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南北朝時代(西暦1356年)の貴族の将棋の記録(長さん)

南北朝時代には異性庭訓往来や遊学往来(続庭訓往来)等の
教科書物に、大・小将棋の記録があるほか、太平記で、九州
少弐氏が少将棋の将棋盤と思われる物を、所持していた等の
記録があると、認識している。ただし、将棋種を特定できる
ような、史料は乏しい。鶴岡八幡宮出土の成楷書奔王鳳凰駒
が、後期大将棋の存在を示唆しているほか、小山市神鳥谷曲
輪、成り一文字金角行駒が、摩訶大大将棋系の将棋の存在を
示唆している程度である。小将棋で、時代の長さが限られて
いる南北朝時代と、ぴたり特定できる駒は、京都市南区上久
我駒が酔象かどうか、はっきり私は断言する情報を個人的に
持たないので、むしろ酔象で無いとか、小将棋の変種で酔象
が使われたとか言うと、小将棋の証拠にはなるかもしれない。
そもそも、小将棋の遺物の存在は、はっきりとは聞いた事が、
無いように私には認識される。
 他方、南北朝時代の北朝方の公家で、武家方との取次ぎ役
をしていた高官の、洞院公賢という、藤原氏の子孫のがおり、
以下の成書に、日記”園太暦”の紹介がある。その日記
”園太暦”の西暦1356年2月27日の所に、

将棋が出てくる

との事である。近年著作の紹介文献は、以下の通り。
 林屋辰三郎著。”内乱のなかの貴族”角川選書(1991)
記載は、第十章戦争と平和の四”幻夢の世情”の最初の方に
ある。正確には、

”将棊興”と書いてあるらしく、将棋種は残念ながら、特定
できない

ようである。
 仮に”中将棊興”と書いてあったなら、遊学往来より早く
なり、将棋史上重要な文献になった事であろう。この日記は、
上記成書によると、戦国時代の公家で、将棋を愛好したので
著名な、甘露寺親長が日記の保存に絡んでいるため、選択的
に、将棋の記載が残される可能性が、むしろ高いとみられる。
そこで残念ながら南北朝時代に、藤原貴族の間で、将棋が極
めて盛んだったという証拠とまでは、言えないかもしれない。
 将棋種は、当てずっぽうだが、9升目36枚制の標準型の
平安小将棋で、持駒有りのルールなのかもしれないと思う。
 前に、小山義政に関連する、冒頭で言及した、栃木県小山
市神鳥谷曲輪角行駒は、小山義政は40年強保管しただけで、
もともとは、小山氏の殿様で2代前の

小山朝氏が西暦1340年頃に近衛経忠より贈答されたもの

ではないかと、述べた事があった。近衛経忠は南朝方の藤原
長者のため、

大覚寺統関係者の貴族は、鎌倉時代末の亀山天皇時代の、
良季の作成した、普通唱導集大将棋を南北朝時代に引き続い
て指し、
持明院統関係者の貴族は、南北朝時代作の15升目の大将棋、
中将棋、標準型平安小将棋を指す

といった、何か傾向があるのかもしれない。ちなみに持明院
統の後深草天皇は、鎌倉時代末の西園寺公衡の日記により、
”遺品に小将棋の将棋盤がある天皇”というので、良く知ら
れている。何れにしても、南北朝時代の将棋を記載した公家
等の日記文書等の資料は、余り例が無いと見られるため、
”いろいろな種類の将棋が有った”とされる、南北朝時代の、
洞院公賢の日記”園太暦”に現われる、

将棋種が謎の、”将棋興”の記載も、一応記憶に留めて置く
べき

ありがたい情報のように、私には思えた。(2018/10/16)

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徳島県川西遺跡奔横駒。奔獏駒だったとして大大将棋の駒なのか(長さん)

徳島県徳島市近郊の中世鎌倉時代中期の遺跡、川西遺跡より
出土した奔駒を、本ブログでは”不成り奔横”と読んでいる。
しかしながら、研究者によっては本横や奔獏と読むケースが
ある事については、以前述べた。本横と読めば、従来の将棋
種に前例が全く無いので、この駒の価値が減じる事は無い。
しかし、

奔獏と読むのは、大大将棋の駒ではないかとの推定が出来る

ので、旧来の将棋種の知見中に、いっけんするとこの発見が、
収まってしまう、かのようにも見える。
 今回は、この徳島の奔駒が、本ブログが考えるように奔横
ではなくて、仮に奔獏だったとして、この”出土駒が大大将
棋の駒である”と結論できるのかどうかを、論題にする。
いつものように、最初に回答を書いて、その後説明を加える。

結論できない。大大将棋は鎌倉時代には、存在しなかったと
考えられる。

では、以下に、以上の結論について、本ブログの見解を述べ
る。
 理由についても最初に答えを書いてしまうと、大大将棋が
室町時代以降に発生したと、少なくとも本ブログでは考える
のは、

