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摩訶大将棋は序盤戦術で交点駒置17段に御利益無し(長さん)

前に、高見友幸氏の提案する19筋16段摩訶大大将棋
または、摩訶大将棋に関して、交点駒置きで、京都の
条理モデルでは、17段になってしまうと述べた。
 一条大路に新・旧があって、旧の時代から摩訶大将棋
が有ったと、高見氏は当然考えているので、18升目の
矛盾を避けるために、19路にした結果、段が16升目
から17路に、彼が実際に推薦している将棋の話と違っ
て、1路段が余計に増えた、

別のゲームになってしまった

という意味だと、個人的には理解している。
 では、ようするに

”土御門大路は、平安時代が始まった頃には無かった”
という古代史研究者の説は、高見氏が引用している

ように本当であって、摩訶大大将棋または摩訶大将棋の
段を16段から17段にする事によって、ゲーム性能の
点からも改善されて、その結果、
土御門大路は、平安時代初期には無かったという説が、

まさに今証明されようとしているという事なのだろうか、

というのが、今回の論題である。回答を先に書く。

ゲーム性能は改善され無い。

理由は17段の摩訶大大将棋または摩訶大将棋が、16
段のそれに比べて、序盤の駒の捌きで、ありありと、ゲー
ム性能が上がるという事は無いからだと、本ブログでは
考える。

つまり、本ブログでは、古代史研究家の瀧浪貞子氏の、
1991年の説に、少なくとも絶対の信頼を、置くわけ
にはいかない

と言う意味である。
 では、以下に説明する。
この将棋の序盤戦術は、
横飛の前の升目の歩兵が離れているのを、獅子で狙うた
めに、奔王や摩羯や龍王を浮かしておいて、獅子を出す
という手は、桂馬が桂馬跳びが正しいとして、一応無し
にするとすると、

角行または左車か右車で、それより強い、鉤行、摩羯、
奔王、龍王、龍馬のどれかに、睨みを利かせるのが、
第1手目の善手である事は明らか

である。睨みを利かせるには、相手の強い駒に、より弱
い角行か左車か右車の、斜め筋が通っているかどうかで、
それが実際に、可能かどうかは決まる。つまり、

段が16から19段までで、どうなのかで、条件が変化

する。ところで、ゲーム性能としては、

このような、自明善手が、初期配列に関して、バレバレ
なのは良いゲームとは言えない。

だから、何らかの手段で、初期配列を工夫して、角行筋
または左車筋、右車筋は、摩訶大大将棋または、
摩訶大将棋では、

通りにくいようにした方が、良いゲーム

である。できれば、

左車や右車で、龍王か龍馬かが狙える程度の配列になっ
ていた方が良い。

そのためには、角行筋が、仲人に当たるように、大将棋
系ゲームでは、工夫されるのが普通である。そうなって
いるのは、

19×19の盤となる摩訶大大将棋だけ

である。つまり、

16段から22段の摩訶大将棋等の中で、比較的旨く
出来ているのは、19段の場合だけ

だと、本ブログの管理人は認識している。
 以上の事を、少し詳しく以下に、書いてみよう。
 16段目から22段目までで、どちらか一方の角行と、
判りやすく、どちらでも良いのだが左車について、各段
のアタリ関係を、示すと次のようになっている。角行は、
左右どちらでもこのケースは、全く同じだし、右車は、
鉤行と摩羯へのアタリのパターンが、反対になるだけで
ある。

左角行について。
16段なら左龍馬。
17段なら左角行。
18段なら左仲人下歩兵。
19段なら左仲人。向こう横飛。
20段なら左横行。
21段なら左車。
22段なら左飛車。

左車について。
16段なら鉤行。
17段なら奔王。
18段なら摩羯。
19段なら左龍王。
20段なら左龍馬。
21段なら左角行。
22段なら左仲人下歩兵。

以上の事から、

左右の角行については、18、19、21段のとき良い
ゲーム、
たとえば左と右の車で左車については、19、20、
21、22段のとき、まあ、我慢できるゲーム

になっている事が判る。つまり、まとめると、19段と
21段の摩訶大大将棋または、摩訶大将棋以外は、斜め
走り駒の、出だし序盤の利きが強すぎて、

さほど良いゲームにはならない

事が判る。つまり、

16段の京都の条理モデル升目将棋も、17段の京都の
条理交点置き将棋も、どっこいどっこいだと見られる

という事である。17段のケースも、左車と右車で、
奔王の睨みが利いている初期配列は、余り気持ちの良い
形とは言えない。つまり、平安時代初期には

”土御門大路は無かった。なるほどそれで、17段にす
ると、ゲームが大きく改善される理由が、ようやく判明
した。19×16では、物足りなかったのはそのためか。
かくて、交点置きに、利点が有る事が判ったのであった。”

という

ストーリーには、全くならないと言う事

である。だから、土御門大路が旧一条大路だったという
説が、正しいという考えを前提にしたうえで、交点置き
摩訶大将棋(交点置き摩訶大大将棋)の別存在を主張し、
16と17とを両方立てている、高見友幸氏の主張に、
序盤のゲーム性能の改善という観点から見ても、

私は特に、意味が有るようには見えない。

19×16の将棋だけを、集中して宣伝するように、今
後、論を整備した方が普及戦略上、より得策なのではな
いかと、疑われる。
以上のような、結論になるという事である。(2019/03/25)

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升目列数3の倍数将棋盤は九星占いの道具と類似(長さん)

