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南北朝時代。麒麟抄成金が小将棋なら大将棋の処理は(長さん)

前に述べたように、麒麟抄に将棋の成り駒が限定して金
と記載されていて、これが南北朝時代の成立なら、南北
朝時代には、平安小将棋が優勢で、他の将棋はバージョ
ンが一定しないため、プレーヤーグループが各々作成し
ていた状況だったと、推定せざるを得ないとした。その
成り金が小将棋に関しては、能筆家に字書を依頼すると
”極草書”で処理されるにしても、大将棋の成りの金は、
能筆家が書いていないのだから、”極草書”だったとは、
自明には言えない。では、どうだったのかという点を、
今回は論題にする。回答と大切な点を最初に書く。

大将棋等のゲームデザイナーが、個別に、状況に応じて
判断し、平安小将棋の道具もデザイナー自身が所持して
いる場合は、小将棋の同一種類駒と、駒を区別する為に、
大将棋等別のゲームでは、成り金の書体が極草書にし無
かったケースも、場合場合で有ったと見られる。

そして、大切な点については以下の通り。
南北朝時代の南朝方の公家、近衛経忠の作と本ブログで
は例示した、栃木県小山市の、

神鳥谷曲輪、裏一文字金角行駒の裏が、極草書の金で無
いのは、(一例)近衛経忠が、個別に彼が所持した小将
棋の駒と、区別したいという事情だっただけ

の疑いも有る。
 以上の通りである。では説明を加える。
 以上のような結論になる根拠は、水無瀬兼成の将棋纂
図部類抄や、近年の山形県天童市の佐藤敬商店の廉価な
中将棋駒の、歩兵駒の書体を根拠として挙げる事が出来
る。麒麟抄に記載されている通り、これらの中将棋駒の
歩兵の成りの金は、極草書の金だが、”と”金になって
いない。明らかに、

普通の日本将棋の駒と、混在しないようにしている

のである。水無瀬兼成の将棋纂図部類抄で、中将棋の歩
兵の成りの金が、と金で無いのは、実際に、豊臣秀次の
指示で、豊臣秀頼用に六将棋を作成しているので、これ
ら色々な将棋種間で、同じ名前の駒が、お互いに混ざら
ないように配慮した事を、将棋纂図部類抄の巻物にも反
映しているのであろう。ところで、水無瀬兼成は、
後期大将棋については、成り金をゼロにしてしまって、
問題を回避してしまったが、

摩訶大大将棋では、更に複雑な事をしている。

すなわち、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋
では、
①歩兵の成りを日本将棋の桂馬の成り金。
②奔王段と、桂馬の存在する狛犬段の金成り駒の金を
と金。
③香車と反車の金成りの金を、桂馬の成り金もしくは、
と金、
としている。つまり結果として、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄では、桂馬が”と金”成り、香車が”と金”また
は日本将棋の桂馬の金成り、歩兵が日本将棋の桂馬の金
成りになっていて、歩兵が、水無瀬兼成の日本将棋の”
と金”、水無瀬兼成の中将棋の、”本当の極草書金”と
もバッティングしないように、調整されているのである。
 他方これが、しきたり化しておらず、水無瀬自身の工
夫の範囲内で有る事は、聆涛閣集古帖の”摩訶大将棋”
の金成り書体が、単純に
①1・2段の香車と反車は日本将棋の銀将の成り金。
②狛犬段が日本将棋の桂馬の成り金。
③奔王段が日本将棋の香車の成り金。
④歩兵が”と金”
になっている事から判る。つまり聆涛閣集古帖の”摩訶
大将棋”の金成り書体は、美術的な観点から調節しただ
けであって、

麒麟抄の記載にこだわるとすれば、今金崩しの全部”ケ”
程度にしても良かったというだけ

のように思える。
 水無瀬兼成は、豊臣家に贈る六将棋について、安土桃
山時代にこのような”工夫”をしたのだろうが、南北朝
時代に、一例として、近衛経忠が同じ工夫をしたとして
も、

誰でも考える程度の、将棋種によって混ざらない工夫を
するという行為の範囲内

という事なのであろう。なお、混ぜたくない理由として
は、将棋種によって、贈答だったり自家消費だったりす
るので、材質の樹木を変えているとか、駒に出来に、系
統差があるため、混ざらないようにしたいとか、個別の
理由と考えられる。しかも、南北朝時代から安土桃山時
代頃は、麒麟抄の著者と言えば、藤原行成が当たり前だっ
ただろう。だから、大将棋の発生の要因となる、将棋の
宮中での標準化(本ブログの大江匡房平安小将棋標準化
仮説)の出る、西暦1080年より前の話であると、当
然そうなら、誰もが認識しており、

麒麟抄の将棋駒の成りの記載は、9升目36枚標準平安
小将棋以前の将棋種に関するものである事は、貴族の
関白や中納言なら、誰でも知っている事

だったのだろう。ちなみに、新安沖沈没船出土駒の成金、
京都の鳥羽宮の南北朝時代の銀将の成り金は、極草書の
金か、”と金”である。従ってこれらは概ね南北朝時代
に成立したとみられる麒麟抄の、小将棋の将棋駒の書方
の記載と合っている。
 つまり、普通唱導集大将棋西暦1320タイプの、角
行の成り金や、豊臣秀頼用の摩訶大大将棋の歩兵等の成
り金の書体は、

デザイナーの思考の範囲内で、麒麟抄から、はみ出た結
果の可能性も否定できない

という事ではないか。そのため、今まで本ブログでは
疑っていた、栃木県小山市神鳥谷の神鳥谷曲輪角行駒も、

裏の金の崩しが弱いという程度では、オリジナルとは
違っていたとは、言い切れない。

以上の結論に変えざるを得ないと、思われるようになっ
て来た。この駒につき本ブログでは一例として田沼意次
と、長谷川平蔵の調査により、少し前にカミサンと次女
を亡くして、がっかりしていた十代将軍の徳川家治の為
に将軍の日光参拝の少し前、小山の宿を通る事を前提に、
徳川家治に披露し、殿様を慰めるために作成したとした。
 つまり、小山よし姫、五十宮倫子女王、徳川萬寿姫を、
合祀して神鳥谷曲輪で、小山市の青蓮寺(元は伝・尼寺)
の当時の男性の僧侶が拝み、将棋に関係の深い徳川家治
の家族の死を痛むという志向である。そこでその、
神鳥谷曲輪、裏一文字角行駒の再現は、ひょっとしたら
言うならば、国家の威信を賭けたものだったのかもしれ
ない。よってそれは当時特に力を入れて作られ、その為

