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大大将棋の馬麟~踊鹿の成りの奔王~方行。何を根拠に決めた(長さん)

大大将棋の成りはユニークである。ただし、近王の成りの
前旗は位置から、変狐と変狸は化狐、化狸の意味とすれば、
成りの夜叉と鳩槃は、イメージだったとみられる。
 しかし、表題のように馬麟、水牛、行鳥、飛龍、猫叉、
踊鹿の成りが、それぞれ、奔王、奔獏、奔鬼、龍王、龍馬、
方行である理由は、飛龍の龍王は別として、少なくとも自
明では無い。大大将棋のデザイナーは、何を考えて、この
ような、元駒成駒の対応付けをしたのだろうか。以上を、
今回の論題とする。
 最初に回答から書く。
奔王、奔獏、奔鬼、龍王、龍馬、方行という成りの系列が
先にあって、この元駒の馬麟、水牛、行鳥、飛龍、猫叉、
踊鹿は、これに合わせて後で考えた。前者は単なる序数詞
の代わりに過ぎない。

後者は、陰陽道の思想に従い、12支の方角で、五芒星を
象っている。

 すなわち、方位の馬(午)からだいたい144°づつ、
反時計回りにまわして、馬牛鶏龍と対応させ、その後、
36禽の副動物である、恐らく猪の代わりの猫、馬の代わ
りの鹿とした上で、修飾詞等の、麟、水、行、飛、叉、踊
をつけて駒名にし、序数詞の代わりの前記の成りにした。

 では、以下に説明を加える。
馬麟、水牛、行鳥、・・これらの大大将棋駒の、元駒の名
称の付け方も、

陰陽道や五行説、風水と言った系統の、占いから来たもの

だろう。大大将棋のゲームデザイナーも、中世の人間らし
く、陰陽道に傾倒していたに違いない。
 まず最下段の袖へ向かって3列目を、左右左右へ見て行
くと、奔王、奔獏、奔鬼、龍王、龍馬、方行、走車、飛車
の8つの種類の駒は、走り駒を、強さの順番で、左右に分
けて2枚づつではなくて、1枚だけづつ、互い違いに置い
たものである事は一目だ。
 この8つの走り駒のうち、成り駒名には最初の6種だけ
使用している。飛車が龍王に成る等は、この将棋種では、
採用されて居無い。そこで、奔王から始まる系列は、1番、
2番・・という、順序数詞の代わりとも取れる。
 そこで、たまたまだったろうが、妙見菩薩でも、デザイ
ナーは信仰していたのだろうか。仏の全面に配置される、
十二支の馬から始めて、馬で最初に馬麟を作ったようだ。
 次に、反時計回りに正確ではないが、方角でだいたい
1回転の2/5公転づつ、角度で144°回った所の動物
を、馬、牛、鶏、龍、猪、馬と対応させたようだ。恐らく
この種の占いに、そのようなシステムのものが、有るのだ
ろう。図に描いて線で結ぶと、五芒星型になるので、その
形を、デザイナーは考えたのかもしれない。
 ただし、豚将等、猪駒を嗔猪とは別に考えるのは、めん
どうだったのか、あるいは36禽の対応で、亥に猪のほか
に、副動物として猫が来るバージョンが、摩訶止観とは
別の文献に有るのか。猫は翌日着たので、猪の後のその所
なのか、私には良く判らないが。猪と最後の馬は、恐らく
36禽の副動物である猫と鹿に変えたようだ。ちなみに、
私が調べた限りでは、36禽で猫は、猿か鼠の類になって
いる。真ん中を取って犬猪付近にしたとも思えないのだが。
 だから、猪の所には入らないはずだが。

この点は不明として、今後の解明を待つ

として、その結果次の段階で、

馬、牛、鶏、龍、猫、鹿

という、元駒系列の固有詞が出来たと見られる。その中で、
龍と猫は、飛龍と猫叉が、元々あったので、それを使った
のだろう。その結果、大大将棋では

飛龍の成りが龍王、猫叉の成りが龍馬になった

とみられる。猫叉が斜め歩みだったし、飛龍、龍王に、ど
ちらも龍が入っていたので、大大将棋のゲームデザイナー
は、順序数詞の4番目と5番目の対応には、満足したに違
いない。
 そして、残りの馬、牛、鶏、鹿を、試行錯誤で、修飾詞
として、麟、水、行、踊を考えた上で、それらの動物駒名
に付け、

馬麟、水牛、行鳥、踊鹿にたまたま、した

とみられる。これらは、順番で1、2、3、6なので、
成りがそれぞれ奔王、奔獏、奔鬼、方行になったのだろう。
 なお、元々は元駒が弱く、成ると大きく強くなるように
動かし方ルールは、作られていたはずだ。

行鳥は、大局将棋や、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の泰将
棋の行鳥が正しく、後のは作り物。
水牛も天竺大将棋から強くなっただけで、もともとは、
将棋纂図部類抄の泰将棋や大大将棋のように弱いのが正調。

以上のようだったのであろう。
 猫が猪類にしたで合っているかどうか、多少気になるが。
 大大将棋に特徴的な成りのパターンも、以上の事から
陰陽道や風水等、中近世の占い信仰から来ているように、
私には思える。(2019/02/23)

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金剛力士。”3目踊るが1目2目は踊らず”のルール作成者等(長さん)

安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、行然和尚
まとめ部と、摩訶大大将棋口伝に、表題の内容が書いてある。

今回はこのルールの作成者は、将棋のヘビーゲーマーとは考
えにくく、ボードゲームに、広く浅い博学知識を持つ人間の
指示で、中世に始まったもので、ルールとして現時点で問題
がある

との旨について述べる。
 将棋天国社の世界の将棋の時代には、大将棋の猛牛・飛龍
から始まる、それより上位の将棋で発生する、ある方向に2
升目以上の、複数升目動くととれる駒の、動かし方ルールは、

幾らでもは行けない、上限数に制限の有る走り

とみなされた時代があった。上限数までは、任意の歩数で走
れるという内容を、これは含有している。
 その後、大阪電気通信大学の高見友幸氏の功績が大きかっ
たが、

中抜きにその升目数、跳び越えて、任意に途中の相手駒が取
れる動き

であると、だんだん判ってきた。いわゆる

”踊る”という動きの正体に関する議論

だ。
 本ブログでは、この大阪電気通信大学高見友幸氏の解釈が

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の行然まとめ部、摩訶大大将棋
口伝に関して、狛犬、猛牛、金剛、力士等について正しい