本ブログでは、鎌倉時代末以降、中将棋の成立と共に、
将棋盤は、9・12・15・・と、3の倍数升目列数
へ収斂して行ったと見ている。理由は、九星占いの図
と、将棋盤の形を、聖目を等間隔に置く形式で、類似
させるべきであるという論が、ゲーマーの間で広まっ
たためとみる。そのため、西暦1300年頃の13
升目108枚制と見る普通唱導集大将棋は、行き詰まっ
て、廃れると同時に、大将棋の13升目制も、15升
目制主流へ、移行すると同時に、ゲーム性が劣化して、
中将棋主体になったと、本ブログでは見る。
 九星占いは、暦として頒布されたため、将棋のゲー
マーに、紙媒体で、実体が普及した事は確かと見られ、
それでも充分ではないかと、私は見ていた。具注暦が、
中世には、充分普及していたと、私は認識したためで
ある。
 しかし、将棋盤と似たような物品で、九星占いの道
具が有れば、中世の将棋棋士にとって、あるべき将棋
盤のイメージは、益々確かな物になって行ったに違い
ない。調べてみると、そのような物品は、昔実際に、
有ったらしい。下の写真の、兵庫県赤穂の大石神社の
吉凶分占盤というものが、それである。

吉凶分占盤.gif

確かにこれには、方形の盤を9つの区画に区切ってあっ
て、縁起のよいまたは、縁起の悪い神様が居る位置を、
何かの駒で置く等すれば、その日や年で、その方向に
居る人物と友達になったり、行ったり来たりしてはい
けない方向といったものが有るかどうかを、暦を読ま
なくても、その場で占えそうだ。
 大石神社というのは、江戸時代の赤穂の家老の、大
石家等、忠臣蔵に関連する神社であると言う事が、
下記の成書にも書いてある。

「かたち」の謎解き物語。(建築家)宮崎興ニ著。
彰国社(2006)

 なお上記成書によると、大石神社には他に、
指南針と称する、陰陽師の使用する、式盤の類と見ら
れる円形盤がセットで有るという。指南針の中の五行
記号に、アルファベットが使われている事から、宮崎
氏の成書内での書き方を見る限り、残念ながら、この
遺物は

近世のもの

であるとのようだ。つまり、中世のものでは一応無い。
ただし、九星占いは、黄河文明が発生した頃からある
と聞くから、

吉凶分占盤自体は鎌倉末期の頃にも、作られただろう。

吉凶分占盤から将棋盤が発生したのでは、むろん無い
だろうが。鎌倉時代末の将棋の棋士は、

吉凶分占盤を連想させる、聖目パターンの将棋盤には、
そうでないものに比べ、より将棋盤のあるべき姿を感
じた事は、確かなのではないか

と、本ブログでは考える。他方、新安沖沈没船出土の
将棋盤(?)が、その形の聖目である。だからこれは、
どんなゲーム用であるかは、現時点で定かではないに
しても、そのようなゲーム盤が、鎌倉時代末期に有っ
た事を示唆は、しているように思える。
 また、将棋という

合戦シミュレーションゲームが、戦国時代には少なく
とも合戦で、軍師の勝機占いと関連していた事は、
ほぼ確実

だとみられると考える。
 軍師の占いには、中身から見ても、攻め方の好まし
い方位を占う、九星の方位占いが、含まれて居ただろ
う。そして、その際には、赤穂の大石神社に収められ
ていた、吉凶分占盤の類を使っただろうし、将棋は、
娯楽であると同時に、戦略を練る際の、少なくとも
儀式的行為には使われただろう。だから、将棋盤の
模様の形は、吉凶分占盤の類と似ていた方が、似合い
と考えられて、自然なように思う。
 そのため室町時代に近くなったころに、だんだんと、
3の倍数の升目で、聖目が一辺升目数の1/3ステッ
プの将棋盤が、中将棋の流行も有って、優位になった
のではあるまいか。
 実際に木板の形で、九星占い用の道具があるのを見
て、以上のように、私は考えるようになって来ている。
(2019/03/24)

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乾兌離震巽坎艮坤の方位配当は木火土金水土に沿う物(長さん)

かなり前の事だが、反時計回りに北西から西に向かって
八卦の方位が、乾兌離震巽坎艮坤の八卦の順番とは異な
り、つまり八卦の並び順で言うと、乾兌坤離巽震艮坎と、
12835476の順番で並んでいるのを、問題にした
事があった。その際、魔法陣と九星占いを持ち出したが、
最近勉強しなおしてみて、

それは間違い

であるのに気がついた。答えを書くと、
八卦の順番は、金火木水土が、この順に明るい(陽)か
ら暗いもの(陰)に並んでいると考えた。そこで、
乾兌離震巽坎艮坤には、五行が金金火木木水土土と対応
すると考えた。そうして置いてから、方位が
北西から西に反時計回りで、金金土火木木土水と、
時計回りの木火土金水土の、金からの逆向きで、一部、
五行の5つから、八卦の8つにあわせるため、金と木と
土を2つに増やしておいて、当てはめて行き、金と木と
土を2つにした結果、

任意性が出る場合は、北を先にして対応付けしただけ

である。以上が結論だが、以下に多少の説明をする。
以前問題にしたのは、12345678と遠いような、
近いようなの、12835476の数列の謎である。
 しかし、前に説明したが、

五行は、季節の循環を表しており、秋、晩夏、夏春冬が、
それぞれ金土火木水と、予め決まっている

のである。だから、乾兌離震巽坎艮坤の八卦に、
乾兌の12は金、離の3は火、震巽の45は木、坎の6
は水、艮坤の78は土と対応させたからには、秋から夏に
戻すことに対応する、北西から西に反時計回りならば、
季節表示を方位表示にダブらせ、
(12)(7あるいは8)(3)(4か5)(7あるいは8)(6)と
並べるのは、別に魔法陣とは無関係に、
必然だったのである。
ここで、
①先頭を1にするか2にするかは、北西の方が西に比べ
て、より北に近いので、12の順。
②次ぎは南西で、北東に比べて南西は南に近く北からは
遠いので、7ではなくて8を採用。
③4か5かは、南東、東と対応させるので、東の方が南
東よりも、北に近いので5、4の順。
④北東は②で述べたが、南西より北に近いので8ではな
くて7。
以上①から④の理由で、北西から反時計回りに、