かなり精度の高いもの

だった可能性も、否定できないようにも思われる。なお、
そうしてみると、鶴岡八幡宮境内遺跡の汚れた、(定説)
”飛車成り金将駒”も、金将を歩兵の間違い、飛車は、
日本将棋の桂馬の成り金の間違いと見た場合には、桂馬
金に成る歩兵と取れるが、その桂馬の金に成る歩兵(仮
説)の謎も、金成りの多い、”ある種の大将棋類”の駒
を、”不成り消えかかった歩兵駒”とは、別に作ったの
だと考えても説明できそうだ。つまり、南北朝時代頃に
少なくとも鶴岡八幡宮境内の博打場(?)では、
平安小将棋、水無瀬兼成型後期大将棋、金成りが多く、
歩兵も、金成りの中将棋か大将棋類の何れかが、混在し
てプレイされていたと言う事かもしれない。
 南北朝時代の頃の、複雑な金成り駒の謎についても、
麒麟抄の解釈のアヤを、真面目に考え直すことによって、
何とか説明が付くように、私には思えて来た。(2019/05/26)

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麒麟抄11世紀作ゆえ飛車角無説は偽作説でどうなる(長さん)

かつて、麒麟抄が藤原行成著書説が将棋史学会で普通
だった頃、11世紀の特に小将棋に”成金は草書で書
く”との記載から、龍王に成る飛車と龍馬に成る角行
は無い根拠の一つとされていた。将棋史家は、麒麟抄
の偽作の事実が広まると、麒麟抄の将碁を余り紹介し
なくなった。が、
麒麟抄が南北朝時代の作だとすれば、大将棋に成太子
酔象、成り獅子麒麟、成り奔王鳳凰があるにもかかわ
らず、麒麟抄では、金への成しか無いと書いてあると、
そう取っていた将棋史家の、かつての論そのものを、
どうするのか。つまり、どう落とし前をつけるのかと
いう議論が、置いてきぼりになってしまったと考えら
れる。そこで、

今回本ブログでは、以上をどうするのかを論題とする。

いつものように、最初に回答を書く。
 すなわち回答は、以下の通りである。
南北朝時代は中将棋と旧大将棋の境めの、平安小将棋
(現代日本将棋の、動くたび成りタイプの持駒ルール型)
の中興時代であったと推定できる。その証拠としての
麒麟抄の存在の意味を、未だ失って居無いと、ここでは
取る。
 では、以下に説明を加える。
麒麟抄が、偽作者によって成立した時代には、中将棋が
存在としても、少なくとも多彩な成りルールを取る今の
中将棋は、ローカルルールであって、

ゲームする人間が、藤原行成の子孫の世尊寺家等には、
作駒を依頼せずに、自分で字書きをした時代

だったとみられる。中将棋駒の字書きの仕事が、麒麟抄
の南北朝時代の、真の著者の所にたくさん来ていたとし、
それが、龍王は飛鷲、龍馬は角鷹、飛車は龍王、角行は
龍馬、竪行は飛牛、横行は奔猪・・・というように、
多彩な成りを持つルールだとすれば、麒麟抄の成りの書
き方の記載を、金だけでは、当然済ませなかったはずだ
からである。しかし実際には麒麟抄には”成金は極崩し
た草書で書くべきだ”とだけ書いてある。だから、

麒麟抄が本当に成立した、鎌倉末期から南北朝時代に
かけては、中将棋は成りが、後期大将棋程度しか無い、
黎明期だった可能性が、かなり高い

とみなせるように、本ブログでは考える。
 ただしそれでも、何らかの大将棋が有って、鳳凰の成
りを草書にしなくても、不便ではないのかという問題は、
残っていたものと見られる。しかしそれも、神奈川県
鎌倉市の鶴岡八幡宮境内遺跡で、楷書の成り奔王の鳳凰
駒として出土している等、問題の実在性自体が、かなり
高いが、麒麟抄では言及されて居無い。これは、出土駒
が有っても、

平安小将棋よりも、大将棋の普及度はかなり低い

からだと見て、良いためのように思える。
 というよりも、
大将棋は普通唱導集に書かれているように、ゲーム性が
明確すぎる定跡の発生によって難が有ると見られて、衰
退混乱期に入り、存在しても、さまざまなバリエーショ
ンが生じて、作駒は美術的な価値よりも、ゲームを今後
どうするかの方の、切羽詰った問題の方が重要になって
いたのだろう。そこでこれらの字書きは、能筆家にでは
無く、使い手自作が主流になったのだろう。大将棋につ
いても、麒麟抄が本当に成立した南北朝時代には、成り
鳳凰の書き方等を、麒麟抄に記載する動機付けを、そう
いうルールが正しいかどうかが、不明になってしまった
ために、それそのものを失っていたように、
私には推定される。以上をまとめると大づかみで言えば、
異制庭訓往来には、確かに”色々な将棋が有る”とは書
かれているが、駒数多数将棋は群雄割拠の混乱期であり、

主流は平安小将棋(現代日本将棋の、動くたび成りタイ
プの持駒ルール型)であり、一般にはこれが”将棋”

だったと言う事を示しているのではないか。だから、
南北朝時代にも、やはり

龍王成り飛車と龍馬成り角行は、新安沖沈没船出土駒も
示唆しているように、小将棋には入っていなかった

という事を、麒麟抄の記載自体は物語るのではないか。
 つまり、
尊経閣文庫蔵の二巻物色葉字類抄の第1冊/4冊付録の、

小将碁馬名の記載だけが、新安沖沈没船出土駒や、南北
朝説麒麟抄、二中歴の将棋記載とは、整合していない状
況である。

以上のような現状なのではないかと、私には認識される。
(2019/05/24)

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栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡井戸跡遺物各の成立年代(長さん)