とみる。
 が、このルールが、いわゆる大将棋系のゲームの熟達者が
作ったものであるかどうかに関しては、

大いに疑問

であると思っている。
 疑問なのは、踊りの全体的解釈についてではなく、表題の
ように、将棋纂図部類抄内の、踊りルールの作者の聞き伝え
と見られる、

金剛力士。”3目踊るが1目2目は踊らず”の、
1目2目は踊らずという後半の部分についてが、
将棋ゲームとして、余り良くない

と私は見るのである。ただし繰り返すが、

表現がおかしいのではなくて、”1目2目も踊”った方が良
いのではないか

という意味である。
 理由は、現行の大阪電気通信大学ルールでは、仮にだが、
夜叉や鳩槃を大大将棋の5踊りにして、1~4目は、将棋纂
図部類抄流に”踊らず”にすると、強力になるのではなくて、

ひどい筋違い駒になる

からである。つまり、45°別方向の2升目踊りの存在で、
ある程度は、より小刻みな動きがあるので、多少は改善され
るのだが、まっしぐらに、5踊りで相手陣に切り込んだとき
に、到達できる升目が、夜叉・鳩槃の大大将棋踊りでは限定
されるという意味である。
 特に、5の倍数でしか踊れないので、盤升目を変えたり、

初期配列の夜叉・鳩槃の位置を変えると、摩訶大大将棋では
最奥の段に到達できるが、大大将棋ではできないといった
問題

が出て来る。
 小型の将棋なら、玉位置は中盤の初期から移動できるが、
摩訶大大将棋のように、玉回りに守り駒の多い将棋では、
中盤も終わりに差し掛からないと、玉将の移動は、あまり
起こらないのが普通とみられる。
 踊り駒が、中抜き型だと、筋違いの升目に移動した場合の
玉に、相手のこれらの踊り駒が当たる確率がゼロになる
ので、玉位置の少しの違いで、トン死筋が出来たり出来な
くなったり、

ゲームの攻守バランスが、微細なルール変動に対して
不安定性を示す

ようになってしまうのである。それが問題になった他の例は、
中国シャンチーから、朝鮮チャンギに転換したときだと、
私は予想する。

象駒を、朝鮮チャンギで1升目行ってから、2升目限定走り
止まりにしたのは、相手陣へ象駒が入れるようにしたら、
漢・楚の位置で、象に当たったり、当たらなかったりして、
ゲームの調子が狂ってしまったから

だと思われるのである。
 また摩訶大大将棋のような大型将棋が、厳密に復刻できる
のであれば問題がないのかもしれないが。以上の問題は、

誰がどうあがいても、残って居無い記録は復元しようがない

というときに、摩訶大大将棋が、僅かな駒の配置のルールの
間違いで、攻守バランスが不安定化する原因になってしまう
だろう。
 既存の知られたルールの範囲内の史料で、かろうじてバラ
ンスを保っていた、復刻将棋が、ルールに間違いありと見ら
れて更新された結果、

踊り駒の筋違い問題で、相手玉に対する、該踊り駒を攻め込
んだ時の当たりが変わって、バランスが大きく崩れ、復刻に
失敗したのでは、もともこもない

ように見るというのが、このルールの最も懸念される点だ。
 そもそも、踊りは現行のように”5目踊る。そのうち1~
4目は踊らず”にしたとしても、”5目踊る。そのうち1~
4目も狛犬のごとくに踊るなり”にしたとしても、他の駒の
ルールを調整するなどして、バランスを取り直せばよいだけ
なのであり、どちらでも、本来出来る作業のはずである。

後者の方が、これからじょじょに、該大型将棋を流行らそう
というのなら、出来るのならばその方が良い

ように私は思う。
 そもそも、この将棋纂図部類抄記載の中抜き踊りは、駒の
個別強弱調整を目的にしたものなのではあろうが。この将棋
を指す、充分に差し込んだゲーマーが提案したものだとは、
上記のように、筋違い問題が大きく、私には思えない。
 狛犬との差にこだわったと言うのなら、成りを金将ではな
く大象にして、更に大象の駒の動かし方ルールを、きちんと
強くして、金剛や力士と、差を付ければよかっただけのはず
だ。そもそも、この踊る数が限定されて、1からその下の数
の、踊りの出来ないルールは、

サイコロで出た目きっちりに駒を動かす、盤双六が好きな
ご隠居さん型タイプの、ボードゲームに、広く浅い博学知識
を持つ人間の指示で始まったルール

のようにも思える。しかし、将棋は盤双六と違い、

あるサイコロ目で、着手の評価関数が大きく動くルールでは
なくて、王手が出来るかどうかで、評価関数が大きく動く
ゲームである事を、前記ご隠居さんは、うっかり忘れていた

のだろう。そのため筋違い動きの問題に、大きな関心が、た
ぶん行かなかったのだろう。しかし、それを継承する者とし
ては、問題点をそのままに残すと、ゲームが完全壊滅・滅亡
する、直接原因にも、なりかねないように思う。
 従って、このケースに限っては、

復刻版の将棋では、中抜き踊りにしておくが、ゲームが自立
して進化、継続する”若い世代の物”になってきたという時
点で、少なくともルールをどうするかは、若い世代自身に任
すという姿勢が大切

なように、私は考えるのである。恐らく若い世代は、私より
も更に、ゲームのゲーム性能にこだわって、するかどうかを
選択するはずだと、私は予想するからだ。(2019/02/22)

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将棋史はモンゴル帝国の来襲時の史実を解明するのに役立つ(長さん)

通俗書で比較的昔の物だけだが、鎌倉時代にモンゴル帝国が
日本の九州に来襲したとき、

見たこともない鉄砲という兵器に日本の守備隊は翻弄された

といった事が記載されている。なお鉄砲の実体については、
火薬を使った火砲の一種で、包みが紙から鉄に改良されもの
である点は、前に本ブログでも述べた。
 実の所、この記載は

