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上手が王将持ち、下手が玉将持ち。何時から発生したのか(長さん)

現行日本将棋では、上手が王将を持ち、下手が玉将を持って指すという
習慣になっている。今の所、11世紀には玉将が無かったが、経過は
謎であり、戦国時代の一乗谷・朝倉氏遺跡の朝倉小将棋の頃に、結果と
して、現実的に、そのような習慣になったという見方が一般的である。
 しかしながら、本ブログでは、

西暦1080年頃までは、玉将だけであり、西暦1080年頃に、日本
の朝廷で王将が発明されて、朝廷での小将棋では、双王であったとの説

を提唱している。西暦1080年から、平安末の1170年までは、
どうみても、出土駒の様子からみて、少なくとも平安小将棋では、

双王と双玉が、水と油で分かれていた

と、本ブログの管理人には見える。小将棋の双王は、藤原氏ゆかりの地
域以外の近畿地方では、以後、戦国時代末までは継続したとしか、今の
所、出土駒の状況から、考えるしか無い状況だと、ここでは考えている。
 特に、京都府と滋賀県では、戦国時代までの小将棋で双王が、徹底
していたように見える。それに対して、関東以北と、中国・四国・九州
では中世までは、小将棋も、最初からのままの、双玉だけだったとしか、
今の所、逆に考えにくい状態だと、本ブログでは、同様に出土駒の現実
から考えている。なお、

近畿でも藤原氏ゆかりの、奈良県奈良市付近では、他の近畿地方と全く
状況が異なり、双玉が、例外的に徹底していたように見える。

 なお、そのほかの地域、特に中部・北陸地方では、最初は双玉だった
が遅くても戦国時代までには、小将棋類に王将も使う習慣が入り込んで、

中部地方では、戦国時代までには日本将棋等で、双玉から、上手王/
下手玉になった

ように見える。では、概況は以上としても、それでは、いったい何時何処
で初めて、”天に二王は無いので、下手が玉を持つようになった”といっ
た、尤もらしい理屈をつけて、

上手王/下手玉という習慣が発生したのだろうか

と言うのが、今回の論題である。
 そこでいつものように、最初に結論から書く。

確定的な答えを、目下の所するのは無理

だとみられる。しかし、
以下のような仮説について、当否を検討するだけの価値は、あるように
思える。すなわち、鎌倉時代の西暦1252年~1266年の、

鎌倉第6代将軍の後嵯峨天皇の息子、宗尊親王の時代に、大将棋を
指すときに、上手王/下手玉という2種類駒習慣が、初めて発生した。

つまり、本ブログでは、大将棋の奔横が、成り太子酔象の導入による
横行の移動により、

奔王に恐らく名称だけ変わる、ほんの少し前に、もともと小将棋とは
違って、どこでも双玉だった大将棋にも、片方に王将が入ってきた

のではないかと、仮定するという事である。なお、大将棋はこの時代
には、京都・奈良・鎌倉、徳島県徳島市、栃木県小山市等では、少な
くとも指されていたと見られる。
 なおこの習慣は、恐らく水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄を安土桃山
時代に普及させて、

駒数多数将棋が双玉に戻ると、歴史の上からは、再度忘れ去られた

と、ここでは考える。一乗谷朝倉氏遺跡の、日本将棋や朝倉小将棋で
の上手王/下手玉は、京都等で小将棋は双王のままで、大将棋を指す
ときだけになされた、この”王・玉混合習慣”が、300年弱かけて
ゆっくりと伝来し、小将棋等へも、適用されたものと、この仮説では
見る。
 答えは以上だが、以下に少し詳しく述べる。
 まず、鎌倉将軍に、第6代の後嵯峨天皇の息子、宗尊親王がなった
時代に、上手王/下手玉という習慣が発生する理由だが、
鎌倉将軍は、第4代と第5代が、唐物の詩の書物が好きで、集めるの
が趣味の、ネフライト(玉)の好きな中国人に性格の似た、藤原道長
に象徴される、藤原摂関家貴族の、九条頼経、九条頼嗣であった。
つまり、

鎌倉時代には将軍として、玉将のような摂関将軍が、暗殺された三代
将軍の源実朝の後、それを継いで先に2代来た

訳である。ついで、第6代から9代までが、宗尊親王、惟康親王、久
明親王、守邦親王と、親王将軍が4代続いたわけで、

鎌倉時代には将軍として、皇族つまり、王族の王将が後に4代続いた

という事である。つまり、大将棋を指すような知識人には、第6代の

宗尊親王の将軍就任を見て、大将棋の玉駒を、先手は玉に後手は王に
する、駄洒落に近い動機付けがあった

という事である。それはちょうど、蒙古の朝鮮半島侵略時代と重なっ
ており、

本ブログでは、西暦1230年から1260年の間に、将軍にあたる
玉将が、無くなっても(日本は蒙古に対し)負けにならないルールの、
太子(釈迦)に成る酔象が、導入されたと仮定している時期に一致

するという事である。つまりたとえば、

西暦1252年に、後嵯峨天皇の息子、宗尊親王が鎌倉将軍になり、
西暦1254年に、大将棋の後手の玉将が王将に変わり、
西暦1256年に,大将棋に太子成り酔象が入って、横行が袖にどき、
龍王、龍馬、角行、堅行、仲人が入った後で、
西暦1258年に奔横が、新王将の存在のおかげで、奔王と名称変更
できれば、西暦1260年に、前に本ブログで述べた、その年型の
大将棋になれるので、話のつじつまがひたりと合う

という事である。ここで、上手王/下手玉と、後手王/先手玉の違い
があるのだが。これは、将棋棋士の羽生善治氏が、成書「先を読む頭
脳」で表明しているように、

取り捨て将棋の場合には、先手の方がどうしても、やや有利になり、
新人である下手は、鎌倉時代でも、最初は先手を持つ事が多いと
考えられる

と見れば、つじつまが合う。つまり日本将棋と異なり、大将棋や昔の
小将棋は、取り捨て将棋のため、後手が王将を持って指すというのは、
上手が王将を持って指すというのと、だいたい同じという事である。
 大将棋は、西暦1110年頃、藤原氏がもっぱら指す将棋であった
時代には、双玉固定だったと、本ブログではみている。しかしながら、
奈良県海龍王寺の禁止令や、普通唱導集の作者の様子から察して、西暦
1260年ごろになると、この将棋を指す階層は、藤原氏に限られな
くなった。その結果、安土桃山時代の水無瀬兼成が、化石の習慣のよ
うに、持っていたのではないかと、本ブログでは疑っている

王将に対する敵対意識も、鎌倉時代の個別の大将棋棋士には無かった

のではないかと、私は思う。よって、
鎌倉時代の将軍の素性に、調子を合わせて、将棋に王将と玉将を混ぜる
という事が、もともと双玉が五行説の習いから、固定だった大将棋に
ついては、平安小将棋(標準型)の双王の本場、京都市内でも、

余興の感覚で、最初は軽く導入された

のではあるまいか。
 恐らく最初は、駄洒落だったのだろうが。これより400年後の江戸
時代になると、鎌倉将軍の素性に興味を持つ棋士も減り、伝承も時代の
流れで失われた結果、

天に王は2人立たずといった、妙にかた苦しい理屈をつけて、尤もらし
く皆が、上手王/下手玉を、日本将棋でもやりはじめ、ひょっとすると、
平成の今も、その習慣が単に続いているだけ

なのかもしれないと、一度は疑ってみるのも、面白いのではないかと
私は個人的には、思っているという事になるのである。(2018/05/31)

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