以下あくまで私論である。本ブログでは、栃木県小山市
神鳥谷曲輪遺跡の出土遺物のうち、主に井戸跡から出土
の木製遺物を中心にして述べると、

カワラケと青磁以外は、小山市の青蓮寺存在期のもの

であるとの立場を取っている。以上が結論だが、以下に
説明を加える。
 小山市青蓮寺は、15世紀の足利持氏時代の、東京都
八王子の小山神社と同類の、宗教施設であろうというの
が、本ブログの見方である。それでも古いが、足利尊氏、
足利氏満時代の、もともとは小山朝政築とも、小山義政
の館とも、宿城だとも言われる、小山朝政子孫の小山氏
の時代、南北朝時代14世紀の武家の館よりは少し下る。
つまり、

裏一文字金角行将棋駒は、後世の”写しの品”

とみているという事である。また今まで述べなかったが、
本ブログでは、
8号、10号、11号井戸から大量に出土している、

曲げ物の材料となる方形板切れや箸は、江戸時代かどう
かは特定できないものの、かなり後の、祭事用等のもの

だと考える。根拠は、
小山義政の館等だった時代の、中心の井戸と、道路樹木
片や井戸の側板から年代測定、樹木同定からされている
とされている14号井戸から、これらの8号、10号、
11号井戸跡に特徴的な、大量の木製品が、

ほぼ出土していない

からである。木製の遺物は北側井戸跡について、たいへ
ん特徴的だが、他の同年代レベルの、栃木県の城跡から、
かわらけといっしょには、

大量に出土している例が少ない事から、やはり、
”青蓮寺期”のもの

なのではないか。すると、神鳥谷曲輪からも銭が出てい
てこれは南北朝時代であるにしても、祇園城遺跡ほどの
量でなく、概ねカワラケと青磁のカケラだけの、比較的
地味な出土品が、栄光の小山氏時代の全てという事にな
るのだが。これが、小山義政館と言われた時代から有っ
た、遺品の全てのような気が、今の所してならない。
 むろん、だからこの遺跡が、小山氏の小山朝政から、
小山隆政までの代の、平素の居城では無かったとの、
証拠には、特にならないと思う。
 単に青蓮寺の時代は、代表的年代としては今から約
300年前。それに対し、小山義政の時代は、600年
以上も前だと言う、

単なる古さの差

の効果のように私には思われる。近くの持宝寺にも本来
なら古い寺なので、青蓮寺の”宝物”、下駄、将棋駒、
櫛等に関する情報が、江戸時代までは残っていたのだろ
う。
 しかし明治の火事で、持宝寺は焼けてしまったそうだ。
そこで、火事になって、記録が失われてしまうと、せい
ぜい、青蓮寺の和尚が合戦嫌いで、幕末に黒船を打ち払
う、大砲用に使用するための、鐘の銅の拠出を拒んだ話
位が、残る程度になったのだろう。青蓮寺について話は、

他にたくさん有ったが、持宝寺の明治の火事で消滅した

という意味だ。
 なお、理由は不明だが。14号井戸にだけ、小山義政
時代の遺物がかたまり、青蓮寺の遺物は、北の方にかた
まって、出ているようだ。栃木県小山市の、
小山パレスホテルが、旧青蓮寺の本堂の位置だと、当て
ずっぽうだが、私には常々感じられる。
 ただし、墓石の一部が、14号井戸付近からも出てい
る。これについては、地元では青蓮寺の時代とみられて
いるようだ。理由は謎として、それで正しいのだろう。
 なお、前に北の窪みから出た”宮内”墨書土器が、8
号井戸関連と述べたが、

間違いのようだ。

理由は窪みが浅いためだ。この墨書土器は、どうみても、
かなり新しく、近代にも地表に露出していた、天満宮の
備品の疑いがある。(2019/05/23)

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1975年古辞書叢刊の色葉字類抄2巻本は前田家蔵(長さん)

八木書店2000年発行の尊経閣文庫蔵の色葉字類抄2
巻物の解題に、”2巻物の色葉字類抄の出所は、全部、
加賀前田家(江戸時代)蔵書の尊敬閣文庫蔵本である”
との旨が記載されている。ざっとだが、webの古書販
売サイトを見ても、だいたい正しいようである。しかし、
詳しく見ると、東京の神田古本屋街の一角にある、
小林書店という、宗教関係の専門書を扱っている古書店
で、”尊経閣文庫蔵”を示して居無い本が、西暦
2019年の5月中旬の最近の時点で、1つだけだが
存在していた。

”川瀬一馬解題。西暦1975年発行。古辞書叢刊
色葉字類抄 2巻物。西暦1565年写書”

との旨表記されたものである。
 川瀬一馬氏の蔵書を複写して、西暦1970年代に発
行したようにも見えるが、西暦1565年書写した写書
とされる、この本の元々の出所は、webを見た限り
判らなかった。
 小林書店に問い合わせた所、ここの本屋の店主は親切
なようで、

尊経閣文庫蔵本である

と、ただちに教えてくれたので助かった。
 店主の言は疑わなかったが、心残りだったので、実際
にこの、”古辞書叢刊、色葉字類抄2巻物”をめくって
1/4冊に大将基馬名と小将碁馬名の付録が有る事と、
”き”の雑物に、玉将、金将、飛車、銀将、竪行、香車、
白駒が有る事程度だが、最近ざっと自分の目で確かめた。
古辞書叢刊色葉字類抄2巻物と、尊経閣文庫蔵八木書店
発行色葉字類抄ニ(2巻物)とは確かに、少なくとも

内容がいっしょ

の本であり、八木書店2000年本の解題の内容で正し
いようだ。(2019/05/22)

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麒麟抄にはどうして、将棋駒の書き方が有るのか(長さん)

”麒麟抄は南北朝時代の成立であり、藤原行成の著作
と、かつて偽装された”という説に、本ブログでは

賛成する。

群書解題に、内容から成立年代を割り出した旨の記載
も有るからである。
 この点については松岡信行氏が”解明:将棋伝来の
「謎」”で、反対意見を述べられている事で有名だ。

将棋駒の書き方の部分の記載は、藤原行成本人作

と言う説を述べている。
①将棋の棋が碁であるという点。
②書家は多いのに、個別藤原行成作と伝えた上で、
書の書き方書で、敢えて将棋の駒の書き方を、彼に
偽装させなければならない、動機付けが無いという点

