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小山市神鳥谷曲輪角行駒の形の謎(長さん)

前回、表題の駒が”裏一文字金角行”駒なのは、恣意的な
選択であるとして、駒種の特定の選択のケースについては、
説明できる事を述べた。実は、現物の実在するこの駒につ
いては、もう一つ情報が有る。駒の形が、現代の太い五角
形ではなくて、新安沖沈没船出土駒から朝倉駒までの、南
北朝~戦国時代にかけての、細長型であるという点である。
 もし、この駒を現在とはほとんど違わない外見の将棋駒
を使用していた、江戸時代に作成したものであるとすれば、

わざと、当時から見ても、昔風の将棋駒を注意深く作成

した事になる。つまり、
何らかの方法で、廃尼寺・小山市の青蓮寺の、江戸時代の
真言宗系の男の住職等は、戦国時代以前の将棋駒の形に
関する知識を、持って居なければならない事になる。
ただし「将棋駒が仏典の貸し出し札起源」であると
して、仏教関係者で江戸時代の人間なら、それを知ってお
り、更には手元の仏典の貸し出し札が、その形であるとす
れば、それをそのまま、江戸時代に小山でも材料にしたと
いう事も、当然ながら考えられうる。
 あるいは、小山市市街を現在は覆う、小山城自体は、戦
国時代までは機能し、江戸時代の草創期まで、ずっと小山
市は、宿場町というよりは城下町であったから、大阪城遺
跡から、将棋駒が出土するのといっしょで、戦国時代の、
日本将棋の遺物や、朝倉小将棋の遺物が、江戸時代初期に
は、栃木県小山市では、主として当時も、城の跡となって
いた領域に散乱するなり、当時の旧家に保管されている等
していたのかもしれない。そのため、土地の知識人には、
戦国期の将棋駒の遺物の知識が、あるとも考えられる。
 いずれにしても小山駒が作り物だとすると、日光参拝等
の旅人を納得させるために、将棋の駒を作るにしても、ど
の程度の数の旅人が、開運なんでも鑑定団の中村誠之助や、
将棋駒研究家の鵜川善郷なみに、”偽物”を見破れるのか
が、判らないにもかかわらず、形まで懸命に、戦国時代以
前のパターンに、合わせた事にはなる。よって、

小山角行駒については、同時産品(クシの破片と女物の下
駄)の「作り物臭さ」とは対照的に、その全体的作りが、
結構現実手が込んでいて、そのために謎を残している

という点に、遺物駒を見る我々は、今後も充分に注意して
観察すべき謎が残っている事も、確かな事だろうとは思う。
(2017/01/08)