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15升目後期大将棋の作成時、増分に小駒の飛龍を当てたのは何故(長さん)

本ブログでは、西暦1350年頃までの、普通唱導集大将棋では、
13升目制であり、歩兵下の第3段目は、
飛車、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、
堅行、横行、飛車の13駒であったと考えている。これらは全て
走り駒である。ところが後期大将棋では、13升目から15升目へ、
升目数が小将棋(9升)と中将棋(12升)からの等差数列の外挿
で、2升目増えたが、増えた列の前段に、走り駒、たとえば横龍を
入れるなどして増やすことはなしに、2升目跳駒類である、比較的
弱い、飛龍を挿入して、並びを増やしたと考えている。すなわち、
15升目制の後期大将棋の歩兵下の第4段目は、次のようになった
のである。

飛車、飛龍、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、
角行、堅行、横行、飛龍、飛車で15升目。

今回の論題は、2升目増やすときに、敢えて適宜、新しい走り駒を
考えずに、何故飛龍で済ましたのかを、ゲーム性能の観点から考察
する事を論題とする。すなわち、たとえば後期大将棋の4段目が、
飛車、横龍、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、
角行、堅行、横行、横龍、飛車で15升目にならなかった結果、
以下のような初期配列には、ならなかった理由を、考える事という
事である。

口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行横龍飛車
口口飛龍口口嗔猪口口猛牛麒麟獅子鳳凰猛牛口口嗔猪口口飛龍口口
反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

なお、後期大将棋は、結局以下のような初期配列になり、酔象が太
子に、麒麟が獅子に、鳳凰が奔王に成るだけの将棋だと言われる。

口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛龍飛車
口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟獅子鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛口口
反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

なお、元になった普通唱導集大将棋は、本ブログでは以下のような、
108枚制の将棋と仮定されている。

口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車
香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

並びは、麒麟や鳳凰の横に居た猛牛が、端から2列目へ移動しない
ので、後期大将棋よりも、横龍の有る仮想の大将棋に、やや近い事
が、良く見てもらえれば判ると思う。
 では、以下に結論を書く。

猛牛の動きとして、”新型踊り”が発明できたので、飛龍を2列目
に持ってくれば済むことに、後期大将棋のデザイナーは気がついた
から

だと考えられる。なお、ここで”新型の踊り”とは、歩みを2回繰
り返す動きに加えて、自分の駒を飛び越す事もできるという、

大阪電気通信大学高見友幸氏の”踊り”の定義が本当に正しかった

という事を、意味していると言う事である。それに対して”旧式の
踊り”とは、歩みが2回繰り返されるだけなので、自駒は飛び越せ
無いし、相手の越える駒は、必ず捕獲しなければならない、踊りの
事である。
 では、以下に以上の結論につき、説明を加える。
 普通唱導集の13升目型の大将棋から、飛龍が、端から2列目で
四段目に居る、後期大将棋に移行すると問題になるのは、

2列目の4段目を飛龍にすると、飛龍が走るでも跳びでもとちらで
も、斜め動きになるため、頭の歩兵が離れ駒になる事

である。そのため、この列は飛龍ではなくて、前と横に走り、後ろ
に一歩後退できる、横龍の方が、デザインが実は簡単なのである。
所が、横龍という駒を考え出すのも面倒な上に、後期大将棋への、
やや将棋が大きくなる変化とは反対に、同じく普通唱導集大将棋を
起点にして、1升目小さく変化する

中将棋の方が後期大将棋よりも先に発生し、酔象が7方向動きに変
化するという事が先に起こった

と、本ブログでは考える。その結果、酔象との対で猛牛の動きを、
決めなければならない”縛り”が消失し、猛牛の動きは、シャンチー
象の塞象眼をもつ走り型から、跳び越え型にしても良くなったと考
えられる。
 なお、中将棋は言うまでも無く、次の配列である。

口口口口口口仲人口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
横行堅行飛車龍馬龍王獅子奔王龍王龍馬飛車堅行横行
反車口口角行口口盲虎麒麟鳳凰盲虎口口角行口口反車
香車猛豹銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将猛豹香車

また、中将棋の発生と同時に、麒麟が跳び駒となり、猛牛は後に、
水無瀬兼成が将棋纂図部類抄が示唆しているように、鳳凰と飛龍と
の関係と同じ論理で、言わば”麒麟飛越不如猛牛”に、できればす
る必要が発生した。
 この室町時代早期に起こった、ゲームルール上の変化から、大阪
電気通信大学高見友幸氏の言う、猛牛と飛龍の大阪電気通信大学式
”踊り”の動きが発生したと、本ブログでは見ている。その結果、

後期大将棋で端から2列目に、新型踊りでは対駒になった、飛龍と
猛牛を、それぞれ4段目と3段目に並べると、猛牛が、大阪電気通
信大学方式の踊り駒になったため、飛龍の前の歩兵に、繋ぎ駒が
出来るようになった

事になる。そのため、元々平安時代の大将棋系では、飛龍は2列目
であったため、その配列が生かされて、かつ新たな対駒の新猛牛が
普通唱導集大将棋の2段目4列目から3段目6列目へは行かずに、
3段目2列目に移動し、後期大将棋になった

と、本ブログでは見る。つまり、

大阪電気通信大学高見友幸氏の言う、踊りのルールが、少なくとも
後期大将棋の成立時には発明され成立したために、猛牛を後方すぐ
の升目に配列した飛龍列を、端第2列目に作る事が、可能になった

と、本ブログでは見るという事である。
 後期大将棋でも同類と、ここでは見る摩訶大大将棋でも、いきな
り只取られる歩兵が存在するという陣の傷は、初期配列を決めると
きには、なるべく排除されたとみられる。それが、後期大将棋では、
猛牛の駒の動かし方ルールの変化であり、摩訶大大将棋では、堅行
の袖側の隣升目に、本来の横行ではなくて、新たに作成した横飛を
置いている理由のように、私には思えるのである。(2018/08/16)

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摩訶大大将棋の王子。熊野信仰関連の王子とすれば何時の成立か(長さん)

大阪電気通信大学の高見友幸氏によれば、「古典的文献を検索する
限り、王子が先であり、その後に太子という熟語に、置き換わって
いるように見える」という。摩訶大大将棋または、彼の論文中の、
摩訶大将棋が、古い時代の成立であるとの根拠の一つとされている。
 しかしながら、いわゆる南紀の熊野信仰関連で、王子という熟語
が著名であるのも事実だと、本ブログでは、以前から主張している。
本ブログでは、熊野信仰の王子が、摩訶大大将棋の王子の起源だと
すれば、成立は中世であり、高見氏の論よりかなり遅くても、矛盾
は無いのではと、過去何回か表明してきた。しかしその際には、定
性的な議論に留まり、特に摩訶大大将棋の王子が熊野信仰なら、時
代は何時が最適値なのかについて等、定量的な結果を表明してこな
かった。そこで、今回はその点を論題とする。
 最初に結論を書くと、熊野信仰の王子なら、成立はたとえば平安
時代後期ではなくて、