を根拠にしているようだと、私は理解する。
 ここでは、彼の根拠には

(1)抜け穴が有るかどうかという事

と、

(2)藤原行成は、麒麟抄の将棋駒書き方部分の作者
で無いにしても五角形将棋駒の字を書いたのかどうか

と、

(3)伝・藤原行成著作書に、何故将棋駒の書き方の
記載を加えているのか

を論題にする。
 回答を先に書く。
(1)は、特に②について、藤原行成が西暦1019
年グレゴリオ暦5月の刀伊の入寇の後、翌1020年
年初に、大宰権帥になっている点を考慮に入れて居無
い点に、抜け穴がある。麒麟抄”将棋駒”は彼が著作
したものでは

無い。

(2)は大宰府長官時代に、藤原行成が五角形駒の
駒字を書いた

可能性がある。

(3)は、(2)の伝説が世尊寺家に伝えられれば、
麒麟抄、将棋駒字の著作は、彼に偽装される事は必然。
 ようするに、麒麟抄は別の後代の人間の作だが、

藤原行成が、五角形駒に係わっている可能性は高い

と言うことである。
 では、以下に説明を加える。
まず、(1)の麒麟抄の作者と将棋駒部分の著作だが。
①の将棋の字が碁という点については、

色葉字類抄、八木書店本、尊経閣文庫蔵2巻物の、上
の上の末備挿入文書の2番目、”小将碁馬名”の、
将碁が、

戦国時代作であると見られることから、松岡説は疑問

と思う。なお西暦1565年成立の根拠としては、
その年に写書した、①雪竹老人の奥付けの後にある
挿入文書である事。②玉駒が王将、小将棋が将碁で、
皇室・摂関ハイブリットであって、戦国時代の貴族の
衰退時代風。③酔象が無いので、朝倉小将棋の時代で
は無いという、本ブログでは指摘している3点の根拠
による。なお、この”小将碁馬名”には、飛車と角行
が記載されていて、西暦1500年以前のものだと、

当然大問題

になる。言うまでも無く、南北朝時代は平安時代より
後、戦国時代より前だから、麒麟抄の将碁は、貴族で
ある世尊寺家では”藤氏系は将棋を将碁と書く”事を、
松岡氏の説とは違って、中世の間中、記憶としてずっ
と残していたと考えたほうが、事実に合う。
 次に、より大事だが。②の藤原行成一人が”将棋駒
を書ける訳ではない”という旨だとみられる、松岡氏
の”指摘”は、
藤原行成は、実際に五角形駒を書く、草分けだったと、
中世まで思われていた。ので、さも彼が書いたように、

麒麟抄の将碁駒の書き方は、南北朝時代の世尊寺家の
何者かが、実際に見せかけた

と考える。つまり彼が将棋の歴史に絡んでいたという
重大な証拠が、むしろ偽者である根拠になるという点
を、問題の読み方の手順を間違えたために、松岡氏は
見落としていると私は思う。
 松岡信行氏は、
1)麒麟抄の将棋駒字書き方記載が、藤原行成作かど
うかに、こだわっているが、本当は

初期の五角形将棋駒の字書きに、藤原行成が係わって
いたかどうかの方が大切だ。

以上の点と、松岡氏は彼自身が、
2)将棋の国内起源説に、こだわる余り、仮に伝来だ
としたら、伝来品の複製を、何処でするのかという点
から見て明らかに、

最初の五角形駒の字書きは、九州の博多付近で行われ
るのが尤もらしいという、”場所の推定の見落とし”
がある

と私は考える。特に2)については、
藤原行成は、大宰権帥になった事があるため、それだ
けでも、能筆家として、駒書きとの関りが疑われる上
に、刀伊の入寇直後に西暦1020年1月、藤原隆家
と交代に、大宰権帥になっている。そのため、少なく
とも本ブログの見方を取る限り、

いよいよもって、五角形将棋駒成立と係わりがあると、
藤原行成は、むしろ疑われて当然

という事になるのである。つまり本ブログの見方とは、
西暦1020年に駒木地は、経帙牌の形で、原始平安
小将棋を大理国から運んだ、北宋交易商人の周文裔が
用意して再度来日したから存在するのだが、書き込む
駒字のフォントを用意したのは、京都から新たに大宰
府の長官に任命され、赴任して来た

他ならぬ藤原行成だった

という意味だ。
 そこで以下に、彼に関する情報から、尤もらしいと
思われる推論を列挙する。
イ)藤原頼道は、西暦1019年12月、藤原隆家を
世論に押されて凱旋京都入りさせると同時に、在来仏
教寺院の世尊寺を開くほど、仏教に熱心な藤原行成が、
後任として適切と判断して、翌西暦1020年1月
九州大宰府へ長官として送った。頼道の信頼が厚い上
に、在来仏教の戒律に厳しく、現地にて流行り出した、
賭博をするという仏教上の戒律違反に、行成がうるさ
かったのも有ったと私は考える。
 つまり将棋を賭博として指す、現地の風潮を一掃し、
あくまで武芸として、また戦争シミュレーションを
する事によって、国軍の強化を目的として、

現地の武官の職務として、ゲームをするように現地の
人間へ指導する事をも、狙った

人事によるものであったとみられる。
ロ)それに対して赴任した、藤原行成は、仏教戒律を
比較的良く守る人物だったので、前任の藤原隆家のよ
うに、自身が伝来したての将棋を道楽で、時間を割い
て指す事は、余りしなかった。
ハ)むしろ現地の駒字書きの僧侶等に、駒字の書き方
を、能筆家として指導する事によって、五角形駒の高
級化をもたらした。現地の下級官僚や武家に対する、
賭博の禁に、彼は、藤原頼道の期待通りうるさかった。
が、武芸を磨くための目的としての将棋はむしろ奨励
し、自分も

駒字を書いて支援

したと考えられる。なお当然の事ながら、行成の努力
を持ってしても、将棋で、物を賭ける習慣を、無くす
までには至らなかったとみられる。
ニ)藤原行成の大宰権帥の任務は、西暦1020年の
1年限りであった。が、五角形駒の普及への影響は大
きかった。他の代用品で将棋を指す可能性も無くなり、

