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踊り駒の有る将棋の、着手完了則のデフォルトを変える(長さん)

この系統の論題についてはかなり間が飛んで、以下
久々の書き込みとなる。
 そもそも本ブログの管理人は、”中将棋の指し方”
で、将棋の永世名人故大山康晴氏記載の、仲間の
中将棋棋士の、着手の描写とみられる

”中将棋駒を、盤にズラシながら着手している”と
いうやり方は、いつもとすれば見苦しい

と感じている。こうなってしまうのは、

着手完了が、駒に手を触れたときでも、駒を使って
から手を離したときでもなく、中将棋では、

駒を盤から離陸させたとき

に、事実上なっていたためと、私は理解する。
 ”獅子のじっとの手”が着手の一部として、

駒駒多数将棋では、ほぼ例外なく存在するため、
日本将棋の流儀には、合わせる事ができないから

である。そこで、本ブログではだいぶん前、

補助の半透明駒を、”ジッとする”の手を指す、
獅子の駒の上に置く事を提案

した。
 ジッとの手を指す時には、獅子を盤から離陸させ
ても、着手したとみなされず、後戻りは”待った”
にならない事に、したのである。
 しかしこれでは、踊り駒の使い方に関する、着手
完了マナーの別の、次の問題を解決できなかった。

途中取りや、居喰いで、相手駒を取り除き忘れた
ケースは、着手側が”泣き寝入り”

だったからである。このケースには、前と反対に、
跳び越えの手を指すつもりとして、”獅子に取られ
ずにジッとしている”との意味で、半透明補助駒を
相手の途中通過駒の上に置くのは、相手駒踊り喰い
を、しない場合のはずだった。だから、元々は

置いても置かなくても良いはず

だったのである。
 この点について最近考えた所、反対にして、

忘れた場合は、それで手は確定。ただし”取らず”
と表現したとはみなされず、強制的に”相手中駒”
や”居喰い駒”を、取って終わる手を挿したとしか、
見掛けの表現と違って、見なされない

としてみてはどうかと、気がついた。
 普通唱導集大将棋本ブログ2017年モデルの、
成り麒麟の獅子や、飛龍、猛牛で、踊り喰い系の手
を着手したときに、相手中駒を取らないで、成り
麒麟獅子、飛龍、猛牛を置いて、駒から手を離して
しまったときには、

強制的に、相手中駒を取り除いてから、
チェスクロックを動作させなければならない、

とするという事である。つまり今までは、うっかり、
相手踊り喰い中駒を盤から取り除かずに、成り麒麟
獅子、飛龍、猛牛を置いて手を離したら、中駒は、

そのままにしなければならないように、本ブログで
は書いて来たが、ここを変えるという事

である。
ちなみに、成り麒麟獅子による居喰いも、喰わずを
選択したつもりではないのに、相手駒を取り忘れて、
自分の成り麒麟に補助駒を置いたら、喰いたい相手
駒は、取れ無かった。このようなケースも、相手の
喰べたい駒を取ってから、獅子に補助駒を置かなけ
ればならなかったのである。
 これからは、相手の取りたくない駒に補助駒を、
別に置かないと、”取らず”とか、”喰わず”の、
むしろ鬼手系が、指せなくしてはどうかと思う。
 なお、普通に取らずで補助駒を置くのは、例とし
て、以下のようなケースだとみられる。ただし、こ
の例では、元々の3三の位置に、駒は無い物とする。

補助駒必要.gif

 つまり、後手が△8八角行と指した上のケースで、
普通に相手歩兵に手をつけずに、成り麒麟を赤い円
で示した、5五の位置から3三に移動させて、手を
駒から離した場合、今までは、後手歩兵を取らずに、
成り麒麟を移動したと解釈された。が、変更後は、
こうした場合は、4四位置の歩兵を、後追いでも取
り外してから、チェスクロックを押さなければなら
ない。なぜなら、歩兵を踊り喰いで取って、獅子を
3三へ移動させる方を、これからは、このケースの
着手の表現内容とするからである。
 そこで、このような”レアーケース”には補助駒
置きが、写真の赤い矢印で示したように、

必ず必要というふうに、着手マナーのルールを決め
たらどうか

という提案を、本ブログがするという意味である。
 なお、獅子の場合は、不正行度なので途中駒に、
任意性が出る。補助駒は、

相手の駒は何も取らない

で単純に跳ぶ手を指すとの意思表示なので、取らな
いという意思表示だけを意味するから、どれかに
付ければ、

デフォルトで取り除く駒とは別の、相手中駒に置い
ても良い

としてはどうかと思う。獅子の居喰いの場合は、
最大8択になり得る。
 また、取り忘れの場合に、ペナルティとして、
取ったと強制決め付けにする場合で、獅子では、今
述べたように取る駒に任意性が出来、喰わされる駒
を、どれにするのか、規則を決める必要がある。
 移動先の升目に利いている駒で、初期配列位置で、
他に何も駒が無い場合に、利き升目数で強弱を決め、
その数の多い強い駒(ただし成り駒は、有れば同種
の元駒と同率。無い太子は元酔象初期位置基準)を、

取って、着手は終わったとみなす

としては、どうかと私は思う。なお、
こう定義すると、獅子と玉将が弱いので注意が必要
だが。相手獅子や玉将をほおって置いて、獅子から
移動させる等するのは、取忘れのペナルティとして、