南北朝時代から室町時代前期頃になるのではないか

と、本ブログでは考える。
 では、以下にその根拠の説明をしたい。
 そもそも以下の論は、王子は熊野信仰から来るという論を、前提
とする。従って、中国古代王朝の時代から、帝の息子を王子等と、
時代によっては呼称していたのであるから、

王子という駒は、作ろうと思えば11世紀初めから作れるのは確か

だと、本ブログでも考える。
 息子の意味ではなくて、熊野信仰の童子や、若一王子タイプの
王子だけを、ここでは問題にするのである。理由は、

摩訶大大将棋には、自在王、教王、法性という、仏教型の成り駒に
なる駒が、王子に成る、酔象に隣接しているという点である。

ただし、理由はとりあえずそれだけである。
つまり、単なる跡取りとか息子ではなくて、熊野信仰関連の童子や、
若一王子を連想させるような、王子という熟語を使う動機が、以上
の点で、比較的明解に有るように見えるというのが、熊野信仰関連
の王子に、摩訶大大将棋の王子の起源を、限定させる根拠である。
 そこで、摩訶大大将棋の王子が、熊野信仰の王子だとして、信仰
が最も盛んな時期でかつ、王子という熟語が、最も使われた時期を
オーバーラップさせると、2種の時期の相乗曲線のピークは、

南北朝時代から、室町時代前期頃になるのではないか

と、ここでは考えるのである。
 というのも、まずは、熊野信仰が最も盛んな時期は、室町時代後
期から戦国時代早期である。
 たとえば、岩波新書の小山靖憲著書の”熊野古道”(2000)
年に、熊野那智大社檀那売券の数が載っている。それによると、
西暦1300年~1349年は 11枚
西暦1350年~1399年は 25枚
西暦1400年~1449年は138枚
西暦1450年~1499年は385枚
西暦1500年~1549年は121枚
西暦1550年~1599年は 11枚
となっていて

信仰のピークは、室町時代の後期から戦国時代の早期にかけて・・1

になっている。
 ただし、王子という熟語は、室町時代には衰退する。つまり、
熊野信仰関連で、王子という熟語は、ほぼ以下の3通りの意味に
使われ、使用時期は、以下のようになっている。
九十九王子という意味での王子:平安時代院政期をピークとして、
鎌倉時代末期まで。
五所王子とか、若一王子という意味での王子:熊野信仰と同じく、
ピークは室町時代後期ないし戦国時代早期。
五体王子という前記2者の中間的な熟語の王子:西暦1400年頃
までは、盛んに使用されたとみられる。
 3者を足し合わせると、

熊野信仰の王子自体の言葉のピークは、鎌倉時代の中ごろ・・・・2

であり、熊野信仰自体が民間規模で盛んな頃には”大社の五所王子”
系の意味でしか、王子の単語は有力に使用されなかったと見られる。
 そこで、上記の1と2を改めて掛け合わせると、

合成ピークは恐らく、南北朝時代から室町時代前期頃になる

のではないかと、上に複数回主張したようになる。
九十九王子は、京都の朝廷や貴族しか、結局盛んには使わなかった
が、蟻のように、誰でも参るような熊野信仰の時代の方が、

五所王子の王子が有名だったので、王子という熟語は、熊野詣でに
限って言えば、南北朝時代から室町時代前期が、社会全体での頻出
語のピーク

だったのではないかと、私には思えると言う事である。
 なお、本ブログで前に例示した、東京都北区の中世武家の豊島氏
が勧進した北区王子の”王子”は、天照大神が神様の方の姿である、
若一王子の王子であり、熟語としては五所王子の類であると、本
ブログでは分類する。
 以上で論題には答えたと考えるが、最後に話題を少しずらし、
普通唱導集の時代の大将棋と、熊野信仰との関係について述べる。
 上で名前の出てきた、熊野三山うちの熊野那智大社では、熊野
十三社権現仏という御神体を祭っている。実は

これと、法事の十三仏信仰とは、関係がない

が定説のようだ。鎌倉時代には既に、熊野那智大社の熊野十三社権
現仏は成立しているのだが、普通唱導集で良季が、十仏信仰を推薦
しており、3つ仏数が足りない事が、仏教史では有名だからのよう
である。前から私は、良季がそれでも、13升目の大将棋を推薦し
て、唱導集を書いていると、ここでは仮定せざるを得ない点を見て、

普通唱導集時代の大将棋が、13升目であると仮定するいう点では
否定的な事実

だと懸念していた。しかし最近、熊野那智大社が熊野十三社権を、
当然だが、平安時代の院政時代から広報していると知り、南北朝時
代には、法事は十三仏信仰ではなくて、十仏だったという事実につ
いては、大きな懸念だとは見なさなくなった。なぜなら、

普通唱導集作者良季も宗派は別でも熊野三山信仰は当然知っていた

と、考えられるからである。”熊野信仰の神体の数等の関係で、
十三は将棋とは親和性が良い数値である”と主張されれば、

同じ僧侶の類の良季も、鎌倉時代にはそれを認めざるを得なかった

に違いない。なお十三仏を象った鏡が、熊野那智大社に残っている
らしい。13という仏の数は、いっけん半端だが、鎌倉時代のもの
という、その鏡の

丸い盤の上に置くには、都合が良い

という事だ。
 というのも、仏像の図は縦長なので、3行3列に9柱並べておい
て、横に2段で4柱並べると、丸い鏡の盤に、ちょうど尤もらしく
収まるらしいからである。

十三社権現.gif

 鎌倉時代の大将棋の時代から、熊野信仰の仏の図像は、仏の数が、
将棋の盤の升目数13と親和性が良く、何やら関連有りげだという、
認識が広まっていたのかもしれない。そのために、その中に含まれ
る、五所王子や若一王子の王子が、しばらくして、南北朝時代から
室町時代前期にかけて、摩訶大大将棋に、太子と交換して、取り入
れられたのかもしれないと、私は考えている。(2018/08/15)

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静岡県焼津小川城中将棋駒。飛口-竜王駒の”飛”は草書体(長さん)

以前、静岡県焼津市小川城出土の中将棋駒、”裏飛口竜王駒”
を取り上げた際、鷹狩りとの関連で、飛鷲が有ったのかどうか不
明との論を展開した事があった。なお、焼津小川城からは、裏飛
鹿盲虎駒も出土している。そのときは、天童市将棋資料館発行の、
”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の写真で議論した。写真の
文字がたいへん不鮮明で、表題の駒の飛口は、極めて注意深く
観察すると、1文字目がかろうじて、”飛”に見えるという程度
だった。
 その後、この駒のより鮮明な写真が載っている成書を、偶然
私は見かけた。次の書籍である。