間違いである

と、私は考えている。
日本人は、朝鮮半島にモンゴル軍が攻めてきた頃から、

砲を使う事自体は知っていた

と見る。

鉄包みに改善され、機動力も増しているのに驚いただけ

であろうと見ると言う事である。答えを先に書いてしまうと、

普通唱導集の大将棋の唱導唄を、将棋史流で解析しているの
で、シャンチーとチャンギの砲は、日本の将棋士が蒙古来襲
の恐らくその少し前に知っていた

と考えられるからである。
 では、以下に説明しよう。西暦1300年頃成立したこの
史料に、仲人と嗔猪が腹を合わせて、桂馬を上げると陣は支
えられると記載されているのであるから、相手陣には角行が
有るのであり、よって竪行も有るから、横行は端筋方面に、
平安大将棋から移動していなければならない。つまり、龍王、
龍馬が有る可能性が高く、少なくとも釈迦の太子に成る酔象
が、普通唱導集時代の大将棋の中央に、入っているのは確実
だ。つまり象駒を、中国か朝鮮半島の、包や砲の有る外国の
ゲームを見て、大将棋に入れたと結論されるのである。
 またそもそも、仲人と嗔猪が腹を合わせるという戦法は、
朝鮮チャンギの卒同士の守りの手として良く出てくるし、桂
馬を上げて、仲人に紐をつけるのは、中国シャンチーで、卒
に馬の紐をつけるのと、類似の戦法である。つまり、普通唱
導集時代の大将棋の棋士は、しばしば戦法を、外国のゲーム
の戦法から、借りてきているという事で、それも、外国のゲー
ムを知っていないと出来ない。よって、モンゴル来襲時の頃
に、少なくとも大将棋のゲームデザイナーや、棋士は、シャ
ンチーかチャンギか、恐らく両方とも知っていると見られる。
だから、モンゴル帝国の来襲の頃に、

日本人が、火砲自体を全く知らないという論は成り立たない。

 なお、大将棋に砲を入れなかったのは、調整しても、攻撃
側過多になって、ゲームが作れない事が判ったからのはずで
ある。この点については、だいぶん前に本ブログで、
天竺大将棋に跳越え将駒が有り、砲駒を日本人が使いこなせ
ないわけがないので、鎌倉時代の大将棋に、砲が無いのは、
砲が日本人には異形で、理解出来ないと言うのが、原因では
無い旨を述べた記憶が有る。
 恐らく、中国古代・中世の戦法を、全く知らなかったら、
日本は来襲のときに、モンゴル帝国に勝てていたかどうか謎
だと私は思う。大掛かりな架台に、火薬の入った紙の塊を
セットして、城砦等に投げ込むトレビュシェットを使う中国
の戦法位は、北条時宗等も知っていたはずだ。
 通常の歴史の本は、通俗書ばかりで、専門書や、論文を読
んだ事が私には余り無いのではっきりしないが。”てつはう”
に関して、どの程度の事前知識が、日本の将クラスの人間に
有ったのか、論じたものは簡単には見つからない。史料が無
いと考えられている疑いが、あると思う。
 しかし、本ブログに言わせると、合戦と関連の大きい将棋
ゲームに、その情報が隠れて居無いわけが無いと思う。

普通唱導集の大将棋の唱導唄は、少なくともヒントなのでは
ないか。

 以上の事から判るように、単なる遊びの歴史の研究に留ま
らず、遊戯史の研究は、他の歴史分野の研究と、いろいろな
所で、繋がっていると知るべきなのであろう。(2019/02/21)

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室町時代末16C初厩馬図。囲碁盤・双六盤有って囲碁は蓮座(長さん)

以前に本ブログでも、狩野派初期、室町時代から戦国
時代にかけての、西暦1500年頃の作である、表題
の厩(馬)図の将棋盤について、言及した事があった。
将棋史では、将棋駒が書いておらずゲームのバージュ
ンがはっきりしないが9×9升目である事が、将棋盤
の升目の形が鮮明であって、良く判る。その他、増川
宏一氏が、対局している僧侶の手つきから、駒を持っ
ているのではないかと推定し、西暦1500年頃に、
持ち駒ルール発生かと述べたとか、将棋盤の足の形に
ついて、言及した事がある。幾つかの成書に絵画が図
版で載っていて、将棋盤の足は、逆L字型である事は、
自明であるように、本ブログでは見ている。
 最近まで知らなかったが、厩図には双六盤が将棋盤
の左の横の方に、囲碁盤が、右側の屏風に書いてある
という事実を、遅ればせながら私も知った。こんかい
は、その結果、

囲碁盤については、線の数が正確では無い事と、足は
驚いたことに、この絵でも蓮座型になっていて、将棋
とは違う事が判った

と言う説明を以下する。
 さっそくだが、囲碁盤は、以下のようなものである。

厩図の囲碁盤.gif

まず、盤上の路の数が、こちらも鮮明だ。列が19路
である事は直ぐ判るが、段数の方は左側の人物の、袖
に隠れてはっきりしない。しかし、数えてみると、

段が22段程度ありそう

だ。隠れている部分も入れると、25路程度になり、
絵師が、将棋盤と異なり、囲碁の路数は正確に書かな
かったと推定される。体裁から、段を多めに書いたの
であろう。なお奥の方に、碁石が書いてあるようにも
私には見えるが、はっきり断定できない。
 次に、足の形が重要だが、将棋盤の逆L型と違い、

明らかに蓮座型に近いように見える。

囲碁・将棋盤には、少なくとも戦国時代には、蓮座型
のものが有った事を示すのであろう。
 将棋盤と異なる理由であるが、

将棋の伝来が中国、特に華北部の当時の都に在住する
商人からの取得物であるという記憶が、その500年
後のだいたい西暦1500年時点で、薄く残っている
事を示唆している

ようにも見えた。華南の、禅宗寺から近い地域の人間
が、持ってきたものではないので、その時点の囲碁よ
りも、中国の禅宗仏教からは遠いという情報が、将棋
盤には含まれているように、淡くだが、見え無くも無
いという事かもしれない。
 ちなみに、厩図にも盤双六の盤も描いてあった。こ
ちらは、箱型の普通の盤で、升目が20升目程度描か
れていて、こちらも指している人物の左腕に隠れてい
て、4~5升目程度、向こう側に有る感じの絵である。
双六盤の絵は囲碁盤と異なり、将棋盤程度にリアルだ。
 従って結論としては、少なくとも足に関しては、

厩図の将棋盤と囲碁盤とでは、形が合っていなかった

という事になる。
 遊戯史では、増川宏一氏の尽力で、厩図の将棋盤は、
厩図の囲碁盤や双六盤よりも、著名なように思う。し
かし、今回述べた状況が、どうやら客観的には、正し
いらしい。すなわち、厩図には囲碁盤の絵も有り、

