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鎌倉時代から南北朝時代の出土駒。銀将が少ないのは何故(長さん)

今回は単純に成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、”鎌倉時代
から南北朝時代とされた出土駒リスト表”の中身を問題にする。た
だし、石川県金沢市の堅田B遺跡の、成り不明”飛馬ないし龍馬”
は、大将棋系の駒とし、これ一枚だけ、除くことにしよう。すると、
上久世酔象(?)駒も、普通の小将棋系という帰無仮説を適宜立て
るとして、この集計では加えると、合計42枚の駒が有る事になる。
 ところが、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、今度は、各駒種の
内訳表によると、このうち銀将が、鳥羽離宮54次の、成り極端草
書の今金の銀将駒一枚だけと言う事になっている。
 そこで、次に以上の42枚が、9升目36枚製標準平安将棋の駒
との帰無仮説を立てて、銀将の期待出現数を計算すると、
4.6・・枚前後になり、銀将の出る11.1%は小さいとして、
ポアソン過程で近似すると、0枚ないし1枚しか銀将の出ない確率
は、1/15程度で、かなり小さい。

従って、単純に考えると、9升目36枚制の平安小将棋系に、何か
別の小将棋種が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、混じっていた

と、背理法で結論されるのだが、これは正しいのか。また正しくな
いとすれば、どう考えたら良いのかを、今回の論題にする。
 結論を先に書き、説明を後で加える。

正しくないと、今の所考える。理由は、神奈川県の鎌倉市佐助ケ谷
遺跡より、西暦1993年頃出土した、駒種不明とされる駒は、成
り一文字金銀将駒であろうと、今の所、本ブログではみなす為

という事になる。では、以上の結論について以下に、説明する。
 この新たに問題として出てきた、鎌倉市佐助ケ谷遺跡より、
西暦1993年頃出土した、”駒種不明”とされる駒は、

劣化が激しく、字を読むのが相当に難しい。

しかし、あくまで私見だが、

この駒の表面の残った墨跡は、銀将と書いてあると見て矛盾が無い

と、本ブログでは考える。

佐助ケ谷.gif

 著作権の関係で、正確に実体が示せないが、表面に13箇所程度、
墨の短い線が残り、裏面にも2箇所、墨跡らしきものが、スケッチ
された絵が、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に載っている。
 以下は、複写の承諾のために、このスケッチを作成した著作権者
を探すのが、後で述べる事情で、やや困難と見られたので、スケッ
チを更に、私が雑で申し訳ないが、更にしてみた再スケッチである。
なお、字だけ模写し、五角形の輪郭等、駒自体の像の線は、上の図
では省略している。
 上記成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒では、上図のように、
余りの墨跡の少なさに、両面とも判別不能と、判断したという事に
なる。
 本ブログでも、以上の本ブログの、これが成り金銀将だという見
方に、絶対の自信は無いのだが。銀将と考えて矛盾のない、鎌倉市
佐助ケ谷駒は、”銀将”と厳しく判定して、ユニークな仮説への結
論を、今後の新たな事実の出現まで、今の所は一応

先延ばしにすべきだと

考える。まあ、そもそも銀将の割合が、標準的な平安小将棋よりも
少ない将棋が有ったと、現行結論してみても、

京都市南区の、上久世酔象駒の酔象の文字の、実在性が疑われる

から、大理国平安小将棋が混在と結論するのも難しいし、現時点で
は”なるべく、つまらない状況認識をするしか無い状態”だと考え
ている。ちなみに、金将は予備駒を作る傾向が有るからかもしれな
いが、比較的多く出土する。銀将の次は、異常性がやや減るが、
新安沖沈没船出土駒以外に見当たらない、香車の少なさである。こ
れについては前に述べたが、問香札への転用による保存期間の延長
傾向が、疑われる。
 なお、鎌倉市佐助ケ谷遺跡を発掘した団体は、佐助ケ谷遺跡発掘
調査団という、正体が私には良く判らない団体である。また、別の
団体として、鎌倉市には、鶴岡八幡宮発掘調査団という、それより
10年ほど前の、西暦1983年頃に活動した団体があったとされ
る。以上の事から両団体には、平安大将棋と後期大将棋の如くに、
何か関連性があるようにもとれる、大将棋のごとくに”謎めいた”
名称の、考古学研究集団が、少なくとも鎌倉には2団体あるよう
である。
 ちなみに、鶴岡八幡宮発掘調査団の調査結果は、鎌倉市に今も有
るとみられる、鎌倉考古学研究所の著作物に引用されているので、
銀将(?)駒のスケッチの、著作の転載依頼という著作権問題も、
鎌倉考古学研究所に問い合わせれば、これについては、何とか、
なるようには思えた。
 何れにしても、こういった例は、京都府上久世駒に絡んだ、前に
紹介した著作物の複写問題といっしょで、

まったくめんどくさい話であり、早く50年が経って、著作権が、
切れてしまえば、権利者を探す手間が省けて良いのに

と、思われるような例ではある。
 何れにしても、この佐助ケ谷遺跡駒を、銀将駒と見れば、京都の
鳥羽離宮54次の、成り今極端草書金の銀将駒とあわせて、

42枚中に2枚銀将があり、期待値4.6枚よりは少ないが42枚
は標準平安小将棋系の駒群と考えても、説明可能という程度のフレ

という、統計的な結論にはなるわけである。
 しかし原則として銀将は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての
出土数が、平均すると少し少ない。これは更に発掘が行われると、

鎌倉時代~南北朝時代には平安小将棋の他に、別の銀将の割合が少
ない、小将棋種が混在していた

という結論にも、変わりうる可能性があると言う事である。
(2018/11/06)

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