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駒数多数将棋の発掘の先駆けだった小山市神鳥谷角行駒(長さん)

 西暦2007年の確か夏、しもつけ風土記の丘資料館にて
この駒を最初に見たとき感じた戦慄を、今でも私は忘れる事が
できない。しもつけ風土記の丘の資料館へこの駒を見物に行く日
の朝、そのへんに売られている、裏に馬と書かれた角行駒が一枚、
展示されているだろうと、タカをくくっていた私は、今の将棋駒
とは大きく違う、その寸胴な形を見て、まず「一撃」を喰らった。
即座に、「本当に昔の将棋の駒の形だ」と気づく。
 そこで予め、小山義政のものなら、当然駒数多数将棋駒に違い
無く、裏は無地か、「金」と書かれているだろうと、故米長邦雄
永世棋聖のブログにも書き込んだ、私の事前予想のもと、駒の種
類をチェックにかかる。
 下野新聞等に出ていたように表面が角行なのは、見る角度を変
えて劣化防止処理剤の光沢が見えないようにすれば、私にも読み
取れた。達筆で楷書。ただし角行の「角」の上部は、完全に剥げ
ている。書体が、それと良く似た、誰か江戸時代の特定の書家が
存在するような気がするほど、「駒の字」は旨い。しかし、特定
の書家の名前は、私には思い出せない。しいて言えば、字の頭を
小さく、裾を末広がりに書く、亡くなった私の、字の比較的上手
な実の父親の筆跡にも、多少似ているような気がした。
 ここの展示担当者が優秀な事は、その時点で「成り」が見える
ように、駒を展示していた事からしても明らかだった。そこで、
当然だが駒の裏を覗く。すると、表面の字よりは、はるかに薄く
なってはいたが、中央やや上に「ハ」の字が確認でき、
「金一文字」と、私でも判別できた。裏面は、更に良く見ると、
駒の下部に墨が残っているようでもあり、また、炭化している
ようでもあり、金の字も、第三画以下は判別できない。ただし、
この字が金であるとすれば、金の字だけが、駒に書かれていると
見られる事が「ハ」の位置から明らかだった。全部残っていたら、
崩し方まで判り、さらに情報が増えたのかもしれないが、少なく
とも銀将の成りか、桂馬の成り止まりの、「軽微な崩し方」のよ
うだった。なお、私はこの駒を、後に栃木県立博物館での展示の
時にも、もう一度チェックしているが、裏の金の字の跡について
は、報告書の図にも、それとわかる形で描かれている。
 当時は、平安大将棋の駒と言われる、平泉の飛龍駒が一枚と、
後期大将棋の駒で一応説明できる、鶴岡八幡宮の鳳凰・不成り
香車駒の対だけが、大将棋以上の駒数多数将棋の出土駒としては
知られていた。そこでこの駒は結局、

水無瀬兼成の将棋図(将棋部類抄)の192枚制将棋である
摩訶大大将棋の道具とすれば、最も簡単に説明のできる、
大・中・小将棋以外の初の出土駒となった。

以上は2009年に、既知種の将棋種何れにも、完全には当ては
まらない、徳島県川西「奔横」駒の発見に遡る事約2年前の、で
き事である。ただ、残念な事は、この将棋駒は平泉の飛龍駒と同
じで、一枚だけであった事だった。当然だが、これについては、
本当に1枚しか無いためと、調査が不十分で見落としがある場合
のためと、どちらかの原因が考えられた。聞き取りでは、「将棋
が出土した、(仮符号)8号井戸については、調査し尽くされて
いる」というコメントと、「神鳥谷曲輪については、全体として
未だ遺品が、地中に残された状態を承知で、発掘を終了した。」
との、両方の言を私は聞き取れ、実態は釈然とはしなかった。
ただし以下私見であるが、調査結果の報告書の第1集を見る限り、

出るべき遺物が出ていないというよりは、常識では南北朝時代の
戦陣では出ないような妙な遺物が、将棋駒に伴って、同じ井戸
から出すぎている、

と、私には感じられる。つまり小山神鳥谷曲輪遺跡の(仮符号)
8号井戸に、一枚将棋駒が出ているのは良いとして、一緒に妙な
物が8号井戸から出ており、しかも近くの他の井戸から、
そうした物は、将棋駒も含めてぜんぜん出ていないのである。

