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摩訶大大将棋の走り駒や跳び・踊り駒はなぜ金将に成るのか(長さん)

前に摩訶大大将棋の、走り駒や跳び駒や踊り駒が、不成りと
金将成りの、どちらを選ぶかは、元駒の動きが金将を包含して
いるか否かによって選択されているようだと述べた。
 ところで、では成る場合に、摩訶大大将棋の走り駒や跳び・
踊り駒は、何故総じて金将成りなのであろうか。今回は、金将
成りに限定される事、そのものの理由を論題としてみた。
 最初に回答を書き、後で説明を加える。

中将棋の走り駒を含めた多彩な成りに比べて、より古い時代の
将棋とのイメージ作りのために、中将棋型の成りは選択されな
かった

と考えられる。
 では以下に、以上の回答に関して説明を加える。
 実は上記の回答では、

それが、いつの作業だったのか

が問題なのであるが、特定するのは、たいへんに難しい。そも
そも、元駒の初期配列を決めてから、ずっと後に、成りは調整
されていても原理的には構わないだろう。だから本ブログでは、

中将棋が成立した西暦1350年頃から、曼特院の将棋図が
作成された西暦1443年の間のどこかで、摩訶大大将棋の
走り駒、跳び駒、踊り駒等の成りは、決定された

と、今の所一応、考えている。

中将棋の龍王成り飛車や、龍馬成り角行よりも、金将成り
飛車や角行が、前に存在したという、少なくとも”伝説”が
残っていた時代までには、摩訶大大将棋の成りは成立

したのだろう。
 しかし、その裏付けとなる”伝説”の根拠、発生の経緯につ
いては、余り多くの事柄・関連史料は残って居無い。
 せいぜい”(1)麒麟抄が本当は、南北朝時代に成立したも
のであるらしい”という事と、”(2)栃木県小山市
神鳥谷曲輪出土の、裏一文字金角行駒が、その出土地点が、
小山義政館と称されている事から、南北朝時代末期の
西暦1381年前後のものかとも印象付けられている”という、
2点位なものである。
 また、状況証拠としては、中将棋が成立したときに、猛豹が
猛将と洒落られたとも想像できる事と、悪狼は悪党の洒落、ま
た、横行も横行人から来るとすれば、猛豹、悪狼、横行は、人
間とも見なせるので、将駒一般同様、鎌倉時代末期以降には、
かなりの種類の駒を、一旦は金将成りに、したのかもしれない
と言う仮説も成り立つのだろう。ただし、金将成りより不成り
方が、更に古いという”伝説”も有ったのかもしれないが。後
期大将棋では、逆に成りが減らされたようだ。その他かなり前
に、本ブログで、鎌倉時代の御家人体制から、室町時代の裕福
な守護が、南北朝以降に動乱で、更に伸し上ったのを、”強い
駒の金将化”で、擬人化したのかもしれないとも述べた。
 以上の事から暫定的に本ブログでは、西暦1290年にほぼ
成立して、自明の定跡が生じて放置された、普通唱導集大将棋
は、西暦1320~50年の最末期時点で、行駒と飛車も、
歩兵、仲人、玉・金将以外の将駒、桂馬、香車、反車同様、
金将成りだったと仮定してきた。あるいは、最初期の中将棋も、
同じく行駒、飛車、玉・金将以外の将駒、香車、反車、そして
猛豹、また、その頃は仲人が無くて、あるいは悪狼が一時期、
中将棋に入っていたのかもしれないが、その悪狼も、金成りだっ
たのかもしれない。
 そのような事情が、あるいは実際にあって、その影響なのか、
麒麟抄の内容を根拠にしているのか、その他なのかは、今の所
不明であるが、冒頭に述べたように、

”伝説”のイメージに基づいて、摩訶大大将棋の走り、跳び、
踊り駒は、総じて金将成りになっている

と、今の所本ブログでは、以上のように推論している。ただし、
それが何時成立したのかも、正確には判らない摩訶大大将棋の
成りを、どのような経緯で決定したものなのか。詳細を解明す
るのは、今の時点ではかなり困難なのではないかと、私は疑う。
 先行研究でも、ルール調整だったのではないかという主張が、
wikipediaにあるのと、金将成りの賛美性を大阪電気
通信大学の高見友幸氏が、以前強調されていた。が、金将で無
ければならない、理由については、言及が無かったと記憶する。
 つまり南北朝時代の将棋史料が、将来もう少し増えないと、
摩訶大大将棋の”意味ありげな金成り”の意味は、完全には
解けないのではないかと、私は残念ながら、今の所考えている、
という事である。(2018/10/24)

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