駒が出土した原因と、このブログでは見る。
それが正しいとすると、小山義政が生前居住していた経歴のある場所
は、摩訶大大将棋の角行のようにも見える、このような駒が出土する
のではないかと、一応疑ってみる価値は有るのではないかと思えてく
る。小山義政は、鎌倉や京都、奈良の西大寺等に用が有るとき以外は、
小山市八幡町の龍ゲ岡城に、主閣の城の主として、居る事が多かった
ものと、私は個人的には予想している。そこは、現在栃木県小山市立
の某学校のグランドに現在なっており、小山市教育委員会が、開発さ
れないように土地を、押さえている模様である。
 さて、小山義政は小山義政の乱の最終段階で、表題の、栃木県現鹿
沼市、昔の粟野町中粕尾にある、粕尾城に居たものと、鎌倉府側の記
録等により、推定されている。それは西暦1382年の事である。
 以上の事から、栃木県鹿沼市中粕尾にある粕尾城は、小山義政関連
の出土物が出る可能性のある、場所のひとつである。そこで、個人的
には、ここには過去十回位行った事が有るのだが、2017年12月
頭にまた、現状のチェックに行ってみた。前と変わった点は、

大手門のあたりに、農業廃棄物が散乱していて、だいぶん荒れていた

事位であった。もともとここは訪れる者はわずかで、余り開発の動き
が無いと言う点では、以前と変わった所は、無いようだった。なお、
大手門付近に、少なくとも近年湧き水が出ており、ここに井戸跡が
有るとすれば、周囲の荒れ放題な姿は、木製遺物の一種、古将棋道具
の出土に期待する者としては、ちょっとがっかりである。ちなみに、
大手門の横に、少し前に、「見学者の休憩場所」というのが、たぶん
地元の方が私財で建てたのだろうが、いっけん盆踊りの屋台を小さく
したような形で存在していた。しかし余り使われなかっ為だろうか。
今回訪問すると、ほとんど朽ち果てていた。
 もっとも、城の西側にある”和田親水公園”の吾妻屋等も、使用頻
度が少なく、放置されていて、だいぶん痛んできている。だから、
公私で、インフラの痛みの放置度合いが違うという事は、粕尾城の
周辺の場合余り無いようだ。
 なお粕尾城は、建築物は、約635年経っているため全く無いが、
地形から一目で誰でもわかる、城らしい城である。つまり”土塁”等
の存在のために、城の痕跡の、極めてはっきりとした、城のイメージ
で正しく理解できる、規模の大きな中世の城である。これほどはっき
りとした遺跡なのだが、市街地からはだいぶん遠い山沿いなので、開
発で、失われる可能性が、少なくともこれまでは、ほぼ無いと考えら
れてきたのだと思われる。そのため本格的な発掘調査が、過去された
事があるとの話は、私は聞いた事がない。ここを掘ると、長沼氏の遺
跡のように、粕尾城からも少なくともカワラケの束くらいは、出そう
なものだと、私は思う。むろん過去何回見てもそうだったが、今回も、
地表を見た限りは、城の土塁や遺構の起伏以外には、私には何も見つ
からない。
 強いて今回気が付いた事は、ほぼ楕円形の形の、曲輪の広場のよう
な空間に入ると妙に落ち着いて、周りと一体感が持てた様な、安心感
を感じる事が出来るという点だった。恐らく南北朝時代の頃、戦いの
最中は、兵隊の戦意を高揚させる事よりも、恐怖から、仲間を裏切っ
て逃げ出す兵隊が出ない事の方が、むしろ大切だったのかもしれない。
そのため、曲輪の中は戦意がみなぎり、兵隊の交感神経が、ピリピリ
している状態を作り出すよりも、戦いが無い日には、リラックスでき、
周りの全てが、自分の仲間であるとの、やわらかな雰囲気を作り出す
事のほうが、むしろ大切だったのかもしれないと私は思う。そのため、
曲輪の空間の広さや形を、適度に工夫したり、内部空間を平らになら
す等、そこに居る兵隊の、精神的な面を重視した城の作りが、仏教や、
神道も盛んだったこの時代には、近代とは異なり、大切にされたのか
もしれないと、私には思えるようになってきた。(2017/12/05)