厩図の囲碁盤とされるものには、蓮座型の足がある。

そして、はっきりとした理由は、私には今の所、結局
の所は良く判らない。
 何故なら同時代で、逆L型足の囲碁盤の絵も有ると、
個人的には、認識しているからである。(2019/02/20)

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27升目1年の日数駒数型将棋のチェック結果(長さん)

 前に述べた、27升目366枚制の1年の日数駒数
将棋を、1局テスト指しして、ゲーム性能をチェック
してみた。
 結果を先に書くと、
この将棋が、攻撃力過多だというのは、取り越し苦労
だった。木将の成りを、中将にするアイディアと、
玉将の成りを考える、

追加のアイディアだけ、不要で無駄

だった。
 玉将や太子は成らなくても良く、普通の大局将棋の
ように、木将は大局将棋の白象に成るルールを選択す
るだけで充分だった。

 後で小細工した、私的な工夫を抜くと、問題のない
良いゲームになっている

と見られた。
 では、以上の結論について、説明を加える。
 この将棋は、木将が成るまでは、調子よく進んだ、
以下に、木将が中将に成ってしまった局面を示す。

摩訶摩訶大大中将.gif

本来なら、じわじわ両方の陣が崩されつつある状態で、
よい感じで進んだのだが、

横への大跳び越え駒を、大将のほかにもう一種類作っ
て調整したつもりが、これがマズかった。

いっきに、後手の陣が崩れて、次の図のように、瞬く
間に先手により後手玉、太子を寄せる局面になり、簡
単に終わってしまった。

摩訶摩訶大大終.gif

 なお、寄せの時点で、後手の玉将や太子が、先手の
攻め駒を取る余裕は無かった。
従って、”玉将が成ると城玉に成る”というルールは、

作ってもこの将棋では、ほぼ無駄

だとみられた。
 普通に基本は摩訶大大将棋、足りない部分を大局
将棋という駒の動かし方ルールで、27升目化すると、
全体としては、この将棋に入れた366枚の駒の、構
成で、攻守のバランスは取れていたようであった。
 踊り駒で4踊りを1種、残りを全部3踊り以下にし
たし、制限無く跳び越える大鷲や大鷹、自在王につい
て、跳び越えた時には、空き升目にしか行けないので、
守られた相手駒を、なかなか取れないようにしたので、

極端な攻撃力の増加は、防げた

ようだ。
 だから、この将棋は成りについては、以下の、大局
将棋までで、普通に出てくるパターンで充分だったよ
うだ。

27×27升目将棋成り配列(中央より右側。11段目以降
”口”のみ。)
口口口口口口口口口口奔人口口口口口口口口口口口口口口口口
金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将
奔鷲大旗鳩槃不成不成金将強車金将金将金将車兵水牛天王金将
不成不成不成不成口口不成口口不成口口不成口口不成口口鉄車
不成不成不成口口大鷲口口大鷹口口飛鷲口口角鷹口口金将不成
大象不成口口四天口口四天口口四天口口四天口口象王口口不成
獅鷹獅奔奔狼口口龍王口口飛牛口口飛鹿口口奔猪口口蝙蝠砲車
太子奔虎奔豹奔龍口口山母口口奔蛇口口仙鶴口口奔猫口口前牛
不成前旗教法口口方行口口奔鬼口口奔王口口鳩盤口口鳩盤金将
不成右軍奔金奔銀奔銅奔鉄奔瓦奔石奔土大将白象副将金将金将

大将、副将型の制限のない踊りだけが、飛びぬけて破
壊力が強かったのであり、特に大将の、”縦横跳越え
全て取り、空いた升目で着地”のルールの駒を、倍の
数に増やすのは、そこだけが、特にマズかったようだっ
た。(2019/02/19)

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27升目駒数1年の日数型将棋で覚えやすいタイプを作成(長さん)

本ブログによると、水無瀬兼成は泰将棋を作成したが、
豊臣秀次が余りにせっつくため、出来の良いものは作れ
なかったという事になっている。そもそも盤は3の倍数
で作るのが、超摩訶大大将棋を作るとしたら、常識だっ
たはずだ。9の3倍である27升目タイプは、最も大き
な数ある”9”が2回出てくるので、最適だと私は思う。
 つまり3×3×3で27と言うのは、中世ならウケた
はずだし、白道28宿とか27宿といった、陰陽道の占
いの月の位置に因んだ星座の数とも合っているので、
25升目にするなら、この方がずっと”中世らしかった”
という事である。ところで、前に、以下のような将棋を
私は作成したが、風邪引きで、体調が悪いときの作だっ
たので、こちらも余り出来が良くなかった。

以前>
口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
奔王鉤摩飛鷲角鷹龍王龍馬角行堅行横行方行堅兵横兵車兵飛車
自在四天教王孔雀口口朱雀口口白虎口口玄武口口青龍口口右車
奔鷲獅鷹法性口口奮迅口口金翅口口大象口口大師口口鵬師砲車
狛犬夜叉口口鳩槃口口羅刹口口金剛口口力士口口白象口口強車
獅子麟鳳悪狼口口飛龍口口猛牛口口盲熊口口嗔猪口口老鼠走車
酔象盲虎猛豹臥龍口口古猿口口蟠蛇口口淮鶏口口猫叉口口奔車
太子近王提婆口口無明口口行鳥口口馬麟口口変狸口口驢馬反車
玉将右将金将銀将銅将鉄将瓦将石将土将火将木将水将桂馬香車

この程度の将棋ならば、

本来、簡単に配列が覚えられて当然のような、規則性の
有る作りをしていなければならなかった

と思う。しかも、動きの対称性の悪い駒が多くて、ゲー
ムは、いっけんして、しにくい。

特に朱雀、白虎、玄武、青龍は、ゲームしていて神経を
使う非対称駒なので、入れやすくても、入れてはいけな
かった。
 また、駒の配列の規則性が充分でなく、覚えるのに苦
労を感じるものであった。
 そこで最近、空覚えで並べられ、ルールも規則性が高
くて、わかりやすいように、上記のゲームを直してみた。