12835476の乾兌坤離巽震艮坎になっただけ

だったのである。なお、前に述べた新潮新書の永田久著
暦し占いの科学(1982)だけで、理解は充分出来た。
 蛇足だが上の成書では、”八卦を説明するところでは、
読者を混乱させるので、触れなかったが”と断った上で、
”先天易”の、方位への八卦対応についても触れている。
つまり九星占いの”色”を決めるときに使っただけで、
後には記録に残らなかった、韓国国旗模様が有るという
事である。そのやり方では、明るさでは夏が一番明るく、
次ぎが春で、次ぎが秋、冬が一番暗くて陰だと考えて、
季節への八卦割り当てを決めるという、五行と季節は、
度外視したやり方である。
 ようするに、別のパターンの、大マゼラン雲から見た、
地球の公転軌道黄経目盛りへの八卦割り当てが、時代を
前後して行われたという事である。その結果、それと
同一パターンで摩り替えられる、方位への八卦割り当て
に、2種類発生した経緯が有るので、韓国の国旗の八卦
模様も、流儀の差で、2通り出来ると言うことになる。
 以上の事から以前の説明は、今にして思えば、かなり
奇妙だった。

 お詫びして、訂正したい。

 なお結局は、これとは別だったが、九星占いの番号
数字に対する、五行の対応関係が、

意味ありげに規則的

なのは、魔法陣の数字で2と8を入れ替えると、
1234、6789が並ぶためで、その状況で、

2と8に、共通して土を対応させているから

だけである。つまり、3行3列の魔法陣は、1834、
6729が、5の数字の周りを、この順番で回って、と
り巻いている構造になっているのが、五行を九星の番号
に対応付けたときに、規則的になる原因であることが、
少し注意して見ると、簡単に判る。(2019/03/23)

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藤原明衡著作の新猿楽記十一の君の将棋の棋は基(長さん)

松岡信行氏の解明:将棋伝来の「謎」(2014)
の一覧表に準拠して、本ブログでは、表題の、
新猿楽記の十一の君の将棋の棋は、石が底に有る、
碁と、これまで指摘してきた。しかし、

残念だが、これは間違いで”基”である

らしい。私が気がついたのは、㈱新人物往来社の、
西暦1995年の図書、窪寺絋一著
”日本将棋集成”の記載だった。調べてみると、
新猿楽記自体が、

藤原明衡作かどうかも疑わしいというニュアンス

の内容を、増川宏一氏が、平凡社新書(670)
の”将棋の歴史”2013年で、更に匂わせてい
た。別の所で事情を調べてみると、作者の書いた
藤原明衡の役職に、藤原明衡自身が付いた記録が
無いらしい。遺贈された職階を、実際の作者が、
書いて、藤原明衡を立てているという、ニセモノ
を自分で匂わせているという雰囲気だ。ちなみに

新猿楽記の成立は、藤原明衡が西暦1066年頃
他界してから、少し後の11世紀末

との旨を、増川氏は将棋の歴史に書いている。
 では、以下に詳しく述べる。
 大阪電気通信大学の高見友幸氏により、以前に、
易占いと摩訶大将棋(2015頃)という論文が
出され、その中で、川口久雄(訳注)、新猿楽記
(東洋文庫424)、平凡社、1983年の、
十一の君が、引用されている。川口久雄氏の解説
によると、

将棋の棋は基と書かれ、文献により差は無く、川
口氏により、”棊と書くべき所を、間違えたか?”

との旨コメントが付けられている。十一の君の
能力に関して弾碁の方は、弾碁と書いてある元本
も有れば、弾基と書いてある元本も有るようだが、

将棋の方は”将基”だけ

らしい。たぶんだが、解明将棋伝来の「謎」の、
表3を作表するとき、松岡氏が見間違えたのだろ
うと、私は思う。
 よって、

”藤原氏なら、将棋の棋は碁に限られる”という、
本ブログの説は、残念ながら怪しくなった。

残る可能性は、増川宏一氏の言う事から察して、

新猿楽記は、藤原明衡が関与しているにしても、
死後に、何処かの知り合いの坊さんが書写しなが
ら加筆、編筆して完成させた

とでも、考えなければ駄目だろう。
 つまり藤原明衡は、将碁と書いたが、新猿楽記
を完成させた坊さんは、碁の使い方が誤まりで、
弾碁を弾基と書く事が有り得る点から見ても、
将基が正しい(?)と見ていたと、言う事なのか
もしれないと、考えるという意味である。かなり
苦しいだろうが。
 よって負け惜しみだが、
”新猿楽記にはたった一言、将棋としか書いて居
無い”と、学会では軽視されていたが、将棋の棋
を、基礎の基で書くのは、僧侶関係と、少なくと
も本ブログでは見ているので、

本ブログが、興福寺出土駒期間の将棋の流行の
傾向について、始めて、お寺でだけ流行っていた
疑いがある事が指摘できた

と、今回の成果(?)を、強弁して見せる事位が、
今の所、できる事の全てと、いった結果になった
ように思う。なお繰り返すと、将棋で良く使われ
た字は、当時は、将棊(下は土でなくて木)であっ
たはずである。(2019/03/22)

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高見友幸氏の16段19筋摩訶大将棋は升置きで良い(長さん)

京都の条理図が将棋盤になっており、駒は路置きで
表題のように、筋は19だが、段は19ではなくて、
16段の摩訶大(大)将棋の説が、直近の高見友幸
研究室の摩訶大将棋のブログに出ている。交点置き
の証明として、諸将棋図式の文字による記載を、根
拠としているらしい。今回は、