永原慶二・海野福寿編。図説日本の歴史22「図説静岡県の歴史」
河出書房新社 1987年。

この本に載っている、いわゆる焼津駒の写真の写りは”天童の将
棋駒と全国遺跡出土駒”の焼津駒より、格段に良いようである。
その結果、表題のように、

飛口-竜王駒の、飛□側の最初の一文字目の”飛”は草書体

である事が、私にもはっきりと判った。

よってこの駒は、中将棋の裏竜王飛車駒の可能性は無くなった。

ただし、残念ながら裏飛口の口の字は、「図説静岡県の歴史」
の、より鮮明に取れている写真をもってしても、少なくとも私に
は鷲の草書体なのかどうか、良く判らない。ただし、

”龍”であるとの説が流布しているがそう読める可能性は少ない

ように思える。むろん”鷲”ならドンピシャなのだが。なお、この
字を鷲だと見る研究者も居る。鷲の右上が、草書体では楷書よ
りも少し、大きく変化する傾向があり、良く見ると、この成書の写
真では、そんな感じの鷲の崩し字のようにも、私にも見えることは
見えている。いずれにしても、間違いなく、もともと崩しているはず
であり、かすれると判読が難しい事は確かなようだ。以上の事から、
このケースは結果を、私にとって都合が悪いように、厳しく取る事
にし、

飛鷲は、少なくとも西暦1500年頃には、有った可能性が高い

という認識で、今後は論を展開する事に、私はした。何れにして
も写真写りの良かった、やや古い前世紀の成書が残っていて、た
いへん幸運だったと言える。(2018/08/14)

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江戸時代の棋書。当世武野俗談に”将碁”が使われた理由(長さん)

本ブログによれば、将棋を将碁と書くのは、平安時代中期から鎌倉
時代初期にかけての、藤原氏に特徴的なローカル言語で、8升目型
伝来原始平安小将棋の、玉将が立体駒のネフライト石製、金将が立
体駒の金塊、銀将が立体駒の銀の塊等であった記憶に基づくものだ
との事であった。
 ところが、時代ははるかに下って、江戸時代に1例だけ、中将棋
の将棋を、”将碁”と書いた例が、表題のように、馬場文耕の書、
当世武野俗談にあるという。この情報は、前に何回か紹介した、
大阪商業大学アミューズメント研究所が2014年に発行した、
松岡信行氏の”解明:将棋伝来の「謎」”に載っている。なお、
この点に関する、松岡氏の明解なコメントは特に無い。成書では
”ノイズ”の扱いに近いと認識する。
 なお、当世武野俗談は、本ブログでも前に紹介したが、七国将棋
の日本での状況についての文書として有名で、古事類苑に七国将棋
についての文面が載っている。ただし、そこには七国将棋の棋は、
普通に”棊”になっていて、碁にはなって居無い。ただ、古事類苑
は、必ずしも原書の字が正確には書かれないので、七国将棋の将棋
が”将碁”になって居無いという、保証が無いのだが。何れにして
も、馬場文耕が、原始平安小将棋の玉将が、立体駒のネフライトで
あるという事を、知っていたとは思えないため、この例外的な”碁”
の使用には、有る程度の別の説明が、必要になると見られる。
 そこで今回の論題は、この

当世武野俗談の中将棋の将棋が、”将碁”になっている理由

とする。
 そこで、いつものように最初に回答から書く。

囲碁型で碁石状の駒を使う、将棋類のゲームについて興味を持って
いると見られる著者の将棋書には、同時に出現する日本の将棋類の
ゲームの呼称に”将碁”が使われる可能性がある

からだと、本ブログでは考える。
 特に当世武野俗談の馬場文耕は囲碁盤を使用し、1文字書きかつ、
彩色するとは言え、材質は石だとみられる駒を含む、七国将棋につ
いて別の場所にて説明議論をしているため、”将碁”という文字を
を使う可能性のあったケースだったと、ここではみる。

つまり、七国将棋も中将棋も、少なくとも文書の下書き段階では、
馬場文耕は”将碁”と書いていた可能性が高い

という事である。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも将棋を将碁と書いたのは、馬場文耕以外では以下の4名
しか知られて居無い。
台記の藤原頼長、明月記の藤原定家、新猿楽記の藤原明衡、麒麟抄
の藤原行成の偽者、以上4名。
 このうち、藤原頼長、藤原定家は、将碁を大将棋の意味で使用し
ているというのが、本ブログの見解だ。ただし、新猿楽記の成立を
遅めに見ても、藤原明衡の時代に、大将棋が成立していたかどうか、
微妙である。だから、大将棋の将棋にだけ藤原氏が、将碁を使うと
は言えない。やはり、ネフライト製立体駒玉将の記憶が有ったと見
た方が、碁の字を使う動機としては自然だと見る。なお、藤原行成
の南北朝時代の偽者には、藤原行成には碁の字を使うという、確信
が有ったと見られる。ので、日本に伝来した将棋が、立体駒であっ
たことが、南北朝時代頃までは、記憶されていたと、ここでは見る。

何れにしても、囲碁と同じような形の盤を使うゲームで駒は石だが、
何とか将という名前が、駒名に付いているという意味で将碁と書く

と、少なくとも本ブログでは見ているのである。
 さて、以上の論を正しいと仮定して出発すると、馬場文耕が、
将碁という言葉を使うには、やはり、

囲碁の石の駒に近い駒を使う、将棋類のゲームを議論するカテゴリー
の話を含む文章の中で、将棋という字を書く場合に、将碁と書いて
いる

と見るしか無いように思える。
 ようするに、七国将棋の駒の材質が石駒だったと言う事が、
馬場文耕の当世武野俗談の将棋話の中では、どの字を使うかに関して
決定要因だったのではないかという事である。
つまり、馬場文耕の

当世武野俗談に七国将棋の話が入っているので、将棋は将碁になった

と言う意味である。そして、やはり

駒が石だったというのが、決定要因だった

と見る。この点に関しては最初、逆に私は盤から攻めて見たが、うま
く行かなかった。
 平安大将棋盤と、ここで言う普通唱導集大将棋の盤と、中将棋の盤
は、13升、13升、12升であるため、2/3の細かいメッシュの
升目になおして18升目の、囲碁盤の線の引き方を変えれば、ほぼ同
じ板で盤ができるため、囲碁に近いので、大将棋や中将棋では将碁が
使われやすいのかという要素も考えた。が、例えば実隆公記で将碁が
使われても居無いし、新猿楽記の将棋は大将棋と言うのも難しいので、
盤の性質の共通性から、理由付けを考えてもだめだという結論に、落
ち着いたのである。
 逆に言うと平安時代から、鎌倉時代の前期にかけては、将棋の盤の
出来に、上流階級の間でも、さほど大きなこだわりは、なかったのか
もしれない。
 つまり少なくとも将棋は囲碁と違い、貴族の間でも、何か切り株の
ような、丸い材木のカケラに、線を適宜引いて、適当な盤で大将棋や、
中将棋が気軽に行われるということも、あるいはあったと言う事なの
かもしれないと私は思う。木の切り株は、現代人の我々の身の回りと
は異なり、彼らの家の周りにも、幾らも当時は有ったのだろう。少な
くとも中世には、九州の少弐氏のような武家の方が、値打ち物の将棋
盤を持っているというイメージだったのかもしれない。(2018/08/13)