盲猿の成りの山母が、室町時代にならないと、発生しない
妖怪、”山姥”の事

だからである。
 なお、山姥が山母になったのは、将棋の駒は音読みの方が、
体裁が良いので、字を姥から母に入れ替えたためと見られる。
 また、大大将棋の盲猿の成りが、山母であるというのは、
初出が安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄である。
 大大将棋が、鎌倉時代に無いと言うのは、この点の指摘が
最も平易だと、私は考える。なお、本ブログでは、大大将棋
の発生は、水無瀬兼成が生まれた後であろうと、推定してい
る。というのも、
(1)泰将棋の猛鷲が、本来の天狗と対になる、2回走り駒
の元駒のように見え、
大大将棋は、水無瀬兼成が、泰将棋を作成する少し前に、
プロト泰将棋として、助成者が水無瀬兼成が、豊臣秀次に献
上するための、泰将棋作りの手助けをしたという痕跡の疑い
を持っているからである。その他、大大将棋が古くないとい
う証拠として、以前このブログでは、
(2)盲猿という駒名の、古猿よりも起源が前の将棋種であ
るかのように、見せかけては見たものの、そもそもその駒名
自体の、将棋駒種名としてのおかしさ。
(3)老鼠の成りの、摩訶大大将棋の蝙蝠は、大大将棋成立
時の、古時鳥と、各々の将棋種成立よりも後の時代に、交換
されているではないかとの疑い。
以上の3点を挙げた。
 が、(1)~(3)は、山母の論よりも判りにくく、少な
くとも、川西奔”□”駒の時代に、大大将棋が無いという
論理としては、”盲猿の成り山母の室町時代以降の発生”の
方が簡単だろう。
 何れにしても仮に、徳島県川西の奔”獏”駒が、大大将棋
の駒であると将に主張する研究者が、今後出てくるとすれば、

山母の出現時期の問題に、言及すべきである事だけは確か

であろうと、本ブログでは断定する。つまり、奔獏だったと
しても、出現時代が早すぎて、大大将棋の駒では、説明でき
ないと見られるため、

川西の奔横駒は、たとえ奔獏と読むのが正しかったとしても、
将棋史に重大な影響を与えた発見である事に、変わりは無い

と、この出土を、少なくとも本ブログでは、極めて高く評価
しているという事に、なるのである。(2018/10/15)

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藤原頼長と無関係な東山区安井金比羅。鎌倉時代の観勝寺は違う(長さん)

表題に書いたように、webの情報を見る限り、京都東山区の安井
金比羅宮は、崇徳上皇と関連し、また平安時代の源頼政を祀るが、
恐らく平安大将棋を指した、保元の乱の関連者、藤原頼長を祀って
いるとの情報は無い。しかしながら、この状況が、鎌倉時代の
普通唱導集編者の良季よりも前、鎌倉時代前期、後鳥羽上皇の頃
になると、

一変する

との情報があった。鎌倉時代前期には、本ブログの表現での
”東山区の”観勝寺は、崇徳院社と呼ばれ、保元の乱で敗れた、
崇徳上皇と藤原頼長とを、

実は両方とも祀る宗教施設

であったという情報が、下記の成書にあるためだ。

㈱平凡社(1997)「京都・山城寺院神社大事典」(下中弘)。

つまり、良季は、崇徳上皇の霊だけ鎮める、後の安井金比羅とされ
る”東山区の”観勝寺に居たからではなく、

崇徳上皇と藤原頼長の2名の霊を、同時に鎮める

崇徳院社(関連)の僧であったから、大将棋を指した藤原頼長の霊
を鎮める、立場に居たという事になる。
以上まず、言いたい事を先に書いたので、以下に補足説明を加える。
 論を判りやすくするため、時系列で、普通唱導集に大将棋を記載
した僧、良季の居た、後の京都東山区の安井金比羅宮の一部として
の”東山区の”観勝寺の歴史の流れを成書に従い振り返る。すると、
以下のような経緯で、結局安井金比羅宮の一部になったようである。
 ㈱平凡社(1997)「京都・山城寺院神社大事典」によると、
”鎌倉時代の早期に、後白河上皇が、京都市左京区にある聖護院の
位置に、保元の乱で破れて、霊が怪奇現象を引き起こしているとさ
れる崇徳上皇と、藤原頼長とを共に祀る、崇徳院社を設立した。”
とある。が、この宗教施設は、設立後数十年で荒廃してしまった。
 そこでモンゴル帝国の来襲の少し前、在来仏教の僧とみられる
大円上人が、前記の崇徳院社を、

”東山光堂光明院”と名前を変えて、京都市左京区の東岩倉山
で再興したと、「京都・山城寺院神社大事典」には書かれている。

その際、大円は東岩倉山に元々あった、”左京区の”観勝寺を、
”モンゴル帝国の来襲を防ぐ、勅願寺にしたい”との、亀山天皇~
上皇の意思を恐らく受けて、それに協力し、

ここで言う”左京区の”観勝寺をもまた、整備した(中興した)。

そしてその際、”左京区の観勝寺”も、”東山光堂光明院”も両方
東岩倉山に置いた。すなわち、先に述べた、実質的に”崇徳院社”
である”東山光堂光明院”は、亀山天皇勅願寺の左京区観勝寺の
子院として”東山光堂光明院”という名称で、