京都の条理図を将棋盤にした19×16、192枚
制、摩訶大(大)将棋駒将棋は升目置きとしてよい

という内容を、以下に示す。根拠を答えから書いて、
仔細はその後で述べる。理由は、以下の通り。
 京都の条理図は東西が33路、南北が39路に設
計されていて、東西が17路、南北が今は20路等
には、高見友幸氏の言うように、設計されていない。
升目の方を採用すると、東西が16升目で、南北が
19升目になっておらず、東西が32升目、南北が
38升目になっているという意味である。つまり、
設計された、19×16型の摩訶大将棋または、
摩訶大大将棋で、4升目で将棋盤1升目分に、京都
の条理は、なっている。だから+印の小路の中央に、
駒を置けば、路を飛び飛びに1つ置きに書いて、
将棋盤にしたのだと考えれば、駒は路の交差点に
置かれているのだが、

路の、飛び飛び省略型将棋盤を通常は使用するので、
+型の路地が見え無くなり、表現上は升目置き

となる。そして京都の条理は、飛び飛び将棋盤とし
ては、南北が19升、東西が朱雀大路を挟んで、
対称であって16升だが、横倒しにすれば、
19×16升の192枚の摩訶大(大)将棋型に、
一応なっている。従って、

日本の六将棋が交点置きだった事を、そのために証
明する努力をする分、このゲームの説明に関しては、
ほぼ無駄だった

ように私には思える。”昔は何処かの路が無かった
という説がある”と聞いているが、それについては、
その代わりに、何か別の路が有ったが、昔の記録の
再現は、元々困難だから、

プラスマイナス0になるように、京都の東西路の
路数カウントで、路を別のところで落としているの
かもしれないと、一度疑ってみてはどうか

と私は思う。
 では、以下少し説明を補足する。
 京都の条理図は各種教科書、日本史辞典等に載っ
ており、内大離が、19×16置き摩訶大大将棋で
言うと、右辺に来る側で言って、端筋から5筋まで
の4路または5升、7段目から10段目までの4段
または3路を切り取っていて、升目で言うと、5×
4の駒置き場所不明の点を、作っている構造になっ
ていると認識する。また第15筋の6段目と11段
目に、”東西の市場”が有って、そこも一部、升目
の潰れた所があるようだ。
 その他は南北19升、東西16升の将棋盤の升目
を書いてから、

各筋のちょうど真ん中に、”口口小路”を1筋づつ、
細かく入れた形

になっているのではないのだろうか。(下図)

京都条理図.gif

つまり、高見研究室の摩訶大将棋では、実際の京都
条理図を実質、路の形

田の字1つで、1目と見ている

と、私は考える。
 そもそも、摩訶大将棋のブログを見る限り、大内
離や、東市、西市の、小路の無い所にも、将棋盤に
するために、

同じ間隔で、無い所には路を適宜補っている

ようにしか、私には高見システムが見えない。
 それなら、その将棋盤は、
 横筋38升、段32段の升目になるように、横に
39線、縦に33線引いてから、端枠を含めて、

1つ置きに、太線に変え、太線・細線と交互に並ぶ
ようにして、駒は”細線(小路)”の交点置きをルー
ルにしておいて、太線枠内の十字細線が田の字に入っ
た各升目についての、升目置きゲームにしたのと、
いっしょ

だ。
 そもそも、こんな事を私が言うのは、

京都の条理図で、南北中央大通りの朱雀大路が、平
行に2本書いてある京都条理図が、見当たらない

からだ。
段は16段だと聞いているので本当に交点置きなら、
朱雀大路は、互いに接する形で2本走って居なくて
は、横倒しにした時に、段が16段に例示される、
段数”偶数路の交点置き将棋”にはならない。
 朱雀大路は平安時代に、昇りと下りで2車線で、
更には真ん中に、他の将棋の升の構造との対応上、
中央に小路が、もう一本あったという話が有ると言
うのなら、私も上のように見るのを考え直すのだが。
 このままでは、京都の条理図を基に作った将棋は、
20×17路とか、19×17路であって、

段が例えば16という、偶数段の将棋のモデルには、
かなり、なりにくいのではないか

と私は疑う。
 つまり、考えてみると、1目分の升目がこのケー
スは”田”なので、最初から、あまり困っていなかっ
たのに、

交点置きという事にしたために、
横筋の数は、確かに18を19に増やして、合わせ
たらしいのだが、今度は段が、16から17へ、
1つ増えて狂ってしまい、何にもならなかった

と言う事に、なるのではないのか。
 結局そうすると、19×16区画の将棋のモデル
が京都条理図が元だったという事を、ここでは、そ
れについては疑わない事にすると、摩訶大将棋また
は、摩訶大大将棋の駒の置き型は、ゲーム上は升目
置きであり、中世の駒数多数将棋のうちの六将棋は、
全て升目置きで有って良い。そのため京都の条理の
家屋の中に、駒がある事になってしまうという、
条理モデル将棋に、いっけんすると発生しそうな矛
盾は、将棋盤を作るとき、小路を1つ置きに省略し
て、見やすくしたために、本来なら

駒が小路の交点に置かれているのに、そのようには
表現されないため、単にそう見えてしまっていると
いうだけ

という事に、なっているのではないか。以上のよう
に、高見友幸研究室の、交点駒置き将棋を主張する、
最近のページに関しては、本ブログでは評する。
 ようするに升目を数えると、段19の東西8づつ
に1ユニットが、田の字に区切れる京都の条理図を、
複数の文献で見るにつけて、私はだんだんと以上の
ように、”日本の将棋は本来、駒交点置きだった”
という説を、疑って掛かるように、なってしまって
いるという事である。(2019/03/21)

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摩訶大将棋展2019winterのweb情報(長さん)