水無瀬兼成は本来、延年大将棋はこう作るべきだったと
ありありと見えるような形を、私なりに目指してみた

のである。
 結果は下記のようである。
改善後>
27×27升目将棋初期配列(中央より右側。11段目以降
”口”のみ。)
口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
奔王前旗大鳩龍王龍馬角行方行堅行横行鉤行堅兵横兵車兵飛車
自在天王大鷲大鷹口口奔鷲口口教王口口大象口口大獏口口右車
法性獅鷹奮迅口口飛鷲口口角鷹口口右鷲口口山鷹口口摩羯砲車
狛犬鳩槃口口夜叉口口羅刹口口金剛口口力士口口白象口口強車
獅子麟鳳悪狼口口飛龍口口猛牛口口盲熊口口嗔猪口口老鼠走車
酔象盲虎猛豹臥龍口口古猿口口蟠蛇口口淮鶏口口猫叉口口牛車
太子近王提無口口踊鹿口口行鳥口口馬麟口口変狸口口驢馬反車
玉将右将金将銀将銅将鉄将瓦将石将土将火将木将水将桂馬香車

これなら、
一段目は将と桂馬。
二段目は大大将棋真ん中列と成り小駒、泰将棋の上段端。
三段目は摩訶大大将棋の中央と、非対称小駒と猫叉。
四段目は後期大将棋の3段目に摩訶大大将棋の袖小駒の上段。
五段目は摩訶大大将棋の4段目、仏教駒の並びと白象。ただし
大局将棋の強い、鳩槃をより中央に置く。
六段目は不正行度踊り駒と、居喰い駒の並び、最後角行2回の
摩羯。ただし、鷲鷹は隣接8方居喰い可能に、変えて統一。
七段目は制限なし跳び越え駒4つに、走りかつ踊り駒並び。
八段目は摩訶大大将棋や後期大将棋の歩兵下段並びで、奔王の
次に3踊り走り駒を入れ、行駒に鉤行を追加、兵駒を加える。
端列は香、反、牛、走、強、砲、左右、飛車の、判り易い車駒
の下からの並び。
その上は、摩訶大大将棋と同じパターンの歩兵と仲人列。
 以上で、記憶できそうだ。
 特に、風邪をひい時に作った、元の配列は、6段目と
7段目の作りが、覚え辛いし、動きのわかり易い駒が集
まっていないし、なっていなかったように思う。ちなみ
に、部分的に間違った所を直して、成りも次のようにな
った。

27×27升目将棋成り配列(中央より右側。11段目以降
”口”のみ。)
口口口口口口口口口口奔人口口口口口口口口口口口口口口口口
金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将
奔鷲大旗鳩槃不成不成金将強車金将金将金将車兵水牛天王金将
不成不成不成不成口口不成口口不成口口不成口口不成口口鉄車
不成不成不成口口大鷲口口大鷹口口飛鷲口口角鷹口口金将不成
大象不成口口四天口口四天口口四天口口四天口口象王口口不成
獅鷹獅奔奔狼口口龍王口口飛牛口口飛鹿口口奔猪口口蝙蝠砲車
太子奔虎奔豹奔龍口口山母口口奔蛇口口仙鶴口口奔猫口口前牛
玉将前旗教法口口方行口口奔鬼口口奔王口口鳩盤口口鳩盤金将
城玉右軍奔金奔銀奔銅奔鉄奔瓦奔石奔土大将中将副将金将金将

これも、基礎を摩訶大大将棋とし、加えた部分は、なる
べく、大局将棋に合わせているので、規則的だろう。
 今回は、攻守バランスも考えて、バランスが取れるこ
ともめざした。
 全体として、

普通では、この将棋はやや、攻撃力過多

のはずである。

踊り駒がたくさんあるためだ。

そこで、3つ跳び越え駒を、狛犬動きに弱体化させたり、
自在王を、空いた升目は何処にでも跳ぶが、相手駒を取
るときには、奔王のルールで取れるだけにするという風
に弱くした。ただし、自在、天王、大鷲、大鷹も8方喰
いができるとした。
 更に、類似の動きの駒が増えることもあり、提婆、無
明、教王、法性を取ったら、入れ替われるルールは止め
た。
 その上で更に成りも、全ての駒について、自陣または
相手陣の中にある、相手の駒を取ったときに強制的に成
る。敵陣に入るだけでは成らない。中間段では、相手駒
を取っても成らないという、

比較的、弱い成り

を考えて見た。
 また、従来の駒種には全く存在しないが次のルールの

成りの玉将、”城玉”

を、上の将棋では新たに考えた。この将棋で新しいのは

ほぼこの点だけ

である。
 ちなみに、木将の成りは奔木や白象ではなくて、大局
将棋の副将の斜めを縦横に変えた動きの、仮称、中将と
してみた。
玉将については成ると、相手の駒は直射では王手が掛か
るが、踊りでは取れず、跳び越えも出来ないという、
駒の格が、成ると発生するという調整方法を思いついた。
なお、玉将は、駒を取った時だけでなくて、酔象が太子
に成ったときか、太子が駒を取ったときにも、成れると
する。(太子、玉将は、常に片方に1枚以下。)
この場合、踊り駒が味方の駒に隠れた玉将に、王手が掛
けられなくなるだけでなく、四天王等の跳び越えも、
成った玉将については、出来なくなるとした。 ただし、
獅子のような、不性行度駒は複雑なので、例外なく跳び
越えられるとすべき、また桂馬は跳び越えられるとすべ
きとみられる。
 駒の格が無い、普通の玉将は玉将で、成って相手の駒
の動きに関して、駒の格が発生する方を、入城した玉将
の意味で、城玉としてみたわけである。
 もともとこの将棋は、踊り駒があるので、攻撃側が強
すぎると見たのである。だから踊りで、玉駒の一方の
玉将が成ったら取れなくなる程度で、もしかすると、
バランスは、ほぼ良いゲームになるのではないかと、
現時点では考えられた。
 なお、この程度まで配列が規則的になれば、泰将棋よ
り、初期配列を覚えるのは、はるかに簡単であり、2~
3回良く見れば、そのあと何も見ないで、駒が初期配列
に並べられそうだ。
 そのうち実際に、模型を作って、チェックしてみよう
と思う。(2019/02/18)

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鎌倉期の大日本史料駒落ち標準平安小将棋。段位の判定は不能(長さん)

前に述べたように、隠岐に配流になった後鳥羽上皇の家来
で、もうそのときには僧侶であった清寂の言から、西暦
1221年よりも少し前に、清寂の段位の認定の基準になっ
た、今小路の御所で指した将棋は、8升目タイプの取り捨
ての原始的な平安小将棋だったとみられる。それに対して、
後鳥羽上皇の御前で、彼が仲間の将棋の強豪の家来との対
局結果を予想した上で、やはり後鳥羽上皇の家来の西蓮に
負けた、駒落し型の将棋は、9升目タイプの標準的な取り
捨て平安小将棋だったとみられる。
 後者は、旦代の難点を回避するために、5筋の歩兵を1
枚か、または、2一の位置の囲い方の桂馬を一枚落して
指す事が、後鳥羽上皇の御前での清寂の言の内容であると、
本ブログでは推定している。
 以前、そう推定する根拠として、話の中で、

