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小山駒はなぜ”裏一文字金の角行駒”なのか(長さん)

 私の解釈では少なくとも、栃木県小山市神鳥谷曲輪の
出土駒は、なんらかの元情報があるにしても、江戸時代
の、その地の寺、小山の廃寺・青蓮寺の関係者が、思考
により作成したものという事だった。だとすれば「裏を
成り金にする事によって、この駒が摩訶大大将棋の駒の
雰囲気を出し、異制庭訓往来の将棋の説明内容と韻を踏
ませ、南北朝時代の関連物らしさをかもし出している」
のは良いとして、何故もっと、摩訶大大将棋らしい駒を、
選択しないのだろうかという疑問も、あるいは出るかも
しれない。
 たとえば、大阪電気通信大学の高見友幸先生のブログ
のうち、「摩訶大将棋」のコーナーでは、摩訶大大将棋
をアピールするのに以前、夜叉か金剛の駒あたりを、
使っていたように記憶する。

 つまり角行では、少なくとも表面の駒は、日本将棋に
も有るポピュラー駒なので、ありきたりすぎるのでは、
ないかと言う事である。

 仏教五枚組を、寺の本堂に飾っておいても、寺の備品
の名前を書いて、何かの印にでもしているのだろうと、
旅人から間違えられるかもしれないので、狛犬、夜叉、
金剛、力士、羅刹の駒名は、あるいは使用しなかったの
かもしれない。がどうせ作るなら、角行で無ければなら
ない理由があったのだろうかという事である。たとえば、

最も摩訶大大将棋の駒らしい、裏自在王の玉将を、寺の
創始者のメモリアルマテリアルとして、祭壇の中央に飾
っておいたら、もっと摩訶大大将棋の駒らくなり、創始
者が南北朝時代の人物だと、はっきり判った事は確かだ。

 以上の批判に答えられなければ、出土品の江戸時代作
成説は、一応考え直す必要があるだろう。そこで私には、
想像の域を脱する事は当然できず、以下もたぶんに、
当てずっぽうだが、

成りが”金”というのが、ヒントかもしれないと思う。

成りが金の駒しか、飾れない、何らかの理由を考え出せ
れば、謎が解けるのではないかという事だ。恐らく、

 寺には1380年~1382年の小山義政の乱の経緯
に関する、言い伝えも残っていて、戦国時代以前尼寺の、
小山の青蓮寺の寺の創建者の尼さんも、小山義政に関連
しており、かつ、乱の原因が「カネつまり経済的な争い」
だった事を、裏の金の字で、示唆しているのだと私は考
える。

 なお現在の所、小山義政の乱の発端となった第一次の
宇都宮基綱と小山義政の争いの原因は、荘園や公領の、
その当時は、豪族にとって、普通に主な収入源であった、
年貢の請負に関する争いというような、何か経済的な
原因を考える説が、最有力である。よってこの考えは、
特におかしくないと、自己評価している。

 では次になぜ、青蓮寺の住職等は、飛車や竪行、横行
等々ではなくて、金に成る摩訶大大将棋の駒として、
特に、角行を選んだのだろうか。

この点についても、答えに全く窮するようなら、やはり
「作り物説」は、もう一度考え直すべきかもしれない。
 この点についても、小山義政との関連を、指摘できる
かもしれない。実は彼は、名誉的な役職名で「左馬の介」
と呼ばれていたのである。ひな祭りのひな段で言えば、
武官の左大臣をイメージすると、彼のイメージは判りや
すいかもしれない。

 角行は、日本将棋では左側に居て、左大臣のようなイ
メージであるから、小山義政の名誉職名と、雰囲気が
一番良く合っているのである。

なお、小山義政は、戦乱を勃発させる少し前、京都の室
町幕府に対し、名誉的役職上の「日本の宮中の御馬番の
長」を連想させるかのように、馬を他の豪族よりも多く、
献上し、対幕府関係の強化を図っていた事も判っている。
つまり、角行を選ぶと言う事は、それが作成されたとき
には、江戸時代中期で、日本将棋が、普通に指されてい
たのだと、私は疑う。
 以上のように、他の説明が無いというのではなくて、
なんらかの説明が、まがりなりにも存在し得るのである
から、”駒の種類からは、小山市神鳥谷曲輪の角行駒は、
江戸時代作のメモリアル遺物の疑いが強い”との考えを、
完全否定するのは、今の所難しいのではないかと、私は
やはり思っている。(2017/01/07)