一ヶ月以上前の、2019年2月3日頃の話であるが、
大阪電気通信大学の高見研究室が、大阪駅付近で、
表題のイベントをしていた。株式会社いつつという、
兵庫県の会社が運営するサイトに、訪問者の報告が
載っていた。高見友幸氏が、パネルディスカッション
をした論題が、入り口の看板として掲示されていて、
その写真が、最初の方に有る。なお看板は2枚、写真
に写っているが、今問題にしているのは、右側だけだ。
今回注目するのは結論から書くと12項目あるうちの

第11番の内容

である。では説明を続ける。
 問題の看板については、株式会社いつつで検索する
と”いつつブログ/株式会社いつつ”に、しばらくは、
トップで出てくるだろう。写真の看板の論題11番の
題字は、残念ながら

net上で、たまたま内容が正確には読み取れない。

”古代日本の将棋の盤(か書)について”と書いてある

のかもれない。が内容は仮に、盤と読むとすれば、

将棋史家が誰も知らず、又言及すべき事実が皆無な事

が定説であるように、私には見える。

桂馬の桂と、香車の香がヒントだというのは、本ブロ
グの中だけの話

だ。なお、現物が明らかな日本の将棋盤で一番古いの
は、14世紀の新安沖沈没船将棋盤(?)を、15升
の後期大将棋の将棋盤と見て中世だ。文献でも、
藤原定家の明月記の”三面の記載”は、鎌倉時代早期
に入ると思う。平安時代の史料は、全く無いはずだが。
 ちなみに本ブログでは、

皇族用以外、定常的で長期保管に耐える将棋盤は、
上代にはほとんど作成されなかった

とみる。8×8型と9×9型が日本では並存していた
のが、主な原因のはずだ。
 なお高見研究室のイベントに関する報告者は、
株式会社いつつの金本奈絵(Nae Kanamoto)
さんと名乗られている。
写真の撮影者も、多分同一人物だろう。話をほぼ聞き
取られたように、本文からは読み取れた。

第11番の内容は、どれなのかは書かれていなかった。

たぶん基本的に、内容は高見友幸氏しか知らない話

を話されたのは確かなように、私には推定されるが。

ただし”将棋の口”の口の字がはっきり見えず不確実

な推定ではある。㈱いつつさんのブログでは、話全体
の内容について、いちいち”番号でこれだ”とまでは、
特に言及されておらず、そのため仔細不明だった。
 他の11の項目については、摩訶大将棋のブログに、
だいたい書いてあると見ているのに、古代の将棋盤の
話(?)だけ不明な内容なようだ。なので全体として
は、情報の提供は、たいへんありがたいものの、
たまたまだろうが、ごく一部についてだけ謎の有る、
残念な、報告文になってしまっているように、個人的
に、私には感じられた。(2019/03/20)

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普通唱導集大将棋の猛牛猛虎は火位置で無く水木隙間(長さん)

前に、普通唱導集大将棋で、五行の木に嗔猪が、火に
猛牛と猛虎の中間の艮が、土に飛龍が対応するという
説明を、木火土金水の五行の何を対応させるのかは、
あくまで一例だとして、したが、

陰陽五行説では、対応付けはいい加減なものではなく
て、きちんと決まっている

のを、易学の、乾兌離震巽坎艮坤と、五行の対応が
書いてある本を見て、ようやく私も気がついた。私は、
易学の基本が、なっていないようだ。
 そこで結論から書くと、猛牛猛虎は火位置で無く
水木の隙間、嗔猪と飛龍は、木と土の位置ではなくて、
それぞれ金水の隙間と、木火の隙間の、

不安定な部分を固めるための、動物神を意味

しているようだ。
 では、以上で結論を書いたので、説明を加える。
 わかり易く解説がでている成書に、前にも紹介した
事が有ると思うが、次の図書が有る。
 新潮選書(西暦1982年)”暦と占いの科学”
永田久著。
 それによると、そもそも易学の乾兌離震巽坎艮坤の
艮は土だが、八卦も季節を分ける記号であり、

本質的に五行の季節対応については、木が春、火が夏、
土が夏の土用、金が秋、水が冬で、立春に当たる位置
が艮なので、同じく本来季節に関係する易学の、乾兌
離震巽坎艮坤の艮である鬼門は、元々は水と木の隙間

のはずだった所という事のようである。なお、上記の
”本来”とは、8つの八卦へ5つの五行を当てはめよ
うとした無理から、

前漢の薫仲舒は隙間としたが、後漢の班固が土対応と
して整備した結果が、易の乾兌離震巽坎艮坤の五行対
応に関して影響した結果、鬼門を生んだ

との解説が有る。つまり陰陽五行道による暦学解釈で、

一年の終わりの半端を、季節円表示を方位表示に、な
ぞらえ変えする事によって、飛び地のある土で対応さ
せた結果が、鬼門という方向を発生させた

という事らしい。水と土、土と木が両方相剋であった
ために、”土の所は、縁起が悪い”という訳である。
 以下では最後に述べた、陰陽道の後漢バージョンで
は無くて、より素朴な、前漢バージョンで、普通唱導
集大将棋2段動物駒による、鬼門等の守りの理屈を、
説明してみる。
 五行の理解で大切な事は、時刻、季節、方位に全て
五行を対応づけしたが、パターンが類似なので、時計
文字盤、大マゼラン雲方向から見た地球の公転円、
方位磁石の盤の意匠を、関連付けて、むしろまぜこぜ
に考えると良いと言う点である。
 つまり方位の鬼門は、

後漢バージョンでは土(班固)だが、前漢バージョン
では水と木との境(薫仲舒)

