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「日本の将棋の駒は一般に、前後非対称動きが特徴」では無いのではないか(長さん)

 現在定説化されつつある事柄として、上記の事柄があると認識するが、私は
表題に示したように、この捕らえ方は、それ自身が正しくないと思っている。
そこでまず、私がどう事実認識しているのかを述べ、次にそうなった原因に
関する私見を記す。まず、事実認識だが。

兵駒が非対称でない古典的チェス・将棋型ゲームは、まだ見つかっていない
ため、それを特徴には入れ無い事にすると、日本の将棋は、将駒と、桂馬・
香車が、それぞれ、前後非対称な駒であって、その他については、鎌倉時代
以前の将棋に関しては、前後非対称動きの駒があるという証拠そのものが
実は、まだはっきりとは、見つかってはい無いと考える。

たとえば、

私の提唱している、鎌倉時代後期の普通唱導集時代の大将棋に、悪狼が無い
と考えられ、かつ、嗔猪は一歩後退でき、酔象は中国象棋の相/象と同じ、
盲虎はなく、まだ平安大将棋時代の猛虎があると、考えているからである。

つまり私の13×13升目108枚制普通唱導集大将棋では、
2段目駒と3段目駒と5段目仲人は、おしなべて前後対称動きのものばかり
である。よって、私の事実認識は”日本の将棋には初めから、前後対称性を
保存しない駒の動かし方ルールを、取らざるを得ない事情があった”という
ことは、特に無いのではないかと思う。そしてそうではなくて、前後対称化
が、特に不可能ではなかったにもかかわらず、

1.将駒が玉将が一番強くて、袖に向かって概ね少しずつ弱くなるように、
 ”特定の方向へ行けない玉将の動き”という形式で将駒のルールが表現
  されるという、他国の類似ゲームには無い特徴から、将駒に非対称駒が
  たまたま出来てしまった。
2.桂馬と香車が、それぞれ八方桂馬、飛車の動きではなかった。

と表現される特長があったのだと、私見する。
つまり、1については、だんだんに弱くするというルールにするために、
銀将は、初めから5動きにする必要があり、ルールブックの見栄えからも、
前だけ残し、他の縦横升目は行けなくなったという、ルールの作成方法だっ
たために、結果として前後非対称になったのだと私は思う。
 以上は、事実認識の問題なので、たとえば水無瀬兼成の将棋部類抄に書か
れている摩訶大々将棋が、鎌倉時代に存在する事が、この議論からは、独立
な証拠が出て確定してしまうと、崩れてしまう事も確かではある。
 さて、次には私の認識の線で仮に行くことにして、上の1と2の原因を、
どう解釈するのかについて、以下述べる。
 まず1だがこれは、日本の将棋の輸入元の将棋が、もともと、そうなってい
たというのが、私の考えである。原因は、

輸入元の国が、中央集権国家では無かったためだと、私は思う。

私は将棋は、輸入元の国の民にも自然に受け入れられるように、その当時の
その場所の、支配体制を模した形式になっていたと考える。
 ところで、将棋について、玉将、金将、銀将と並べてみると、それは、
オリンピックにおける、金メダル、銀メダル、銅メダルの価値の比率と、
だいたい一緒のように、私には思える。つまり、銀メダルや銅メダルな比べて、
金メダルの価値が、桁違いに高いとまでは、いえないと言う事である。それで
その事と一緒で、玉将が、金将、銀将に比べて桁外れに価値高までとは、言葉の
意味からはいえない構成になっていたと言う事である。つまり、玉将が、金将、
銀将に比べて、専制的に絶対君主として、一人存在しているという国の将棋を、
平安時代末期に、日本では行っていたという事はないと、言う事になる。
 ところが末期とは言え、小将棋が初期に指されたのは、封建的支配体制を
特徴とする中世ではなく古代であるから、

少なくとも8×8升目32枚制原始平安小将棋は、日本で生み出されたもの
ではない

と、私はほぼ断定している。同様に当時の北宋が、中世的諸侯分立の国家の
集合体であったという話もなく、皇帝中心の官僚国家のようであるので、
日本の将棋は、この点でも、中国中原起源のゲームではないと私は思う。
 では、どこが起源なのかと言えば、たとえば、アジア史の事典等を紐解くと、
それほど中央集権制が進んでおらず、姻戚を結んで諸侯の上に立った国王
が、皇帝を名乗っていた、当時の日本よりも、やや中世国家化した国として、
一例としては、