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水無瀬兼成将棋纂図部類抄行然借部。摩訶大大将棋口伝と逆順の訳(長さん)

以前何回か述べたが、水無瀬兼成の安土桃山時代の将棋図である
将棋纂図部類抄には、六将棋の初期配列図と成り図の他に、摩訶
大大将棋に関して、水無瀬が曼殊院の僧から聞き取ったとみられる
”摩訶大大将棋口伝”と称する、摩訶大大将棋のルールに関する
注釈と、”行然和尚から借りて写した”と水無瀬が、将棋纂図部類
抄の中で表明して載せている、摩訶大大将棋の特殊駒のルール等を、
罫線付きの、コラム書き形式で、まとめた表が存在する。ここでは
以下、前者を”摩訶大大将棋口伝部”後者を、”行然和尚まとめ部”
と、仮に表する事にする。そして、本ブログで既に何回か指摘して
いるが、

”摩訶大大将棋口伝部”と”行然和尚まとめ部”とは情報内容が
実質一緒

である。つまり、水無瀬兼成が口頭で聞いて写した話を、”文書で
報告しないのは、豊臣秀次等に対して失礼”と見た曼殊院が、文書
で自分達で同一内容を書きなおして、水無瀬に渡したという経緯と
みられる。

水無瀬兼成は、同じ内容なのだが、将棋纂図部類抄には、どちらも
載せている

という事だと、本ブログでは見る。
 ところで、情報量は”摩訶大大将棋口伝部”と”行然和尚まとめ
部”とは、いっしょなのだが、表題に書いたとおり、

項目の書き順が、完全に間逆

なのである。つまり、”摩訶大大将棋口伝部”には、
玉将の説明、酔象の説明、無明の説明、提婆の説明、狛犬の説明、
驢馬の説明、金剛・力士の説明、鉤行の説明、摩羯の説明、という
順序なのだが、
”行然和尚まとめ部”では、これがきれいな間逆となっていて、
鉤行の説明と摩羯の説明を2段で説明、驢馬の説明と金剛・力士の
説明を3行の文で説明、狛犬の説明、提婆の説明、無明の説明、
酔象の説明、玉将の説明、となっているのである。無明と提婆まで
ま逆なのは、”みごと”と感じられる。
 そしてその後に、行然和尚まとめ部では、付け足しが有り、
泰将棋の説明、中将棋の説明、日本将棋の説明となっている。行然
自身は、泰将棋説明は後期大将棋の説明のつもりで、書いていたと
見られる。駒の枚数を、後で水無瀬兼成が改竄したのである。
 今回の論題は、以上のように、”摩訶大大将棋口伝部”と”行然
和尚まとめ部”とで、

項目の並べ方については、以上のように、完全にひっくり返されて
いる、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の、その点の理由についてを論題

とし、更にそこから何が言えるのかを、本ブログなりに推定する。
 回答を先に書く。

行然和尚自体は、”行然和尚まとめ部”とは、完全に逆になった
文書を、水無瀬兼成に渡していると、本ブログは推定する。
水無瀬兼成が、著作権法の同一性保護を無視して、完全に項目の
順番をひっくり返して、将棋纂図部類抄に転載している

と、私は推定する。
 では、以上について以下、説明を加える。
 こう推定できる理由は、将棋纂図部類抄の

行然和尚まとめ部の項目を全部反対に直すと、曼殊院将棋図の完全
な由緒説明文になると、私は見る

からである。ちなみに、逆にして、更に泰将棋を後期大将棋に戻す
と、以下の項目順になる。

日本将棋、中将棋、後期大将棋、(ここで”摩訶大将棋”という、
大きな項目名を追加すると、以下)玉将の説明、酔象の説明、無明
の説明、提婆の説明、狛犬の説明、驢馬の説明と金剛・力士の説明
を3行の文で説明、鉤行の説明と摩羯の説明を2段で説明。

 以上のように、これは行然氏が水無瀬兼成に渡した文書が、本来、
曼殊院将棋図の由緒説明だったと見ると、ぴたりとつじつまが合う、
項目順になる。摩訶大大将棋口伝では、そのうちの、摩訶大大将棋
部分を、口頭で、行然和尚が水無瀬兼成に伝えて、水無瀬が内容を
書き取ったものであると見ると、話がきちんと合うのである。
 では、なぜ将棋纂図部類抄で、わざわざ行然和尚が作ってくれた、
”曼殊院将棋図の解説書”を、水無瀬兼成が、項目を逆転させて、
将棋纂図部類抄に載せているのかだが、

これは、泰将棋の補足説明のように、ぱっと見には見えるように
誤魔化すため

と考えれば、前後の関係から説明が付く。
 摩訶大大将棋の駒種と、泰将棋の駒種は、王子等を除けば似てい
るので、摩訶大大将棋の、ユニークな駒種の動かし方ルール補足は、
泰将棋の駒種の動かし方ルール補足に、ほぼ転用できると、水無瀬
兼成はみたのであろう。そして、それに続く後期大将棋の説明部分
を、泰将棋にすり替えて、泰将棋の説明のようにしてしまったので
あった。しかしこの、渡された文書の内容の改竄については、
水無瀬もさすがに気がとがめたか、

水無瀬兼成は、行然の原文の項目順番を、もっと複雑に変える事は
せずに、完全逆順の改竄程度で止めた

ようだ。
 そして、この事からは、当然だがようするに、

泰将棋は曼殊院の将棋図には、もともと書いていなかった

と、明確に推定できると、私は考える。
 なお、行然まとめ部の逆天原文は、ボロボロの同一文書等が、恐ら
く曼殊院に有ったのだろうと私は見る。ただし、出だしの日本将棋の、
後ろ三行は、”当世”という書き方が、古文書としていかにも不自然
なので、だらだらと長い事もあり、ひょっとすると行然の作文なのか
もしれない。この”三行作文”は、”日本将棋の優秀性を強調”して
いるように私には読める。大阪城内には、豊臣秀次とは違って”将棋
は、日本将棋が一番”と信じている、秀次よりも更に怖いお偉方(豊
臣秀吉か?)がいて、それに逆らわないようにしようという、行然の
配慮だったのかもしれないと、私には察せられる。(2018/08/12)