という事である。
 そこで今度は、地球の公転円をこれにダブらせると、
艮は冒頭で述べた薫仲舒の冬を意味する水と、春を意
味する木の、真ん中の旧暦の年末の位置で、方位磁石
に話を戻すと、方角では北東に対応させているという
事である。ちなみに方位の五行では、水は、北北北東
より、すこし北よりに中心があり(薫仲舒)、木は、
東東北東より、すこし東に中心が来る(同)。厳密に
は32方位ではなくて、40方位にすると、正確に中
心位置を表現できるらしい。方位角表記では、北から
時計回りに、水が角度の9°、木が角度の81°にな
り、真北と真東から、すこし内側に入っていると言え
る。
 そして、
嗔猪は、水の中心より更に反時計回りに角度で36°
回った、北北西と西北北西の中間辺りにある、北から
方位角で27°西方向の、金と水の間の境目が弱いた
めに、ほぼその位置を守る守り神の動物として必要、
飛龍は、木の中心より更に順時計回りに角度で36°
回った、東南東と南東南東の中間辺りにある、東から
方位角で27°南方向の、木と火の間の境目が弱いた
めに、ほぼその位置を守る守り神の動物として必要、
というのが、陰陽道流の、駒種としして必要な理由と
いう事になるらしい。つまり、前に本ブログで述べた
ように、

 嗔猪から牛虎が、牛虎から飛龍が、生まれるわけで
は無さそう

だ。
 ただし、前に述べたが、嗔猪は境目方位より西北北
西に近い方向に角度で3°、居場所がヅレているし、
飛龍も境目方位より南東南東に近い方向に角度で3°、
居場所はズレている。その3°は、許容誤差が7.5°
有るので、無視できるという事である。ところで、
3°の誤差は、嗔猪の位置が方位角で、北から西へ
30°で27°より3°大きく、飛龍の位置が方位角
で、東から30°で27°より3°大きいためだが、
これは、磁石よりも時計盤で考えた方が、32等では
無くて、12分割な為に、ずっとよく判る。
 そこで、 今度は地球の、大マゼラン雲から観測し
た公転円図と、時計の文字盤とを、重ね合わせてイメー
ジしよう。時間の五行を、問題にするときには、今の
時計が1日に時針2回転なのが問題になる。が、以下
の議論は、地球軌道で季節を説明する話を中心にして、
話がごちゃごちゃするのを、回避する。
 つまり、大体だが、ちょうど今のグレゴリオ暦の月
が、時計の文字盤を、月数に直すと、干支の順番-1
(ただし鼠だけ、更に12をプラスする)の干支の、
動物対応に近くなるようだ。つまり嗔猪は、文字盤に
位置をなぞらえると11時(トキ)の位置。鬼門の艮
は、1時(トキ)半の時針位置。飛龍は地球軌道位置
を、時計文字盤になぞらえると、ちょうど4時(トキ)
の針の位置である。だから嗔猪と飛龍は、北から西へ
30°と、東から南に30°で良いのだ。季節の月数
に話を置き換えても、嗔猪がグレゴリオ暦の11月、
艮が1月と2月の境に近い2月の節分の頃、飛龍が、
グレゴリオ暦の4月の、陰陽道流のグレゴリオ月名で
ある。ちなみに猛牛がグレゴリオ暦の1月、猛虎が、
グレゴリオ暦の2月の中央位置である。
 1月の終わりから2月の頭に、立春なので、当然東
アジアの、太陰太陽暦、旧暦の正月がそのとき来る。
漢王朝からだと聞いているが、昔はほぼ、猛虎の寅か
ら1年が始まる、太陰太陽暦が東アジアでは使われて
いた。ので、時計の文字盤になぞらえると、文字盤が、
時計回りに1時間分回転してしまい、月遅れで最上段
が、11時の文字盤時計になってしまっていた。だか
ら丑正月に近い今の方が、時計文字盤も、大マゼラン
雲から地球を見た地球公転軌道の図も、全部方位磁石
の盤意匠に近似していて、むしろ判り易くなっている。
 そして、時計の文字盤の11時と4時の間の角度は
150°だから、円周の2/5の144°より、3の
2倍の6°だけ大きすぎると言う事で、上に述べた話
に矛盾がない事が判る。
 実際には、艮が真冬で、嗔猪が秋深しで、飛龍が、
だいぶん春めく季節なのだが、太陽の動きよりも、季
節の進みが、熱の蓄積の関係で遅れるので、そうなっ
ているだけである。つまり天象の上では、嗔猪がやや
冬に入った天象、両方猛の牛虎の艮が旧正月。飛龍が
立夏より、少し前の春天象という事になる。4つの四
季を、5つの五行に分けると、当然四季の境目とは、
かみ合わない。ので後漢の時代に問題になって、易学
の五行対応が、新たに発生したのだ。
 以上の事から、それぞれ五行対応で、金と水の中間、
水と木の中間、木と火の中間に有るので”嗔猪、
猛牛と猛虎、飛龍で、方位についての、境界領域の
3箇所の、五行大将の守りの弱い箇所の、守り神になっ
ている”という、前漢型陰陽道流の意味づけで、
大将棋に駒が有る理由の説明は、それで良いという事
に、なるという訳だろう。
 なお、残りの火土と土金の隙間を、どうしたのかは、
私には良く判らない。ひょっとしてゲームデザイナー
は、それぞれ角度で9°ズレているものの、馬の一種
である麒麟と、鶏の一種(?)である鳳凰を、その守
りの任務に、当たらせるつもりだったのかもしれない。
(2019/03/19)

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作者が同じでも、情景の差で碁盤の脚が違う例(長さん)

前に、狩野派、狩野元信の厩馬屏風と、狩野永徳
の聚光院方丈壁画とで、同じ狩野派の絵でも、
日本人の棋士の指す碁盤の足は蓮座、
中国人の棋士の指す碁盤は足無しで台座
になっていると述べた。
 しかし、厩馬屏風と聚光院方丈壁画とでは、絵
の作者は同じ血筋らしいが、全く同一人物では無
かった。
 東京文化財研究所の、江村知子氏によれば、
近世の画家、土佐光吉の絵は、囲碁盤について、
路線の書き方と、

