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王将と玉将(長さん)

 摩訶大(大)将棋では、成りで奔と付く駒は、通例「元
の駒の歩める方向に制限無く走る(等)」と動かし方ルー
ルが表現されるケースが多いため、駒数多数将棋の研究家
には、「奔王が出来た時点で、あたかも玉将は王将と混同
されていた」と暗黙のうちにイメージされる事が多いよう
に思える。実際には平安時代1058年作と目される、興
福寺出土駒には玉将は有っても王将は無く、江戸時代より
前の将棋を記載した文献も、玉将だけだが、通説では「玉
将が王将に混同された経緯や、年代は不詳だが、江戸時代
中期には、そのイメージが固定された」と言われている。
なお、”王将”出土駒の記録で、最も古いものは、大阪府
四条畷市の上清滝遺跡の駒で、推定年1184年のものと
聞く。
 以下私見だが、平安小将棋が奇数升目列将棋と確定した
時点で元々の玉将は、王将ないし玉将と、見なされてきた
だろうと私は考える。小将棋の二枚金将制が、官職の左右
対称を模した物と、私も考え、その時点で中央の玉将が、
大将軍ではなくて、帝王のイメージでも見られる傾向が、
出来ていたと思っているからである。元々漢字の”玉”が、
王に形が近いので、「それなら日本の将棋のキング駒は、
玉だが王(帝)のようなもの」に比較的早い時期になった
のだろう。そのような「玉将」観が確立したのは、よって
平安末期の西暦1100年~1180年の頃だと私はみる。
 私も先に述べたように、徳島の川西遺跡で発掘された奔
横駒は、奔王の類と見ているから、奔王自体は鎌倉時代中
期には、実質出来ていたと見なすべきだと考える。そして、
横行が列の中心部分から端の方に移動し、奔横の名称を、
変えなければならなかった時点が、その直後の、蒙古来襲
西暦1270年代の頃だったとしても、西暦1180年よ
りは前の、平安末期に上に述べた”王玉同視”が既に起こ
っていれば、玉将を王将といっしょとイメージして、
「玉将と同列配置であるから、奔横の変わりに奔王に名前
を変える」という現象は、鎌倉時代中期の時点で起こって
も、そうだとすれば、矛盾は無いと思う。
 なお、興福寺出土駒の時代、西暦1058年頃は、藤原
摂関政治の時代であり、院政が確定はしていなかったため、
9×9升目平安小将棋が確立した院政期の”王玉同視”に
は、まだなっていなかったと私は考える。すなわち西暦
1100年頃より以前は、オリンピックで一位二位三位が
金銀銅なのと似たようなパターンで「将軍のうち一位、二
位、三位が玉、金、銀」というイメージだったとみている。
そこで前に藤原隆家の、小将棋とのかかわりの仮説の所で
述べたように、その時代には王将の概念は無く、玉将はあ
くまで玉将であり、天皇や上皇ではなくて、藤原長者の、
たとえば藤原道長になぞらえられていたため、その側近の
藤原貴族が金将に、それより少し下の位の、都の藤原一族
一般が銀将に、大宰府で刀伊軍を討ち、道長にみとめられ
て、側近格に昇格した藤原隆家を、と金に、それぞれなぞ
らえる事も、そうしようと思えば、可能だったと私は見て
いるのである。(2016/11/22)
 
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