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12×12升目盤と、囲碁盤の大きさ(長さん)

以下は、中将棋が室町時代に流行った理由としては、幾分ぼんやりと
した話であるが。

中将棋の盤は、結果として囲碁盤とほぼ、同じ大きさになる

という話を、口頭で私は聞いている。私が聞いたのは、どうぶつしょう
ぎカフェいっぷくの、藤田麻衣子女流からである。藤田女流も、恐らく
人づてに誰かから、聞いた話なのであろう。ひょっとすると、天童駒等
を、取り扱っているので有名な、佐藤敬商店の技術者あたりからかもし
れない。佐藤敬商店の東京の営業所は、東京都墨田区本所なので、清澄
白河駅近の、どうぶつしょうぎカフェいっぷくからは、割と近い所に
ある。
 中将棋が15世紀に流行ったのは、主としてゲームの性能によるもの
なのだろうが、囲碁盤を転用しやすいのも、あるいは、一役かっている
のかもしれないと思う。そして当然だが、12と13は、近い数なので、

13升目の平安大将棋の将棋盤は、囲碁盤の表面の盤面の書き直しで、
恐らく転用できただろう

と、私は思う。本ブログでは、平安大将棋の13升目は、偶然の成り行
きとの立場を、今の所取る。藤原一族なら、多少の特注品は入手できた
だろうから、別の升目盤にしていたら、大将棋が停滞したという事も、
たぶんだが無いのかもしれない。しかし、囲碁盤の裏で大将棋をこっそ
り指す、寺院に居る僧侶の賭博師が居たとすれば、囲碁盤でカムフラー
ジュできたことは、鎌倉時代、大将棋を寺で指すには、都合がよかった
のかもしれない。ひょっとすると、禁止令が出て、寺院でも大将棋が
指された証拠が今に残る事に、関係するのかもしれないと思う。

本日は、本題は少なめで申し訳ないが、これくらいにしておく。

 さて以上の話題とは離れるが、高見研究室の「摩訶大将棋のブログ」
が、ここに来て少しずつ、動き出した。

たいへん喜ばしい事

である。この原稿を書いている時点で、「後期大将棋の詰め将棋」の記
事が、記載された所であった。私には、

後期大将棋を復刻すると、金将の成りが奔金、盲虎の成りが奔虎に成る
と書いて有るのを見て、初耳

だった。水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、後期大将棋の初期配列図の
後に、「成り駒は酔象・鳳凰・麒麟の三枚」と書いて有るので、せいぜ
いその他、歩兵が、と金に成る位で、他は、不成りと復刻されるのかと、
予想していたのだが、何処をどうすると奔駒が出るのだろうか。今の所、
ブログに書いて有る事でしか、事情は判らない。簡単にでも、そのうち
”奔駒へ成り”の説明が有ると、なおさら良いのだがと思う。なお
将棋纂図部類抄の、行然和尚まとめ表の、「大将棋駒数354枚」の部
分を、「大将棋駒数130枚」の水無瀬兼成による、意図的改ざんと見
て、「後期大将棋の成りは中将棋の駒の成りに準じる」と再解釈した、
江戸時代の文献も有ると、私は、今の所理解している。(2017/12/04)

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本ブログ「日本の駒の動きルールは水平線上下非対称が特徴」は誤り(長さん)

以下は、今回に限り「謎の解明」ではなくて、以前に書いたブログの内容
の訂正とお詫びである。前に、本ブログで「日本の将棋駒の動きルールの
中に、金将のように、水平線で折り返して、前後で非対称になる動きのルー
ルが、有るのは、日本の将棋の駒の動かし方ルールの特徴である」との旨
をこのブログで、書いたように思う。しかしながら、実際には、
タイのマークルックや、ミャンマーのシットゥイン、インドの現在の用語
で言う、チャトランガの象は、銀将と同じ動きのルールなので、日本の
金将、銀将駒と同じく、水平線で折り返して、上下の動きが、非対称に
なっている。また今度は、始原的な外国将棋について述べると、インドの
古代チャトランガは、11世紀の頃4人制が現われたが、その時代の馬は、
八方馬ではなくて、桂馬のルールとの説が、目下は有力である。言うまで
も無く、桂馬は水平線で折り返して、上下の動きが、非対称になっている。
また今の所、本ブログの見解に留まるが、イスラム時代にアラブで、シャ
トランジと天文が、結び付けられた形跡があり、その理由は、インドより
伝承の原始シャトランジが、もともと、馬が桂馬動きだった動きの悪さを
否定するための、思想導入という可能性もある。ようするにインドの古代
チャドンガには、もともと、上下で非対称な桂馬のルールの”馬”で、
出発した可能性もあると言うことである。以上のように、

