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麒麟抄にはどうして、将棋駒の書き方が有るのか(長さん)

”麒麟抄は南北朝時代の成立であり、藤原行成の著作
と、かつて偽装された”という説に、本ブログでは

賛成する。

群書解題に、内容から成立年代を割り出した旨の記載
も有るからである。
 この点については松岡信行氏が”解明:将棋伝来の
「謎」”で、反対意見を述べられている事で有名だ。

将棋駒の書き方の部分の記載は、藤原行成本人作

と言う説を述べている。
①将棋の棋が碁であるという点。
②書家は多いのに、個別藤原行成作と伝えた上で、
書の書き方書で、敢えて将棋の駒の書き方を、彼に
偽装させなければならない、動機付けが無いという点

を根拠にしているようだと、私は理解する。
 ここでは、彼の根拠には

(1)抜け穴が有るかどうかという事

と、

(2)藤原行成は、麒麟抄の将棋駒書き方部分の作者
で無いにしても五角形将棋駒の字を書いたのかどうか

と、

(3)伝・藤原行成著作書に、何故将棋駒の書き方の
記載を加えているのか

を論題にする。
 回答を先に書く。
(1)は、特に②について、藤原行成が西暦1019
年グレゴリオ暦5月の刀伊の入寇の後、翌1020年
年初に、大宰権帥になっている点を考慮に入れて居無
い点に、抜け穴がある。麒麟抄”将棋駒”は彼が著作
したものでは

無い。

(2)は大宰府長官時代に、藤原行成が五角形駒の
駒字を書いた

可能性がある。

(3)は、(2)の伝説が世尊寺家に伝えられれば、
麒麟抄、将棋駒字の著作は、彼に偽装される事は必然。
 ようするに、麒麟抄は別の後代の人間の作だが、

藤原行成が、五角形駒に係わっている可能性は高い

と言うことである。
 では、以下に説明を加える。
まず、(1)の麒麟抄の作者と将棋駒部分の著作だが。
①の将棋の字が碁という点については、

色葉字類抄、八木書店本、尊経閣文庫蔵2巻物の、上
の上の末備挿入文書の2番目、”小将碁馬名”の、
将碁が、

戦国時代作であると見られることから、松岡説は疑問

と思う。なお西暦1565年成立の根拠としては、
その年に写書した、①雪竹老人の奥付けの後にある
挿入文書である事。②玉駒が王将、小将棋が将碁で、
皇室・摂関ハイブリットであって、戦国時代の貴族の
衰退時代風。③酔象が無いので、朝倉小将棋の時代で
は無いという、本ブログでは指摘している3点の根拠
による。なお、この”小将碁馬名”には、飛車と角行
が記載されていて、西暦1500年以前のものだと、

当然大問題

になる。言うまでも無く、南北朝時代は平安時代より
後、戦国時代より前だから、麒麟抄の将碁は、貴族で
ある世尊寺家では”藤氏系は将棋を将碁と書く”事を、
松岡氏の説とは違って、中世の間中、記憶としてずっ
と残していたと考えたほうが、事実に合う。
 次に、より大事だが。②の藤原行成一人が”将棋駒
を書ける訳ではない”という旨だとみられる、松岡氏
の”指摘”は、
藤原行成は、実際に五角形駒を書く、草分けだったと、
中世まで思われていた。ので、さも彼が書いたように、

麒麟抄の将碁駒の書き方は、南北朝時代の世尊寺家の
何者かが、実際に見せかけた

と考える。つまり彼が将棋の歴史に絡んでいたという
重大な証拠が、むしろ偽者である根拠になるという点
を、問題の読み方の手順を間違えたために、松岡氏は
見落としていると私は思う。
 松岡信行氏は、
1)麒麟抄の将棋駒字書き方記載が、藤原行成作かど
うかに、こだわっているが、本当は

初期の五角形将棋駒の字書きに、藤原行成が係わって
いたかどうかの方が大切だ。

以上の点と、松岡氏は彼自身が、
2)将棋の国内起源説に、こだわる余り、仮に伝来だ
としたら、伝来品の複製を、何処でするのかという点
から見て明らかに、

最初の五角形駒の字書きは、九州の博多付近で行われ
るのが尤もらしいという、”場所の推定の見落とし”
がある

と私は考える。特に2)については、
藤原行成は、大宰権帥になった事があるため、それだ
けでも、能筆家として、駒書きとの関りが疑われる上
に、刀伊の入寇直後に西暦1020年1月、藤原隆家
と交代に、大宰権帥になっている。そのため、少なく
とも本ブログの見方を取る限り、