より大きくすべきなので、これで良い

かもしれない。
 ちなみにたいがいは、利いている駒は、そもそも
一枚だけのはずである。
 利いている駒が無いケースは、全体の中で今述べ
た基準で強い駒で良いと思う。同率が有るケースは、
相手玉段に近い駒、次にそれでも同率なら相手玉列
に近い駒。それでも同率なら、相手から見て左側の
駒を取るとすれば、ほぼペナルティで、強制的に取
り去る、自獅子等が無理に喰わされる相手駒は、
一義的に決まるだろう。
 もともと取りたい駒が、デフォルトで”取り去ら
ないという印の補助駒”を、置き忘れた時に、消さ
れる駒の事が多いので。エキサイトして、着手が
めちゃくちゃになっても、大概は、これで問題が
起こらないような気が、私にはするのだが。
 以上のようにすれば、以前のように”取るつもり
の相手駒を駒を取ってから、自駒を動かす習慣”を、
完全に付けてから、駒数多数将棋は指さないと、日
本将棋を指す癖のままだと、たいへんな事になる、
という事は、随分と無くなると予想する。
 なお、よく考えてみると。
 移動させない獅子用の補助駒と、踊り喰いしない
サイン用の補助駒は、別々に1枚づつ必要だった。
また、連続使用用にペアーで必要で倍の4枚。相手
と味方で×2となり、補助駒は、居喰い表示駒4、
踊り喰いせず表示駒4として、

8枚用意するのが、正式にゲームをする場合。

以上のように、結論されるように思う。(2019/07/16)

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JR鎌倉駅構内は鎌倉時代の風俗営業店店内か(長さん)

以下鎌倉考古学研究所(西暦2017年)発行の、
”集成鎌倉の墨書”、木製品301
”口(4.5文字分スペース)口王馬馬口”木片
の、①詳細説明と、②表題の内容について述べる。
 神奈川県鎌倉市鶴岡八幡宮境内出土の裏楷書”
奔王”鳳凰駒と、同年代であるとの旨前に書いた、
”口(4.5文字分スペース)口王馬馬口”木片
は、鎌倉考古学研究所の集成鎌倉の墨書には、

同年代と書いて無い。

①そこで、この史料についても”集成鎌倉の墨書”
で、紹介されている内容を、このページでは、正
確に記録し直す事にする。特に、

(a)正確な成立年と(b)裏に墨跡有りと集成
鎌倉の墨書では書いてあるのに、その記載が落ち
ている

点について、補充が必要である。
 より詳しい集成鎌倉の墨書の記載は、次の通り。
図番号木製品301(木製品300と共出土。)
遺跡:若宮大路周辺遺跡群・蔵屋敷遺跡
場所:JR鎌倉駅構内(改築による調査)
西暦1984年2月
調査地点地番:神奈川県鎌倉市小町103番7
出土層:第Ⅶ層

年代:13世紀後半~14世紀前半(イ)
備考:オモテと裏面に、両方墨跡がある。(ロ)

部分的に読み取れるのは、オモテ面のみ。裏面に
関しては図に、竪筋が部分的に2本、平行に、
実間隔約1.2cmで書かれている。
図よりの実長:長さ20cm前後、巾1.8cm
前後の細長い棒。
 以下、もう少し詳しく説明する。
 年代は、鎌倉市鶴岡八幡宮境内出土の5将棋駒
が、”13世紀半頃~14世紀初頭”と書かれて
いる。よって、

全く同じ表現ではない。

上限(新しい方)が、今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡の中将棋木札に関して、本ブログが、
御成小学校境出土の、木製品224・225
から間接的に推定した”14世紀中葉”にかかっ
ている。

普通唱導集関連だと決め付けると、感覚的に私に
そう見えただけ

である。西暦1300年頃を否定は出来ないとい
う点のみ指摘し、次ぎの観点である、(ロ)裏面
の直線状の墨跡からも推定する、この遺物の正体
に移る。

簡易的な囲碁盤の破片のようでもあるし、そうで
もないようだし、一種の扇子の骨の1本のようで
もある

と私には思える。以下に、碁盤ではなくて扇子説
と見るが、その根拠を示す。
そのため、共出土品について論じた上、

②の鎌倉時代の鎌倉駅構内に、何があったのか

について論じて、根拠に到達する事にする。
 そこで、②の話題にまた移る。
 本”口(4.5文字分スペース)口王馬馬口”
木片には、集成”鎌倉の墨書”の

番号で木製品300が、同時出土し、その他に、
番号で、かわらけ75、内面墨跡、
番号で、かわらけ76、両面墨跡、
番号で、かわらけ77、内面墨跡、
番号で、かわらけ78、両面墨跡、
番号で木製品298(柱)時代が14世紀中葉~、
番号で木製品299(井戸の木桶)14世紀中葉~、

が、同様な場所から出土している。これら共出土
品を、ざっとだが、本ブログでは次のように見た。

番号木製品300:贈答品のフタ。大きく女性名
で、贈り主名を示した物品。たぶん女性名の方が
内側ではないかと、私は思う。
番号かわらけ75内面:春画。
番号かわらけ76両面:外側春画。内側官能小説。
番号かわらけ77内面:神棚用の縁起物。
番号かわらけ78両面:外波模様。内使用者花押。
番号木製品298(柱):建物建築時の見当記号。
番号木製品299(木桶):店の得意客の花押集。

特に75や76から、この場所が私には鎌倉時代
の風俗営業の店のように見える。そして本ブログ
で問題にしている、木製品301の
”口(4.5文字分スペース)王馬馬口”は、
裁断したときに、字間をきっちりと裂くのが困難
である点をも考慮すると、
風俗店の飾り扇子の骨に、賭博やゲームでの要領
を、短い文句で書いて、客に見せたりプレゼント
したりする、顧客に対して、その場の雰囲気を盛
り上げるために店が作成した、本来は多数あった

”短文文句入り飾り扇子”の破片

とイメージするようになった。裏面の模様は、絵
かもしれないし正体不明だが、碁石を置くにも、
少し目が細かすぎる。
 また、時代は少しズレる可能性も有るようだが、
番号で木製品299(木桶)の店の、”得意客の
花押集”は、その風俗店の常連客の花押を多数飾っ
て、店に来る客が多い事や、イベントの楽しさや、
その支持者が多い事を、店が宣伝しているのかも
しれないと私は思う。更にかわらけ類78は、
重要常連客使用済みの、食器保管品かもしれない。
 次にまた、木製品300の贈答品のフタは、客
が持ち帰るみやげ物へ、大きく売れっ子の女性名
か、又は店の女将の名を書いて、その風俗営業店
へのリピータの増加を、店が期待しているとも、
解釈できると私は思う。
 従って、