ゲーム具の形態は、彼のおかげで一定の物へ安定収束

した。なぜなら、
ホ)更に、唐物商人が”博多土産”と称して、京都へ
五角形駒を売り歩くときに、藤原行成作だと書き駒を
しばしば偽装した。そのため、能筆家としての彼のネー
ムバリューが元々あり、益々、現在とほぼ同じ形の
将棋具が京都でも売れて、普及に拍車が掛かった。
 以上が尤もらしいと仮にすると。
藤原行成が、西暦1020年の大宰府長官時代に、将
棋駒の字書きをしたという話は、仮に風説だとしても、
伝説として残りやすいだろう。そうだとすれば、
南北朝時代に麒麟抄で、さも彼が記載したように、
”将棋駒の書き方”が、他人によって偽装記載される
というのは全く尤もな話だと、私には考えられる。
 なお、本当に字書きに係わって、将棋の流行に寄与
した可能性が有るのかどうかという事に関しては、次
のようになろう。
 五角形という形に、願掛けと、五行説対応という、
馴染みの意味が有る事。また矢印で向きを表している
という、ゲームデザイン上の機能に関する利点は元々
有る。しかしながら将棋駒については、元々は国内で
発生した、代用品にすぎなかったと、本ブログのよう
に見ると、他の代用品へ更に移行してしまう可能性も、
伝来からさほど経って居無い当時は、残っていたはず
である。にも関らず他のアイディアが全部淘汰されて、
日本の将棋道具は、安定して一定のものになったとい
う点から状況証拠として、

本当に藤原行成が、初期に将棋駒の書き駒を作って
その優秀さから、将棋具の他の変種を無くしてしまっ
た可能性を、完全には否定は出来ない

ように、本ブログでは考える。
 なお一般論として、本ブログような限定的な伝来説
を取らずに、外国からの将棋の輸入を、適宜考えたと
しても、”西暦1020年の藤原行成の、博多・大宰
府に残した作駒行為”の影響が、道具の形態を決める
という点で大きかったと仮定できるケースには、議論
はこの場合、大筋では変わりにくいような気がする。
 よって、冒頭に述べた結論になるのではないか。つ
まり麒麟抄の著者の説について、松岡信行氏の論に私
は賛成できないが。web上等で確認できる、大宰府
へのその年、西暦1020年一年限りである藤原行成
の係わりで見る限り、

松岡信行氏は、将棋の語の初出がどの文献かという、
従来の議論を超えて、更に踏み込んだ議論をしたとい
う点で西暦2014年当時、相当に良い線の論展開を
していた。

以上のように私は、充分結論出来ると考えるのである。
(2019/05/21)

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宝応将棋が中国象棋の始祖になったらどうだったか(長さん)

本ブログでは、中国シャンチーの成立は日本の原始平安
小将棋よりも遅く、11世紀の終わり頃、イスラムシャ
トランジの成立は8世紀後半とみる。そこで、11世紀
の初め頃に、中国の北宋の中原では、改善が試みられて
はいたものの、アッバース朝の流れをくむ、アラブから
の移住者による、イスラムシャトランジが、それまでは
主に指されていて、中国南西奥地の山岳地帯で、
宝応将棋の進化型、大理国原始平安小将棋が、健在だっ
たと見ている。
 9世紀の初頭でも、基本的に同じ状態であり、晩唐の
中国中原では、イスラムシャトランジ、南西奥地の雲南
で、宝応将棋だったとみる。ただし、宝応将棋は宝玉類
で将棋具を飾るという特徴があり、唐王朝の皇帝等は、
中国人の多くは、ゲーム性能が低いため相手にはしなかっ
たものの、王室に南詔国からの贈呈品として、道具を
所持していたのだろう。しかし実際には、所持はしても
持っているだけであり、囲碁が主流で、唐王朝の宮殿で
も、余り遊ばれ無い状態であったと考えられる。である
から、宮廷に出入りする高官の牛僧儒は、宝応将棋を
題材に、玄怪録岑順(小人の戦争)が、書けはしたのだ
ろうというのが、本ブログの見かただ。
 しかし現在の定説は、

今の説明とは、全く違う。

宝応将棋は、中国シャンチーの初期の姿だとの立場が、
遊戯史学会では、未だ圧倒的に強い。
 では、定説が正しく、本ブログの説が間違いだとした
ら、中国の象棋・将棋は、どんな姿だっただろうかを、
今回は、

宝応将棋に砲駒を入れて兵卒4段で一つ置き配列にして

仮想のゲームのチェックをしたので、結果を紹介する。
結論から述べよう。

 最下段が、宝応将棋型の今とは全く違うシャンチーが、
現在まで、問題なく切れずに指されて、残っていたはず

である。では、以下に説明を加える。
 宝応将棋の配列は、いわゆる11世紀の初めに、イス
ラム国家に居住していたアル=ビルーニーが、インドを
訪問中に、四人制チャトランガの駒の動かし方ルールが、

象・車に関して反対になっている

と評したのに、近い内容である。つまり、シャンチーで
は、帥・将(王)が偏の動きに調整されたのは別にして、
仕は猫叉、象は跳び飛龍、馬は八方桂馬、車は飛車になっ
ている。それに対して、宝応将棋は王駒は多分玉将であ
り、この違いは後の調節として、現代に移行すると偏の
動きに調整されるとしても、仕も金将のような近王型の
動きであり、移行するには、猫叉に進化する必要が有る。
その進化は、一応出来るとしよう。次に象は、
上将で飛車、馬は塞馬脚のある八方桂馬へ進化と仮定、
車は、香車の動きで、河を渡ると猫叉の動きに成るへ、
進化するだろうと、仮定しよう。兵卒は中国シャンチー
の動きとしよう。
 だから、上記で特に象と車とに着目すると、現代化し
た状態で、

シャンチーの車が、進化した宝応将棋の象

になる。シャンチーの象が飛ぶ飛龍であり、進化した
仮想の宝応将棋の車が香車(成りは猫叉)で少し違う。
が、シャンチーの象と仮想の現代化の宝応将棋の車は、

ほぼ強さは同じ

だ。ただし、仮想の現代化の宝応将棋の車には、シャン
チーの象と異なり、玉守りの能力がぐっと落ちる。
だから、仮想現代化、宝応シャンチーは、王が対面して
も反則ではないし、