同じ場所に置かれた

というのである。つまり、安井金比羅を説明する、”東山光堂光明
院”関するwebの情報は、

”東山光堂光明院”という名称だからと言っても、現在の行政区の
京都市東山区に、元から有ったとも断言できない

と言う事である。そしてその、東山光堂光明院という、モンゴル帝
国退散祈祷の勅願寺の子院の僧として、普通唱導集編集者で、
真言密教僧の良季が、ちょうどモンゴル帝国来襲の頃に、在来仏教
僧侶の大円の居る、京都市左京区の東岩倉山に住んで、唱導集の編
集を始めていたとみられるというわけである。結局その普通唱導集
は、来襲より20年近く経った、西暦1300年頃に、ようやく完
成したようだ。
 なお上記成書によると、鎌倉時代中~後期、”左京区の観勝寺”
と、同地の子院、”東山光堂光明院”との関係は、

”互住一味和合之思、

不可有偏執驕慢之意”とされたそうである。
本ブログの認識では、”左京区の観勝寺”は東大寺系在来仏教、
”東山光堂光明院”は真言密教だったはずであるが、交流があった
どころか、ある場所がいっしょだったのである。
 その後、戦国時代に入り、応仁の乱により、結局”左京区の観勝
寺”も”東山光堂光明院”も荒廃してしまった。後に江戸時代にな
り、崇徳上皇ゆかりの神社として設立された、安井金比羅宮が中興
され、更に少したったときに、東山区の

安井金比羅宮に”左京区の観勝寺”も、本ブログの表現での、
東山区の観勝寺、すなわちイコール”東山光堂光明院”も、両方と
もに取り込まれてしまい、

ついで、明治初年の神仏分離令により、両方の観勝寺共に消滅して、

後継の安井金比羅宮が、崇徳上皇の霊は鎮めるが、藤原頼長が特に
出てこない神社として残った

という経緯のように、「京都・山城寺院神社大事典」には書かれて
いるのである。
 以上の事から、

鎌倉時代に、普通唱導集編集者の良季の居た”東山光堂光明院”は、
藤原頼長をも、現在の安井金比羅宮とは違って祀っていた

事になる。ので平凡社の「京都・山城寺院神社大事典」を読む限り、
”東山光堂光明院”は、実質同じ、崇徳院社に藤原頼長への弔いが、
崇徳上皇に加えて存在していたため、

鎌倉時代には平安大将棋系の将棋にどんぴしゃ関連する、密教系
の寺だった

と見て間違いないように、少なくとも私には思えてきたのである。
(2018/10/14)

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本ブログ普通唱導集大将棋。麒麟酔象鳳凰の配列は実在するのか(長さん)

本ブログの大将棋モデルでは、2段目の、平安大将棋に元々有る
2枚の猛虎の間に、左から麒麟、酔象、鳳凰と並ぶ配列が仮定され
ている。が、このような将棋は、

日本の将棋としては、他に全く知られて居無い。

示唆しているのは、後期大将棋で、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄に
準拠する限り、成り駒が麒麟、酔象、鳳凰と3枚だけであり、後期
大将棋では、この3枚がばらばら、本ブログの推定する普通唱導集
大将棋では、2段目に3枚が並ぶという、それらしさだけである。
 今回は、当の鎌倉時代に、麒麟、酔象、鳳凰、厳密には、
麒麟、釈迦(太子)、鳳凰という組合せが、古文書文献で示唆され
る例がある事につき紹介する事にしたい。なお、他の時代のもので、
麒麟や鳳凰が出てきて、釈迦に関連付けられる古い文書の文例は、
古語辞典の類等に出てくるが、時代が普通唱導集からは遠かったり、
中国の書物に出てくるので、証拠にならないものが多いと考える。
ともあれ、証拠となる文書は、以下の物である。

摧邪輪(一向専修宗選択集の中において邪を砕く輪)巻下(2/3
ほどの部分)。著者:高弁(東大寺~高山寺の僧。別名”明恵”)、
西暦1212年著(鎌倉旧仏教、岩波書店、1971年に記載。)

箇所は、”設我雖(下)作(二)此書(一)防(二)菩提心(一)
以(二)正道門(一)喩(中)群賊(上)、世有(下)如(二)
汝等(一)之罪人(上)、道心不(レ)可(レ)絶、聖道不(レ)
可(レ)滅、何強致(ニ)憂愁(一)乎。”という著者高弁の自問
いに対して、彼が答えた部分の一部である。

”昔より大人(聖人)が世に出るとき、鶏鳥は鳳凰を孕み、牝馬は
騏驎を産すと聞く。”

と記載され、聖人が出現するときに、麒麟と鳳凰が共に現われる事
が、西暦1212年の史料に書かれている。中国の言い伝えとして、
前から、似た構文は在ったと見られるが、日本で鎌倉時代に、麒麟・
鳳凰が、聖人と同時に出現するとの説が、注目されていた事を示す、
上は一例とみられる。ここで、麒麟だけ、鳳凰だけの片方のみだと、
麒麟、酔象、鳳凰と、将棋駒が並ぶ配列が考え出せるという証拠に
ならないと見られる点が、重要である。