つまり本ブログの、表題に書いた記載は、事実と反するものである。

少なくとも、インド・東南アジアの象棋類では、駒の動かし方のルールを
前後で完全に対称的にしようと言う意図が、もともとは有ったとの、明確
な証拠はない。
 以上の点は本ブログの、うかつな、間違った主張であったと、現時点で
明らかに見なし得、誠に心苦しい思いである。

まずは、以上の間違った主張を拡大させた点を、深くお詫びする。

そして、

前後非対称駒は、日本と、少し地理的には跳んで、東南アジアの象棋類に、
ゲームの種類によっては、開始時期がわかる場合も、わからない場合も
まちまちだが、普通に見られる特徴である

との旨で表現し、以降もろもろ誤った事実認識を、流布させないように
心がけたい。(2017/12/03)

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日本の将棋種は十程度は有るが、成り条件を記録した古文書は少ない(長さん)

これまで、古文書の記載に関連して、余り議論してこなかった項目に、
各将棋種、それぞれについての、成りの条件の問題がある。私の場合、
江戸時代の将棋書については、杉浦大六氏所蔵、象戯図式しかないの
で、結局、次の4つ程度しか、少なくとも手元に有る材料を、今の所
挙げる事が出来ない。特にwebには「大大将棋に自陣・相手陣の区
別が無い」事が述べられているが、対応する史料が、今の所私の所に
は無く、根拠が良くわからないという事が、私が最も困っている点で
ある。

①二中歴を記載した、前田家文書を、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
という成書で見ているので、平安小将棋が二中歴記載によると「敵陣
3段目で、平安小将棋と、恐らく平安大将棋では、成れる駒はすべて
成る。」という事になっている。
②水無瀬兼成の将棋纂図部類抄については、大阪の島本町教育委員会
編集版と、都立中央図書館所蔵版(加賀・前田家写本版)で見ている
ので、摩訶大大将棋で、「相手の提婆と無明を取ると、それぞれ駒を
敵味方入れ替えて、相手の提婆と無明を、教王と法性として使用でき
る」という、摩訶大大将棋口伝等の記載がある。
③同じく、将棋纂図部類抄で、中将棋と恐らく大将棋、摩訶大大将
棋、泰将棋では、仲人のすぐ下地点のラインが、成りのライン(聖目
の書いた線)であるという、中将棋の附則説明部に書いてある記載。
なお、各巻物について、将棋纂図部類抄で後期大将棋、大大将棋、
摩訶大大将棋の元駒の配列を示した図で、聖目が、省略されている。
大大将棋については、仲人が無いので省略すべきなため、意図的に、
省略したのかもしれないが、大将棋と摩訶大大将棋元駒配列図の、盤
の聖目の省略は、うっかり忘れたものだと、「仲人・・」の説明から
は、明らかに示唆される。
④杉浦大六氏所蔵、象戯図式をコピーした、増川宏一著書、ものと人
間の文化史23-1、将棋より、摩訶大大将棋に関して、江戸時代に
は、「相手の駒を取った時には、その駒が相手陣内に有っても無くて
も関係なく、駒を取った事の結果として成れる」との旨が、記載
されていると、象戯図式の摩訶大大将棋の初期配列図の、後につけら
れたコメントから、知ることが出来る。

なお、故溝口和彦さんは、「④は②から、派生されたもの」との、コ
メントを、自身のブログで述べられていた。
 さて、現在の日本将棋と中将棋の成りのルールと、上記古文書を比
較すると、①と③の方式が、ほぼそのまま日本では、伝承されたよう
であり、④が、中将棋で不成りで敵陣に入った後に、成れる場合の
ルールの、ひょっとして元かもしれないと言う事になるだろう。
 個人的見解だが、これらの成り条件に関してルールの

