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黄金駒の大理国将棋駒が伝来し、木製日本将棋駒になるまでの時間(長さん)

本ブログに於いては基本的に、立体駒の黄金将棋玩具が、京都の
後一条天皇所有になると同時に、大宰府ないし博多の写経所の僧侶が、
日本の五角形の木製将棋駒を発明し、その廉価性の利点から、前者を凌駕
して、日本の将棋道具として普及し、手法を統一した、との立場を取って
いる。つまり、

五角形の日本の将棋駒は、国内での発生である

と見ていると言う事である。一般には、チェス駒やマークルックの立体駒
と、日本の五角形・木製将棋駒との間の、著しい形態の相違から、その
発明の、容易性が疑われる空気が強いと、私は個人的に感じている。そこで、
今回は、具体的に雲南から大宰府ないし博多まで、後一条天皇の、金や銀を
材質として含んだ将棋遊戯具が、大宰府ないし博多で写経し、経文を全国に
普及させるのを本業としている、交易の玄関口、大宰府ないし博多の写経所
の僧侶にとって、置き換えに、

どの程度の時間を要したのか

を考察してみる。なお、置き換えのための材料である、経帙牌が、大宰府な
いし博多の写経所に、ある程度数が揃っていた事は、そうでないとするより
は、ずっと自然であるし、写経所の僧侶に、玉将・金将等の字が書ける事、
筆が持ち歩ける事、

携帯用の墨壷が、出土品として存在する事から、西暦1015年にも、たぶ
んそれは、存在しただろうと、推定できる

だろうという、仮定から、今回は出発する。すると、最初に答えを書くと、
立体駒の黄金平安小将棋(大理国製)が、地面に線を書く、布の盤を作るな
どして、将棋盤の代わりにする、駒として五角形の、写経所所有の経帙牌の、
その木片の表裏に駒名を書いたものが起源との説のある、特徴的な日本の
将棋具に、置き換えるのに必要な時間は、交易伝来商人推定周文裔(”中国
側”)が、大宰府ないし博多の写経所の僧侶(”日本側”)に、ゲームの
ルールを説明してから、

数分ないし、十数分程度後だった可能性が、かなり高い

と、私は見る。ようするに写経所の僧侶(”日本側”)は、周文裔等の将棋
のルールに関する口頭説明内容を、彼が本来の業務のために持参していた

6枚の経帙牌を、今で言うメモ用紙として使用して、複写・保存していた

疑いが強いと、私が考えていると言う事である。なお、彼の本来の業務は、
私の推定では、交易商人から、仏典の経文の内容を聞き取って、

持参した経帙牌に、携帯用の墨壷と筆を使って、必要事項を記入

し、ついで伝来経文を分類して、送り先毎等により一まとめにする。そうし
た上で、先に内容を記載した、経帙牌をつけた包装用のシート状の媒体で、
かなり多数の経文を、一まとめに包む。そしてその経文の束を、地元の写経
所へ運搬したり、その経文の納入先である地方寺院へ、発送する手配をとい
った業務を含んでいたと推定する。
 ようするに、五角形の将棋駒を発明した写経所の僧侶にとって、

中国の交易商人(例えば周文裔)の話を聞き取って、その情報を経帙牌に記
載するのは、もともと本来の業務

であったと見るのが自然と、私は考えるのである。だから、本来の経文処理
の業務の合間に、周文裔が、(推定)藤原道長の言いつけでかき集めた、燃
えた、三条天皇の住まいを修復するための、装飾用の財宝の一つであった、
大理国の、立体黄金将棋駒付き将棋具の説明を、大宰府の輸入品チェック担
当の役人の前でしだした。そのとき、同じゲームを指してみたいとの願望が
僧侶にも、そのとき発生した事は確かなのであろうが、写経所の僧侶は、
九州博多の日宋貿易交易品検査所(仮称)には、いつも持参する

経帙牌を、彼は条件反射的に取り出した。

そして、そのうちの推定6枚に、駒名と、駒のルールを示す打点や線、枚数
や初期配列の位置のヒント、特定の駒に関連する終局条件や、駒によっては
跳びか、走りなのかのルール備考等を、使うメモ媒体が我々の感覚では、
具体的にすこぶる奇妙だが、彼にとっては、至極当たり前のつもりで、

周文裔が、ゲームの説明をしている最中に、ずっとメモしていたに違いない

と私は思うのである。なおその駒に対応する成り駒名については、書ききれ
なくて、ひょっとするとたまたま、元の牌の裏に、書いたのかもしれない。
以上のように、周文裔がルール説明し終わってから、日本の五角形の将棋具
が、この大宰府ないし博多の写経所の僧侶の手によって完成するためには、
事実上

このメモ駒を元に、足りない26枚に、駒名を書いて足すだけで良かった

可能性が、かなり強いと私は見ている。すなわち、写経所の僧が、周文裔か
ら将棋ルールを聞き取りながら作成した、その6枚有ったと見られる

メモ経帙牌が書きあがった時点で、ほぼ立体駒から、五角形駒への移し変
えは、事実上完成していたに等しい状況になっていた

と、私は見るという事である。以上の考察結果から、中国の唐物嗜好全盛時
代の交易商人による将棋伝来説に立てば、仏教普及のために現地に置かれた
とみられる、大宰府か博多の交易所付近の写経専用寺院勤務の僧侶の、日常
業務から類推すると、立体駒から、字書き駒への変換に、従来想定されてい
るように、長い時間が要したとは、到底考えにくいのではないかと、私は疑
っているという事になる。(2018/03/31)

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