なお、高弁、別名”明恵”は仏僧であるから、聖人とは仏教上の
聖人、つまり一例では、釈迦のような人物を指す事は、明らか

である。このフレーズから、麒麟、釈迦(酔象)、鳳凰が鎌倉時代
に3つ並ぶ将棋が、不自然で無い事が、証明できると見られる。
 なお、自問いの内容については、答えからほぼ想像できるが、
難しい字が無い割りには、レ点や一ニ点の他に、上中下点まで出て
きて、漢文が構造として難しく、私には正確には把握困難である。
 この文書は前に、鎌倉時代初期の興福寺の賭博に関連して紹介し
た、”興福寺奏状”と同じく、法然が開祖となったの浄土宗に、
打撃を与えるために作成された、在来仏教側の反撃文書であり、
この文書には浄土宗の悪口が、延々と書かれている(らしい)。
 ちなみに、この”昔より・・”一文は私が読み下したので、正し
いかどうかは、確約できない。書いてあった、岩波書店の”鎌倉旧
仏教”には、”摧邪輪(一向専修宗選択集の中において邪を砕く輪)”
は巻上だけ、田中久夫氏の校注が載っていて、巻中と巻下は漢文に、
返り点等が付いた文が、載っているだけだった。解説部分を読むと、
著者は、3巻をいっきに書いたのではなく、それぞれの巻が、だい
たい同じような内容で、別々に3回書かれたものらしい。このケー
スについては、

探していた文の表現が単純だったので漢文だけ載っていれば済んだ

のが、幸運だったと言う事だと、私は認識している。(2018/10/13)

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京都の安井金比羅宮は、東山区の観勝寺と左京区の観勝寺を吸収(長さん)

西暦1300年頃の大将棋を記載する、普通唱導集の編者良季は、
京都市の東山区に在り、後に安井金比羅宮となった、真言密教の
寺院、光明院観勝寺の住僧だったとの情報が、webに有る。
 崇徳上皇を祭った寺であり、その御前で藤原頼長が大将棋を
指した事で知られるため、少なくとも本ブログでは、良季が、
普通唱導集に、小将棋だけでなく、大将棋の唱導をも載せる、動
機になったのだろうとみなした。
 ところで、良季の時代は、モンゴル帝国の伸張と、日本への
来襲で有名な、鎌倉時代中・後期であり、龍神や釈迦を日本の守
護神や守護者と見なして、祈祷をした事に習って、平安大将棋の、
従来の空き升目等に、龍王、龍馬、成太子酔象を導入する、動機
になったのであろうとも、本ブログは見なした。しかし東山区の、
崇徳上皇が主の観勝寺で、蒙古来襲の祈祷が繋がるという保障は
無く、108枚制の将棋が密教金剛界曼荼羅と関連するとしても、

中身の駒種類を特定する情報には、乏しかった。

ところで最近、これに関連して、以下の成書から、安井金比羅宮
は後に、もう一つの京都の観勝寺を吸収して、2寺合体で成立し
たとの情報を得た。

㈱淡交社(1984年)「京都大事典」佐和隆研他編集

上記書籍によると、左京区粟田口大日山町の東岩倉山に、もう一
つ観勝寺があり、のちにこちらの寺は、東山区の安井金比羅宮に、
近世にだけ、存在したという。この寺は、”もともと東山区の
安井金比羅宮にあった”と、webの情報からは読み取れる、
崇徳上皇を祭るための、”普通唱導集編者の僧良季の居た観勝寺”
と、繋がりが当初からあったようで、

左京区の方は亀山天皇の勅願寺で、奈良東大寺系の在来仏教の寺

だったと、されるようである。
 今回の論題は、普通唱導集製作の時代に、真言密教の寺だった
とみられる、東山区の観勝寺が、亀山天皇の勅願寺とみられる、
京都左京区の観勝寺と(関係は、wikipediaの、”安井
金比羅宮”の注釈を読んでも、私には完全には理解できないが、)

両方の観勝寺が関連する事から、どんな結論が得られるのか

とする。まずは答から書く。
亀山天皇が良季の時代に、左京区の観勝寺で勅願したとすれば、
護国の札を作成して、方々に配布していた事で著名な

亀山天皇は、京都市左京区の観勝寺で、モンゴル帝国軍の壊滅を
祈ったとみて間違いないから、良季の言う大将棋には、龍王、
龍馬、成り太子酔象駒が有る方が、より尤もらしい形である

と結論できると考える。では、以下に上記結論について説明する。
 まず、モンゴル帝国退散の祈祷の際、龍神を日本の守護神と
考えて、その力にすがった事については、たとえば、

岩波新書831、岩波書店(2003年)「龍の棲む日本」
黒田日出男

の、本カバーの題目の左部分にも書いてある。長野の諏訪大社が、
モンゴル帝国軍壊滅の祈祷をする際、龍神を守護神に据えた事等
も上の書籍の本文にはある。昔は神仏混合だったので、亀山天皇
が、寺で勅願する際も、八百万の神のうち、強そうな神仏である、
明王や龍神を選んで、異国排除の祈祷をしたと考えられる。
 この亀山天皇ゆかりの京都左京区の観勝寺は、良季が普通唱導
集を編集するときに居た、密教曼荼羅の寺院、東山区の観勝寺と、
寺の本末関係は、むしろ亀山天皇の勅願寺が上とみられるが、隣
組の関連寺であったと、当然みなせるのではないかと、私は思う。
 従って、108煩悩と金剛界曼荼羅に絡んで、13升目のまま、
ただし68枚制から108枚制に変化したとみられる普通唱導集
大将棋には、

亀山天皇のモンゴル帝国退散を支援するように、龍神としての、
龍王、龍馬が在り、また仏教の本尊であり、仏教徒の心のより
どころである釈迦を成りとする酔象が、西暦1300年の大将棋
にはあったと考えた方が、良季のいた環境上、より相応しい