系統立ては、無理だ

と私は考える。時間を速まわしにすると、

出来たり消えたり、これらのルールの存在は、めまぐるしく明滅を
繰り返すだけ

だと、予想するからである。つまり将棋種によって、試行錯誤で面白
くなるように、調整を多数回、繰り返した結果のうち、

極わずかな部分が、古文書に見えているにすぎない

と私は見るのである。根拠としては、

私自身が、オフサイド成りという、成り条件を最近になって、先行物
は全く無しに、考え出した位

だから、この手のアイディアは、ゲームのデザイナー一人ひとりが、
それぞれ、いろいろ本来独自に別に持つ性質の物と考えられる

という点が挙げられる。
「歩兵の段で成るというのが、日本の将棋の特徴かつ、共通点であり、
それだけは、たまたまだろうが、ほぼ変化しなかった」と言う以上の
情報を、目下の所、引き出すことはできないと私は、将棋史の近未来
を予想する。そしてそれは、恐らく8升目32枚型の原始平安小将棋
が、それで結構面白かったので、後続の将棋種類は、少なくとも
そのレベルを落とす事が、どうしてもできなかったからだろう。そし
て、それ以上になると、追求しても余りに変化が多く、情報が更には
得られ無いからだろうと、私は今の所考えているのである。
(2017/12/02)

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水無瀬兼成将棋纂図部類抄、中将棋図後の矛盾した獅子のルール説明(長さん)

安土桃山時代の将棋のルール書、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の中将棋
の図の後部分に、中将棋で注意すべき駒のルールをまとめたと見られる、
注意書き部がある。その中で、獅子のルールに関する説明が2回出てくる
のだが、いっけんして、互いにちぐはぐになっている。すなわち、

第1箇所目には「獅子は居喰いができ、(玉の動きで踊りが出来て、)
1升目動き、2升目動きができる」との全般ルール解説がなされている。
しかし、

第2箇所目には「一説によると、獅子は居喰いができるという」と書いて
ある

のである。つまり、第1箇所目で、居喰いが出来るのが、ルールとして
確定していると書いてあるのに、第2箇所目には、それはローカルルール
であると、書いてあると言うことである。つまり、全体として、獅子が
どういう動かし方のルールになっているのか、意味不明という訳である。
 前回、獅子は中将棋が成立するとまもなく、将棋纂図部類抄、中将棋
注釈の、上記第1箇所目に書かれたように、ルールは、確定したのだろう
と述べた。でないと、中将棋は流行らないはずである。にもかかわらず、
第2箇所目は、何を言わんとして、それがローカルルールであるように、
将棋纂図部類抄には書いて有るのだろうかと言うのが、今回の論題である。
 そこで、まずいつものように、回答を書く。
摩訶大大将棋の獅子のルールに関して、将棋纂図部類抄では、①行然和尚
まとめ表と、②摩訶大大将棋口伝で、狛犬のルールの所で言及しているので
あるが、獅子は居喰いができるように、書いてないため、水無瀬兼成自身
が、中将棋~摩訶大大将棋までの獅子のすべてに関しては、獅子が居喰い、
正確には、後戻りの動きができるかどうか、把握できてい無い事を、
第2箇所目で表現していると私は考える。ようするに、判りやすく言うと、

第1箇所目の獅子のルールは中将棋の獅子の説明、第2箇所目の獅子の
ルールは、大将棋や摩訶大大将棋の獅子のルールの説明だと考えると、
言う事

だと言う事だ。第2箇所目の説明の後に”鳳凰や仲人等、中将棋の駒の動か
し方のルール(の総体)は、(よって)大将棋のルールを持ち込んだもの
である”と、書いているのは、それと韻を踏んだ表現なのだろうと、私は思
っている。
 さて、以上のように考える事が出来るのは、①行然和尚まとめ表では
「獅子は16方向に動いて行く」という表現をしている為に、停滞したり
後戻りの動きが出来るかどうか、謎だし、②摩訶大大将棋口伝では「獅子
は不正行度する」と、説明しているが「不正行度」の言葉の説明を、さっ
ぱりしていないので、ジグザグには動けそうだが、居喰いや後戻り動きが、
後期大将棋や摩訶大大将棋でできるかどうか、水無瀬兼成にも判断不能なの
であろう。ようするに、

