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桂馬の動きが、斜め一升目へ跳べたのは、15世紀前半だけ(長さん)

高見研究室の摩訶大将棋のブログ、および摩訶大将棋連盟の、”摩訶大将棋”
のルールブックでは、桂馬が、通常の前方桂馬跳びではなくて、斜めに、
一升目超えた所に跳びになっている。根拠は、将棋纂図部類抄の、大将棋、
摩訶大大将棋、および泰将棋の、進み先の打点と、二中歴の将棋で、桂馬
の動かし方のルールの記載で、”前角”を、前進してから角とは読まず、
文字通り、駒の斜め前と読めるとする事である。摩訶大将棋のブログでは、
よって、桂馬は昔は、斜め前に1升目跳びだったが、安土桃山時代になって、
今の桂馬跳びになったとの旨の、主張をしている。私は、この主張には、

反対である。

将棋纂図部類抄の打点が、隣接斜め前升目が、白丸等になっていない

ためである。ようするに将棋纂図部類抄には、桂馬の動きは、

斜め前の隣接升目と、その向こうへは、間に駒が有っても跳んで行けると
いうルールを、表現しているとしか思えない

という事である。
 つまり、二中歴の記載と将棋纂図部類抄の記載も、きちんとは、合って
い無いと私は思う。ただし、

西暦1400年~1450年頃には、将棋纂図部類抄に書いた通りの、合計
4升目に動ける桂馬の動きだった可能性は、否定できないとの、中間的な
立場を取っている。

水無瀬兼成が作成し、豊臣秀次に閲覧させたと、私が推定している将棋纂
図部類抄の泰将棋初期配列図でも、桂馬の動きが省略されていない事は、
それなりに重かろう。水無瀬兼成にしてみれば、豊臣秀次から仮に、「桂馬
の動きのルールが、違うではないか」と指摘されたら、「曼殊院の将棋図に、
書いて有る事から、1443年頃のルールと考えられます。」と、答える
つもりだったのであろう。今の所、水無瀬兼成の情報を信じるしか、我々
には、どうしようもない。ので、上記のように考えるべきなのではないかと、
私は思っている。
 ただし、上記のルールは、チャンギの馬やシャンチーの馬のルール情報が、
絶え間なく15世紀(1400年代)にも、わが国には到来しており、これ
らの駒が、桂馬跳びだったので、1450年から、さほど遠くない時代に、

桂馬はチャンギの馬のルール等と混同されて、桂馬跳びに変わった。

と私は見ている。
 そして、たとえば、八方桂馬の動きを強く連想させる、八角形の駒を使う、
チャンギの馬のルールが、絶えず日本に侵攻しようとしていたとの根拠とし
ては、日本の鎌倉時代には存在した、中国の囲碁の手引書、

玄々碁経の”飛(とばす又は、けいまとび)”の説明書きを挙げる事が出来る

と、私は考える。玄々碁経には、囲碁の手の”飛”の説明として”猛禽類が
上空から、墜落型に落ちる形で、滑空する動きの結果の点が、『飛』の碁石
の打ち位置だ”との旨が書いてある。つまり、通常の桂馬の駒の置き方で、

動きの上下が桂馬と、反対である。

つまり、囲碁の手の”飛”から”けいまとび”を連想した、鎌倉時代後期
以降の、元の時代に成立した、玄々碁経を読んでいた日本の囲碁・将棋のゲー
マーは、最初に

桂馬ではなくて、後退できる、チャンギ等の八方桂馬を連想した

とみられるのである。しかし、現実には後に、囲碁の手の”飛”には、
”チャンギの馬トビ”等ではなくて、”桂馬トビ”と訳が充てられた。
チャンギ等の馬も、日本の平安小将棋等の桂馬も、馬の類だったので、

チャンギ等の馬と日本の平安小将棋等の桂馬は、囲碁書をも読む、将棋の
ゲーマーに、”似たもの同士だ”と、元々混同され続けたという事実が有る

と、みるべきなのではないか。つまり、朝鮮半島の将棋等は、李氏朝鮮時代
に成立し、中国の書籍と同時に、日明貿易の時代には、わが国にもたらされ
ていたので、

チャンギ等の馬と、日本の平安小将棋等の桂馬は、最初は別々の動かし方の
ルールであったとしても、少なくとも室町時代の、1450年代以降には、
類似の駒に混同され、動きが混ざってしまう危険性を、孕み続けていた

のだと私は考えるのである。実際には、少なくとも安土桃山時代には、初代
大橋宗桂の誕生後であるから、桂馬の動きは桂馬跳びになっていると見る。
だから、おそらく曼殊院の将棋図が成立した

1443年から少し経って、桂馬はそれ以前に別のルールであったとしても、
桂馬跳びに、変わった可能性がすこぶる高い

と、以上のように私は、今の所考えているのである。(2017/12/26)

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