たぶん、九宮は無しにするという、調節が必要

とみられる。
 そうしておいて、兵卒の数は同じで跳び跳び型に直し、
初期配列も4段目にして、砲駒を、今と全く同じ配列、
同じルールで加えた、

アバウト、象車のアベコベ・シャンチーを指す

と、以下のような、戦形になる。

宝応シャンチー.gif

違いは、前に述べたが、雀刺し戦法が主流になるため、
端列に攻め駒が集中する事だ。
 このゲームを試しにしてみると、

ほぼゲームとして成立している事

が判る。そもそも、北朝鮮の象棋が、象・車配列を交換
できるルールなので、宝応将棋最下段型から出発しても、

微調整でゲームが成立するのは、当たり前

だと、私には予想されてはいた。
 従って、
中世の宋代に、進んだイスラム文化を吸収するという空
気が、中国では卓越しており、シルクロードで情報が入
ったとみられる、イスラム社会のシャトランジが、イン
ドも含めた、東南アジア各国の象棋類のルールを決めて
いるのと同じように、中国シャンチーの最下段配列の
パターンに、実際にはグローバルスタンダードに合わせ
るという意味で、取り入れられていたと見られる。そこ
で仮想的に、それが行われない”仮想の情報の遮断され
た世界”が仮に有ると、宝応将棋の最下段のパターンが、

取り立てて、欠陥があるわけでもないために、現代にも
生き残る可能性が、かなり高い。

以上のような、

今とは全く景色の違う状態が出現する

と結論できるのである。
 だから、宝応将棋は、文化の開放系の中国文明のもと
では、特に地続きなため

国力のある別の大国を、ないがしろに出来ない

という現実から、11世紀のインド型を、山間部のみに
残して、中国の特に中原では、東南アジアと同様に、消
えてしまった。以上のように、当然推定できるように、
私には思えるのである。

日本は島国だったので、他では消えてしまった、インド
古将棋の原形が、持ち駒ルールと、入玉ルールでカバー
された結果残っている

のである。指す人間が多いので、議論が全く見当たらな
いが。日本将棋は本質的に見ると”希少な文化”である。
よって今の所、危機感もあまり無いようだが、万が一に
も切れないように、大事にしたいものだと私は考える。
(2019/05/20)

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2019年春栃木県小山市市役所前発掘の様子(長さん)

昨2018年後半、かなりの期間をかけて入念に、
小山市等が小山評定跡だとする、市役所前の敷地
の発掘調査を行っていた。昨年で終了せず、最近
追加の発掘が行われているというので、5月に、
様子を見に行った。
 前にも発掘現場の一部だったとみられる所と、
旧四号国道との境とみられる、昨年の発掘で縁に
当たるとみられる部分を再度掘っていた。以下の
写真は、北東側の現場の一部だったとみられる部
分である。

小山市役所前2019年.gif

写真の日は休みで、土嚢で止められた建築用の青
色のシートで覆われており、地面の様子は残念な
がら見えなかった。再調査の理由は恐らく何かが
出土した地点なのであろう。また国道との境の縁
は、前回の調査では、国道ぎりぎりまでは調べな
かったので、良く再調査する必要性があったと言
うことだと考えられる。今年の夏の頃までやるよ
うで、webのページには、別の前年調査の縁部
分も、再調査すると書いてあるようである。狭い
範囲なのが残念だが、何か、更に出てくる事に、
大いに期待したいものだ。
 なお、駅の近くで、市役所前の発掘現場の数倍
の広さの、マンション建築用地で、地均しをして
いる現場を見かけた。”小山市最大級、完売御礼、
全144戸”等と、看板が建っていた。が建築資
材はまだ搬入されていないし、昨年見たときも、
確か空地の状態になっていたように記憶する。な
おそのときには、土地は、放置されているような
感じで、警備員のような人間が一人、うろうろし
ていたような記憶が有る。
 だいぶんスローな、マンション建設が、小山市
の西口駅前では駅まで3分と称して、現在行われ
ているようだ。
 その建築現場は、ざっとで神鳥谷曲輪遺跡の、
西暦2007年当時の発掘現場に比べても、2倍
の広さはありそうである。中将棋の升目数と同じ
なので私には覚えやすい、”全144戸の小山市
最大級のマンション”と称して、土地の面積が、
小山朝政の方形館、全体位の広さがありそうな、
マンション建築現場が、現在小山市の駅近に出現
している。
 正直ここの古井戸を全部発掘してくれていたら、
どんなに遺物が増えただろうかと思う。よって、
”他でやったから、小山市でもやる。それが何が
悪い”という、宣伝イメージが有ると言う意味で、
”親会社は環境に優しい”と宣伝したとしても、
先祖伝来の文化にも優しいという思考は、余りな
い傾向が、少なくともこのマンションの建設事業
の、”中核企業体”には有るようだと疑われた。
 以上のような事がこのマンションの、通り一遍・
マスプロタイプの宣伝看板から薄々感じられるの
は、かなり遺憾な事だと私は思う。なお私は、経
緯に関わりが全く無いが。栃木県小山市では、前
世紀の末頃、

”マンション建設による遺跡破壊”が大きく問題

になったという。その結果、市中心部の城跡が、
”全面保存を前提とした、国の指定遺跡になった”
という経緯が有るという事だ。
 このマンションについては、余り文句が出なかっ
たのだろう。基礎固めのため深堀して、水が出る
ところまで達したときに、出土してくる礫類を篩
で濾した後に、”化学の力”で劣化を防いでから、
栃木県小山市の市役所教育委員会遺跡発掘担当に、
遺物の処理代を請求した上で、譲り渡す位しても、
”事業主”は、建設が旨くいっている以上、その
位して、バチが当たらないのではないかと、私は
思うのだが、はたしてどうなのだろうか。
 なお栃木県小山市市役所前の発掘で発生した礫
は、そのまま駐車場前に野積みにされていた。
(2019/05/19)

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玄怪録”岑順”。語句付加でシャンチーになるのか(長さん)

前に述べたように、牛僧儒の玄怪録を収録した、北宋
の太平広記は、怪奇小説の枝葉は切り落として、現代
に伝えられているとされる。枝葉を切り落としたから、
本来シャンチーの先祖であるべき宝応将棋が、日本の
平安小将棋のプロトタイプのように見えているだけの
疑いも、否定できないと言う事であった。そこで、今
回は、玄怪録”岑順”に、砲駒の要素を足して、シャ
ンチーの先祖に出来ないのかどうか、考察した。
結論を先に述べる。