中将棋図後の部分の、「注意すべき駒のルールの説明部分」については、
将棋纂図部類抄という文献の範囲での、問題の議論のように見えるため、
水無瀬兼成自身によるルール解説部分であって、1432年写しとされ
る曼殊院の図には、もともと無かったのであろう

と、私は推論する。従って、第2箇所目の”ある説”は、常識的に
見て、かなり確かな説のように、私には見える。が、水無瀬兼成自身も、
獅子は折れ曲がって動くことは出来るものの、後期大将棋の成立時代に、
中将棋を指す時には出来る、後戻りまでが出来たのかどうか、彼自身も、
つかめなかったと、白状しているという事なのだろう。(2017/12/01)

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なぜ麒麟の動きのルールが鎌倉中期に考え出せたのか(長さん)

 現在中将棋で、麒麟のルールは、縦横に1升目跳び、斜めに歩み
となっている。普通唱導集時代の仮説108枚制大将棋を取ると、
26種類の駒の動かし方ルールで、跳びと歩みが混合する例は、
麒麟と鳳凰の2種類、走りと歩みが混合する例が龍王と龍馬の二種類
であり、動きのルールとして複雑である。なお130枚制の後期大将棋
では、獅子が改善されれば同種類なので、跳びと歩みが混合する例は、
麒麟、鳳凰、獅子の3種類となる。何れにしても、麒麟は、跳びと歩み
を混合させる、最初の例のはずである。
 実は、話を更に判りにくくして、たいへん申し訳ないのであるが。
本ブログでは、前に結論だけ述べた事があるが、

麒麟の当初ルールを、”跳びと歩みの混合する駒”と、見て居無い。

麒麟は、平安大将棋の猛虎の動きを2回まで繰り返せるが、2回目は
必ず90度曲がって動かなければならない”踊り駒”

と、見ているので有る。つまり、

麒麟は常識的に考えると、考え出すのが、今よりもいっそう難しい駒

と見ていると、言う事になる。こう見るのは、ついでに鳳凰を、跳びと
歩みの混合駒ではなくて、シャンチーの象・相の斜め動き、つまり弱い
走りと、縦横歩みの、走り・歩みの混合駒というふうに見ている事に、
関連している。つまり発生した、鎌倉時代には、図として書くと、麒麟
と鳳凰は、45°回転させると対称的な動きの駒のように見えるが、そ
の実かつては、動かし方のルールが、互いに、かなり違う駒だったと、
本ブログで独自に考えているのである。そしてこのように、いっけん
ヒネクレて考えるのは、

麒麟の成りの獅子と、鳳凰の成りの奔王が、全く対称的になっていない
事が、もともとの麒麟、鳳凰のルールを、踊り駒と、走り主体の駒の
別種族と考えると、旨く説明できるため

である。そこで、麒麟が平安大将棋の猛虎2回の動きで、2回目は必ず
曲がるというのが、元だと言うのが正しいとして、こんなヒネッたルー
ルを、なぜ鎌倉時代の中期に発明できたのかを、次に考えてみる。今回
は以上が論題である。だいぶん前置きの説明が長かったので、今回は、
ここでようやく結論が書ける。そこでこれが何故かと言うと、西暦

1300年頃に成立していたと見られる、108枚制の普通唱導集大将
棋で、麒麟が猛虎の隣にあり、猛虎自体が、性能の悪い駒だったため、
それを挽回しようと、頭をヒネッたあげくに、必要は発明の母の例え通
り、麒麟が、初期の”珍しいルールの踊り駒”として発明できた為

だと私は考えるのである。
 そもそも、猛虎のように斜めに歩む駒は、玉将周りを手薄にするため
に玉将近くに置くべき駒である。しかし、猛虎の場合、玉将から若干離
れた銀将の前の升目に置かれている。そもそも、玉将のディフェンスを
全体として弱くしたいのなら、金将を玉将の隣に置いてはだめである。
これでは、猛虎が存在する事自体が、意味不明になるからである。
しかし、実際には、無駄駒として猛虎が存在する。猛虎は調整された
守り駒でも無ければ、攻め駒にもならない、平安大将棋では、ゲームと
しては

