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「駒が金に成る」将棋の南北朝時代の一時流行要因(長さん)

 南北朝時代の、駒数が190枚から360枚までの長多数
将棋の駒の成りが、走りであっても金将であり、その事実が
安土桃山時代にまで残っている事と、当時駒数36枚の
南北朝時代の小将棋が、玉を除いて敵陣で皆金将であると
言えるのなら、駒数104枚程度の大将棋の成りも、走り駒
であっても金将に成ると、一応は推定できると私は考える。
駒数190~360枚の長多数将棋と、駒数104枚の
大将棋は、指す階層が同じ知識人であろうから、真ん中の
駒数領域だけ、ルールを変える必要が無いと思うからである。
さて何回か前に結果を述べたが、
金に成る将棋は「敵陣で軍事的手柄を立てたら、都に戻って
セレブとして、のし上がれる」ような社会であってほしいと
願う辺境九州の、下級武家のマインドで将棋を指す、人間に
支持されたものであり、
逆に、
金に成らない将棋は、自分が現時点ではセレブであり、
贅沢品を現実には身にまとう身分にあるが、中身も複雑な
ゲームまで指せる、知識人であると見られたいと考えて、
金成り将棋を嫌った反動で、誇り高き貴族のマインドで
将棋を指す、人間に支持されたもの
と私は、大昔の棋士の心理を解析している。
なお通説では、走り駒が金に成る、南北朝時代異制庭訓往来
「多いの(将棋)は」の指すゲーム

「摩訶大大将棋等の特殊な成りは、ゲームの調節」との説
が強いが、私はこれには反対の立場だ。

摩訶大大将棋等の走り駒の成りも、現在の中将棋のように、
飛車を龍王、角行を龍馬、竪行を飛牛、横行を奔猪と、
金将、銀将、銅将を奔金、奔銀、奔銅にしたままで、更に
強い走り駒にした方が、ゲームが進んで、だんだん駒数が
少なくなるのを補うため、よりゲームとしての面白さは、
増加すると考える。従って、成り金を南北朝時代だけ増やす
のは、ゲームの改善とは別の理由によるものであり、

平安時代西暦1010年代の刀伊の入寇時点での、大宰府の
下級武士の腹ペコ・マインドが、全国の裕福な藤原氏の一族、
たとえば、守護大名にのし上がった、有力武家のセレブ層
にさえ、南北朝時代には、一時的に広がったから、

としか、今のところは説明できないのではないかと、私は
考えている。なお、
刀伊の入寇時点で、大宰府の下級武家には、「藤原氏では
あるが、分家の端くれのため、足軽のような身分の武家」
が、混じっていたのだろうと私は推定する。
彼らは藤原氏でありながら身分は低く、西暦1010年代に、
「自分も、やがては藤原隆家のように、都でセレブの暮らし
ができるように、裕福な藤原貴族として、のし上がりたい」
と感じる、下級武家の立場だったという事になる。
 さて高校の教科書等を紐解くと、西暦1330年代から
1390年の頃の「大将棋の道具を持っていて、指す事が
できそうなセレブ」は、足利尊氏によって伸張させられた、
守護やそれに準じる有力武家層の、頭領格だったと推定
できる。
 そこで、彼らには南北朝時代にだけ、その心の奥底に、
「藤原氏端くれの大宰府下級武家」の腹ペコ・マインドが、
隠し持たれており、その時代の前後に、それが消失して
「誇り高き、藤原氏」のマインドに戻ってしまうような事情
があれば、大将棋の金成り駒の頻度の、奇妙なピークが、
実際にそれが確かにあったとして、説明できるかもしれない
と言うことになると私は推定する。

 ここまで議論の準備をすれば、答えはなんとか出てくるよ
うに思う。南北朝時代には新幕府の、北朝方・室町幕府のも
とで手柄をたてれば、藤原氏(うじ)末裔の守護や守格の
武家には、埼玉県の1/3とか、新潟県の全部とかを、簡単
に勢力内に収めることが出来るというほどの褒章が、武家
幕府方から、もたらされる、「夢の時代」であったからで
ある。
つまり、藤原末裔武家の小山義政は、栃木県の南などに、同
県の40%の広さの土地を、元から支配している下野守護で
あったが、南朝残党勢力の大将、新田義宗を仕留める手伝い
を西暦1368年にした、という程度の活躍で、
更に、埼玉県の1/3程度の領地を拝領したり、同じく藤原
末裔武家の伊予守の宇都宮氏綱は、観応の擾乱で、1351
年等に、勝ち組の足利尊氏方についていただけで、新潟県
全土が、栃木県中央部と、群馬県の一部とは別に、新たに
知行地として加わったりというふうに、「セレブ」にとって
南北朝時代は、元の大きな財に匹敵する、新たな巨大な財が
更に手に入る、おいしい時代だったというのである。
 よってこの時代は、有力武家の中にも存在する、藤原氏の
末裔には、「一族の誇り」よりは、「藤原隆家のような、
のし上がり」の方に、武士としての興味が傾いたに違いない。
たとえば藤原氏(うじ)の一員で、茨城県の1/3を領有し
ていた、鎌倉時代の草創期には八田が苗字の、有力武家小田氏
の南北朝時代の頭領・小田孝朝が、自身が将軍・源頼朝気分で、
家来に「所領安堵の下文」を出すほどのセレブであったにも
係わらず、室町幕府の墨付きで、1381年に「賊」小山義政
を討った鎌倉公方の足利氏満を裏切って、「賊」小山方の
小山隆政を1386年に匿ったのが発覚して、足利氏満に
攻められ、降参して問い詰められると、「小山義政を討つの
を手伝ったときの褒賞が、少ないのを教訓にして、賊方に
寝返ったのだ」と、足利氏満に告白した事にも、それは
象徴される。このように、守や守護・準守護大名の親方格の
藤原氏セレブには、南北朝時代にだけ、現実の自分よりも
ずっと経済的に貧しいはずの、平安時代の大宰府下級武士の
心が、意外にも、各地に充満していたと、推定できるので
ある。
 しかも、南北朝時代以外は、鎌倉時代や室町時代のように、
幕府が安定して、巨大な富の変動が、足利尊氏の時代のよう
に派手には起こらないため、地方有力武士としての自分の
上に、将軍や執権としての「玉将」が居るという、気分が
希薄になっていった。そのため、室町時代の安定期に戻ると、
再び「鶏頭の立場に居る、藤原一族・知識人としての誇り」
が重視されるようになり、大将棋系は、金に成る駒の少ない
ゲームに戻っていった、と考えればよいと私は思う。
 なお、それからほどなくして中将棋が発展した。この将棋
は前に述べたように、ゲームとして面白くするための改善
という立場で生まれたものだったので、室町時代に入ると、
駒数多数将棋は、新不成りの大将棋から、強い走り駒へ成る
中将棋へ、比較的早いテンポで、主に指させるゲーム、その
ものが交代していったのであろう。(2016/11/28)

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