いよいよもって、五角形将棋駒成立と係わりがあると、
藤原行成は、むしろ疑われて当然

という事になるのである。つまり本ブログの見方とは、
西暦1020年に駒木地は、経帙牌の形で、原始平安
小将棋を大理国から運んだ、北宋交易商人の周文裔が
用意して再度来日したから存在するのだが、書き込む
駒字のフォントを用意したのは、京都から新たに大宰
府の長官に任命され、赴任して来た

他ならぬ藤原行成だった

という意味だ。
 そこで以下に、彼に関する情報から、尤もらしいと
思われる推論を列挙する。
イ)藤原頼道は、西暦1019年12月、藤原隆家を
世論に押されて凱旋京都入りさせると同時に、在来仏
教寺院の世尊寺を開くほど、仏教に熱心な藤原行成が、
後任として適切と判断して、翌西暦1020年1月
九州大宰府へ長官として送った。頼道の信頼が厚い上
に、在来仏教の戒律に厳しく、現地にて流行り出した、
賭博をするという仏教上の戒律違反に、行成がうるさ
かったのも有ったと私は考える。
 つまり将棋を賭博として指す、現地の風潮を一掃し、
あくまで武芸として、また戦争シミュレーションを
する事によって、国軍の強化を目的として、

現地の武官の職務として、ゲームをするように現地の
人間へ指導する事をも、狙った

人事によるものであったとみられる。
ロ)それに対して赴任した、藤原行成は、仏教戒律を
比較的良く守る人物だったので、前任の藤原隆家のよ
うに、自身が伝来したての将棋を道楽で、時間を割い
て指す事は、余りしなかった。
ハ)むしろ現地の駒字書きの僧侶等に、駒字の書き方
を、能筆家として指導する事によって、五角形駒の高
級化をもたらした。現地の下級官僚や武家に対する、
賭博の禁に、彼は、藤原頼道の期待通りうるさかった。
が、武芸を磨くための目的としての将棋はむしろ奨励
し、自分も

駒字を書いて支援

したと考えられる。なお当然の事ながら、行成の努力
を持ってしても、将棋で、物を賭ける習慣を、無くす
までには至らなかったとみられる。
ニ)藤原行成の大宰権帥の任務は、西暦1020年の
1年限りであった。が、五角形駒の普及への影響は大
きかった。他の代用品で将棋を指す可能性も無くなり、

ゲーム具の形態は、彼のおかげで一定の物へ安定収束

した。なぜなら、
ホ)更に、唐物商人が”博多土産”と称して、京都へ
五角形駒を売り歩くときに、藤原行成作だと書き駒を
しばしば偽装した。そのため、能筆家としての彼のネー
ムバリューが元々あり、益々、現在とほぼ同じ形の
将棋具が京都でも売れて、普及に拍車が掛かった。
 以上が尤もらしいと仮にすると。
藤原行成が、西暦1020年の大宰府長官時代に、将
棋駒の字書きをしたという話は、仮に風説だとしても、
伝説として残りやすいだろう。そうだとすれば、
南北朝時代に麒麟抄で、さも彼が記載したように、
”将棋駒の書き方”が、他人によって偽装記載される
というのは全く尤もな話だと、私には考えられる。
 なお、本当に字書きに係わって、将棋の流行に寄与
した可能性が有るのかどうかという事に関しては、次
のようになろう。
 五角形という形に、願掛けと、五行説対応という、
馴染みの意味が有る事。また矢印で向きを表している
という、ゲームデザイン上の機能に関する利点は元々
有る。しかしながら将棋駒については、元々は国内で
発生した、代用品にすぎなかったと、本ブログのよう
に見ると、他の代用品へ更に移行してしまう可能性も、
伝来からさほど経って居無い当時は、残っていたはず
である。にも関らず他のアイディアが全部淘汰されて、
日本の将棋道具は、安定して一定のものになったとい
う点から状況証拠として、

本当に藤原行成が、初期に将棋駒の書き駒を作って
その優秀さから、将棋具の他の変種を無くしてしまっ
た可能性を、完全には否定は出来ない

ように、本ブログでは考える。
 なお一般論として、本ブログような限定的な伝来説
を取らずに、外国からの将棋の輸入を、適宜考えたと
しても、”西暦1020年の藤原行成の、博多・大宰
府に残した作駒行為”の影響が、道具の形態を決める
という点で大きかったと仮定できるケースには、議論
はこの場合、大筋では変わりにくいような気がする。
 よって、冒頭に述べた結論になるのではないか。つ
まり麒麟抄の著者の説について、松岡信行氏の論に私
は賛成できないが。web上等で確認できる、大宰府
へのその年、西暦1020年一年限りである藤原行成
の係わりで見る限り、

松岡信行氏は、将棋の語の初出がどの文献かという、
従来の議論を超えて、更に踏み込んだ議論をしたとい
う点で西暦2014年当時、相当に良い線の論展開を
していた。

以上のように私は、充分結論出来ると考えるのである。
(2019/05/21)

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