1)今小路の御所の将棋に関して、駒落しの言及が無い点

を、根拠として挙げた。
 しかし、言及が無いという理由付けは、言わなかっただ
けとも取れるので、根拠としてさほど強いものではないと
の印象も、あるかもしれないとも思われた。
 そこで今回は、今述べた大日本史料の西暦1221年
7月13日の条の話の中に、
今小路の御所で清寂が指して、調子が良いとき”1マチ下”
だという、彼の段位認定の根拠になった将棋に関して、
9升目の標準型の平安小将棋では無い
と考えられる、別の更なる根拠が無いのかどうかを論題と
する。
 最初に回答を書き、次いで説明を加える。

根拠は有る。

9升目の標準型の平安小将棋を使うやり方では、測定者に
はせいぜい”清寂が、3マチのへぼ将棋指しでは無い”
程度しか、判定の”分解能”が無い

とみられるからである。
 では、以下に説明を加える。
 9升目型の平安小将棋では、最も棋力が接近した相手同
士用に、用意された駒落し将棋は、

上手が5筋の歩兵を落して、先手で指すバージョン

だったとみられる。しかしながら、それで、

2マチ(2段)差の棋士同士が対局しても、下手が常に、
勝つだけだった

と予想される。

5筋の歩兵で、位を保つ事だけ考えれば良い程度の、工夫

の将棋なためである。そこで清寂言う所の今小路の御所で、

相手が2マチの下より下でないと、1マチ上とみられる
”コンパニオン棋士(先生棋士)”でも、上手では”標準
型9升目平安小将棋、駒落し”では勝てなかった

と、予想されるのである。
 具体的に、将棋の棋譜の例で示してみよう。
 下の写真は、下手がマネをしながら、5筋の相手には
無い歩兵で、位を維持する事だけに、注意しながら指した
9升目の標準平安小将棋の途中図の例である。

後鳥羽将棋歩兵落.gif

この例は、後手が△4七玉と、上手の桂馬筋を外した所で
あり、

下側が後手の、下手である。

この局面では、下手の5筋の赤丸の、歩兵の存在が強力で、
既に、かなり下手有利だ。すなわち、一例では、この後、
上手が桂馬交換の攻撃に出るが、結局、玉回りの守り駒を
使い果たしてしまうことになる。すなわち、一例で
▼6五桂△5五歩▼7七桂成△同金▼6五金△5六金
▼同金△同玉▼3五歩△同歩▼同金△7六金▼同銀
△同銀▼2六金△6五玉と16手、

取捨ての将棋が進んで、

以下の局面になると、いう事である。

後鳥羽将棋16後.gif

この局面で、上手の玉がほぼ、詰んでしまう状態である。
つまり上に述べたような要領で、下手が指せるようにな
るには、

標準平安小将棋の、初心者の域を脱しさえすれば充分

だったとみられる。だから、
この将棋を指せば、1マチ上と2マチ下以内の、棋力差の
者同士が指せば、いつも、下手の勝ち、上手の負けだった
と考えられる。
 実際、大日本史料中に書かれた、清寂対西蓮の一局は、
清寂が、おだてられて、5筋歩兵落しで指した、標準型の
平安小将棋であっただろうと言うのが、本ブログの見かた
だ。
 従って、清寂が今小路の御所の、娯楽用遊戯センターと
みられる場所で、コンパニオン棋士の1マチ上格の先生
から、

1マチ下であったり、2マチ上であったり、識別分解能の
1/4程度の判定が、9升目標準平安小将棋駒落し型で
出来たとは考えられない

という事になるのである。つまり、
平手で普通に指せる別のバージョンの小将棋で、今小路に
於ける、後鳥羽上皇家来の清寂の、将棋の棋力の判定は、
行われたに違いない、という事である。
 よって、今小路の御所では、

その時代には、いろいろなバージョンの将棋で指す事が、
当たり前と認識され、将棋の会話も、その常識に従って
今とは違って、普通に行われ、それに誰もが慣れていた

と考えられる。やはり以上のように、

後鳥羽上皇が隠岐に配流になった時代には、平安小将棋に
少なくとも2つの別バージョンのゲームが有った

と結論せざるを得ない。以上のように、私には考えられるの
である。(2019/02/17)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札盤目示唆しない訳(長さん)

現在の所、問題の神奈川県鎌倉市御成町の発掘遺跡の木札
には、将棋駒の種類は書いてあるが、将棋盤に関する情報
は無いとみられる。二中歴の大将棋で、初っ端に、”また
十三間の将棋があって”と書いてあるのとは対照的である。
 本ブログで、これが中将棋類だとするのは、獅子である
か狛犬か、猛豹の位置と総駒数、盲虎のルールの3項目の
記載とみられるものは、中将棋のゲーム性能を決める、概
ね、主要部分であると見ている点からの、推理にすぎない。
 では、木札に将棋盤の升目情報を書いて、15升目盤、
13升目盤、12升目盤のどれを、将棋の道具を運搬する、
ゲームセンター店側の使用人のウエイター・ウエイトレス
が、ゲームセンターの来客の所に持って行くのかを、木札
で、なぜ指示しなかったのであろうか。
 以上を今回は論題にしよう。
 最初に回答を書く。

木札が将棋盤とセットで使うものであり、客の前に置いた
状態で、将棋盤が中将棋の盤であるか、そうでないかは、
将棋盤自体を見れば、札を運んだ本人にも判るような木札

だったからだと、本ブログでは推定する。
 では、以下に説明を加える。
 今にして思えばだが、もしこの木札が、中将棋大会での
各将棋盤卓に、共通のルールが書いてあるとしたら、

