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近畿・中部・関東からしか「王将」駒は出土していない(長さん)

さいきん、天童の将棋駒と全国の遺跡出土駒(2003年)を見て
しみじみ思うことがある。事実がぱっと見で、判る程度のことであっ
ても、

学会に研究競争が皆無な学問領域では、こうも無視され続けている
事実が多いものなのか

という事である。表題の件もその一つで、この本を買って中身を読
んで、なぜなのかと考えると、すぐに誰にでも、

そうなってしまっている裏が、何なのか、簡単にわかりそうな内容

だ。事実が誰にでも把握できるというのは、近畿・中部・関東から
しか、「王将」駒は出土していないという結果を示す、”計数表”
まで、”天童の将棋駒と全国の遺跡出土駒”には、有るからである。
逆に言うと、この本で、「王将」は出土していないとの旨が、事実
上表現されているのは、東北、中国四国、九州、韓国沖という事に
なる。ただし、この成書の計数表で直ちに判る事は、平安時代から
江戸時代までの、全史の間の事であって、おなじく”天童の将棋駒
と全国の遺跡出土駒”にある、各遺跡の年代別一覧を、合わせて眺
めると初めて、

関東の全域と、近畿でも兵庫県は、中世の王将駒は出土して居無い

ことが判る。つまり、

平安時代~中世にかけてに限定すると、王将が出土するのは兵庫県
を除く近畿地方と、中部地方だけ

となる。それが

江戸時代になると王将駒は、主に東京都と、兵庫県に進出してくる

というのが、「事実」なのである。
 この事から、江戸時代に将棋家が、東京都に進出してきた、
王将の既成事実に基づいて、

なぜ王将と玉将が両方有るのかを説明した説を、示したところで、
初期の頃の事実には基づかないのであるから、何が起源なのかという
問いに対して、何の問題解明の答えにも、なっていない事は明らか

なのである。私が調査した限りでは、

前記、江戸時代の将棋家の口上以外を、紹介しているサイトは、
web上には見当たらないと、今の所認識

している。つまり、webに書いてある「なぜ王将と玉将が有るのか」
という記事の内容については、両方混ぜる時代に、書かれた記事に
ついてしか、総じて各サイトには紹介が無い。ので、どこかのサイトで、
任意の記事を一回読めば、現行充分という訳である。またそれに関して、

本来解明すべき内容とは、見当違いの答えが、書いて有るにすぎない

という事も、単なる近世の習慣を、”昔からこうだ”と、言いくる
めるスタンスの、江戸時代の識者の言い分しか、実際には紹介して
いない点から見て、明らかである。
 他方本ブログでは、

京都府と滋賀県では、玉将が今の所、中世以前の遺跡からは、全く
出土して居無い

事をも、すでに紹介している。つまり、平安時代中期~中世には、

京都近郊では、将棋は王将だけで指されていたとしか考えられないし、
東北、関東、中国、四国、九州では、玉将だけでしか指れて居無いと、
出土駒の事実だけからみると、目下の所考えざるを得ない状況、
というのが客観的事実

だと、言う事である。
 なお、混ぜ込んで指していたと、はっきり判る、最も早期の地域は、
戦国時代の中部地方福井県の、一乗谷朝倉氏遺跡である。そして、
繰り返すが江戸時代になると、江戸と大阪という大都市圏では、上手
が一枚王、下手が一枚玉で、将棋を指す習慣が、定着したように見え
る。なお東北地方で、王将が発見されないのは、仙台城の出土駒に、
王/玉駒が無いためで、発掘が進めば、将来、江戸時代の王将駒が、
近世の都市、東北地方の仙台からは、出るだろうと予想される。
 つまり、11世紀の末から12世紀の初めにかけて、将棋の駒の

王将は京都付近、すなわち朝廷で、元々玉将を押しのけて作られて、
その後徐々に、”初期の目論み”が希薄化しながら、広がった可能性
が、すこぶる高い

と、出土駒の分布から既に現時点で自明に言えるのである。さしずめ、

白河帝宮廷サロン王将発祥説の開陳

といった所だろうか。
 恐らく競争で研究が行われている、活発な学術領域であれば、今頃
上記の、とっくの定説の提唱者について、後先争いが起こっているよ
うなケースだったのだろう。しかし、将棋史領域は、今や学会の存在
自体すらもが、風前のともし火状態なのである。そのため、そうした
学問上の先陣争いの世界とは、無縁と言う事に、なってしまっている
のだろうと、私は現状を、理解しているという事になる。(2018/05/04)

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