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平泉飛龍徳島奔横金沢龍馬鎌倉鳳凰小山角行で論証明(長さん)

以下に表題に示した5箇所に、京都市上久世の酔象
を加えた6箇所の史料から、

四段化した平安大将棋へ、新たな駒を導入する進化
が、鎌倉時代に起こったと証明できる

との旨を示す。
なお、表題と今述べた出土将棋駒は、より詳しく書
くと以下の史料を問題にしている。
1)平泉の志羅山遺跡の両面草書飛龍。
2)徳島県徳島市上八万町川西の不成り(補)奔横。
3)金沢市堅田B遺跡の不成り(?)龍馬。
4)神奈川県鎌倉市鶴岡八幡宮境内遺跡の成り楷書
奔王鳳凰駒。鎌倉市小町鎌倉駅構内出土木片の、
搦4.5スペース王馬馬口の、奔(?)王の記載。
5)栃木県小山市神鳥谷曲輪の成り一文字金角行。
6)京都市上久世城之内の成り不明酔(?)象。
結論としては、

1)~3)の遺物が全部、横行が袖に移動する前の
ものであり、特に2段目が満杯になった形跡が無く、
4)~6)の遺物が全部、酔象に横行が押しのけら
れて、袖に移動した後に現われた駒であるという点
から、統計学的な確率論により、

大将棋が4段配列のまま、充填した進化を辿ったと
結論できる

と、論を〆る予定である。
 では、以下に補足してから説明する。
 補足する点としては、

これらだけでは、西暦1290年に、その四段配列
の満杯充填が、ちょうど完了したとまでは言えない。

 ほぼ西暦1160年から西暦1360年のどこか
に、本ブログの言う、13升目108枚制の将棋が
有ったと結論できるというだけであるという点が、
注記される。
 では、説明を加える。
 上記のように、事象としては、7回と指摘できる。
4)の神奈川県鎌倉市が、鳳凰と奔王(横ではな
い)と、2点あるからである。

ここで、西暦1260年という時代の中間点で、領
域を2分割してみる。この時代の将棋は、
横行が酔象に追い出されて、3段目の端へ移動する
境目とみられ、

その前の大将棋の形は、
平安大将棋に、奔横、龍王、龍馬が加わったもの

とみなせると考えられる。事実としての出土物は、
以下の議論では、小将棋に被覆される1段目駒と歩
兵は考えないものとして、
1)は飛龍、2)は奔横、3)は龍馬であり、この

1/2確率の領域に、3つの試行とも全部合致して
いる。

 次に、普通唱導集大将棋や後期大将棋に有って、
今述べた”横行移動直前将棋”に無い駒は、後半期
でのみ、出土すべき駒である。
 4)は鳳凰と、奔王、5)は角行、6)は酔象で
あり、

1/2確率の領域に、4つの試行とも全部合致して
いる。

よって、細かい事を無視すれば、2の7乗分の1、
すなわち128分の1しか現われないことが、起こっ
ているというのに近い。なお、実際には駒割合が
4分6分だし、うるさく言えば奔王を横と王として
2回数えているが、この確率関数は、1/2のとき
に、極大値(1/2)のK乗を取るから、ほぼそれ
以下だと考えてよい。
 ここで、鎌倉の遺物については、鳳凰の成りが奔
王となっていて奔横ではないし、王馬馬木札の王は、
搦めるという表現が、将棋用語の捕獲と特殊で近く、
奔王らしいので、試行1回に数えている。
 つまり結論としては、6箇所の遺跡の出土駒のパ
ターンから、4段化した平安大将棋へ、新たな駒を
導入する進化がまず起こり、堅田B遺跡の時代の、

西暦1260年より少し後から1300年の少し前
の間に、充填して満杯になってから、15升目5段
人陣化が”速度任意で”起こる進化を大将棋がした

というモデルが、尤もらしいと結論できると、私は
考えるのである。特に、西暦1250年~60年
程度の成立とみられる、金沢

堅田B遺跡で、後期大将棋に特徴的な駒のうち、
龍王か龍馬かしか、出土しなかった事が大きかった

と私は思う。130枚制後期大将棋のうち、龍王と
龍馬は全部で8枚だけである。なお歩兵と1段目駒
は60枚で、差し引き70枚であるから、90%弱
が龍王・龍馬以外の駒である。
 4)~6)で、龍駒2種が発見されないのは、他
の駒の導入が起こり出すと、

出土するのは他の駒の確率が高くなり、たまたま
龍駒2種が当たらないため

だと、考えられる。すなわち、
3段配列の平安大将棋から、5段配列の後期大将棋
が一気に形成されるとすれば、新2~3段目が、
スカスカにならないように、堅田Bの時代にはどん
どん、新2~3段目駒が生まれていたはずである。
実際には、そういうことは起こらず4段配列の中間
的な大将棋に、有る程度の人気が有ったので、堅田
B遺跡でだけ、龍駒2種が出土していると考えれば、
判り易いだろう。ようするに大将棋に関しては、

実際には、1260年の堅田B時代に、本ブログの
言う自陣4段108枚制の大将棋へ、進化の方向が、
明らかに向かっていた

のである。すなわち、行駒、鳳凰・麒麟、動物駒の
うちの追加導入は、酔象復活、横行の移動と、角行、
堅行の導入が1260年より少し後に、最初だった
としか考えられない。
 つまり鳳凰・麒麟、動物駒(追加)は、ゆっくり
と起こり、4)の鎌倉駒の、早くても13世紀の後
半以降にならないと、出土するようにならなかった。
だから1250年から1260年という中間に、龍
駒2種類だけが導入されたかのような、堅田Bの姿
が、見えるようになったに違いない。なお、動物駒
は酔象以外、鎌倉時代~南北朝時代の遺跡では出土
していない。これは終盤、動物駒の割合の少ない、
中将棋の駒が混在するためと考えられる。
 ただし、以上の出土駒のパターンの統計的解析だ
けでは、大将棋の4段配列が満杯の108枚制とな
り、15升目化が、何時起こり出したのか、別の情
報を入れないと判らない。別の情報の例として、
普通唱導集の唱導唄の解析が必要な事は、言うまで
も無い。
 何れにしても、以上の統計解析から、

満杯化が西暦1290年前後とまでは言えなくても、
西暦1260年から西暦1360年の間の何処かで、
起こった後で、15升目化したらしい

とは言えると思う。つまり、

13升目108枚制大将棋は、西暦1300年前後の
普通唱導集で唄われた大将棋かどうかは、別に論じる
事として、存在したという事自体は、かなり確からし
いとまでは言える

のではないかと、私は考えるのである。(2019/07/22)

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