現在JR鎌倉駅構内の地点の地下には、鎌倉時代
の風俗営業店の遺跡が眠っていて、”口(4.5
文字分スペース)口王馬馬口”木片は、遊び場一
般でする、”お遊びとしての大将棋”の要領を、
初心者向けにガイドするという目的のもの

との説をとる。そしてそれは、共出土品の内容か
ら見て少なくとも、完全に否定できると、までは
行かないように、私は今の所考えている。
 つまり、補う文字が多すぎる感じはするのだが。

搦王馬馬仲.gif

この木片に、
”普通唱導集大将棋の戦術が絶対に書いてない”

とまでは言え無いと言う意味である。(2019/07/15)

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狛犬、金剛力士等の有る144枚制後期大将棋の調整(長さん)

以前述べたように、神奈川県鎌倉市の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の出土に
よって南北朝時代に、獅子、狛犬、金剛、力士という、
現時点では、摩訶大大将棋の駒とみられる駒は、存在
がほぼ確定した。よって、後期大将棋に、これらの駒
や、恐らく夜叉、鳩槃、横飛または横龍程度は、テス
ト的に導入して指す事が、

実際には無かったと本ブログでは見る、後期大将棋に
鎌倉時代にも導入できたと考えるのが自然

とみられた。他方、
後期大将棋は、陣囲いが、2枚の盲虎と銅将と猛豹、
それに玉頭の酔象で初期配列時に形勢され、

15升目130枚制後期大将棋の玉囲いは過剰に堅い。

そこで予想として、本来の130枚制後期大将棋には
無い、狛犬、金剛、力士、夜叉、羅刹、それに2枚の
泰将棋の横龍をそれぞれに導入して、72候に因んだ
15升目144枚制の後期大将棋の攻撃力増大ゲーム
を、ルールを微変更して2局やってみた。
 結果として、酔象、麒麟、鳳凰が其々、太子、獅子、
奔王に成り、一段目と歩兵列、反車と6段目仲人が、

本ブログの言う、普通唱導集大将棋2017年型の
金成りと調整し、踊りは水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の、獅子と狛犬以外は”金剛力士1目2目は踊らず”
のパターンのルールで、攻守バランスは取れている

事が明らかとなったので、以下にもう少し、詳しく
報告する。
 下図は、上記で説明した、130枚制後期大将棋の
14枚、枚数増加ゲームの初期配列である。なお、
桂馬は飛龍の位置の守りに加わりにくいため、
摩訶大大将棋の土将に交換している。また、以前にも
述べたが、夜叉は斜め4方向2升目先踊り、前升目歩
みとした。

摩訶大後期大初期.gif

このケースでは特別に水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、
摩訶大大将棋口伝等にあるように、狛犬以外は、
正行度の踊りであるので途中相手駒取り、自駒通過
可能ルールだが、止まれるのは、きっちり決まった
目数だけである。つまり、

”金剛力士は3目踊り。1目2目おば踊らず”の
パターンで、攻守調整は、ほぼこのケースについて
はOK

だった。つまり、”全てが定説の通りの仮定から出
発して、背理法を展開してよい”という意味である。
しかし、実際にチェックしてみると、

飛車、角行、竪行、横行、横龍、金剛、力士、夜叉、
羅刹、飛龍、猛牛の相手陣金成りは、不成りの方が、
良かった。

つまりこの点でも摩訶大大将棋よりもむしろ、通常の
後期大将棋(水無瀬兼成の将棋纂図部類抄)に、より
近いという事である。すなわち、これらの中堅駒を
金成りにすると、狛犬、金剛、力士、夜叉、羅刹、
横龍×2の双方、攻め駒7枚増加であるにも係わらず、
ディフェンスの盲虎2、酔象、銅将2、猛豹2囲いが、
強力さで勝っていた。
 以下に、中堅駒金成りのケース(第1局目)の指終
わりの図を示すが、成り飛龍は、不成りの方が、この
局面では良い事が判るだろう。

摩訶大後期大指終.gif

以上の点は中堅駒を不成りにした第2局で確かめてい
る。第2局目の指し終わりは以下のような感じである。

摩訶大後期大2終.gif

 なお、第1局目で、先手は通常の後期大将棋では、
角行を使ってする、”馬袖側上がりの相手中央部駒狙
い作戦”、後手に”角、角、馬、馬の普通唱導集第1
節型の右袖攻撃作戦”をさせてみた。この144枚制
将棋では陣袖も堅く、後手の普通唱導集の唱導唄に従っ
た、当時で見ても”古典的な作戦”は無理筋であり、
第1局目では、終始先手のリードで、先手が後手玉を
詰んだ所が、その局の、指し終わり図で示されている。
 第2局目では、両者に”馬袖上がりの相手中央部駒
狙い作戦”をさせ、今度は後手が勝っている。
 特に、盲虎の七方歩みが、鎌倉市出土の、今小路西
鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札でも示されている
ように、後期大将棋のディフェンスの堅い性質を決め
ている。また同じく、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札で、
”(銅将や鉄将の前に置きたくない)もうし/ひやう”
かとみられる名で示されている、猛豹の存在も大きい。
 であるが、摩訶大大将棋系の攻め駒を、更に7枚加
わえて、パランスを取り直せば確かに、

もともと、後期大将棋の攻撃と守備のパランスは、鎌
倉時代の当時でも、概ね取れる性質のものであった事

が、次第にはっきりとして来たと考える。(2019/07/14)

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後期大将棋を西暦1225年~75年間不完全性我慢か(長さん)