”中将棋大会”とか”本大会規定”とか、木札の最初に、
書いてあるのが普通

だったように私は思う。
 しかし、各将棋盤卓に、個別にゲームバージョンを表示
するために使う、

駒数多数将棋の乱立時代、ならではの物品だった

としたら、中将棋の盤が置いてあれば、ゲーム種類の

大分類が中将棋である事は、ギャラリーにとってさえ自明

だ。逆に言うと、

この木札が作られた時点で恐らく既に、13升目型の平安
大将棋系ゲームは、鎌倉の今小路西御成小学校遺跡ゲーム
センターでは、盤の用意がないほど、廃れていた

と推定される。

12升目盤を読み間違えるとしたら、13升目盤くらい

しか無いからだ。このゲームセンターには、恐らく、将棋
用の将棋盤として、8×8升目、9×9升目、12×12
升目、15×15升目の4種類の将棋盤の用意があったの
だろう。今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターに出入り
する程度のレベルの客にとって、西暦1290年タイプの

13升目の普通唱導集大将棋には、自明定跡があって、ゲー
ム性に問題があり、対局を希望しても、誰にも相手にされ
ない

のは、少なくとも西暦1360~80年頃には、常識だっ
たとみられる。
 12升目盤が、仮に今小路西鎌倉市福祉センター遺跡で
出土した木札(当時は2片)といっしょに置いてあったら、
中将棋という大分類のゲームのうち、”92枚制へ陣弱体
化の改善した狛犬中将棋を、守り方盲虎強化型で指す”と
いうのは、

そこに居合わせた、マニア連中の誰にでも判ったこと

だっただろうという意味である。
 だから逆に言うと、盤升に関する情報が無く、かつ小型
で邪魔にならない大きさであるという事から、

問題の木札が、将棋盤とセットで、将棋場の雰囲気をかも
し出す、どの将棋種が指されているのかを示すアイテム

と見るのが自然であると、河野真知郎氏に知恵をつけても
らったからこそ、私には出来たことだったが、私には、今
ではそう思える。
 この木札は、今では将棋種が、完全に日本将棋の1種類
に固まってしまったので、たとえば20世紀には、全く
類似品に、お目にかかれなかった代物ではあった。が本ブ
ログのように、”大将棋の時代”の存在を強く意識すると
ともに、中将棋は、鎌倉時代末期以降の、ある決まった時
点で始めて発生したと、きちんとイメージしさえすれば、

鎌倉市の遺跡から出る物品が使われた時代は、中将棋の
初期の乱立時代に違いないと判るので、出てきて当たり前

の物と理解する事が、始めて可能になったというわけなの
であった。(2018/02/16)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札割れて出土した訳(長さん)

よみがえる中世(3)武士の都鎌倉「文字のある生活」
(220ページ~221)等の執筆者、
河野真知郎(かわのしんじろう)氏からの直接情報によ
れば、表題の、神奈川県鎌倉市御成町にある、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡より出土の、墨書木札
は、出土時2つに割れていたとの事だった。
 本ブログ独自の解釈だが、

木札は鎌倉時代または南北朝時代に、元々2枚に分かれ
ていたものを、1枚目の下部を少し削って、南北朝時代
の接着剤(襖のノリか?)で、接合したもの

である。だから、

接着剤が劣化して接着力が無くなったので、元の2つの
状態になり、出土してから鎌倉考古学研究所で、現代の
接着剤で再結合した現物が、前世紀には実際に存在した

とみている。
 では、
1)なぜ元々2枚だったのか。
2)南北朝時代等に、(推定)今小路御成小学校遺跡ゲー
ムセンターにて、わざわざ少し削ってから当時の接着剤
で、結合してなぜ1つにしたのか。

以上を、今回の論題とする。
 本ブログの見解回答を先に書き、ついで説明を加える。

1)について。
後半の記載に関して、”斜めへ行くが、十字わゆけぬ”
という旨の記載の木札が、該鎌倉時代末期または、
南北朝時代のゲームセンターに別に有ったため。
2)について。
 盲虎の駒の動かし方ルールが7方歩みに、10年位で
収斂したので、平安大将棋型の後半バージョン木札は、
その時点で不要になり、バラバラだと管理が難しいので、
接合された。その際、保管場所に旨く収まるように、
多少切れていても意味の通る、1枚目の下部が、劣化と、
接合部分を揃える目的で切除された。
 以上と、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 以上の1)と2)の結論は、さしあたり一案であり、

仮に”2枚を合併の原因A”とでも、しておこう

と考える。
 では説明しよう。
 ポイントは、当時の中将棋には、バージョンがいろい
ろあり、1種類づつ作っていたのでは、木札が多種類に
なって、遊戯具運搬係り(以下、ウエイトレスと記す)
が、間違えてしまう状態だったと言う事だと考える。

志ろいぬ、猛将のような猛豹。盲虎は
近くへ行くが、上はゆけぬ。

という木札と、

志ろいぬ、猛将のような猛豹。盲虎は
斜めへ行くが、十字はゆけぬ。

という木札は、ウエイトレス役の人間が、忙しさにかま
けてうっかり前半だけ読んで、

札を間違えて配ってしまうと、後で、将棋の着手の合否
で大きなトラブルになる恐れが有った

とみられる。
 だから、ウエイトレスの注意が、このケースは、

盲虎の動きに関する、後半へも行き届くように、2枚に
分けた

と私は考える。つまり、実際に出土したのは、
(盲虎は)近くへ行くが、上はゆけぬ。の木札であった
が、(盲虎は)斜めへ行くが、十字はゆけぬ。の木札も
別にその時代には有ったのではないかと、疑われるとい
う事である。
 前半はいつも一緒の木札だが後半は、バージョンによっ
て、どちらかを持って行く事に、なっていたに違いない。
 しかし、客から見ると、将棋盤にルール木札がごちゃ
ごちゃと並ぶよりは、1枚にまとまっていた方が、あり
がたかったに違いない。そのため、
10年程度後と見られる一例では西暦1380年頃にな
り、盲虎は現在の中将棋の、七方歩みの盲虎が主流にな
り、猫叉も出現して、斜め動きのバージョンが消えると、

出土物の1枚目の”ぬ”の下部1/3程度と、”ひゃう”
の”ゃ”の1/2程度は、見えないのを承知で切り落と
されて、後半の”斤くへ行く・・”木札片と前半とが
上下に、南北朝時代の接着剤で結合されたと、私は見る

のである。接着のときに、1枚目の下部を削ったのは、

基本的に、保管スペースに無理やり入れるため

であったと見る。理由は、
”志ろいぬ”の”ぬ”が”め”に見えても、ゲーマーは
狛犬だと判るし、”もしひゃう”のゃが、ゅかどうか判
らなくても、”う”が見えなくても、慣れた客なら猛豹
と判るだろうし、文句が来たら、きちんと書き直したの
を手渡し直せばそれで良いと、ゲームセンターの店主が
見たからだと、私は思う。
 そもそも、接合部分が線引きと、カッターナイフで
削ったように真一文字なため、