と、私には思える。
 そして、酔象を玉将の上に置けば、横行は端列に移さざるを得
ず、対で堅行を作らないと釣り合いが取れないため、それはでき、
関連して、角行も生じると見るのが自然である。だから、
普通唱導集大将棋の第3段目の配列が、13枚の駒が並んで、
飛車、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、
堅行、横行、飛車という、行き所のルールについても、規則的な
配列になるのは、必然なように、私には思えるのである。
 つまり、単に真言密教の寺だったばかりでなく、関連する寺と
して、モンゴル帝国来襲の排除の、皇族の祈祷寺ともグループを
作っていたという寺に住んでいたので、普通唱導集の大将棋の唱
導を編集した良季は、

本ブログの13升目108枚制普通唱導集大将棋が、ピタリと決
まった環境に、大将棋の唱導唄を作成したときには居たはずだ

と、少なくとも私はそう思えるというのが、結論となるのである。
(2018/10/11)

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中将棋。初期配列2段目盲虎と角行の間が、空升目なのは何故(長さん)

中将棋には、初期配列で、中段に空升目がそれぞれの側に4箇
所ある。表題の二段目盲虎と角行の間、および同じく2段目の
角行と反車の間である。左右あるので先手後手それぞれにつき、
4箇所になる。このうち後者については、原因に関して本ブロ
グの見解を既に述べている。元々、角行と反車の間に猛豹があっ
たのだが、現在猛豹の居る位置に居た、鉄将が除かれて猛豹が、
猛将と洒落た上で、位置が1段下がったというものである。理
由は、堅行が龍馬+角行の筋にあたっていて、睨まれているた
め、退避升目を作るためと、そのとき述べた。では残りの、盲
虎と角行の間の隙間(空き升目)が、何故生じたのかを、今回
は問題にする事にしよう。
 最初に何時ものように、本ブログの見解を書き、以下でその
説明をする。
 そこで、回答を書く。もともと中将棋では、不要として

仲人を抜く予定だったが、それをやめて問題の升目を空にし、
96枚制の将棋を作成するため

だったと、ずばり本ブログでは推定する。
 では以下に、以上の結論につき説明する。

本ブログでは、中将棋は当初、4段組でびっしり駒を並べた配
列にしようとした

と考えている。理由は、12升目が干支の数で、暦と将棋の関
連性に関する、北周の武帝の言い伝えと良く合うし、8段分駒
を集めて96枚にするというのは、24節気と72候のずばり
和であって、たとえば他の例として、大大将棋と摩訶大大将棋
の駒数の半分であり、その理由も一緒であるから、当然さいしょ
は、そのような将棋を作りそうだという点が指摘できる。中将
棋成立の経緯が、完全に残っていたとは考え難いが、江戸時代
19世紀の中将棋の将棋本、中将棋絹篩にも、
”これ(中将棋)すなわち縦横12(升)目なれば、十二支を
もって合文(思想を表した)とす”とあり、”12升目は干支
にちなむ”という説明があるから、時代に関係無く、誰でも考
えそうな話には、間違いは無いと私は思う。

そして96枚というのが、12の8倍である事から、4段組の
将棋を作れば、24節気と72候の和の96で、ちょうど良い

将棋になる事は明らかだった。
 ところが、最初使用しない予定だった仲人は、龍馬+角筋を
止めるために、普通唱導集の大将棋の第2節に唄われているの
と原理はいっしょで必要なのに、中将棋のデザイナーは、試行
するうちに、気がついたのであろう。そのため

仲人下の2段目の駒を取り除いて、96枚は変えずに、2升目
歯が抜けたような将棋に、結果として、せざるを得なかった

と、ここでは推定する。
 以上の事から、

中将棋では本来のプロトタイプになった形が、本ブログの推定
する、駒が4段でびっしり詰まった、108枚制の普通唱導集
大将棋(本ブログ推定タイプ)

のように、隙間無く駒を並べた将棋であっただろうと、推定で
きるように思える。96枚制の将棋を作るという動機は、将棋
の起源が、暦学と関連するらしい、象経だという伝説から考え
ると、暦に現われる数に関連付けたくなるのは自然だから、

袖にもともと隙間のあるような、後期大将棋から、中将棋が作
られるという考えは、12升目にする意味が不明で不自然

と、本ブログでは見るのである。そもそも、角行と反車の間の
隙間と、盲虎と角行の間の隙間は、結果として、一つおきの隙
間であって良い意匠にはなったが、各々について、その存在が

必然かどうかは、2種類の隙間について、それぞれ別々に考慮
したと、私には疑われる

という事である。だから本ブログでは、

中将棋が後期大将棋から生まれたのではなくて、後期大将棋の
方が、中将棋の袖の市松隙間模様を手本にして、それ以前の、
中間的な大将棋、すなわち普通唱導集大将棋から作られた

のだと、いう結論になる。
 さらに言えばそれ以前に、そもそも

現在の中将棋は92枚制だが、それ自身が不自然

という事が現に有ると、私は思う。12升目にして1年の月の
数に、盤の一辺升目数をなぞらえたのならば、駒の総数も、
24節気とか72候とかそれらの和とか、暦に関連する数に、
合わせるのが本来は自然だった。だが実際にはそうならなかっ
たのは、後の調整の結果だと、私は思っているという事である。
(2018/10/11)