碁盤の足の描き方で、作者が特定される

と、日本の美術543”土佐光吉と近世やまと絵
の系譜”(2011)㈱ぎょうせいで、述べてい
る。足の形が蓮座なのは、日本人が棋士なら大概
そうだと、私は思うのだが。世俗の将棋史愛好家
と、文化財研究所の専門家とでは、美術品に関し
て後者の言う事の方が、通りやすいだろうから、
この状況で、

本ブログの主張は通りにくい

だろう。そこで今回は、私のような素人に判る
範囲内でだが、

厩馬屏風の狩野元信の絵で、情景の異なる、囲碁
盤の図を探してみた。下の図のように群仙図屏風
(伝)元信作というのが、確認されているそうだ。

群仙図屏風.gif

この絵の囲碁盤も、指しているのが中国人の仙人
という設定のようなので、聚光院方丈壁画の碁盤
と同様、足が無く、何らかの台の上に乗っている
ように、書かれている。盤線のパターンは、私に
は確認できて居無い。
 ただし、文献として、同じく㈱ぎょうせいの、
日本の美術485”初期狩野派-正信・元信”
(2006)によると、

厩馬屏風、群仙図屏風は両方とも、狩野元信の作
では無いと、京都国立博物館の山本英男氏が指摘

しているようである。どちらも(伝)のように表
現するのが、この領域では通例らしい。であるが、
美術史専門家の大勢が、事実をどう見ているのか
は、私には良く判らない。御存知の方があれば、
御教示願いたいところである。何れにしても、

別々の絵の作者が同じでも、中国風か日本風かで、
囲碁盤の足の描き方が違うケースがある、疑い自
体が残っている事だけは、どうも確か

なようだと私は見る。(2019/03/18)

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1986年将棋探源執筆時点伊東倫厚氏は中国伝来派(長さん)

将棋史研究家として北大教授(当時)の(故)伊東倫厚
(ともあつ)氏は、よく知られている。
 将棋史の成書は発見されないが、将棋ジャーナル誌に、
3年位、将棋史の話を連載していたという話を、本ブロ
グのコメントや、論文を読んで、さすがの私も気がつい
ていた。
 調査してみると、日本への将棋伝来の元の国に関して
言及していて、西暦1986年頃には、

中国のプロトシャンチー系統の、日本への流入と考えて
いた

との記録が有った。今回はこの点につき、もう少し詳し
く以下に報告する。
 伊東倫厚氏が、将棋ジャーナル誌に、表題の内容で、
各国のチェス・象棋・将棋の歴史について述べていたの
は、将棋ジャーナル誌のバックナンバーで言うと、

西暦1984年6月号から西暦1987年6月号まで

で、途中跳びとびに休んで、22回連載の、各回2~数
ページ程度の文書である。運が良かったが、22回分の
全文につき、最近、私には見る機会に恵まれた。
 将棋ジャーナル誌の構成が、1987年秋に変化して、
”将棋大学”のセクションが消失したため、将棋ジャー
ナル誌上の伊東倫厚氏の史論は、残念ながら日本に将棋
が到達した所、そこで終わっていた。
よって、駒数多数将棋の”特定の種類の起源に関する論”
というカテゴリーのものは、余り見当たらない。本ブロ
グで論じた部分と、関連するのは、

何処から日本の将棋が来たかという伝来論に、絞られる

との心象を受けた。伝来論で、当時の伊東氏の立ち位置
は、比較的、はっきりしていたと私は考える。

伊東氏は当時、日本の将棋は、中国中原起源と見ていた

ようだ。
 増川宏一氏の将棋Ⅰが発行されて、間も無くのものな
ので、東南アジア起源説を、増川氏の将棋ⅠやⅡ、
大内延介氏の”将棋の来た道”に関連した論文等を
元文献として、批判されていた。
 伊東氏の論拠が、良く出ているのは22回の連載の
うちで、

第17回、1986年5月号の将棋ジャーナルの122
ページから123ページの所で、自身の主張をうまく、
単潔に、まとめられている。

①交点駒置きは、日本に象棋ゲーム系統を伝来させてか
ら、中国本国で、後変化したものである。
②飛車・角行の位置は、シャンチーの砲の位置に類似。
③筋が9筋なのは、中国シャンチーと日本将棋で一緒。

以上のようになっているようだ。
①については、本ブログも賛成するが、②と③には証拠
であるという主張に、賛成できない。①についても、
彼と本ブログとでは、見方が同じでは無い。後者につい
ての、彼と私の違いは、シャンチーが成立する以前には、
主力のゲームが

プロトシャンチーではなくて、イスラムシャトランジと
平安小将棋のルールにほど近い、雲南将棋であり、流行っ
ていたのではなくて、それらに関する情報(後者は遊具
が宝玉)が、中国中原の都市では、幅を、きかせていた
と、私の方は、見ているという点

である。伊東氏は”シャンチーが成立する以前の、中国
初期宋王朝時代には、プロトシャンチーが混乱した状態
で、立体駒や書き駒を、ローカルに混ざって指していた
と考えている”との旨を、将棋ジャーナル誌1986年
の3月号あたりで書いていたようだ。
 本ブログでは、少数のゲームデザイナーの作成した、
始原のゲームが、たまたま、記録として残っているだけ
で流行は無く、むしろ開封市や長安市は、唐宋時代の
当時、国際都市らしい、