通説では、少なくとも二中歴の示した平安大将棋が成立
してさほど経たないうちに、徳島県川西遺跡の時代頃、
後期大将棋が成立。普通唱導集で唄われたとされる。
 しかしながら、神奈川県鎌倉市の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札にさいきん

狛犬が記載されているのが、

よみがえる中世3武士の都鎌倉(1989)にて、発覚
した。その結果、鎌倉時代の後期に、狛犬を含む
摩訶大大将棋が、成立しているのかの検証を待たずに、

獅子と狛犬と恐らく、金剛と力士と、および、夜叉、
鳩槃、羅刹のうちの2枚程度は、容易に導入できると
いう理由で不自然

と考えられるようになってきた。
 すなわち、
元々、これらの駒を後期大将棋に更に導入した方が、
ゲーム性能が上がるのに、西暦1225年から西暦

1300年の75年間、我慢して、130枚制の将棋を、
15升目を標準的な将棋盤を使用して、指していたと
すれば不自然

という意味である。
 今回は、以上のような論旨について、以下にもう少し
詳しく述べる。
 重要な点は、

15升目130枚制の後期大将棋は、酔象、盲虎、銅将、
猛豹で作られる、玉の囲いがとても堅いので、現行の駒
構成では、攻撃力に比べて、防御が強すぎ

と考えられるという点である。
 これは、

たとえば、もう14枚、攻撃性の強い駒を加えて、配列
を変えれば、10年20年、苦しまなくても直る。 

たとえば、以下のように摩訶不思議大大将棋に有るか、
その類の、狛犬、金剛、力士、夜叉、羅刹、横龍を加え、
踊りと成り金の範囲のルールを有る程度、調節するだけ
だと考えられる。

攻守バランスの取れる15升目後期大将棋ゲーム(144枚制):
口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行横龍龍馬龍王獅子奔王狛犬龍王龍馬横龍堅行横行飛車
口口飛龍猛牛角行羅刹力士麒麟口口鳳凰金剛夜叉角行猛牛飛龍口口
反車口口猫刃嗔猪猛豹悪狼盲虎酔象盲虎悪狼猛豹嗔猪猫刃口口反車
香車土将石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将土将香車

なお、上記配列で、泰将棋の横龍ではなくて、摩訶大大
将棋の横飛にした場合は、土将よりも桂馬の方が良いと
みられる。また、夜叉の駒の動かし方ルールは、たぶん
だが、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の泰将棋の夜叉では
なくて、摩訶大大将棋の夜叉の斜め2升目踊り、前方一
歩の方が、このケースは良いと見られる。
 何れにしても現在では、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の、
西暦1350年成立の狛犬の存在が、概ね確定している
ので、獅子と狛犬の対、金剛と力士の対を考え出すのは、
前にも本ブログで述べたが、鎌倉時代末期頃までには、
可能だったのではないかと、かなりの程度疑われる。
 すなわち安土桃山時代の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
には、ゲーム性の劣る後期大将棋と、改良の材料として
自明な摩訶大大将棋の情報が、材料だけ記載されていて、

鎌倉時代中期に、15升目130枚制の後期大将棋を
標準的に指していたとしたら、当然あるべき、問題点の
改善の跡が、何故か見当たらないという状況だ

という事である。
 なお、”本ブログの言うようにするというのは、
144枚では130枚より、複雑になるのだから、その
ような改良はするはずはない”という主張は、

成り立たない。

第一に、①144枚と130枚の差は、14枚と1割強
でしか無い事。

第二に、②144枚という数は、72枚の2倍であって、
72候の陰陽道の意味と合致している

という点が、指摘できるからである。
 すなわち、実際に15升目の後期大将棋が、鎌倉時代
の大将棋の標準だったとすれば、有る程度、ゲーム性の
高い144枚モデル等が、文献に残って、

92枚制の中将棋よりも煩雑さで負けて、指されて居無
いという話なら整合するが、実際にはそうなって居無い

のである。これは、

中将棋を作ったついでに、アバウトに後期大将棋は作っ
た、だけだと考えると、状況と旨く合う

のである。なぜなら、材料が目の前にあるにも係わらず、
使って居無いという事は、やる気の有る無しの問題だか
らである。
 いままで一般に、錯覚してしまっていた事柄とは、

”13升目の将棋に比べて、15升目の良い将棋をデザ
インするのは、現実として例が無いため、相当たいへん
だろう”と、実は間違って決め付けていた

という事ではなかろうか。近々チェックしてみようと思
うが、

大きな差は、実際には無いのでは

と、私は思う。
 だから、12升目の中将棋の親は、その升目数前後で
それに近い、

13升目の平安大将棋型で、恐らく68枚制~108枚
制の間で推移したものを12升目92枚制にまとめた物。

以上のように、推定するのが、神奈川県鎌倉市の

今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の狛犬が
検出された現在では、充分に自然だ

と考えられるようになったのである。(2019/07/13)

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モンゴル密偵対応龍王無狛犬後期大将棋のゲーム性確認(長さん)

以前に、後期大将棋の龍王と奔王の位置に、左か
ら獅子、狛犬、奔王と入れ、猫叉を取り除いて、
盲虎を平安大将棋の猛虎に変えた将棋は、西暦
1323年時点で、モンゴル帝国降伏の呪術的
意味が、ほぼ無いゲームであるとの旨を述べた。
そこで今回は、このゲームの性能の良否を実際に、
1局だけだが、指してチェックしたので報告する。
 この将棋は以下の写真のような初期配列となる。
なお、成りのルールは、水無瀬兼成の将棋纂図部
類抄と同じとした。つまり酔象、麒麟、鳳凰以外
不成りであり、この3枚だけ、敵陣5段目で中将
棋のパターンで成るとした。