猛虎は存在自体が、ほとんど意味が無い駒

なのである。この点は、駒の初期の置き方の骨格を変えないとすれば、
普通唱導集時代の大将棋でも、事情は同じであった。だが、普通唱導集
の大将棋の骨格を、その普及のためには、二中歴記載の大将棋と、替え
る事は出来なかった。ので、普通唱導集大将棋のゲームデザイナーは、
猛虎の隣接部分に、猛虎の強力な改良駒を置くことを、考えたのだろう
と私は見る。なお、改良方法としては、

縦横のどこかにも歩める、5方向程度の銀将型の歩み駒に、猛虎を変え
るというのが、最もポピュラーだが、猛虎2回の動きという駒でも、
盤面の半数の升目に行き所が無いものの、動きは速くなって、比較的
攻め駒として有望なのに、試行錯誤で気がついた

と、私は推定するのである。その結果”平安大将棋の猛虎2回動きだが、
2歩目は90°曲がらなければならない”という、原始麒麟の駒ルール
が、完成したのではないかと、私は推定する。
 なお、このタイプの動かし方は、江戸時代になると普通に考え出され
るようになった。広将棋の虎翼や天馬がそうであるし、松浦大六氏所蔵
象戯図式の、天竺大将棋の奔鷲の斜めからの”猫叉二回の動き”がそう
である。

しかし、平安大将棋に関しては、猛虎の、あまりにも存在の意味自体が
不明という、危機感というマインドが、鎌倉時代中期という、それよ
りはるか以前にも、奇跡的に、同種の繰り返し踊り駒を、たまたま生み
出したのではないか

と、私は推定するのである。なお麒麟の、この元々の動きは、猛虎を
王将に入れ替えて、麒麟自体の成り駒である獅子の動きを、自然に生み
出したと私は、当然だが推定している。そして、その獅子の踊り動きで、
1歩目の自分の駒も、跳び越えられるように改良された時点で、恐らく、
麒麟の縦横、結果としての1升目跳ばした位置への移動が、ジグザク
踊りの結果ではなくて、普通に跳んで行けるようになった。そして、
鳳凰の斜め動きが、麒麟の影響で、シャンチー象走り(塞馬脚有り)か
ら、単純跳びに変化して、かつ踊らずに確定いた。すると、今度は又、
麒麟がその更なる影響で、ジグザグ踊りを、消滅させたのであろう。
かくて、麒麟と鳳凰は、45°回転させると、現在のように同じ動きの
駒になった。

ただし、そのようにして、麒麟と鳳凰の動きの関連性が高くなっても、
成りは、それぞれ踊りの獅子と、走りの奔王とが、対応付けされ続いた。

以上の経緯を仮定しさえすれば、麒麟・鳳凰の現在の、少なくとも中将
棋のルールは、ぴたりと説明できるように、私には思えるというわけで、
麒麟の動きのルールの謎が、以上で一応説明できたと言う訳なのである。
(2017/11/30)

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将棋纂図部類抄曰くの鳳凰の斜め動きを飛龍と違い跳び越えにした訳(長さん)

将棋纂図部類抄の、中将棋の初期配列図の後の、駒の動かし方ルール
の補足には、少なくとも”中将棋の鳳凰は、飛龍の正行度踊りの動き
とは異なり、斜め方向には跳び越える”と記載されている。恐らく、
室町時代の初期、15世紀の初めに、中将棋の棋士が、摩訶大大将棋
の、金剛や力士の駒の、動かし方ルールが確立した頃までには、鳳凰の
斜め動きと、麒麟の縦横動きに関して、実際に将棋纂図部類抄に書か
れているような、駒の動かし方のルール選択を、したのであろう。
 では、なぜ中将棋棋士は、鳳凰の斜め方向への動かし方ルール等を、
飛龍型にしなかったのであろうか。以上が、今回の論題である。
 そこで、例によって結論を最初に書く。

”踊り”と表現しても、そのタイプが、
”踊りA型”と、ここで仮に名づける、方向転換が出来る。動き升目
の数は、1から表現された数までである。という、獅子型の踊りと、
”踊りB型”と、ここで仮に名づける、方向転換が出来ない正行度、
動き升目の数は、表現された数だけに限定される、と言う踊りと、
踊りの種類が、中将棋の中で2種類できてしまい、適当な単語で区別
がつき難い。それで鳳凰の斜めは、途中駒を取らないに限定される、
カテゴリーが全く違う、”跳び越え”に、変えてしまった