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平安大将棋は、なぜ3段配列から4段配列になったのか(長さん)

二中歴記載の平安大将棋は、3段配列と4段配列のケースがある
ため、歩兵の段数が明確に記載されて居無いというのが、本ブロ
グの見方である。
 一般には3段配列が有力であるが、中間段が7段では多すぎて
不釣合いであるから、中間段が5段になる、4段配列だったので
はないかという、議論がある。そのケースは、

4段配列にしたのは見栄えの為

という事になる。4段配列の初期の提唱者、溝口和彦氏は、横行
を3段目に、猛虎を2段目に、そして、飛龍を鉄将の上の3段目
に配列する方式を、彼のブログでだいぶん前に、発表している。
彼もまた、4段配列は見栄えのため、最初から4段配列だったと
見ていたようだ。
 本ブログでは、平安大将棋が何故あるのかという、そもそも論
から、平安小将棋と同様、多数派である、3段配列から出発した
とみる。そして、4段配列にしたのは、ゲーム性能がややマシに
なるためだと、前に表明した。しかし、その後考えてみると、
本ブログの4段配列の平安大将棋は、溝口モデルと異なり、

主に飛龍が、鉄将の2つ前の升目ではなくて、桂馬の2つ前の升
目としたため、互いに睨み合っていない

という点が、かなり違っている。その結果、猛虎と飛龍が筋違い
ではなくなり、猛虎と飛龍の連携は良くなるのだが。致し返しで
先手が、飛龍先の歩兵を上げた第一手目で、初期配列のままでは、
後手にとっては、自分の繋ぎ駒の無い歩兵に、相手の飛龍が当たっ
ているという、好ましくない事が起こる。だから、先手は飛龍先
の歩兵を上げるが、後手は、猛虎で、繋ぎ駒の無い、当たった
歩兵を守る手を指さなければなら無い。
 具体的に、左右の飛龍先の歩兵を上げると、4手目には、以下
のような局面になるのである。

4段平安4手目.gif

 つまり、4手まで先手が攻める一方、後手が守る一方となる。

これでは、先手必勝とまでは行かないにしても、先手有利な、
性質の悪いゲームになりはしないかという、懸念があるかもしれ
ない。
 そこで、今回の論題は、少なくとも

本ブログの、4段配列の平安大将棋はゲーム性で、難が無いのか

としよう。
 いつものように以下回答を先に書き、次いで説明を後で加える。
そこで回答を次に書く。

難は無い。この後5手目に、先手の攻めの継続手は無い。

 次に説明を書く。実は、平安大将棋では、4段歩兵配列にし、
注人を5段目に持ってくると、上の局面から、先手が5手目に、

▲7六(f)飛龍(左右どちらでも良い)が、指せない

のである。後手の注人で、△同注人と只取りになるからである。
なお、図では奔車が反、注人が仲になっているが、何れも間違
いだ。なお図から、先手は5段目に上げた両歩兵を4段目に戻
し、後手は、猛虎を先手と同じ形に下げると、初期配列になる。
つまり”二枚飛龍で相手陣の一点狙い”という手が、この将棋
には存在しない。更に、岩手県平泉の志羅山遺跡の両面飛龍の
出土駒が示すように、平安大将棋の飛龍は、桂馬と奔車を動か
す手を一手づつ入れ、狙われた駒が筋を変えてしまうと、それ
で取れなくなる。なぜなら、

角行動きだが、飛龍は相手陣で成れない

のである。だから、この局面から5手目以降に、先手に有効な
攻撃の継続手は、無いのではないかと私は疑っている。つまり、
この局面の後は、桂馬を上げる等の、攻撃陣を揃える手を、先
手は指さざるを得ず、後手が今度は飛龍を上げて、

9手目の所で、先手後手同じような形になってしまう可能性が
高い

と、私は見る。つまり、4手までは、確かに先手が先行するの
だが、この将棋の場合は、

先手が出だし、攻撃し、続けるような将棋になる事が無い

と、少なくとも私は思うのである。そして実際には、一旦鉄将
等で繋ぎをつけ、飛龍で取られるのを避けながら、猛虎を相手
飛龍に直射させたのちに上げてゆくと、今度は味方の飛龍の先
に、猛虎が進む形となって、じわじわと戦闘が始まる、将棋ゲー
ムとして好ましい形になると、みられる。繰り返すとそのとき、
桂馬や奔車が、相手飛龍の攻撃筋に無いように、予め動かして
おけば、早い時期から、相手飛龍の攻撃に晒されることも無い。
以上の事から、上の局面が第4手目になる、歩兵4段配列の、
平安大将棋(恐らく西暦1170年頃の改良型)は、

元の3段目配列の平安大将棋(西暦1110年頃)に比べて、
ゲーム性が、少しマシなので、4段配列に移行した

のだと、本ブログでは今の所見ている。それが正しいかどうか
の決め手は繰り返して言うと、上図で示した、この将棋の先手

第5手目の局面で、手前側の先手に、攻めの継続手が有るのか
どうかにかかっている

と、本ブログでは見ているのである。(2018/10/10)