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2017年から埼玉県児玉郡美里町は猪俣百八燈で花火大会中止(長さん)

遅ればせながら、さいきんwebで知ったのだが、毎年8月15日に
行われ、本ブログで、

解明が極めて難航中の、普通唱導集時代の将棋に関連の疑いがあり

としている、将棋史にとっては、極めて重要な、636年程度続いて
いると、ここでは見ている民間行事、

猪俣百八燈の花火大会が、650年近くに来て、やや危機的

になっているらしい。災害の発生が直接的原因だったと、記憶するが、

2017年の埼玉県児玉郡美里町猪俣の8月15日の花火大会は、行
われなかった

ようだ。今年は、その翌年になるが、6月の時点で、美里町観光協会
のwebページで、中止が発表されていた。
 猪俣百八燈自体の伝統行事が、650年を目の前に消えたとなると、
一大事だが、以下の匿名の書き込みがweb上に、か細く残されてい
る。

投稿者「ミムリン」さん。投稿日2018-07-31
”美里夏祭り花火大会は中止ですが、猪俣の百八燈の行事は開催され
ます。 花火大会ではないけれど奉納花火の打上げがあります。”

関係者からの投稿なようなので、多分信憑性がある話だとみられる。
 ただし、

美里町役場が、”なぜ行っているのか、役人である我々には、わけが
わからない行事だ”

との”心”で、撤退しようとしているのが見えているのも確かだろう。
2017年と2018年とは年が違うから、”事情について”のカテ
ゴリー記載が、本来なら再度必要なはずだが。特にWEB上に、美里
町の見解は見当たらない。
 なお、美里町には、この行事の縁起というべき”事情が”が、判ら
ないはずだと、本ブログで推定する根拠は次の通りである。

埼玉県児玉郡美里町が発行した”美里町史”で、西暦1380~2年
の小山義政の乱や、西暦1386~97年の小山若犬丸の乱、小田氏
の乱等の項目が、すっぽり抜けている。なお美里町史の記載では、
観応の擾乱(”サッタ山体制”)の後に、美里町広木の大興寺の再興
の話等が挿入され、その直ぐ後が上杉禅秀の乱になっている

のである。
 峰岸純夫氏等複数の研究者が、南朝方について没落した、武蔵武士
の児玉党や猪俣党は、小山義政の乱の前後に、上杉憲方や足利氏満が
働きかけて、公方方に取り込まれながら、後期の白旗一揆に再編され、
小山氏の乱の、鎮圧等にかり出されていたとの旨の論文を、かなり前
に出しているのだが。

美里町の町史を編集した時に、編集者が、それらの論文を読み飛ばし
たらしく、埼玉県児玉郡美里町広木の大興(光)寺の再興の項目だけ
の、関連事象とみられる史実の記載だけで済ましている

のである。その結果、その教育を受けた美里町の町役場の役所職員は、

埼玉県民なら、栃木県小山市からかなり遠い、一例として埼玉県春日
部市の市史等にも書いてある、栃木県の小山義政、小山若犬丸の乱に
つき、全く教育されない

という事態に至ったものと、推定されるというわけだ。
 なお、美里町史には、”足利氏満が鎌倉公方だった時代には、比較
的平穏だった”との旨記載されているのだが、隣の本庄市の市史には、
”鎌倉公方が足利氏満の時代には、世情が安定しておらず、関東では
戦乱が多かった”との旨、美里町史とは、正反対の内容が書かれてい
る。私見だが、ずばり

この点については、正しいのは埼玉県本庄市の市史であって、埼玉県
児玉郡美里町の町史の記載では、無い

と私は考える。
 小山義政の乱では、当然、栃木県小山市に居住した武家に、最も
戦死者が多かったのは確かなのだろうが。その次に多い戦死者は、

戦勝者の軍人であった、美里町の猪俣党とか本庄市の児玉党の武士

だったはずだ。たいへんな戦いだったようで戦死者多数であったため、

数百年経っても、お盆に古風な弔いの仏事が行われているほどのもの

だったのだろう。他人とはいえ、同じ地で暮らした先達の弔いなの
であるから、本来ならば、町役場が支援を続けて当然と、私は見る
のだが。

たまたま、町の歴史書を編纂するときの、前記の運の悪いミスが原因

で、猪俣百八燈から、美里町役所が腰を引きつつある事だけは、残念
ながら現状、確かな事らしい。(2018/08/11)

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水無瀬兼成将棋馬日記2ページ。大大将棋と摩訶大大将棋順番の謎(長さん)

本ブログでは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の内容を、いままで頻繁に
問題にしてきた。所で水無瀬兼成が残した文献には、その他、作成した
将棋具の発注記録とされる、”将棋馬日記”という文書がある。
西暦1590年から西暦1602年の水無瀬兼成筆の古文書である。
 発注者の中に徳川家康、豊臣秀頼等の最高権力者の武家が含まれる事
で、将棋馬日記は著名だ。がここでは、大将棋に関連する問題に絞り、
話題とする。すなわち表題の、第2ページの、大将棋系将棋種の、必要
駒総枚数等を記した部分の内容について問題にする。なおこの部分は、
駒字を書く手間賃の計算かあるいは、原材料である、駒木地発注用の
メモとみられるが、正確には何の用途で書いたのかが、少なくとも私に
は良く判らない記載である。なお書いた動機については、水無瀬兼成に
とり、駒数多数将棋の唯一の買い手として、大阪城から将棋具の注文が
来るのが、彼にとっては嬉しかったためと明解に取れる。
 さて、ここには具体的にはこう書いてある。

大将棋354枚 大大将棋192枚 摩訶大大将棋192枚 大将棋
130枚 以上868枚。

なお、354+192+192+130は、確かに=868である。
なお、将棋の棋は、”棊”だが、残りは上記の書体である。大将棋には
両方”大”であって、”太”は使って居無い。行然和尚の文書の改ざん
も、名称が同じを知っていて、わざと水無瀬は行ったのだろう。”別の
ものに同じ名前を付ける不自然さ”に関する、安土桃山時代の将棋史学
会等からの非難等は、時の最高権力者、豊臣秀次の権威が有れば、容易
に封じ込められると見ていた、この文書は証拠の一つと、私は考える。
実際には、水無瀬兼成等は業務用の言葉として、後期大将棋は130枚
の大将棋、泰将棋は354枚の大将棋と、裏では呼び分けていたのかも
しれない。正しく”130”という数値を書いたとみられる、行然和尚
には、気の毒な話である。
 そこで今述べた、これから述べようとしているのとは別の”大将棋の
だぶったネーミングの謎”については、以上で解決済みと、一応みなす
事にしたい。
 つまりここで問題にするのは、今述べた”大将棋のだぶったネーミン
グの謎”ではなくて、別の不自然さ、すなわち