ためだと私は考える。つまり、
中将棋指しは、踊り駒と言えば、”踊りA型”に分類される、獅子、
飛鷲、角鷹の3種類に限定できるようにし、実戦で、棋士同士での
トラブルを、避けたかったのだと思う。なお、言うまでも無いが、
ここでの私論や、増川宏一氏の二中暦訳によると、元々、走りか、
こちらの方が本来、跳び越えだったとの説が、現在有力な飛龍の方が、
少なくとも”摩訶大大将棋口伝”が成立した時点で、金剛、力士、猛牛
の類の、斜めは、踊りB型で踊る駒に変化していたようである。
 次に以上のように推定できる根拠であるが、以下の一点だけ、つまり

踊りA型と踊りB型が違う事を、摩訶大大将棋口伝で、方向転換で
き無いまでも、狛犬の説明を使って、区別しようとはしている。が、
飛鷲、角鷹のような典型踊りA型と、踊りB型とを分けようとする
努力をした跡の見られる、よりはっきりとした文献が、特に見当たら
ない

という点を、挙げる事が出来ると私は理解している。つまり、中将棋
棋士達は、室町時代の早い段階で、

上記の労苦を、鳳凰の斜め動きを、各種の踊り類ではなくて、跳び越
えにしてしまう事によって、予め回避してしまった

のではないかと、私が考えているという事である。なお、大将棋や
摩訶大大将棋の鳳凰を、中将棋の鳳凰と同じにして、良いかどうかに
ついては、これとは別問題であって、現在論争中である。
大阪電気通信大学の高見研究室が、鳳凰は将棋種によって、ルールが
違うとの立場を取っている。ので、前に”小さい也問題”として、本
ブログで取り上げたことが有るが、彼らの言い分を、彼らのブログ等で、
注意して聞いてほしい。
 なお、

現代流に大将棋を指す場合は、麒麟、鳳凰の動きは、プレーヤーが
かなりまだ居る中将棋と同じで良い

のではないかとの立場を、本ブログでは今の所取る。(2017/11/29)

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麒麟の成りは何故獅子になったのか(長さん)

前回、普通唱導集、表駒24種は、22番目と23番目の麒麟・鳳
凰が、龍馬から、連想容易なので、概ね蒙古来襲時代までには、
全て成立し得たとの説についてのべた。なお25番目として、酔象
の成りの太子がある。本ブログでは、酔象の成り駒であり、仏教の
強かった日本の中世社会では、さまざまな太子のうち、酔象に食い
殺されそうになった釈迦の、俗名に付いていた、太子(王子)が、
釈迦の事を隠然と現していると、その当時の将棋指しには、主に
イメージされていたとの説を取っている。つまり、

酔象の成りの太子は、釈迦の事である

とみていたと、推定するわけである。成立は、蒙古来襲時。神仏に
国家の未来を幕府・朝廷が両方で祈る過程で、釈迦の国家守護か、
その力の偉大さを当てにして、ご利益を期待し、当時の大将棋に
”酔象”として、玉将の直ぐ前に加えられたと、前に書いたが、
ここでは推定している。その結果、悪党の類である横行が、
袖から2列目の前段(3段目)に移動させられると同時に、
その内側に、堅行と角行が発明されたというのが、本ブログでの考
えである。以上で25番目までは説明できるとして。今回は、
ラスト残り26番目の、

成り麒麟の獅子の起源。すなわち獅子がなぜ、中将棋、大将棋、
将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋で、麒麟の成りでもあるのか

について、考える事にする。結論から何時ものように書くと、

麒麟の位置が、西暦1300年時点の普通唱導集大将棋で、成ると
太子になる、酔象の隣に、たまたま在ったから

だと私は考える。なお本設問に関して先行研究としては、大阪電気
通信大学の高見友幸先生による「狛犬と獅子とは対なため、摩訶大
大将棋で、狛犬が有れば、獅子の存在は必然」という論がある。た
だし、この論では、初期配列の獅子が存在する理由として、正しい
のかもしれないが、