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奈良の興福寺で西暦1200年頃に盤双六と”囲棊”が行われた(長さん)

将棋という語が出てくる文献では無いのだが、西暦1200年、
ちょうど二中歴が成立した時代の史料として、興福寺に於いて、
盤双六と、”囲棊”が行われたと、疑われる文書が存在する。
 文献は、興福寺の僧の貞慶が、西暦1205年に、浄土宗の
法然を”邪教の教祖として、流罪にせよ”と主張した、
興福寺奏状の、罪状9箇条のうちの、第8箇条目の冒頭の部分
である。岩波書店1971年発行の、日本思想体系「鎌倉旧仏
教」、田中久夫氏校注によると、そこには次のように書いてあ
る。

(浄土宗)の云く、「囲棊双六は専修(浄土宗)に乖(そむ)
かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり。
恐るべし、悪(憎)むべし。もし人、罪を怖れ(て)、悪(業)
を(行う事を)憚(はばか)らば、是(其)れ、仏を憑(たの)
まざるの人なり」と、此のごときの麁言(そげん)、(浄土宗
は)国土に流布す。(後略)

田中久夫氏の読み下し文であるが、漢字が難しく、上の読みを
旺文社の標準漢和辞典(学生用)で引いて、ようやく、どうい
う悪口なのかが、私にも理解できた。なお、”市中の虎”とは、
”危険な者”との意味であろう。少なくとも、余り私は聞いた
事が無いが、「”戒律などあると、危険である”と、浄土宗の
法然が言っている」という噂を、奈良の興福寺では、当時流し
ていたようだ。
 ところで問題なのは、その戒律で禁止されている事柄のトッ
プに、この例では、女犯・肉食・飲酒等、有名な戒律ではなく
て、囲棊双六という、私には外来仏書の内容としては、余り聞
いた事の無い、賭博が出てくる事である。鎌倉旧仏教の中で、
著者の一人の田中久夫氏は、

仏教研究者の間では、興福寺で鎌倉初期に、囲碁や双六が下級
僧侶によって遊ばれ、飲酒が盛んで退廃していた事は、良く知
られる

との旨を指摘されている。つまり、仏教の戒律で禁止されてい
る事柄には、昼に病気でも無いのに横になってはいけないとか、
僧の衣服は最低量しか保持してはいけないとか、いろいろある
はずなのに、興福寺では、賭博の範疇と見られる、

囲棊双六を下っ端僧侶がするという違反が、西暦1200年頃
には、最も目立っていた

ので、海竜王寺同様の禁止令が在った、という事なのであろう。
 ところで、通常”囲棊”は、囲碁だろうが、興福寺の出土遺
物としては、現在、

碁石や双六の駒よりも将棋駒の方が有名

だ。”囲棊”は囲碁と西暦1971年頃には解釈されたが、
囲碁と将棊(棋)なのかもしれないし、

そもそも賭博が問題になっているのだろうから、奈良の海竜王
寺の大小将棋の禁止の令からみて、興福寺でも、その令の時代
に近い、西暦1200年頃には、将棋が盛んな状況

だったのではないかと、私は疑う。
 今後興福寺の発掘が更に進んで、現時点での最も新しい出土
駒である、西暦1098年物だけでなく、それより100年位
後の、将棋駒が出土してくれないものかとも、私は期待する。
 なぜなら、奈良の海竜王寺の禁止令に、”大将棋”が入って
いる事から見て、冒頭紹介の史料から、

興福寺からは、西暦1200年頃の物の駒として、平安大将棋
の駒の出土が充分に期待できる

と、明らかに思えるからである。(2018/10/09)

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東京都文京区本郷元町史跡を確認した(長さん)

江戸時代の将棋駒で、中将棋の成り太子酔象駒が出土した、
東京都文京区本郷本町遺跡を、最近確認した。文京区だが、
千代田区との境付近、JR中央線の水道橋駅の、東側の出
口の神田川をわたって、直ぐ北側、都営三田線水道橋駅の
A1出口の所である。都立工芸高校の校舎の地下だが、大
きな校舎の建物の下のため、正確な場所は確認できない。
なお工芸高校の建物の東側は、東京都の教育委員会の施設
が入っている。教育委員会としては、この界隈の何処を掘っ
ても同じだが、たまたま発掘地点が、工芸高校の建設のた
めの調査というだけだったと、認識しているのだろう。特
に、遺跡の立て札等は、全く建ってい無い。
 東京都の教育委員会の設置物としては、讃岐(高松又は
香川)松平藩の屋敷の、石垣跡の石碑の立て札だけが、
都立工芸高校の校舎の、北側の花壇の所に設置してあった
だけだった。ただし、少なくとも現在、城の石垣は全く見
当たらない。
 石碑には、最近の字体で、次のように記載されていた。

題字:高松松平邸の石垣
本校(都立工芸高校)敷地は徳川御三家水戸藩祖徳川頼房
の長男、頼重が始祖となった高松松平家の上屋敷跡で、
明治以来本邸になった。松平邸は冠木門と築地塀に囲まれ、
大名屋敷の風情を漂わせていた。築地塀を支えていた石垣
の一部を残し昔の姿をしのぶ。