摩訶大大将棋と大大将棋の順番が逆という問題

である。なぜ泰将棋、摩訶大大将棋、大大将棋、後期大将棋の順番で、
水無瀬は、大将棋系将棋駒の総数を計算するときに足して、い無いのだ
ろうかと言う事である。なお、私が今述べた順番は、言うまでも無く、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の順番の逆順であり、盤升目が多いものか
ら、少ないものへ、規則正しく並べたものである。
 よって今回は、この水無瀬が、豊臣秀頼(少年)を注文人とする、
大将棋系の駒セットを作成するときの、駒字を書く手間賃の計算か、
原材料駒木地総数を計算するため等とみられる、将棋駒日記(西暦15
90~1602年)第2ページに書かれた、駒総数の計算方法メモの、
計算方法についての不自然さ

つまり、”なぜ摩訶大大将棋と大大将棋の順番が逆なのか”とする。

 そこで、さっそく答えから書く。水無瀬兼成は、この記載によって

大大将棋の方が摩訶大大将棋よりも後、泰将棋を水無瀬が作る少し前に
出来た将棋である事を、うっかり自白している

と、本ブログでは見る。
 では以下に、上記の結論に至る根拠を述べる。
 将棋馬日記は、水無瀬兼成にとって、業務用の記録書であるから、将
棋駒作りの合間に書くものであり、自分が後で見るために書いたと見ら
れる。よって、業務で通常使う、ミスの出にくい効率の良い言葉を使っ
たのであろう。そして元々水無瀬兼成は心の中で、曼殊院に百年の桁の
昔から記録のあったと見られる、後期大将棋と摩訶大(大)将棋とは別
に、泰将棋を作るために、水無瀬グループでプレ製作された大大将棋と、
その結果完成された泰将棋で、大阪城御用達多枚数将棋はワンセットと、
概念的に、判りやすく把握していたものと考えられる。だから水無瀬は、
その心の中の彼の”駒数多数将棋の世界”を、その通りにメモに書いて、
実際に駒木地を868枚単位で、駒字を書く手間賃の計算のときか、
将棋駒の木地師へ発注するときに、計算を間違えないような書き方をし
たのであろう。
 その結果、対外的に発表するときの順番と、摩訶大大将棋と大大将棋
が入れ替わったのではないか。つまり対外的に、将棋纂図部類抄等では、
大大将棋を発展させて、摩訶大大将棋が作られたかのように書いて、大
大将棋が、それほど古くないのを誤魔化していたのだが。将棋馬日記で
は、計算間違いによる、自分自身のミスのトラブルを避けるため、水無
瀬が関連性の高い物同士と、本当は心の中では見ている順番で、

うっかり、正直に書いている

のではないかと、私には思えるのである。
 つまり、大大将棋は、泰将棋よりも、たとえ成立が少し前だったとし
ても、それは豊臣秀次の依頼で、水無瀬が泰将棋(延年大将棋)を作成
するための、足がかりに作った将棋種に実は過ぎなかったのではないか。
 なお、私は最近、大阪府の島本町教育委員会の久保直子氏が、該当部
分を執筆した成書、”戦国大名の遺宝”山川出版(2015)監修:
五味文彦を読み直して、やっと気がついたのだが、

”将棋纂図部類抄の奥書き”で、水無瀬兼成は、”大大将棋と泰将棋を
記すのに、関白である豊臣秀次の尽力が有った”事を感謝している

という事実がある。つまり、摩訶大大将棋が飛んでいるのである。
ようするに、この書き方は、

摩訶大大将棋は、曼殊院の将棋図に最初から、しっかり載っていたので、
関白豊臣秀次が将棋ゲームデザインを、実は当の水無瀬や、そのグルー
プへ、プッシュする必要が無かったものである

という事の、”物は言いよう”のようにも思えるという事である。摩訶
大大将棋は、形から見てもやはり、室町時代の初期から有ったと、本ブ
ログでは、それでも遅く推定している後期大将棋と関連性が高いもので、

水無瀬兼成も、それは昔から有って当然と、認識していたのではないか。

以上のように、私には、この将棋馬日記、第2ページ目の駒数総数計算
のメモ書きの、”足す順番の謎”は、やはり大大将棋の新しさを示して
いる一つの証拠と、推定せざるを得ないように、思えるのである。
(2018/08/10)

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16升目156枚制天竺大将棋はなぜ天竺大将棋という名称なのか(長さん)

増川宏一氏の成書、ものと人間の文化史 23-1 将棋Ⅰ(19
77)で、ゲームの”ネーミングの意図は、不明ないし特に無い”
との旨、記載されている事で著名な、天竺大将棋のゲーム名の
”天竺”の意味の解明を今回は以下、試みてみる。
 増川氏に続く、本論題に関するその後の研究例は、たぶん無いだ
ろうと、私は見ている。のでここでは特に、先行研究例については
言及せず、以下、早速結論から書く事にする。

江戸時代の日本人にとって、インド(天竺)は、最もポピュラーな
”熱帯の国”だった。ので火鬼という”隣接駒を焼く”、”暑いルー
ル”のある駒数多数将棋に、天竺国の名を付けた

のだと、本ブログでは考える。
 以下に、以上のように解明された経過を、簡単に述べ、ヒントが
書いてあった文書に記載された、その他の情報につき後半に触れる。
 このように推定される根拠は、以下の江戸時代の文書に、

”天竺は大熱国(領土の広い熱帯の国)である”と、書かれている

からである。

頭書訓蒙図彙・複写版(西暦1789年成立)原書編者:中村惕齋。
複写版作者:下河辺拾水。

なお上記の本は、西暦1666年成立の”訓蒙図彙”の模写本とさ
れる。インド(天竺)に関する説明は、第2章(第2冊/10冊)
の”人物”の章の最後の方に出ている。”暑い国なので、この国の
商人は、瑠璃の壷の中に(冷たい?)水を、蓄えている”との旨が、
記載されているようだ。つまり

少なくともインドの特徴が、熱帯に位置する事を表現した、天竺大
将棋の成立時代に近い、古文書が存在する事だけは確か

だと言えると思う。
 尤も実際には、インドは山岳部の気候が違うため、全土が熱帯な
のでは無いのだろう。しかし、中国元代の暦法を取り入れる時代に
なって、地球は丸く、南国は太陽の南中高度が高くて、熱帯である
事を知るようになった18世紀後半の日本人には、インドが赤道に
より近く、暑い領域の多い国である事は、常識になっていたようだ。
またインドが日本よりも広い事は、それ以前に当たり前だったので、
駒の数の多い将棋に、インド(天竺)の名を冠する事自体には、問
題は無かったと見られる。
 他方、天竺大将棋には火鬼という、移動した先の隣接升目の駒を、
”焼く”と通称して取り除くルールがあり、それがこのゲームの特
徴である事も、明らかであった。よって、