新安沖大将棋.gif

結論を述べると、

盲虎を猛虎に戻した効果が大きく、攻めが守りに
対して強すぎ

との結果となった。
 では、以下にもう少し詳しく述べる。
 この1局だけの将棋では、手前側が、無理奔王
端攻め戦術、向こう側の後手が、普通唱導集の、
唱導唄戦術で攻め合う作戦とした。
 結果は以下のように、手前方が一応勝ったが、
後手の方が中盤はむしろ、押していた。

新安沖大将詰.gif

すなわち、

普通唱導集の第1節の戦法はこの将棋にも使える

事が判った。むしろ、右桂馬と仲人がかみ合わな
いため、

対策に有効なものが無く、攻め合うだけの点で、
普通唱導集の第2節とは合わず、この将棋も、
普通唱導集の唱導唄と、全体としては合って居無
い事が判った。

そして、後期大将棋と、この”龍王と猫叉を除い
た後期大将棋”の差は、

猫叉で、猛牛に繋ぎが出来ない事

である。そのため、普通唱導集の大将棋流の角と
馬による、タスキがけの端攻め作戦をかわすのは、
この将棋でも、実は難しくなる。
 そこで、奔王を無理やり手数を掛けて、左端の
最下段に移動させてから、相手右辺の端を攻める、

普通唱導集の作戦では無い、後期大将棋の攻めに
特有の戦術で攻め合う作戦

を、手前、先手側に取らせると、後手より大きく
遅れて、中盤は手前先手側が、かなり押された。
それでも勝てたのは、後手が気を抜いて、麒麟の
繰り出しが遅れたから、だけであった。
 また、陣の強さについては、

虎が、盲虎の前方以外の七方歩みで無くて、斜め
4方向歩みである事が、圧倒的に効いた。

つまり、崩れやすい陣に、典型的な後期大将棋の
陣から、大きく変化した。そのため、

攻めの方が、守りに比べて、はっきりと偏りすぎ
ているゲーム

と結論できた。
 前方以外の七方歩み盲虎にしていたとしたら、
ほぼ、バランスが取れていたのかもしれないが。
奔王は、その分左端下隅へ、移動しやすくなった
だろう。壁駒として、また猛牛の繋ぎ駒として、
猫叉はやはり、後期大将棋系の将棋の場合、ほし
い所か。
 何れにしても、

神奈川県鎌倉市今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
出土の中将棋木札に、いみじくも示されているよ
うに、”万うこ(盲虎・猛虎)”の駒の動かし方
のルール調整が、大将棋や中将棋の陣囲いの強さ
の調節で、いかに大切なゲームルールの調整ポイ
ントになるかが、はっきりと示された良い例

のように、私には、この将棋を試してみて思い知
らされたように思った。
 何れにしても、このバージョンのゲームは、存
在したとしても、短命であったはずだ。新安沖
沈没船の中で、たまたま思いついて指され、それっ
きりだった可能性さえ、有るのだろう。(2019/07/12)

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新安沖沈没船内でモンゴル密偵が居ても大将棋を指す方法(長さん)

以前述べたように、本ブログでは、13升目型と見る
本ブログの普通唱導集大将棋が、敵国降伏の呪術的意味
を込めたゲームであったと見ている。そのためモンゴル
帝国所属の船員が乗る、呉越同船の新安沖沈没船の中で、
同系列の15升目130枚制後期大将棋を指すのは、そ
の20年程度前に、モンゴル帝国降伏将棋を指した経緯
があるとすれば、困難ではないかと述べた。
 しかし、そのときも言及したように、13升目108
枚制の本ブログの仮説普通唱導集大将棋と、既存の15
升目130枚制の後期大将棋とは、一応別のゲームであ
る。従って、仮にモンゴル帝国の密偵に、普通唱導集大
将棋が、”破壊防止法に違反するゲーム”という事が
判っていたとしても、後期大将棋には、要素が無いから、
単なる娯楽と、言いくるめる方法は、絶対に無いとは言
えないのかもしれない。そこで、少なくとも理論的に、
そのようなゲームが構成可能かどうかについて、以下に
考察してみる事にする。
 思考経過で重要なポイントと、結論を先に述べ、その
後で説明を加える。

後期大将棋の4段目に、日本国を守る龍王が駒として存
在しなければ、敵国降伏の要素が抜ける。
 龍王を除いて、1段上げた獅子と狛犬、奔王を並べれ
ば済む。

では、以下に説明を加える。一例として、新安沖沈没船
内で指せる将棋は、上段の後期大将棋から、龍王×4、
猫叉×4を除き、狛犬×2を加えた、下段の初期配列の
将棋となる。

15升目130枚制後期大将棋の初期配列(下5段、以下同):
口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛龍飛車
口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟獅子鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛口口
反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

新安沖沈没船(仮称)124枚制龍王無狛犬後期大将棋の初期配列:
口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍横行堅行角行龍馬獅子狛犬奔王龍馬角行堅行横行飛龍飛車
口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟口口鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛口口
反車口口口口口口猛豹口口猛虎酔象猛虎口口猛豹口口口口口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

なお、猫叉は、妖怪”ねこまた”の漢字表現が、西暦
1323年時点の、徒然草の時代に確定していないと見
たため、取り除き、下段の将棋では、盲虎を猫叉動きの
平安大将棋の猛虎に戻している。
 前に述べたとおり、この124枚制の大将棋は、
本ブログの基本進化の見方と、次の点で

全く合致していない。

すなわち、悪狼、猛豹、猫叉が全部加わってから、自陣
5段目配列に”膨ら”んでいない。
 しかしながら、そもそも潰れたまま、悪狼、猛豹、
猫叉が全部加わり、ついで自陣が4段目から5段目に膨
らんだと、以前考えたのは、

奔王を左辺の香車の位置に移動させて、端攻めしたとき、
攻め駒が爆発的に消耗する欠陥があるため

である。
 ところが、配列を見てもらえると判るが、この問題は、
そもそも、後期大将棋で奔王が、4段目中央に居るから
起こるのであり、盲虎の横動きを無くしてから、

奔王を元の右龍王の位置にシフトさせても、ほぼ防げる

のである。
 しかも、このモデルの利点は、神奈川県鎌倉市の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡発掘の中将棋木札に、

