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二中歴大将棋の横行位置。なぜ玉ではなく”王”の頂の升目と記載(長さん)

二中歴加賀前田家写本の将棋の、大将棋には横行、猛虎、飛龍
奔車、注人の、後ろに配置される駒に対する、位置の説明があ
る。そのうち、飛龍から後は、正式駒名称で、後ろの升目に位
置する、桂馬、香車、中央の歩兵が記載されているので、問題
は無い。ところが特に、横行の後ろの升目の”王”は、別の所
で双玉を示しているので、

誤記である。

今回はこの、”横行は玉の先端升目の方に有り”と書かずに、

”横行は王の先端升目の方に有り”と書かれ、王と玉が違う

理由を、論題にする。
 結論を最初に書く。

誤写の可能性も有る。しかし、そうでないとすると、二中歴
1200年版を編集した、恐らく貴族が、9升目36枚制の
標準平安小将棋(持ち駒無し。大江匡房1080年頃設定型)
を良く指す棋士だった事を示唆

すると見る。
 では、以上の論につき、以下に説明を加える。
 冒頭で示唆したが、二中歴に於いて、平安大将棋の駒種の説
明で、後ろの基準になる位置の駒名が、正式名称で無いのは、
横行と猛虎の2種類である。
 すなわち、横行は王の前の方の升目に在り、猛虎は、銀将で
はなくて、銀の前の升目に在りとの旨が、記載されている。
 また、これに加えて、銀将の位置を2回ダブらせた上、桂馬
を忘れるという、銀将のだぶりと、銅将、鉄将の位置の説明に
関するミスがある。後者は、平安大将棋で主な駒が、将駒だと
認識した事によるミスと、以前本ブログでは指摘した。が、個
別に銀将を2回書く間違いは、

王、金、銀の3種将制の将棋が普通の棋士に、大将棋の説明を
させたときの、ミスのようにも見える。

つまり、

双玉を自らが示しておきながら、横行の説明の所で、基準駒を
間違えるのは、双王と見られる、西暦1080年型の標準平安
小将棋だけを指す、京都付近の朝廷勤務者によって、二中歴の
少なくとも将棋部分が、西暦1200年頃編集されている証拠

にも見えるという訳である。だからこの部分は、一例として、
前田家で写本をしたときに、玉を王と間違えた可能性も否定は
困難だが、銀将を銀と読んだり、銀をダブらせたりするという、

間違え方のパターンが、小将棋指しの書いた大将棋のルール本
の疑いを、かなり匂わせている

ようにも、私には見えるのである。
 なお、将棋史研究家の溝口和彦氏は、横行の位置説明で、
二中歴の王頂方の”方”の字の出現を問題にされ、横行が3段
目にあると言う説を、自身のブログで述べられている。本ブロ
グでは、これでは奔横の入る隙間が無いため、

溝口説には反対である。

二中歴の将棋の項の執筆者は、全体として、最初の方は丁寧に
書くが、途中から省略形を使う癖があると私は思う。金将から
香車までの位置説明でも、金将と銀将の位置説明は丁寧だが、
銅将から先は、はしょっており、桂馬を落とす間違いまでして
いる。だから、横行で位置説明を頂方と表現し、

猛虎、奔車、注人では頂の一文字にしたといっても、横行との
間に差が在るとは限らない

と、私は思うからである。なお脱線するが、飛龍が桂馬の上な
のは、陣が4段で、飛龍が3段目配列になる進化が、西暦11
10年から西暦1200年までの間に、起こっているからだと、
私は思う。溝口氏の”平安大将棋4段配列”説は、有り得る話
だと、私も考えている。
 そもそも、京都府や滋賀県等で、玉将が少なくとも戦国時代
以前の駒としては、全く出土して居無いという事からみて、二
中歴が、鎌倉時代に京都で編集されたとすれば、大将棋は玉将
が標準だったとしても、標準平安小将棋棋士系の編者が、王と
間違えても、さほどおかしく無いと考える。
 戦国時代に入って記憶が薄れてしまったが、関西では興福寺
等、藤原氏関連の寺院を除いて、小将棋で

玉将が使われる事は、実際にはほぼ無かった時代があった

のではないかと、二中歴の横行位置説明の誤記からも、私は推
定するのである。(2018/10/03)

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