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水無瀬兼成将棋纂図部類抄行然和尚まとめ。小将棋の棋はなぜ”棋”(長さん)

少なくとも大阪府三島郡島本町教育委員会編集の安土桃山時代末期作
の水無瀬兼成著書、将棋纂図部類抄では、行然和尚まとめ部の、最後
の3項目名は、大将棊、中将棊、小将棋となっている。つまり、

将棋の棋が、大将棋と中将棋だけ、その時代は普通の”棊”が使われ、
現行の日本将棋を実質的に指す小将棋だけが、江戸時代から現代まで
使われた”棋”の字になっている

のである。大阪商業大学アミューズメント産業研究所が2014年に
発行した、松岡信行氏の「解明:将棋伝来の謎」によると、将棋を
”将棋”と書くのは、江戸時代になってからで、

安土桃山時代以前の文献には、ほとんど例が無い

との旨が、まとめ表の形で示されている。そこで今回は、この安土桃
山時代の人である行然和尚が、なぜ将棋を、将棋と表現できたのかを、
論題とする。
 いつものように、最初に回答を書く。
 初代の大橋宗桂が著作した何らかの文書に、”小将棋は駒数40枚”
との旨等が書いてあり、行然和尚は、曼殊院将棋図とイコールの、
将棋纂図部類抄の”小象戯”という字や、まとめ部の元文書であった、
曼殊院所蔵の将棋図に関連した、中将棋から摩訶大大将棋までの説明
書きの古文書の将棊表現を、日本将棋についてだけ、その説明書きに
は書いてい無いので参照せず、

”小将棋は駒数40枚”という表現について、初代大橋宗桂著と見ら
れる、草創期の大橋文書に記載された通りに、字体まで丸写しにした

と本ブログでは推定する。
 では、以上の結論につき、以下で解説を加える。
 そもそも、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部の、
”曼殊院将棋図解説”古文書に、”小将棋”の項目は、

無かったのかもしれない

と、私はこの将棋の棋の字を見てから、思うようになった。
小将棋、中将棊、大将棊、と反対に並べた文書が、曼殊院の将棋図に
関連して、曼殊院には有ったと、以前には考えていたのだが、将棋だ
け”棋”を”棊”にしないのも、不自然な話だからである。だから

以前の本ブログの見解は、訂正が必要

なのかもしれないと思われた。つまり、行然和尚がまとめ部を作成す
るとき、小将棋の項目の中の最後の方の、だらだらと書いた3行だけ
を、行然和尚が作文したと以前は見ていたのだが、これが

間違い

で、実は小将棋の項目そのものが、オリジナルの、曼殊院将棋図解説

別添文書には、項目まるごと存在しなかった

疑いが強いという事である。曼殊院の”曼殊院将棋図解説”別添文書
は、中将棋の項目で始まり、中身は”駒数が92枚で、成りは小将棋
に準じる・・”といった内容だったのかもしれない。ところが、
日本将棋に全く言及し無いと、豊臣秀吉の機嫌を害する等の、懸念を
抱いた曼殊院の僧とみられる行然は、小将棋の項目そのものを作成し、
出だしの、”小将棋は駒数40枚”は、恐らくその時代には、京都市
市内では、出回っていた何らかの

大橋宗桂著作の文書等の内容を、まる写しにした

ため、宗桂流で”将棋”になったのではないかと、私には考えられた。
 初代大橋宗桂は、将棋を将棊でなくて、将棋と表現する習慣が有っ
たので、その通りに、文書を書いてしまって、中将棋や大将棋の
将棋が将棊にはならずに、チグハグに、小将棋だけ、”小将棋”に
なってしまったという意味だ。なお初代の大橋宗桂が、将棋を将棋と
書いたのではないかと推定できる根拠としては、江戸時代の大橋文書
の将棋が、将棊ではなくて、将棋となっている点を挙げる事が出来る。

代々創始者の習慣を、大橋家は将棋を将棋と書いたのではなかろうか。

 そもそも、行然まとめ部の中将棋と大将棋が、中象戯と大象戯にな
っていない点から見て、曼殊院に有った曼殊院将棋図解説文書の中将
棋と大将棋は、たぶん中将棊と大将棊になっていたのだろう。おかし
いとも思わず行然は、そのまま”まとめ部”を作成しているので、行
然和尚まとめ部を作成するときに、解説書の解説対象である、曼殊院
の将棋図を、行然がほとんどチェックしていない事は明らかである。
この点については、”中将棋の成りが、小将棋の成りに準じるという”
記載が、間違いである事という点からみても、確かだろう。
 そして、行然は自身の”まとめ書”、小将棋の項目を書くときにも、
曼殊院の将棋図はチェックせず、恐らくは大橋宗桂著書の別書籍等の
通りに、駒数を写しているという事だろう。水無瀬兼成の将棋纂図部
類抄と内容が同じ、

曼殊院の将棋図の小将棋、つまり現行の日本将棋の図の駒数を数える
よりは、大橋宗桂からの情報の方が確か

と当時、行然が考えていたからだと、思われると言う事である。
 つまり、行然は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄と曼殊院の将棋図に
ついては、

こと日本将棋に関しての情報の正確性は薄い

と見ていたのではないかと、私には疑われる。

行然和尚は、小将棋が42枚制ないし36枚制が本来である事を、
薄々知っていたと疑われる証拠

なのではないかと、私が疑っているという意味である。そこで小将棋
と表現して、初代大橋宗桂の将棋界のフロントランナーとしての権威
を、持ち出す必要性を感じたので、小将棋が”小将棋”になったので
はないか。
 つまり、この事から、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の小象戯に、
飛車角が有ったとしても、

西暦1443年の小将棋に飛車角が有ったかどうか、行然の態度から
見て、かなり怪しい

と、私は考える。
 他方木村義徳氏の”持駒使用の謎”では、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の小将棋が、飛車角入りの40枚制になっている事が、

日本将棋が西暦1443年に成立していた根拠の一つ

とされている。が、同じ将棋纂図部類抄の、行然和尚のまとめ部の、
小将棋が、小象戯でも小将棊でも無く、小将棋という別の字になって
いると言う事は、

行然和尚にとって、同時代の初代大橋宗桂からの情報だけが、信用に
足る唯一の物

という意識を私には感じさせる。そのため”日本将棋が西暦1443
年から存在する”という、木村義徳氏の論には、

一点の疑いも無いと言うべきである

というような、断定的な表現をするという所までは、少なくとも今の
所はまだ行かないのではないかと、私は個人的には判断するのである。
(2018/08/30)

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