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大陸で注目された将棋棋士は藤原道長か藤原頼道か?(長さん)

 前のところで、平安時代中期、摂関政治の中心にあった藤原
の頭領(長者)が、中国(北宋)等で平安将棋の棋士としても、
注目を浴びたと述べ、特に藤原道長がその棋士と、表現した。
ところで道長以降、摂関政治の全盛期は、次の代の藤原頼道へ
引き継がれたわけであるから、実際には、大陸で注目された
セレブ棋士が、道長ではなくて頼道等、少し後の代の藤原氏
の頭領であっても、おかしくは無いように思えるかもしれない。
 むろん前回述べた話は、文献等の客観的根拠が知られている
訳でもないため、後世、「眩いばかりの将棋道具で平安小将棋
を西暦1020年頃指したのが、藤原頼道である」という意味
の古文書でも発見されれば、前回の内容で道長を、頼道に変え
るつもりでいる。しかし以下の理由で、それまではその棋士を
「平安時代中期の藤原道長等の藤原氏長者」と、私は表現する
ことにしたい。だだし藤原道長の方が、良く聞く名前だからで
は実は無い。前に少し述べたが、水無瀬兼成の先祖の藤原隆家
を刀伊の入寇での不遇の後、都で復権させたとされるのが、藤
原頼道等、少し後の藤原長者ではなくて、藤原道長であると、
聞いているためである。以下も私の想像の域を脱していないの
だが、

藤原道長によって厚遇された藤原隆家の存在が、
日本に、将棋を始めて流行らせる、主要因だったのではないか?

と、実は私は疑っているのである。ただし藤原隆家にも、彼の
時代に将棋を指したとの記録は無く、私は藤原隆家も道長同様、
特段将棋に興味が強かった訳でもなかったかもしれないと思っ
ている。実は彼は棋士として将棋を普及したのではなく

「刀伊の入寇後、都で返り咲いた」という、彼の生き様が、
平安小将棋等、将棋類の隆盛に寄与したのではないか

と思っているのである。
きわめて洗練された現代の日本将棋については、その面白さの
要因は幾つもあり語りつくせないのであるが、鎌倉時代末期程
度の時点では、小将棋普及の要因2本程度の柱のうちの1本は、

歩兵が敵陣で、それよりずっと強い金将に成る

と言うルールの斬新さとされていた。普通唱導集の「小将棋」
の項で、そのように表現されている。

小将基 伏惟 々々々々
昇歩兵而成金 入聖目既無程
飛桂馬而替銀 驚敵人亦有興

刀伊の入寇の時点で、歩兵の一つ一つを都から離れた大宰府の
軍隊の兵士やその司令官の藤原隆家、玉将を藤原道長、金将を、
都の藤原長者(道長)の側近に例えると、それは、さながら
藤原隆家の、出世の姿と言うことになるのではないか。藤原道
長は、当時の都の空気に逆らって、歩兵が敵陣で活躍すると、
自分の副官や側近の、金将に変身させるという、小将棋のルー
ルと同じ善政をしたと、国内では見られたはずと言う事である。
仮に九州大宰府の兵士に、平安小将棋を指す者が居るとすれば、
将棋を指すたびに、今は「黄金の煌びやかな世界」に居る、か
つての上官の上記のエピソードが、指すたびに、地味な現在の
自分の姿と対比して思い出された事であろう。将棋は賭博とし
て早い時期に禁止されたのとも言われるが、大宰府では、恐ら
く以上のようなわけで、将棋ゲームに比較的寛容な空気が、
平安時代中期には、みなぎっていたのではないか。つまり、
単なる遊びではなくて、将棋を指すことが自分の境遇に関連性
のある行為のように感じられたため、大宰府の兵士の間では、
それまでに外国から輸入されたいろいろなボードゲームに比べ
て、小将棋が西暦1020年頃に、爆発的に盛んに指されるよ
うになったたのではないだろうかということだ。なお大宰府か
らも、将棋の史料(木簡等)は、出土している。
 そして安土桃山時代に、水無瀬兼成が将棋の世界に入ったの
も、日本の将棋の礎に、ほかならぬ自分の先祖の藤原隆家が、
関与していた事を、家伝等、何らかの方法で、知っていたから
なのかもしれないと、私は疑っているのである。
 以上の藤原隆家に関する話が、万が一正しいとすると、小将
棋で「玉将」になぞらえられるのが、藤原長者の中でも、特に
藤原道長であって、藤原頼道等では無い事になる。そこで私は、
大陸で将棋を指すことで注目された藤原長者には、現時点では
藤原道長に代表させておいて、将棋史エピソードを覚えやすく
するのが良いのではないかと思っている。実際には、小将棋
が普及したので、藤原頼道の時代に、「人並みに」、ただし、
最上級の将棋道具を土御門邸に置いただけなのかもしれないが。
(2016/11/17)