焼かれて暑いので、熱帯の大国と引っ掛けたのが、ネーミングのルー
ツである

と、説明できると本ブログでは、めでたく解明できたと考えるので
ある。
以上で、論題の説明は一応終わる。
 さて、冒頭に述べたように、以下に頭書訓蒙図彙から得られる、
その他の知見について述べる。
 この本には、摩訶大大将棋の余り知られて居無い

別称が載っている。”摩訶陀象戯”という名前である。

注意したい点は、将棋の項目が、第5分冊と第10分冊の2箇所に、
この文書ではダブって存在し、しかも、

内容が互いに整合していない。新規の情報があるのは第5分冊の、
項目名”象棊”の方である

という、複雑な事情だ。
第10分冊の項目名”将棊”には、”将棋は周の武帝が起源で・・”
と、当時としては当たり前の内容が、出だしに書いてある。

5と10で執筆者がバラバラで、第5分冊の”象棊”は、どこかの
寺から得た情報の写しのように、私には見える。

根拠は、第5分冊は”器用”の章であり、物品の説明が羅列される
が、将棋や囲碁や盤双六の内容が書かれている前が、寺の置物、
後が筆記具となっていて、”どこかのお寺に陳列されている物”風
だからである。つまり、

摩訶陀象戯というゲームを説明したオリジナル文書が、少なくとも
西暦1789年頃には、どこかの裕福で物持ちな寺に、存在した

事を、示唆しているようにも見える。それが曼殊院なのかもしれな
いし、京都や奈良あたりの、別の大きな寺なのかもしれないが。
 以上の事から、少なくとも曼殊院には将棋図が安土桃山時代には
存在して、特に摩訶大大将棋については、詳しく記載されていたよ
うではあるのだが、

京都の曼殊院だけに、摩訶大大将棋の情報があるだけとも限らない

ような気が、私にはしてきた。摩訶大大将棋にはその他、摩羯大将
棋等の別称も知られるが、”大が阿弥陀の陀であるケース”は、余
り聞いた事の無い将棋名なため、注意が必要な事は確かであろう。

曼殊院の将棋図では、摩訶大大将棋が、”摩訶弥陀将棋”になって
いたというような事が、絶対に無いとも言い切れない

のかもしれない。
なお頭書訓蒙図彙の第5章の象棋では、将棋の発明が”周公旦によ
り行われ、成王に報告された”となっていて、他の古文書と調子が、
多少異なっている。囲碁と混同しているようだ。その点からも、ど
こかの寺の、その時代の古文書を写したような調子である。なお、
第5分冊では、凧上げの凧を、”イカ昇り”と表現しているので、
関西人の執筆者だとわかる。そして、同じ著書の第10分冊(雑
芸/諸芸)では、将棊が”普通”に、”周の武帝・・”になって
いるのである。なお、第10分冊(雑芸/諸芸)の囲碁と将棋は、
同じ訓蒙図彙の系列とみられる、西暦1690年成立の、類書
”人倫訓蒙図彙”の囲碁・将棋と文面が良く似ている。
 良く見ないと、頭書訓蒙図彙は第10分冊だけ読んで、ユニーク
な第5分冊の情報を読み飛ばしそうだが、次の解説書に、索引が付
いているのが、とてもありがたい。

高橋幹夫・芙蓉書房出版(1998。江戸萬物辞典・普及版・
シリーズ「江戸」博物館。)「絵で知る江戸時代」。

 これは頭書訓蒙図彙の、現代文字書きの写し本であるが、この
巻末索引に、第5分冊、第10分冊の両方のページが載っていなかっ
たら、ユニークな第5分冊の内容は、うっかり見逃しそうだ。
(2018/08/09)

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溝口和彦氏指摘の前横斜後歩駒の欠如と布幣のネガイメージの関係(長さん)

溝口和彦氏の将棋史のブログに”左右対称型の歩み駒について、1パター
ンだけ、例の見かけない駒動かし方ルールが有る”との指摘が載っている。
具体的には表題のように、前と左右と斜め後ろの計5方向の何れかに、
歩む小駒である。前か斜め前には必ず行ける組合せで、小駒のルールを
作ると、2の5乗-2の3乗で、24通りの組合せがあるが、その中で、
今述べた組合せだけ1通りが、普通には見当たらないという指摘であった。
 実は最近になって、大阪電気通信大学の高見研究室の摩訶大将棋の
復刻作業の過程で、

溝口氏の認識が、誤りである事が発見された。

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄で、泰将棋だけ、臥龍がその動きなのである。
大阪電気通信大学の摩訶大将棋のブログによると、臥龍の動きは、摩訶大
大将棋では、淮鶏に取り入れ、臥龍の真後ろには退けない、この動きを採
用すべきという事である。詳細は、高見研究室のブログを参照されたい。
 しかし、例外は水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の泰将棋の臥龍だけであっ
て、たとえば将棋図式の泰将棋の臥龍は、将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋
と同じく、後ろに後退できる。ので、

前、左、右、斜め左後ろ、斜め右後ろの5方向歩みの駒は、”ほとんど無
い”と表現を変えれば、溝口氏の指摘も依然正しい

事になる。
 ところで私はこの、前、横、斜め後ろへ点を打って、駒の動きを示した
図そのものが、美術デザインとして、中国古代の何かの遺物に、その形が
似ているのではないか、と前から思っていた。

遺物が何か聖なる物品なので、将棋駒ごときに転用できない権威があった

のが、この動きの駒が無い原因ではないかと、具体的な物品が思い出せぬ
まま、漠然と考えていたのである。
 しかし最近になって、この物品が、中国の貨幣の類であるという事に、
ふと気がついた。ずっと前に見かけた書籍の類が、何だったのかを、なん
となく、思い出したのである。
 そこで、早速調べてみると、

”布幣”の形であるのが、貨幣のカタログ本で、難なく直ぐに判った。

なお、私は知らなかったが布は、布切れの類の布ではなくて、農作業に使
う鋤の類を示しており、諸橋徹次氏の大漢和辞典を引くと、そもそも”布
という漢字自体に、貨幣の意味も有る”との事だった。
 ではこの布幣に、聖なる物品のイメージが有ったので、水無瀬の泰将棋
の臥龍以外では、この動かし方の駒が無いという理由付けで、はたして良
いのかどうかというのが、今回の論題である。結論を書くと、