麒麟の成りも、何故獅子にしたのか

という点では、なおも考察が必要なのではないかと私は思う。そこ
で、仮にもし、この駒が発生した将棋の、もともとの麒麟の位置が、
酔象の隣だと、麒麟の成りが、なぜ獅子になれるのかと言う事になる
のだが、以下の理由であるというのが私の考えである。その訳とは、
酔象の成り

太子を釈迦如来だとみると、獅子吼(ししく)という単語が、信心
深い中世の日本人には、ただちに連想できると考えられるから

だと、私は思うからである。その他、釈迦に限らず高僧の座る席を、
当時は獅子ノ座と呼んでいたため、この獅子ノ座という単語からも、
連想できると思う、つまり”太子”の有名人の代表が、酔象に殺さ
れかけた、古代インド王国の釈迦なら、隣駒の麒麟の成りは、隣の
酔象の成りに合わせて、獅子と名づけるのが妥当と、鎌倉中期、
蒙古来襲時の頃、見られたのではないかと私は思う。
 そもそも、獅子奮迅という言葉が、源平盛衰記等でも、龍馬と、
酔象という単語で対に出てくる事もあり、獅子は、将棋の駒として
取り入れられる可能性の高い、名前ではあった。その他、高見先生
の言うように、別種類の将棋ゲームでも、獅子という名称は、使わ
れていたのかもしれない。しかし、それだけでは、麒麟の成りにも
しなければならない必然性は、充分ではない。ところが、
仮説普通唱導集大将棋では、酔象の成りは、今度はルールで書くと、


玉将や王将の動きをする。それだけでなく、取られると玉将が無く
ても負けにならない、二枚目の玉駒でもある

”になっていた。そして、このブログでは、その右と左の駒の成りが、
それぞれ

玉将や王将の動きをする。それだけでなく、全方向に歩むだけでな
く、走る奔王に成る。

玉将や王将の動きをする。それだけでなく、玉将の動きを2回相手
の手を挟まずにできる。

になった。つまり以上のような、互いに形式が揃った

計3種類の成りが、並んで作られたはずだと、本ブログでは推定する

のである。獅子はもともと、自駒は跳び越せ無かったはずだと、個人
的には思う。そうでなければ、同じようなルールを、どこからか、も
ってきて、荻生徂徠が、江戸時代作の広将棋の2回動き駒で、採用し
ないように思えるからである。つまり、麒麟の成りは、もともとは、
正確に”玉将の動きを2回繰り返す”と、表現されたはずだと、この
ブログでは独自に推定する。これは、自駒も跳び越せる、普通の獅子
のルールよりは、自陣に居るとき、少し動きが悪い、今のと、ほぼ同
じと言えば同じの、良く似ているが、少し違うルールである。
 以上のように、繰り返すとこの3種類の成りは、3種類有るだけで
なくて、ルール・ブックに書くと前半が”玉将や王将の動きをする。
それだけでなく、”と表現される形式に、完全に統一されていたはず
だと、このブログでは推定するのである。だから、

鳳凰の成りがスーパー玉将(王)と表現される、奔王であるとすれ
ば、麒麟の成りも、スーパー王とイメージされる駒名であるべき

であった。そこで、この事からも

獅子吼という単語が、獣の中で、獅子が王者である事をも意味してい
る事から、王のイメージと獅子とがここでも繋がり、麒麟の成りが獅子
に確定した

と私は、釈迦説法→獅子吼→獣の王様とつなげた、デザイナーの思考
過程を推測するのである。つまり、

安土桃山時代に水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄の後期大将棋の成りに
ついて記載した”成り駒3枚”は、本物の大将棋、すなわち仮説普通
唱導集大将棋では、やはり偽物の後期大将棋とは違って、本来一列に
並んでいたはずだ

と、私は思う。そして、恐らく麒麟の成りが獅子なのは、酔象の成り
の太子を、中世の日本人は、酔った象を最も有名にした、殺人未遂被
害者、釈迦の隠語のように見ていた事の、動かぬ証拠でもあるように、
私は考える。以上のことから、冒頭の結論のように、推定されるとい
う訳である。(2017/11/28)

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