出土木札が、自然状態できれいに割れるとは考えられな
いという点で、1枚目下部の手直しがないという説は、
かなり不自然

だし、

1枚目の下部に欠損が有るのは”志ろいぬ”のぬの字の
下部の1/3とみられる部分が、接合部分の下の方の木
札片と疑われる物に、墨跡がハミダして無い事から自明

のように、本ブログでは見る。
 最後に書いた事は、もしこの木札の実物が発見されれ
ば、簡単かつ厳密に、当否が判断できるに違いない。

現物が早くみつかってほしい

ものだと思う。(2019/02/15)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札が小型だった理由(長さん)

前に述べたように、よみがえる中世(3)武士の都鎌倉
「文字のある生活」(220ページ~221)の執筆者、
河野真知郎(かわのしんじろう)氏によれば、表題の、
神奈川県鎌倉市御成町にある、福祉センターの地下より
出土した、墨書木札は”百人一首札程度の小物”との事
だった。
 従って、この物品の内容を棋士が一度に複数人で、や
や遠方の”将棋盤”の所から眺め、内容を把握する事は、

出来なかった

と、一応考えられる。つまり、将棋大会規定を書いた木
札では、どうやら無さそうだ。
 では、いったいなぜ、木札の作成者が、一部の人間だ
けが、記載されたルールに従えば良く、

皆に徹底する事を目的にしなかった

としか考えられないような物品を作成したのかを、今回
の論題とする。
 以下、小型の理由の回答例(A)としたいと考える。
すばり

(A)この時代は、将棋盤によって、別のルールの将棋
が、ばらばらに指されていたから

だと、先ずは考えてみる。
 では以下に、そう考えられる根拠や、経緯の説明等を
する。
 そもそもこの問題を考える上で、今の所唯一の史料は、

大日本史料、西暦1221年7月13日の”隠岐に配流
された後鳥羽上皇の所に、将棋士を名乗る僧侶の清寂が
訪れたとの旨”の段

しか、関連するものがない。本ブログでも”今小路殿の
御所”は、京都に有るのではないかと疑っているが、
今小路という、鎌倉の遺跡の発掘現場と、類似の名が出
てくる、将棋の史料はこれだけだ。
 以下も、本ブログの”勝手読み”と言われれば、それ
までだが、以前述べたように、本ブログでは、

清寂が話題にしている将棋の種類は、”今小路の御所”
で指されていたのが、8升目の平安小将棋(初期型)、
後鳥羽上皇の御前で指すのが、旦代の難点を回避するた
めに、駒落しで指す、9升目の平安小将棋(標準型)

と、使い分けていると疑っていたのである。
 これはようするに、

今小路の御所では、将棋指しのマニアが集まる所なので、
形式ではなくてゲーム性の良し悪しが、指される将棋種
の、バージョンを決めていた

という、本ブログ独自の推定に基づいている。
 そこで、この事を更に推し進めると、次のような事が、
遊戯センターとしての、”今小路”では、実際には起こっ
ていたとも考えらる。すなわち、

お客さんの段位(1マチ、2マチ、3マチ・・)を判定
計測する、店が用意した接待用のコンパニオン将棋棋士
は、客の求めに応じて、指す将棋種のバージョンを、
そのつど変えていた。

 ようするに大日本史料、1221年7月13日の条は、
今小路の御所が、現代の日本将棋連盟の将棋会館のよう
に、専門棋士同士で、棋力を切磋琢磨するために、順位
戦をやっているような場所なのではなくて、ゲームセン
ターのゲーム機に、最後に客の綜合スコアを表示して、
お客の、そのゲーム種に対する上達の

自己満足を満たすことを目的としたのと類似の娯楽施設

だったのではないかと、見ているのである。
 もしそうだとすれば、一マチの下というのも、かなり
甘い判定であるのが当然である。清寂の棋力を判定して
そう言ったのは、清寂の求めに応じて、特定の将棋種、
8升目型初期(原始)平安小将棋を指す相手をしたあと、
”過ぎたる手を指した”と、清寂を大いに持ち上げて、
個人の判断だけで評した、今小路西御成小学校遺跡娯楽
遊戯センターの店が予め用意した店側の、コンパニオン
将棋棋士の”先生”の言だったのではないかと、疑われ
るという事である。

つまり、指す将棋種のバージョンは、個別にお客さんが
選べ、店のコンパニオン棋士は、有る程度、どの将棋バー
ジョンでも指せて、どれもそれなりに強い人間だった

という事ではないかと言う事である。
 そして、もしそうであるならば、
客によって、希望の将棋種メニューが違うので、レスト
ランのメニュー表のように、いろいろなルールの将棋が
一覧表で、別途記載された紙の表があって、それが運ば
れ客がそれを見て、指す将棋バージョンを客が選ぶと、

客が指したいルールバージョンの、出土したのと同類の
木札の仲間で合致する物が、将棋具とともに店から運ば
れてきて、将棋盤の上に置かれ、

”これで良いですか”と客に確認してから、コンパニオ
ン棋士対客の、将棋の一局が始まったのではなかろうか。
 つまり、

各将棋盤に関して、将棋盤によって、同時に指している
将棋の種類は、それぞれの客の希望するものであって、
ゲームセンターの店の中でバラバラ

だったのではないか。
 そして後鳥羽上皇を訪問した、鎌倉時代の将棋”道場”
マニアの清寂は、

何度も”今小路”に通っているうちに、コンパニオンの
マネまで出来る、”通”にまでなっていた

のではないか。そう考えると、清寂が大日本史料に残る
彼の発言の中で、

指す将棋のバージョンの話を、コロコロすり替えて面白
く語れる理由

が私には、良く判るような気もするのである。
 以上のように考えると、将棋の指し始めの少し前に、

店が、客によって指定された、指す将棋のゲームバージョ
ンを判別するための木札

が、実際出土した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡の
墨書史料の、当時の使い方だっだと言う事にな。そうだと
すれば、論題の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札は、
それが、あまり邪魔にならない程度の小型のものであっ
た事が、有る程度説明できるのではないか。
 以上のように、ここではA案として、出土品の姿が小
さい事を、一応説明してみた。

現物がもし有ったら、何か別の情報も有った

のかもしれない。現物が紛失して無いのが、返す返すも
悔やまれるところだ。(2019/02/14)

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