明らかに今述べた、私の以前の認識は誤り

とみられる。
 では以下に、根拠となる調査経過等を述べる。
 そもそも、水無瀬兼成が自身の著書、将棋纂図部類抄の中で、この動き
を臥龍駒に当てて、摩訶大大将棋の臥龍から、後ろへ歩む動きを引いてい
るわけだから、水無瀬兼成以外の江戸時代の将棋史家には、再採用されな
かったが、”水無瀬の泰将棋の臥龍”の動きに、”忌避されるべき明解な、
故事”が無い事が、当然予想される。
 前、横、斜め後ろ歩み駒が無かったのは、摩訶大大将棋の臥龍、古猿、
蟠蛇、淮鶏の動きを、金将のひっくり返し、銀将のひっくり返し、
銅将のひっくり返し、前に行けない金将にしたら、動きがそれで足り、
前に行けない金将の動きの、更にひっくり返しである、問題の”前横斜め
後ろ歩み”のパターンが、特に必要無かったのが、主たる要因とみられる。
 他方水無瀬兼成が、その動きを泰将棋で書いたのは、水無瀬自身か、あ
るいは少なくとも支持した”泰将棋のゲームデザイナー”が、臥龍と蟠蛇
を、隣接して初期配列させたので、臥龍を表題の動きにして、蟠蛇を、
淮鶏と同じ動きのルールにすると、体裁が良かっただけの理由である。
つまり、

臥龍と蟠蛇が並んだら、臥龍の真後ろ動きは、止める事にしたくなると言
う程度の理由

で、前横斜め後ろ歩み駒は、作れる程度の存在だったのである。よって、
中国の古代貨幣の布幣に、私が空想していた”神聖性”などは、そもそも
無かったという、これは傍証だとみられる。
 更に直接的な理由は、

布幣は、古代中国の新王朝が、短期で滅んだ原因の象徴の形

と言う事が、遅ればせながら、私にも調べて判り、以上の仮説が正しい事
に納得させられたからであった。
 布幣は、前漢と後漢の間で15年しか続かなかった、新の皇帝、王莽が、
最終版として設定した物が有名な、変わった形の高額通貨である。そして、
新王朝自体の弱体化により、貨幣の流通が停滞して、経済までが混乱し、
また、使わない者をひどく罰するという、皇帝のタカ派政策が、更に裏目
に出て、王莽の処刑で新が後漢に変わる、主要因となった事で、有名な
通貨の形だと言うのである。なお、この王莽の布幣の、補助通貨だけは、
かなり流通したらしく、日本にもその出土例があるそうだ。つまり、

これは国家が滅ぶ縁起の悪い図柄

であって、前横斜め後ろ歩みの形は、いかにも危なそうな、駒の動きを
連想させると言う事に、なるらしい。そこで理由が無ければ、

無理に採用するような、駒の動かし方ルールでは無い

という事に、少なくとも平安時代頃の、日本の知識人の間ではなりそうだ。
なお安土桃山時代の”泰将棋のゲームデザイナー”は、作る駒の種類が多
かったので、上の故事を、うっかりとして忘れていたのだろう。
 私の考えていた、”前横斜め後ろ動き型の権威”は、実際には、ま逆だ
った。”布幣のような形は神聖で、他で真似のできない図形”という、私
の作ったガセネタは、私の頭の中で考えているだけで、人にその話をした
記憶が全く無いのが、せめてもの、幸いだったように感じる。(2018/08/08)

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中国シャンチー。初手”砲二進四”を後手が咎める手は有るのか(長さん)

前回述べたように、本ブログの見解によれば、中国シャンチーからそれ
とは別のルールの朝鮮チャンギが派生した原因は、表題に一例を示した、
最初から砲を繰り出して、急戦を先手が仕掛ける、初手”砲二進四”を
自明に咎める手が無かったために、朝鮮チャンギのゲームデザイナーに、
”中国シャンチーは、ゲームに難点有り”と見なされ、砲のルールを変
えたのが、始まりではないかと言う事であった。そこでとりあえず、
中国シャンチーを指す、棋力の後ろ盾は無いにしろ、私も実際に、シャ
ンチーの盤駒を並べて、砲をいきなり敵陣に繰り出すと、実際損なのか
どうか、今回ざっと、確かめてみた。結果を先に書く。

実質的に、初手”砲二進四”は有効な攻めでは無く、先手の1手損にな
るようである。しかしそれだけで、大きく形勢が傾くとは考えにくい

という結果になった。従って、

好みの問題で、シャンチーの砲は、チャンギの包のルールへ、移行する
可能性を、少なくとも完全には否定できないように、私には思えた。

以上であるが、以下に結論に至る経過を、いつものように述べる。
 以下の写真は、実際に、帥側が初手”砲二進四”を指した局で、どの
ように局面が進行するかを、後手が有利になりかけた、仕掛け付近の局
面で示したものである。

初手砲2進4.gif

 青丸の中の砲駒が、先手が初手に進4して繰り出した砲であり、仕掛
の局面では、後手から見て争点である、中央やや右辺からは、離れた所
で弧立し、この後の戦闘に直ぐには加わる状態に無い事が判る。つまり、

先手の初手の砲の繰り出しは、後手陣に先制攻撃を仕掛けるのに失敗

したのである。理由は、次の通りである。
 後手はそれ対し2手目に、普通に中央5筋の卒に、馬を上げて繋く
手を指したのである。ただし、2手目がこのように、制限されたという
点では、砲の先制攻撃には、効果が有ったといえる。ところが、その後
後手は、全体として、先手の左辺が薄くなると察知し、左辺の馬で中央
卒に紐を付けながら、右辺の馬は、攻め返しに使った。それに対し、危
機感を抱いた先手は、3筋の卒を1歩上げて、馬の進撃をかわそうと試
みたが、

後手には右象を使い、この相手先手の7筋の一歩上がった卒を、自分の
3筋の卒で捌く手を、巧みに指した

のであった。その結果、結局は最初の砲出しは、一手損に近く主客が
逆転して、後手の方が、中央から残った右砲と右馬を連携させて、先攻
めする展開になり、写真の局面になったのである。
 結果的に見ると、先手の初手”砲二進四”は、ほぼ無駄手であり、実
質的に、これで先後手が逆転したのに、近くなった。普通に先手が、陣
の整備をするような手を、初手に指していれば、先手が1手及ばないよ
うな展開にはならずに、先手がそもそもは、やや有利な、シャンチーの
普通の一局になったように、私には見える。
 以上の結果から、先手に初手から砲を4進されると、後手は初手に
5筋の卒取りが掛かるので、対応する必要があるが、それは普通にシャ
ンチーの序盤の手を、指しているだけである。だから、

後手にはだからと言って、先手の急戦の仕掛けを、明解に咎めるような
手が、指せていると言える訳でもない。

よって、そのような跳び駒としての砲があると言う、アキレス腱を突い
たような、シャンチーを無理に指そうと思えば、指せないという所まで
は行かないようだ。だから、外国産の輸入ゲームに、厳しい目を向けて
いた高麗や李氏朝鮮のゲームデザイナーが、シャンチーの砲を、それを
口実にして別のルールに変える動機付けには、絶対になり得無いと言う
わけでも無いのだろう。
 ざっとだが以上の結果、前回述べたとおりで、自己採点では、だいた
い解釈が合っているようだった。よってまずは、ひと安心した所である。
(2018/08/07)

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