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図解・日本の中世遺跡(長さん)

 さいきんになって私はようやく、東京大学出版社にて、
既に16年も前に出版されている、この古典的な、中世の
考古学・発掘図説をチェックした。
 興福寺出土駒が、古代に入るために記載されていないが、
一乗谷、酔象を含む将棋駒出土等、幾つかの将棋駒出土に
ついて、本書では、「Ⅴ生活の諸相 4.遊戯具154ペー
ジから157ページ」のところで、紹介されている。将棋
駒の出土地点については、新たな情報は無いが、出土駒数
が、少ない幾つかの、遺跡の駒の図に目が引かれる。なお、
図版と説明文を、比治山大学(広島県)の志田原重人先生
と、広島県埋蔵文化財調査センターの下津間康夫先生が、
執筆されているとの事である。図版では、一乗谷駒が多数
あるほか、
1.岩手柳之御所の歩兵駒(2枚)
2.山形県遊佐町小原田大楯の不成り不明瞭な桂馬駒
3.富山・石名田木舟の銀将駒
4.富山弓庄城の銀将駒
8.長野塩田城の裏”竜”馬角行駒
9.東京葛西城銀将駒
11.愛知清洲城下町裏金歩兵駒
以上が、目に付く。特に
2の遺跡は、鎌倉期といい、小将棋か普通唱導集期の大将
棋の駒と考えられる。「大将棋の駒は基本的に不成り」を、
示唆するのかもしれないものとして、特に貴重に見える。
 次にこの図鑑を見て私が直ぐに目に付くのは、そもそも
将棋駒と、賭博の一種と聞く、闘茶や聞香に使用される
”札”とが、材質および形ともに、比較的近似していると
いう事である。たとえば、福井県の一乗谷遺跡は、将棋駒
の出土で著名であるが、聞香の札も出土しており、この書
の図版を見ると、五角形で将棋駒に形の近い、「裏”客”
秋」駒らしきものが出ている。闘茶や聞香の札は、将棋駒
の出土よりは少ないとも聞くが、山形県遊佐町小原田大楯
でも、闘茶札と将棋駒とが同時に出ている。作者に何らか
の繋がりとか、将棋の賭博との繋がりとか、遊戯の近親性
が感じられ、将棋駒以外の遊戯具の出土にも、こんご注意
すべきと、私には痛感された。
 更に、神奈川県鎌倉市の無量寺、今小路西遺跡で出土し
た、2・4・6の目しか無いさいころ等の出土や、そのサ
イコロの貴重な現物模写図も、この本では紹介されている。
この情報から、
鎌倉時代初期1221年の後鳥羽上皇と将棋について、私
が前に紹介した古文書に出てきた、

「今小路の御所」は、
京都市ではなくて、神奈川県鎌倉市の間違いであるようだ

と、まだ確かめていないが疑われた。
それでは鎌倉だとして、今小路の御所と、京都に居たり島
流しだった後鳥羽上皇とがどう繋がるのか、私にはまだ掴
めてい無い。あるいは、栃木県鹿沼市粕尾の超能力医師、
中野智玄の所へ、治療の礼でも言いに上皇がたまたま赴か
れたときに、鎌倉にも立ち寄ったという事なのであろうか。
 以上のように図版に圧倒されたのちに、本文を読むと、
出土将棋駒を説明したところで、「中世の出土駒としての
主流は、静岡県焼津市小川の中将棋駒の出土を例に引いて
中将棋駒や、一乗谷遺跡の酔象駒を例に引いて、朝倉小
将棋の駒である」とあった。16年前の状況から考えると、
この「ざっくりとしすぎた説明」は、致し方無い所なので
あろう。
 なお、遊戯具のすぐあとの158ページから、佐藤仁彦
先生(神奈川県逗子市教育委員会)の「化粧と装身」の項
がある。そこには本文で、博多遺跡群にて女性の木棺墓か
ら、櫛等が副葬されていた等の記載が、下駄の出土図等と
ともに、紹介されていた。
 栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の場合も、1000坪位の
発掘現場でばらばらに、将棋駒・下駄・櫛が出土していた
としたら、「単なる典型的な中世遺跡」だったのかもしれ
ないのだろうが。これら3品が、特定の8号井戸にだけ、
集中していたともなると、”女性の副葬品のカテゴリーの
出土なのではないか”と、私のように邪推する者が出ても、
遺跡発掘学の過去の傾向からみて、致し方ないのではある
まいかと、私には思えた。(2017/01/24)
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