現在の中国の雲南省付近にあった、大理国を挙げる事ができる

のである。
そこで、玉将に対して、少しずつ働きを弱めた複数の将駒が有るという、
他国に例が無いゲームである事から、今は滅びてしまった、大理国こそが、
たとえば、日本の将棋のルーツの可能性がありと、私は個人的に見ている
根拠の一つとなっているという訳である。
 なお、古代に中世国家のゲームが日本で流行ったのは、藤原氏という
一族が、古代であっても、一族内部の力関係としては中世的であり、特定
の人物でなくても、複数の人間が”自分こそが日本を率いる人物だ”と、
自負する、保元の乱等、何かと内部勢力争い引き起こす、要因をはらんだ
貴族の存在する、公家国家だったからだと私は見る。その証拠として、
小将棋よりも、藤原頼長が指したとの記録の残る、平安時代末期の平安大
将棋の将駒の方が、更に、将駒の動かし方のルールが、まさにこの玉将から
の引き算システムだと、鮮明に判るようになっている点を、挙げる事が
できると私は考える。

 次に2の、桂馬と香車の前後非対称性の原因だが、これは、”と金”
よりも、この二種の駒の性能を弱くしたゲームしか、九州大宰府で日本の
国境警備の役割を果たしていた武士が、喜んでは指さなかったから

だというのが、私の説である。つまり以下あくまで私見だが、
八方桂や下端飛車形式のチェス・将棋型ゲームもときに、輸入されたの
かもしれないが、指し手の方が選択して、後の日本の桂馬・香車型将棋
だけを、好んで指した結果、日本の将棋は、桂馬と香車が下段袖にある
ゲームになったと、考えるのである。ここで注意したいのは、二中歴の
小将棋のルールでは、

恐らく玉詰みに相互に失敗したときには、引き分けにしないで、裸玉に
なるまで、相互に駒を取り合いながら指し続ける事になっている

という点である。以下私見だが、九州大宰府の西暦1020年過ぎの、
国境警備を任務にする初期武士は、その裸玉狙いの局面の平安小将棋を
指しているときが、最も座が盛り上がっていたと私は思う。なぜなら
と金が、両方の陣のあちらこちらで、相討ちになっているような局面は、
歩兵になぞらえられる、将棋棋士の大宰府の武士(下級武士・兵隊)
である彼ら自身が、藤原長者に継ぐ”ナンバーツー”の地位に、聖目を超え
る事によって、のし上り、活躍している図を表している事になるからである。

つまり将棋の局面としては、おおかた、残り駒が多いほうが勝つだけの、
現代から見れば、いたってつまらない将棋なのだが、彼らにしてみれば、
そのような将棋になるから、原始平安小将棋をよろこんで、指している
と考えられるのである。

なお対局者が何回か指して、すこし両者の棋力が上がると、原始平安小将棋
では、たいていは両者とも、定跡を簡単に暗記して攻めも守りも旨くなるため、
相手玉を取り逃がし、必然的に裸玉を目標とする、将棋にこの将棋はなるのだ
と私は考える。
 ところが、その局面で、仮に不成りの八方桂や飛車が残っている将棋だと、
”と金”の活躍の舞台にはならないのである。だから、いろいろな外国の
将棋のうち、袖下段に桂馬と香車があり、それらも敵陣3段目で成って、
いろいろな成り金が入り乱れる、”裸玉を目ざす将棋”になってしまうのが
特徴の、

大理国起源の原始平安小将棋だけが、大宰府でもまとまった人数の人間に
大人気で指されたがゆえに、後にまで生き残り、日本の将棋文化が発生する
礎になった

のだと、私はほぼ断定している。なお、彼らはそれより少し前、刀伊の入寇
の手柄で、都で藤原道長の口利きで返り咲いた、藤原隆家の配下、または
同僚だったと、私は考えている。つまり日本の将棋で、と金は、もともと
藤原隆家を象徴してたのだろうと、私は個人的に見ていると言う事である。
以上で、1.2が正しいとして、なぜそうなったのかについても、説明した。
 今後さらに史料が見つかり、上記の問題に関して、真相が鮮明に明らかに
なるよう、願わない訳にはいかないと思う。(2017/05/26)

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df233285

日本の将棋の、駒の動かし方ルール。前後非対称が特徴について
(長さん)
日本の将棋駒の、前後非対称性については、事実認識そのものに
関して、否定的な補充の記事を、以下のurlに書いてます。
http://chiyoosan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-03
上記ページも、併せて御一読を、当方希望します。
by df233285 (2017-12-04 07:30) 

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