なお、繰り返すが、城の石垣らしい石垣は無いと見られる。
 ちなみに酔象駒は、この高松松平邸の南側の、旗本居住
区から出土したようである。大江戸古地図大全(別冊宝島、
2016)によると、工芸高校の西玄関から石川、石丸、
建部、安倍、広戸、安藤等の苗字の旗本の家があるようだ
が、残念ながら私には、今の所どの家の持ち物と、された
のかは、良くわかっていない。”退屈な旗本”はこの時代、
多数居ただろうから、東京の古井戸等の地下の水場に、江
戸時代の遺物として埋設されている将棋の駒の数は、今も
かなりの数にのぼるのではないかと、私には想像される。
(2018/10/08)

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中将棋ゲームデザイン。玉将・玉近似酔象と並ぶ将棋は何が手本(長さん)

本ブログでは、酔象は中将棋の成立から7方向動きになると見る
が、少なくとも中将棋の成立時、酔象が後ろへ行けない点を除い
て、玉将の動きであった事は、確かだと考える。何故なら、象の
駒を軍師(大臣)駒に当てる例が、世界の将棋に無いからである。
つまり象と副官では、銀将と金将の差が有るという意味である。
それでも、象を副官の所に持ってきたのは、酔象を太子成りにし
て更に、酔象の表面の動きも、本来の象とは全く違ったパターン
にするという方法を、思いついてからだろう。
 ところで、世界の将棋は、四人制チャトランガ時代の恐らく、
二人制チャトランガを除いて、大臣は王より相当に弱い、猫叉動
きのゲームか、チェスの奔王動きのゲームのどちらばかりである。
 ちなみに、西暦1250年頃中将棋が成立しているが、その時
代に、250年程度前にすぎないとはいえ、二人制チャトランガ
の情報が、中将棋のゲームデザイナーに、知られていたとは考え
にくい。四人制のサイコロ将棋というゲームが、日本の中世には、
余り知られてい無い点から、インド起源は疑問である。
 では、中将棋のゲームデザイナーが、近王型のルールで動く
酔象を、玉将の隣に置いて、インド古代二人制型近王軍師将棋が
作れたのは、何故なのかを今回は論題とする。
 答えを何時ものように先に書き、後で説明を加える。答えは、
中将棋の初期配列が、現行のようになっていると言う事自体、

8×8升目32枚制で金将が、片方に1枚づつしかない
原始平安小将棋が、元々有ったという有力な証拠

なのではないかと、本ブログでは推定する。
 では以下に、今述べた結論につき、説明を加える。
 本ブログで、8×8升目の平安小将棋が、9×9升目の普通の
(標準型)平安小将棋に先行すると考えるのは、二中歴の小将棋の
初期配列がボカされている事と、”旦代の難点”が9升目型にはあ
り、原始伝来将棋がそのため、母国で9升目であった、はずが無い
という推定に基づいている。今の所、史料としてはっきりしたもの
は残念ながら無い。
 また、8升目型が伝来型だったとの記憶は、南北朝時代まで、
明確に残っていたと考えている。麒麟抄の将棋の字が、平安時代の
”将碁”になっており、確信犯的な模倣であると見られる点等が、
根拠である。他方、中将棋は遊学往来から

南北朝時代に発生したと見られており、8×8升目で、軍師駒とし
ての金将が一枚しか無い将棋が、11世紀に存在したという事を、
中将棋のゲームデザイナーは13世紀に知りえたと推定

できると、本ブログは見なす。そもそも、

玉に近い副官駒を、玉と並べて配列するという将棋は、8升目型の
原始平安小将棋が存在して、それを中将棋のゲームデザイナーが知っ
ていたと考える場合が、最も説明が楽である事は明らか

である。従って、

中将棋の玉と酔象の配列を自然に説明したいのなら、9升目の小将
棋以外に、8升目の小将棋も国内に有ったと考えるのがむしろ当然

なのではないか。以上のように、本ブログでは明確に考えると言う
事である。
 なお、偶数升目の12升目の中将棋は、3の倍数将棋盤に対する、
賛美思想が、鎌倉時代終わりごろの、新安沖沈没船出土駒と出土将
棋盤(?)の時代になって、わが国で発生した事が、成立の動機で
あると、本ブログではみる。また、後期大将棋を例えば13升目、
中将棋を11升目にしなかったのは、その他には、以前述べたよう
に、13升目の場合の、先手5手目▲8七角行(左)の、2枚角で、
後手の右仲人を狙う、普通唱導集大将棋第2節定跡の発生要因を、
中将棋では無くす意味もあると、ここでは見ている。
 普通唱導集大将棋定跡回避の要求は、14世紀には強かったと見
られ、”古来より定跡が無いとされ”る、中将棋という名の偶数升
目の駒数多数将棋は、発生しやすい状況だった。しかしそうすると、
玉将を中央筋に置けなくなり、チェスのように、女王とか大臣とか
軍師と呼ばれる、ナンバー2の駒を作らなければならなくなった。
イスラムシャトランジを真似れば良いのなら、酔象は猫叉動きのルー
ルで良かったはずだが、

日本に伝来した将棋が、4人制時代の2人制インドチャトランガと
同様、1枚しか無い副官のルールが、王に近い近王・金将型だと、
まだ南北朝時代には記憶が残っていた

ので、酔象は難なく7方向動きにされた上で、玉将の右隣に置かれ
たというのが、本ブログの見方という事になる。(2018/10/07)

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