”しろいぬ”が書かれている理由をも、説明し得る

と点も有る。つまり大将棋に、予め狛犬が有ったために、
獅子に関する特別な規則による、合否判断の問題で、
鎌倉市今小路西御成小学校遺跡の鎌倉時代のゲームセン
ターにて問題が起こり、獅子を取り除いて、狛犬を入れ
たいときに、予め狛犬が存在しているという利点がある
と言う事である。
 さて、ここから後が、これで新安沖沈没船内に同船し
ている、モンゴル帝国の密偵に、ゲーム内容が怪しまれ
ないと考えられる理由である。
 そもそも、13升目108枚制の本ブログに関して、
モンゴル帝国の密偵に、モンゴル帝国降伏の呪術ゲーム
だと、バレてしまうゲームルール上の、特に初期配列や
駒の構成に関する要素は、次の3点であるとみられる。

①2段目に太子成り酔象が有って、麒麟と鳳凰を両側に
付けており”釈迦の仏教が守護する国”である事を、示
している。
②おなじく2段目に、牛、虎、龍、猪駒が有って”鬼門
から来る鬼を退治する事”を表している。
③3段目に龍駒が4枚並んで有り”龍神がモンゴル帝国
の侵略に、神界にて対抗する国”である事を表している。

大切な事は、①につしては、麒麟、鳳凰を2段目から3
段目に移動させて、そのイメージを薄め、更に、
牛~龍は、龍を4段目に移しただけでなく、2~3段目
動物駒を、肉食が強いものを中央に、草食系の弱いもの
を袖に置くという、闘獣棋や、中国黄河文明時代の、将
棋の伝説に則って、配置変えたため、

①と②については、後期大将棋とその類では、元々問題
が回避されていた

という点である。つまり、

③の問題だけ、残っていたと言う事

である。だが、③の点についても、龍そのものを示す、

龍王を、要素から外してしまえば、龍馬は馬なので、
モンゴル帝国に敵対的な将棋と証拠そのものが消滅

してしまうとみられるのである。だから後は、モンゴル
帝国降伏将棋が指されていたのは、西暦1300年まで
であり、今は西暦1323年だから、23年前の昔話と
言いくるめれば、モンゴル帝国密偵に対しての、言い訳
として、成立しないとまでは言えないと言う事ではない
かと、私は思う。
 確かに、後には少しゆり戻して、西暦1380年頃に、
後期大将棋になったとしても。西暦1320年頃から
西暦1350年頃までは。異性庭訓往来に記載されてい
るように、

いろいろな将棋が試行される混乱期だった

と考えれば。偶然西暦1380年の57年程度前に、
後期大将棋にやや近い、15升目124枚制の、
本ブログの普通唱導集大将棋と後期大将棋の中間形で、
15升目、自陣段、中間段、相手陣段の等間隔な将棋が、

一時的に有った位の所までは、ひょっとしたら許される
のかもしれない

とは言えるかもしれないと、私には思われたのである。
(2019/07/11)

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猫叉。徒然草の表現は”猫に犬へん柔”(?)(長さん)

以前に述べたが、成書の吉田兼好の徒然草では、読み
下し文で表現され、89段の猫叉の叉は、ひらがなで
表現されている。鎌倉時代末に吉田兼好が、徒然草
を書いたとき、漢文型で書いたのかもしれないので、
少なくとも猫叉の叉は漢字であったはずだと、私は文
学の歴史の素人なので考えた。ちなみに鎌倉時代初期
に、藤原定家は”猫股”と表現していたと記憶する。
 そして安土桃山時代に、水無瀬兼成は、猫叉と書い
ている。
 結論を書くと次の成書に、表題に有るように、

”猫に犬へん柔”と吉田兼好の徒然草ではなっていた

との情報が有った。徒然草の原文で確かめて居無い。
なお、原文で確かめるという事が、できると言う性質
のものなのかどうかも、実の所、私には良く判らない。

徒然草事典(西暦1977)三谷栄一編、有精堂出版。

なお、犬へん柔はIME辞書では、音読みがドウ、ジョ
ウ、訓読みが”さる”。諸橋徹次の大漢和辞典による
と、訓読みでタハケル等が有り、テナガザルの一種の
事だという。
 これは、実在する話とすれば、吉田兼好流のあて字
とみられ、たぶん原文の徒然草に、漢字でこう書いて
あると推定されるという、推定の話なのだろう。ただ、
”マタ(mata)”と言うとき、色葉字類抄などで
は、以前に本ブログで書いたように、人体の体のある
部分を指す、マタグラの意味ではなくて”猿”系の漢
字を充てている。ので、吉田兼好は、マタの意味にな
る、猿関連の漢字を探して、書いたと解釈できると思
う。つまり吉田兼好は、本当に、いい加減なあて字を、
したわけでは無いと言う事である。
 以上の結果をまとめると藤原定家は猫股。吉田兼好
は猫+犬へん柔。しかしながら曼殊院の将棋図が
猫叉だったので、将棋纂図部類抄は、猫叉なのだろう。
 その後、色葉字類抄の書写時に、大将基馬名で猫刃
になり、江戸時代には、たとえば松浦大六氏所蔵の、
将棋図式でも猫刃になっている。猫刃は猫叉の類と解
釈できるが。しかし、猫に犬へん柔を、叉と解釈して、
字を少し変えたとは考えにくい。よって、