できない。

理由は、”砲の類、矢の類、石の類が飛び交った”と
いう一文の、

”砲の類”の語句が、ダブついてしまうから

である。
 では、以下に説明する。
 西暦2011年01月12日に、将棋史研究家の、
(故)溝口和彦氏が「北京国学時代文化伝播有限公司」
版の玄怪録”岑順”を、webに紹介している。これ
は、前野直彬氏の東洋文庫版(平凡社・1964)
唐代伝奇集2の玄怪録”岑順”(小人の戦争)の訳と、
良く対応している。ので、太平広記と、さほど違って
いないのだろうと推定できる。これを使って説明する
のが判りやすいので、以下使う事にする。
 天那軍と金象軍が登場してから、天那軍が潰走する
までの下りは、次のようになっている。

E③・・三奏金革,四門出兵,連旗万計,風馳云走,
両皆列陣。
E④ 其東壁下是天那軍,西壁下金象軍。
E⑤ 部后各定,軍師進曰:
F① 天馬斜飛度三止,上将横行系四方。
F② 輜車直入无回翔,六甲次第不乖行。
G① 王曰:“善。”
G② 于是鼓之,両軍倶有一騎,斜去三尺,止。
G③ 又鼓之,各有一歩卒,横行一尺。
G④ 又鼓之,進車。
H① 如是鼓漸急而各出,物包矢石乱交。
H② 須臾之間,天那軍大敗・・・

なお、記号は溝口氏による。これも使わせてもらうこ
とにする。
 そもそもE③で、2手に分かれて、それぞれ金象軍、
天那軍が出てくる点が、奇数列配列でないと、兵卒の、
トビトビ置きが出来ないので、跳び越え駒の砲が旨く
導入できず致命的ではある。が、その点はまずは置く
事にして、次に進む事にする。
 そしてそれでも何とか、シャンチーとツジツマ合わ
せをするために、砲のルールや、序盤での駒組表現を
追加するとすれば、だいたい次のようになるだろう。
・・・
E⑤ 部后各定,軍師進曰:
F① 天馬斜飛度三止,上将横行系四方。
F② 輜車直入无回翔,(砲は四方に任意に行き、相手
駒を取るときに一つ駒を跳び越えろ。)六甲次第不乖行。
G① 王曰:“善。”
(于是鼓之,砲を水平方向で王の前に進める。(挿入))
G②(于是→又)鼓之,両軍倶有一騎,斜去三尺,止。
G③ 又鼓之,各有一歩卒,横行一尺。
G④ 又鼓之,進車。
(又鼓之,それぞれの上将を水平に2尺動かし、輜車
の後ろの升目に移動させ、雀刺し戦法を狙う(推定)。)
H① 如是鼓漸急而各出,物(包←余計)矢石乱交。
H② 須臾之間,天那軍大敗・・・

 なお、しばしば本ブログで問題にした”横”は、
”いわゆるワルの動きで乱暴に”の意味だろう。2回
出てくる。原文にも、このような形で有ったのだろう。
チャンギが横動きになったのも、ひょっとしたら、
それが原因かもしれないが、”水平方向へ”は誤訳で、
前に一歩が正しいと、一応ここでは取ってみた。なお、
歩卒を横に動かしてから、輜車を前進させるのは、歩
卒トビトビ配列だったというのが、正しいとしても、
ほとんど意味不明手だ。
 ところでH①に有るように、それぞれの軍は各々駒
を繰り出して(而各出,)いるので、後半の記載は、
”矢の類、石の類が飛び交い”さえすれば良く、繰り
出しの部分に含まれている、”砲の類の飛び交い”は
余分である。
 つまり、もし砲について、記載するのが面倒で省略
したとするならば、”物包矢石乱交。”ではなくて、
太平広記には乱雑に、”物矢石乱交。”と書かれて、
残る程度の、はずだったと言う事である。
 しかし、たかが娯楽用の伝奇小説に、きちんと、飛
び兵器として、砲も入っているというのを、矛盾なく
説明している。という事は、歩卒等が弩・弓で弾いた
り、手で投げたりする石火矢が、矢や石と並立に、
唐代には武器の砲として、普通に存在する程度だった。
ので、3つ組で、最初から表現していただけであって、
駒としてやはり入っては、いなかったという事を、
示しているのではないのか。
 だから、弓や弩を駒に加えなかったのに加えて、砲
も、宝応将棋には、入っていなかったのではないか。
 よって、象の代わりに違いない上将が強すぎし、車
の一種に違いない輜車が、日本の香車型に弱体してい
るのに加えて、砲が無いのも、宝応将棋が中国シャン
チーとは、有意に大差があるという、証拠なのではな
いか。以上のように今の所、私は読んでいるのである。
それに引きかえ、宝応将棋から原始平安小将棋への変
化は、玉将を入れて金銀を一つづつ降格させ、上将
こと象を、削除するだけで、ほぼ移行できると私はみ
ているのである。(2019/05/18)

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そもそも平安大将棋の横行はなぜ玉将の前升目に在る(長さん)

平安大将棋の横行には、動きの特徴もあるし、何回か
本ブログでも取り上げてきた。しかし、そもそも後期
大将棋等での酔象の位置に、平安大将棋で横行を入れ
たのは何故なのかと言う論題は、立てたことが無かっ
たと記憶する。角行でも良さそうな、玉将の前升目に、
飛龍と奔車の動きを加えると、五亡星を象る結果にな
るとはいえ、横行という”名称の駒”が、唐突に、
平安大将棋では、王様を差し置くかのように入った経
緯を、今回は論題とする。
 まず回答を書く。

平安大将棋のゲームデザイナーが、太平広記で、
牛僧儒の玄怪録「岑順(小人の戦争)」の上将のルー
ルの部分を読んでいたとみられる。

では、説明を以下に書く。本ブログで前に述べたよう
に、横行の中国語の意味を、陰陽寮に居たと推定され
る、平安大将棋のゲームデザイナーは、知っていて、
平安大将棋に加えたと考えられる。その際本ブログ内
では、その情報の入手元について言及しなかったが、