妙な物とは具体的には、「女物の下駄」と「クシの破片」である。

ここは、第2次小山義政の乱の戦場で有名だが、髪をクシでとか
したり、機動性の無い下駄を履いた、女性の遺物が出るのは戦場
にしては、場違いな話だと私は思った。
 実は古地名と江戸時代の観光案内本によると、神鳥谷曲輪遺跡
は、南北朝時代の小山義政の乱の陣地であると同時に、室町時代
初期の尼寺、青蓮寺跡が、重なった所との事らしい。青蓮寺は、
戦国時代には尼寺では無くなったが、江戸時代末期まで普通の
寺として存続したそうで、明治時代に寺が無くなった時に問題の
遺物が、当時の古井戸に廃棄されたとして、それまで

江戸時代に、裏金一文字角行駒、女物の下駄、女性の使ったクシ
等が、寺の創始者の尼さんを弔うため、字の達者な住職によって
古記録に基づき、レプリカが作成・保存されて供養されていた

としても、矛盾は無さそうであった。つまり、角行駒は、青蓮寺
の言い伝えでは南北朝時代の、その寺の創始者の尼さんの記録を
保存したメモリアルな一品であって、小山義政が実際に使った
駒の情報は、伝わっていないとも、最悪疑われるという訳である。
 ちなみに「くしを使用する黒髪を生やした奇妙な尼さん」につ
いてだが、小山市の青蓮寺は江戸時代には、新義真言宗の親寺、
宝持寺同様、真言宗系の戒律の厳しい寺だったが、もともとここ
は、浄土真宗の栃木県高田の専修寺にも、地理的に近く、創始者
の尼さん自身は、親鸞教徒だったとすれば、説明が付く。廃寺ゆ
え、その由緒文句は想像の域を出ないが「建立・開基した尼さん
が、旦那や息子と一緒に入信し、当時離婚せずに一緒に居た」と、
たぶん言いたいのであろう。
 なお将棋駒は、指すための道具ではなくて、弔いのためである
なら何かを1枚、位牌に見立てて陳列すれば足りる。よって以上
の推定によれば、今後幾ら8号井戸を掘り返しても、二枚目の
将棋駒は、残念ながらその破片すら出てこないだろうと、予想は
できる。
 ただしここで、問題なのは「尼さんと小山義政とが違う人物だ」
という事ではない。南北朝時代の人物なら、弔う将棋駒は、どっ
ちにしても、同じになると見てよいからだ。むしろ、江戸時代の
知識のある住職が、達筆により書いた角行駒だとすれば、発掘
品が、

 江戸時代までに残った情報に基づいて、角行の成りを推定
して作ったものにすぎず、麒麟抄および、水無瀬兼成の将棋部
類抄を読んで、江戸時代の青蓮寺の和尚が”南北朝時代の遊戯史
を充分に研究して、我々と全く同じ結論に達して作成した駒だ”
という事にでもなれば、現在、我々も知っている情報以上のもの
が、この駒には全く含まれていないと結論できるという、
最悪の事が起こるのである。

 残念ながら現時点で、この凶のケースが実際に起こっている
かどうかは断定できない。何れにしても我々は、この出土駒の
存在によって、新たな知見が、確実に得られたとは、確証しに
くい状況にはあると私は思う。幸か不幸か、この出土駒は、
学会では無視に近い状況だが。
なお、この駒の存在を無視しても、

南北朝時代に関連する将棋種には「金成りが多用」であると、

結論できるし、

麒麟抄は、南北朝時代の将棋駒種に、充分に明示されていると
までは言えないが、不成りの割合が少ないことを匂わせている

と、私には強調できる。
 そしてそのためこの出土駒の発見が、未だに特定の説の補強
力として、どの程度と評価できるのかさえ、わからないと言う、
宙ぶらりん状態で、あり続けていると見られる事は、毒にも薬
にも幸いなってはいない。しかし私はこの駒の、不思議な
外見と字を思い出すたびに、現在の扱いが不当に低く残念な
事だと、相当強く感じられ続けているというのも、現物が確か
にあるだけに、正直確かな所である。(2016/11/29)
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