猫叉という駒名の漢字表現が成立したのは、室町時代
初期と、はっきり結論できるのではないか

と私は考える。
 つまり、後期大将棋は室町時代初期成立と、

少なくとも猫叉の漢字表現の成立時期からは疑われる

のではないか。むろん猫叉という妖怪自体は、平安時
代末には、遅くとも知られていた。しかし、

妖怪ごときだから、正確な漢字での表現はどうでもよ
かった。

ので、鎌倉時代には、漢字にしようと、ひらがなにし
ようと、どうでもよくバラバラだったのではないか。
 しかしながら、将棋駒として作るには、漢字二文字
で、いつも同じにならないと、駒名として使えるよう
には、私には思えない。
 たとえば、鳩盤の盤と、鳩槃の槃とは、このような
使い方のケースは異字扱いだが、将棋の駒としては、
駒の動かし方ルールが違う。対局中に、特に劣勢側の、
難癖の原因となるため、音だけ借りてきたような漢字
を混在させた結果、”別の将棋具の、駒の動かし方ルー
ルとは違う駒である”という類の主張を発生させる原
因を、予め作らないようにするのが普通だからである。
 本ブログでは、猫叉は鎌倉時代には、狼や山犬の類
だったし、悪党の洒落で悪狼を作ったと見たため、悪
狼も猫叉も、鎌倉時代末頃の、悪党と言う言葉が流行っ
た時代の成立と見ていた。猫叉は、漢字でどう書くか
が、鎌倉時代末までは、バラバラだったので、よって
後期大将棋の成立は、徒然草事典からの情報を見ても、

南北朝時代から、室町時代前期の間のどこか

の疑いが強いのではないかと思う。
 そして私には、盲虎、悪狼、猛豹、嗔猪、猫叉、
猛牛、反車で作る、ジグザク列が確立しないと、

後期大将棋は成立しないと解釈するべき。

以上のような気が、やはり依然してならない。
 ようするに後期大将棋は、ひょっとすると、盲虎は
直前まで平安大将棋の猛虎の動きだった、中将棋の祖
の将棋”、すなわち普通唱導集大将棋の後継である、
西暦1350年頃成立の中将棋と、深い関係が有るの
ではあるまいか。
 故に、

後期大将棋は普通唱導集時代の大将棋にしては、小駒
の構成要素が不足。

以上のように、考えるのである。(2019/07/10)

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新潟県のカヤマチ遺跡より2013年”奔鉄”類似木片(長さん)

新潟県埋蔵文化財調査事業団の、過去ログによると、
縄文時代の遺跡とされる、新潟県岩船郡関川村片貝
の通称カヤマチ遺跡で、時代が下るとみられる卒塔
婆の頭部分と共に、その破片とも将棋の駒とも取れ、

無理やり読むと、奔鉄のように見える木片が出土

しているらしい。
 問題のPDFファイルは、”平成24年のカヤマ
チ遺跡発掘報告のまとめ”と置き換えられて、検索
するとhitはするが、リンク切れを起こしていて、
簡単には私には、詳しい内容が見れない。

カヤマチ遺跡.gif

 上の写真の左の木片がソレだが、字を良く見ると、
2文字あるうちの、上の方は”奮”と書かれている
ようでもある。ただし奮迅と読むのは、難しそうだ。
なお、右の卒塔婆の方はの墨跡は、梵字のようだ。
そこで、

無理やり将棋駒にある漢字を当てはめると、一字目
は奔と、見てみたくなる。

 また2文字目は、金へんの可能性は少ないとも思
えるが、敢えて金ヘンの漢字に見てしまうと、

鉄(鐵)である。

従って、元駒不明の”奔鉄”に無理やりなら読める。
元々縄文時代の遺物が多い遺跡なのだろうから、こ
れらの木片はノイズ扱いであろう。よって報告書は、
手紙で請求するか、新潟に行かないと、見れなくし
てしまったとも考えられる。

残念な事だった。

ざっと、最近画像検索をしてみたが、今の所、未確
認の擬似出土駒状の写真は、この一枚程度しか、簡
単にはweb上ではhitしないようだ。(2019/07/09)

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ウズベキスタンの象・駱駝?の造形物はチャトランガか(長さん)

ここでは、表題の外国の遺物について、2人制チャ
トランガとしては、デザインが変だと論じる。
 先行研究は著名で、増川宏一氏、木村義徳氏等、
多くの将棋史研究者が、プロトチェスの駒かどうか
に関して言及している。増川氏は一時期そう論じた
が、”将棋の起源”以外で言及は余り見出せない。
 正確な遺跡名は、加藤九祚氏とB.トルグノフ氏
(2016)によれば、”ウズベキスタン共和国の
ダルヴェルジン・テバ遺跡のDT-5出土の将棋駒”
と言うとの事である。
 象の姿の金製の駒と、駱駝(?)と見られる同じ
く金製の駒は、少なくとも有るようだが、この2個
以外に有るのかどうか、本ブログの管理人には、現
時点でよく判らない。古代インダス地方を支配した、
イラン人系の国家、クシャン王朝時代の、富豪の住
居跡から、2世紀に成立したとみられる、遺物とし
て出土したとされる。
 将棋の駒であるとすれば、最古であり、
西暦600年ではなくて、

当然2世紀が、チャトランガ系ゲームの初出になる

と言うので、国内でも議論が有ったと木村義徳氏の
複数の著作物で紹介されている。

 今回は、10升目40枚制の2人制チャトランガ
の駒では無い

という、本ブログの見解を述べる。
 根拠を先に書くと、

象も駱駝も屈んでいて、守り駒風だから

である。
 では、以下に説明を続ける。
 駒を見ると、象駒も駱駝駒も、しりもちをついた
形に彫られている。従って、

走っている様子ではない。

しかしながら、二人制チャトランガで、仮にペルシ
ャの7世紀の10升目制の、象と駱駝駒の有るチャ
トランガやシャトランジ系のゲームのルールを考え
てみると、

象は強い駒のはずだし駱駝は象の代わりだったはず

である。つまり、飛車や角行格付けの駒だったと、
本ブログの管理人は認識する。当然、それ用の駒で
あるのならば、走り駒の造形の感覚で、像が彫られ
ているのが自然なのではないか。
つまり、この2つの駒らしき遺物は二つとも、駒だ
とすれば、日本の将棋駒で言えば、