各国ゲームの”情報の坩堝”だった

と見ている。中国人はチェス系のゲームに対して当時は、
後の世に、この系統のゲームの”創始者の誉れ”など、
問題にされるようになる時代が、来るとは夢にも思わず、
もっぱら囲碁と比較し、傍観者の立場を取ったと、本ブ
ログでは見ているのだ。以上の点が違う。どちらが正し
いのかは、中国の都市史に詳しい学者に、逐次判断して
もらうしか無いように、私には思える。
 他方②・③については、唐物・中国びいきだった当時
の日本の知識人の仲間だったに違いない、将棋デザイナー
に、結局の所伝来した後に、ゲームを似せてもらえれば
良いだけの話なので、本ブログでは、中国中原が日本の
将棋の源という根拠に、なってはいないように思う。
何れにしても、興福寺で将棋駒が発掘されたのが、西暦
1993年だから、中国シャンチーの、交点駒置が完成
する前に、升目置き将棋が伝来したと考えれば、増川論
を回避できるという、①の理屈に関しては、

伊東倫厚氏は、1986年時点でよく気がついたものだ

と私は、彼の当時の日本の将棋の伝来経路推定論に関し
て、その点が一番関心させられている。(2019/03/17)

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大局将棋は荻生徂徠の広将棋より、駒を取り込んだか(長さん)

将棋者御三家大橋家に伝わっていた大局将棋は、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄の6種の将棋、江戸初期成立の天竺大将棋、
江戸時代成立の和将棋、一時期流行の七国将棋、禽将棋、
から、特に駒の種類を取り込んでいる事で知られる。が、
荻生徂徠の広将棋には、言及されない事が多い。大局将棋は、
正確な成立時期が不明だが、本ブログでは、奥御用を預かっ
た、徳川家治の治世に、水無瀬兼成が豊臣秀次との間で、深
い関係となった、最高権力者との関係の類似性に準えて、
泰将棋の発展形を作ろうとしたのが、大局将棋の作成動機で
あろうと見ている。つまり、荻生徂徠が広将棋を作成した、
数十年後、広将棋を再現しようとした時期が、大局将棋の
作成進行の時期なのではないかと、言う事である。従って、

大局将棋は荻生徂徠の広将棋の成立後に作成

されたと見られると言う事になる。従来は、大局将棋の内容
に関する研究も、跳びぬけて盛んとまでは行かなかったため、

大局将棋の元になった既存将棋種のリストアップが出来てい
るという所までは行かなかった

と、本ブログでは認識している。つまり、

大局将棋と広将棋の関係については、先行研究例は実質的に
無い未知領域だろう

と言う事である。では、実際にはどうだったのかを、今回は
論題にしよう。
 最初に結論から書く。
 中国の童蒙の軍伍の名を使うつもりは、大局将棋の作者は
無かった。そのため、取り入れる駒種は限られた。しかし、
必要に応じて、わずかだが広将棋の駒名を取り入れている。
他方、大局将棋では特に兵駒をたくさん作ったので、広将棋
に合わせて○兵を上段に持ってくるという事をした。つまり、

広将棋自体からは、駒を余り取り入れなかったが、初期配列
を作るとき、参考にするという影響を与えたと見られる。

 では以下に、以上の結論について、説明する。
 前に、第5代大橋宗桂が、荻生徂徠の自分に相談せずに、
広将棋を作成した事に対して、文句を言っていたという、
幸田露伴の研究結果を紹介した。しかし、本ブログでは、
大局将棋を作成したとき、大橋家は代替わりしたあとだった
と見ている。だから、大橋家と荻生徂徠の学派との軋轢は、

無かった

と見た方が自然だと思う。中国の軍伍の名を取り入れるので
はなく、小将棋から大大将棋、摩訶大大将棋を参照して、
泰将棋を作った水無瀬兼成の行為を、大局将棋として拡張し
ようとしたため、中国の軍隊流である駒名は、避けただけだ
ろうと見るのが、自然ではないかと思う。ただし、日本の
将棋の駒名に近い、

龍驤や鷹揚を大局将棋で入れなかった理由は謎

だ。なお、虎翼は、類似音の鴻翼(銀車の成り)の元なので
はないかと、個人的に疑う。弓兵、弩兵、砲兵は、七国将棋
が元なのか、広将棋が元なのか、判然としないが、時代が
近いので、七国将棋に軍配を上げておこう。
 では、広将棋の駒名は、法外に避けていたかと言うと、

砲車を、走車の成りとして採用していたし、広将棋にだけ有
る、馬兵が大局将棋にも有るから、採用した種類数が少なかっ
ただけ

と見た方が、公平だと私は考える。走車成り砲車と、馬兵し
か無いので、

広将棋から大局将棋が、駒を取り入れているように見えなか
っただけ

と、本ブログでは見ると言う事である。
 他方、大局将棋の初期配列には、

兵駒が9段~10段目、つまり、歩兵下2段に集まっている
という、他の将棋種では広将棋以外には無い性質がある。

例外は8段目の騎兵と、5段目の羊兵だけである。

騎兵は、七国将棋で騎が下辺に居たから、そうしたと取れる
し、羊兵は泰将棋に合わせて中段にしただけであろう。

他の多くの兵駒は、広将棋に合わせて、歩兵下のすぐの列に
大局将棋でも、もって来た

ようにしか、私には見えない。つまり、水無瀬兼成とは違っ
て、荻生徂徠は、中国人の軍学の大家の駒名を、主な駒名と
する将棋を作成したために、ゲームデザインの主旨が水無瀬
兼成の継続行為であった、大橋家は、広将棋の駒名を、たま
たま使わなかったのだが、

兵の付く駒を、上段に持ってきたという点で、水無瀬兼成の
泰将棋には無かった、広将棋を真似たような性質が加わった

と考えられよう。
 よって、以上のような結論になると思う。大局将棋は、
室町時代作を装った、水無瀬兼成作と見られる泰将棋とは
異なり、鉄砲駒の砲車が入った将棋になった。
 恐らく天明の頃までに知られていた、既存の将棋種類は、
分け隔てなく、必要に応じて取り入れる方針で、大局将棋は、
少なくとも結果としては、作成されたのであろうと見られる。
(2019/03/15)

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