平安大将棋のゲームデザイナーも、横行の意味を、
牛僧儒の玄怪録「岑順(小人の戦争)」から学んだ

と考えて、不思議は無いように思える。なぜなら、彼
には、将棋ゲームをデザインするように、本当の任務
の占いや、天体観測とは別に特務が、与えられた
からである。なお、横行の意味が一般人に明らかにな
るのは、さいきん私が調査した所では、南北朝時代の
庭訓往来からだ。しかも、

陰陽寮に、中国の希少書の”太平広記”が、たまたま
あったというのは、いかにも有りそうな話

だ。明らかに、本業で参考書として使用しそうな、
内容の本だからである。
 だから、陰陽五行説の影響で、初期配列からは、
五亡星型に駒が動くように設計されている、
その影響の大きな平安大将棋を作成したデザイナーが、
朝廷の陰陽寮の人間だとすれば、彼が、横行とい
う駒を導入するときに、そうすると良いのに気がつい
た文献が、太平広記の牛僧儒の玄怪録「岑順(小人の
戦争)」の中の、上将の動きのルールで、出てくる動
詞の横行であって、不思議だとは余り思えない。
 恐らく、デザイナーは、
上将という名から、玉将の前升目に置く駒を連想し、
玉将の前升目に、ずばり上将を置いたのでは、将とい
う名の駒が多くなりすぎて、

紛らわしいので、動詞の横行を、名詞と見方を変えて、
上将を入れるべきところに、横行を入れた

と見て、間違い無いように私には思える。
 逆に言うと、駒の動きや五種類将である点からみて、
ゲームデザイナーが、陰陽道関係者とは推定できたが、
太平広記の読者となれば、ますます、その可能性が高
くなるのだろう。
 ほとんど、答えに近い所まで到達していたが、今ま
で以上の指摘を、本ブログでは全くした事が無かった。
この点、むしろ不思議な位だったと思う。(2019/05/17)

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日本の小将棋を3段配列にしたそもそもはどこの国(長さん)

本ブログによれば、日本の将棋が3段配列なのは、
元々雲南の将棋だからで、そのままの継続の結果
という事である。では、そもそもの3段配列が、
インド原初将棋の2段配列から変化したとして、
そもそもの発明国、インベンターのデザイナーは
は、何処の国の者なのかを、今回は論題とする。
回答を書いて、更に説明する。

ミャンマーのシットゥインがオリジナルと見ると、
アジアの将棋は理解しやすい。

なお、発明は8世紀であり、理由は
(1)序盤の手数の短縮のため。

それが、歩兵列を上げる事により他の効果として、
次の別の2つの効果も持つため、そのうちの(2)
を、日本の小将棋では使用した。

(2)中盤、金塊が盤上に早く並ぶ。(雲南で、
9世紀に気がついた。なお(2)の用途が、雲南で
だけ活用できたのは、山間部まで、その前9世紀ま
でに、イスラムシャトランジが浸透せず、インド
チャトランガの”王に近い副官”が、残ったためで
ある。)
(3)砲の”横兵取り攻撃”を、馬で守りやすい。
(中国中原開封付近で、11世紀後半に気がつく。)

では、以下に説明を加える。
 ミャンマーが震源地と考えると判りやすいのは、
13世紀にモンゴル帝国に押されて、タイ人が、
雲南からタイへ南下したときに、

カンボジアでは4段配列を捨てたが、ミャンマー
のゲームデザイナーは、兵ラインの配列を変えな
かったとみられる事

が根拠だと考えると、正しいかどうか以前に、東南
アジアの象棋自体を理解しやすい。(1)が、兵段
を上げる動機として、最も始原的なので、オリジ
ナルが、どの国のゲームなのかを考えるときには、

ミャンマーのシットゥインとカンボジアの9路
シャッツロンの2托になる

と考えられる。どちらなのかの決め手になるのは、
タイ民族が、13世紀、モンゴル帝国の侵攻に押
されて、東南アジアに大量移動したとみられるとき
に、マークルック型の兵3段目配列に、歩兵列を
逆に、やや後退させたかどうかだと、私は思う。

変えて居無い、ミャンマーは、ナショナルオリジ
ナルの自負が、兵配列に有ったので、駒の動かし方
ルールは、タイの象棋をかなり取り入れたが、配列
は上げたままだった

と考えられる。それに対して、カンボジアの方は、
11世紀にシャンチーが成立して、ヴェトナムから
広がってくると、中国シャンチーは(3)の理由で、
兵を4段目にしたのだが、ミャンマー流に合わせて
(1)の理由で、シャッツロンの兵を4段目とし、
交点置きだけ、中国流を取り入れたと考えられる。
12世紀の頃の事だろう。
 ところが13世紀になって、タイ人が、元王朝
に圧迫等されて、それまで以上のペースで、大量に
民族移動してきた。そして彼らが(2)が元々で、
(1)に切り替わりつつあるという状況で、兵を
3段目に上げた、マークルックを持ち込むと、

カンボジアでは(2)の要素が入っている、混じ
り物”将"棋である事を余り気にせず、タイの
象棋の初期配列に、多勢に無勢で変えてしまった。

しかしながらミャンマーでは、タイ式の初期配列を
13世紀以降も真似なかったのは、ナショナルオリ
ジナルに対する自負と、(2)が混じりこんでいる
事に対する不快感が、強かった為だろうと見られる。
金の誘惑におぼれない、上位座仏教国の誇りも有っ
たのかもしれない。
 この事から考えて、兵の段数を上げていったのは、
ミャンマーがオリジナルだと考えると、判りやすい
ように、私には思える。

何れにしても、純粋の(2)を事実上維持したのは、
雲南の将棋の遺児である、日本の平安小将棋だけ

だったと、ここでは見る。
 ウェトナムは中国シャンチー型に、結果としてな
ったし、インドネシアの島嶼等では、イスラムシャト
ランジの初期配列そのものが、インドの古象棋の一
種同様残ったと、聞いている。
 なおこの論は、とてもアバウトなものである。
 たとえば今までの説明で、ラオスやマレーシア、
フィリピンが出てきて居無い。しかし、いわゆる東
南アジアの象棋類の内容を、大づかみで理解する上
では、大国のうちの一部が抜けているものの、上記
のように背景を認識すると、全体的内容は、割と
理解しやすいように、私には思える。(2019/05/16)

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