臥龍の”臥”が修飾詞に付いた、象と駱駝であり、
臥龍が小駒である事に象徴されるように、走り駒の
イメージの造形物として対応していない

という事である。
 実際は両者ともに屈んでいて、

むしろ守り駒(神)といった雰囲気がする。

よって、少なくともこの”将棋駒”の像の姿から
察するに、インドやペルシャの二人制原始チェスの
駒にしては、

絶対とまではいかないものの、おかしな点がある

ように、私には思える。別の何らかの遊戯用か、
そもそも部屋の守り神群として使う、部屋の豪華な
飾りの一部とも、疑われるように見える。
 よって、本ブログとしては、この2世紀のウズベ
キスタン出土の”最古の将棋駒”と称されている遺
物は、

西暦600年前後のインドチャトランガに接続する
とは、考えにくい物品

との見方を、今の所取りたい。
 そもそも将棋史・チェス史の遺物は、極端に少な
くまた、遺物の中で扱いが傍系的である。だから本
品も、遺物が存在するという以上に、手がかりが有
る可能性は、かなり少ないように、個人的に予想す
る。

2世紀成立の駒状の像が、屈んだ姿に彫られている
から怪しいと、最古遺物説を否定したら、自動的に
チャトランガの成立は、マウリアのカナウジで、
その次ぎに古い史料に基づく西暦600年頃。

以上のように、論理が展開されるだけだというのが、
チェス等の歴史研究の現状と、ほぼ完全に見て良い
のではないか。本ブログの管理人は、初出時期の論
争に関して、それだけの事ではないかという意味で、
”論争が収まらない性質”とのイメージの論自体を、
依然疑っている。(2019/07/08)

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2013年興福寺出土酔象駒の裏に薄く”金将”の文字(長さん)

西暦2013年に発掘された、西暦1098年記載木簡
と共出土の酔象は、発掘者の奈良県立橿原考古学研究所
によると、”裏に墨書が無い”はずだった。本ブログの
管理人は、この駒の裏の写真は、良いのが未公開と考え
ていたが、西暦2013年10月22時17分に、比較
的判りやすい写真を

毎日新聞が公開していた

事が、最近ようやく正確に判った。毎日新聞のwebペー
ジに、このような古い記事は見出せないが、2018年
4月前後から、余り更新されて居無い、
neggy_0313氏のブログ、”備忘録”

https://blogs.yahoo.co.jp/neggy_0313/

に”新聞上への発表”だと、書いてある写真があるのを、
2019年の7月頭に確認した。
 溝口和彦氏のブログ同様、ヤフーブログなので、該当
ページを容易に特定できないが、上記のurlの後に、

62602409.html

と足せば、neggy_0313氏の西暦2013年
10月25日の午前9時21分の記事が、出てくるよう
だ。
 そのページの中に、赤外線写真で、左に裏、右に表を
奈良県立橿原考古学研究所が撮影したとみられる、写真
が載っている。画像を拡大すると、なぜかneggy_
0313氏のブログの、奈良県立橿原考古学研究所が撮
影した、不成りと発表されたはずの、酔象の左側の写真
の裏面に、

極淡いが”金將”と書かれているようにも私には見える。

web表示画像の大きさから、たまたまこう見えるのか、
または、本当に淡いが金将と、書いてあるのかどうか、
何が起こっているのかは、今の所、私には良く判らない。
金将の将が、”也”でも”く”でも無くて、楷書ではっ
きりとしてしまうと、駒を並べる際の、使い勝手と言う
点で、他の興福寺出土駒では、避けているように見える
ので、その点が今度は謎なのだが。
 なお問題酔象の写真に、奈良県立橿原考古学研究所の、
”思想や感情が、表現されているかどうか”は謎だが、
著作権に関連して、著作物かどうかの判断そのものが、
赤外線写真と称する、処理過程の不明なものでは面倒く
さいので、本ブログへは転載しない予定である。
 お手数ですが、neggy_0313氏の”防備録”
ブログの該当ページで、必要でしたら皆さんで、適宜御
確認願いたい。
 以上の結果から、本ブログの、

大学講師の三浦氏への2013年酔象解説に関する批判
は、間違いなく正しいとまでは、私には言え無くなった。

三浦氏には、舌足らずな批判をしてしまったと、お詫び
したい。なおやや小さい写真で、三浦氏のブログの該当
ページにも、酔象駒の裏は載っている。毎日新聞の方が、
写真の質が少し良く、それで確認してから、三浦氏のペー
ジの写真も、そのつもりで良く見ると、同様に裏が、
金将にも見える事が判る。
 なお問題の酔象駒については、裏が見えない状態で、
水に浸かって一般公開されている近年の写真が、web
上には、赤外線写真とは別に、現時点でも見出せる。
 今後は、この赤外線写真群とは又別の、問題の酔象駒
の裏面に関する情報が、出てくる等の結果として、
neggy_0313氏の”備忘録”の赤外線写真だけ、
たまたまそう見えたと言った、結論になる等に落ち着く
までは、

この西暦1098年の興福寺酔象駒に関しては、
不成り又は、成り楷書二文字金将(?)酔象駒

等と、必要に応じて本ブログでは表現するようにしたい
と思う。
 私にとって、この件からは、信用できそうな研究所の
発表であっても、こと将棋の史料に関する事実認識に関
しては、簡単には追従しない。及びまた、自分で元史料
の様子を、はっきり確認していない状態で、他人の解釈
論に対する批判をするときには、事実認識に関して、

”私は実際にそうだと、確認はしていないが、その酔象
は、『不成り』と発表されているはずではないか”等の、
断り書きを入れて論じるべき

との、苦い教訓を残した論題であった。(2019/07/07)

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