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下河辺氏の城や館の位置に関する一考察(長さん)

これまで、鎌倉時代草創期の下河辺行義の兄、小山政光子孫である、
小山義政時代の小山城や、下河辺行義の次男の子孫である、静岡県
焼津市小川城跡の小川法長者の城跡から、前者について、裏一文字
金角行駒、後者について裏飛鹿盲虎駒および、裏飛鷲竜王駒という、
駒数多数系将棋(前者は摩訶大大将棋(?)、後者は中将棋)が
出土しているため、駒数多数将棋の道具の出土が期待される、
下河辺行義の息子と孫(?)、下河辺行平と、下河辺行光の、
城を探す活動を行ってきた。しかしながら、いまの所私の調べて
いない、古河城跡を除いて、はっきり豪族の城跡だと感じられる
ものに、遭遇したような気は私にはしていない。そこでここらで少し
冷静に、これはどういう事かと、じっくりと読みを、入れてみること
にした。すると、以下のような事ではないかと、考えられた。
 そもそも前回調査した、栗橋城近辺にしても、下河辺行平の城で
はないかとされる理由の付け方だが、「古河城が、下河辺荘全体か
らみると、北に偏りすぎている。」という、考えによるものだと、
私は聞いている。この考えだと、下河辺荘の中心部分に、下河辺
行平、行光の城跡を探せばよいと、いう事になる。だが、

下河辺氏は下河辺荘の中心点付近に、中心城を作る気など、最初から
そもそも無いのではないかと

私には思えてきた。いわゆる”一円支配”という言葉が南北朝時代
頃現れるが、実際に調査してみると実感できる事は、それにしても、

何とも下河辺荘は全体の形が細長すぎだ、という事だ。

 川筋の直角方向に少し行くと、近くにライバルの氏族が居るとして
も彼らをを攻めずに、なぜ、下河辺氏は、こんな細長い領地だけを、
支配しようとしたのかと、考えるというのが利口かと、私には思われ
てきた。恐らく下河辺氏は戦いのとき、船を使うのが、当たり前の
豪族だったのだろう。だから、

彼らにとって、川筋の距離は陸路の十分の一の感覚だったに違いない。

でないと、こんなへんな形の領地には、しない、はずだからである。
しかも、ある程度の大きさの船が入る、川の上流端の川岸に、城を
作るという事は、彼らにして見れば、

山城の主郭を、山の頂上に置くというのと、ほぼいっしょであたり前

だったと思われる。つまり、いざ合戦のときには、上流から船団で、
わーと攻めて、敵をやっつけ、戦いに勝つと戦利品を持って、ゆっく
り川を上って、根城に帰るという、作戦が普通と、水軍的な発想の、
下河辺氏には、当たり前に考えられたに違いない。以上の事から、

恐らく下河辺行平については、下河辺荘でも、その北端の、茨城県
古河市付近に城を構える事以外、考えた事も無かったのではないかと、
私は推定する。

そして、下河辺荘の一番下流の端には、船の停泊場と見張りの砦を
置き、手下の兵隊に、守らせていたのではないかと思う。それが、
時代によって変わったのかもしれないが、

埼玉県八潮市の潮止、東京都足立区の神明、埼玉県吉川市の川藤のど
れかは不明だが、その辺りに有った可能性はあるのかもしれない。

以上の事から、たとえばバナナのような形の下河辺荘の実際の地理的
中心点、

埼玉県春日部市の旧庄和町役場付近の一帯には、下河辺行平の屋敷跡
等の存在など、余り期待できないのではないか

と、私は考えるようになって来ているのである。(2017/04/22)

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