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天神(天満宮)と大将棋系ゲーム(長さん)

 前々回、長谷川という一族と、中将棋・摩訶大大将棋等の
駒数多数将棋類とは、相関性があり、従って静岡県焼津市、
栃木県小山市、奈良県田原本町が、大将棋や中将棋の駒を、
発掘する際の、狙い目であるとの旨を述べた。
 ところで、こうした大将棋系ゲームと関連しそうな、”発
掘の勘所”となりうる別のキーワードとして、曼殊院が別当
を務めた、「天神」または「天満宮」があると、私は予想す
る。なお、天満宮の苗字は、菅原道真の”菅原”であるから、
長谷川とも藤原秀郷の藤原とも、一応別ではある。
 前に述べたが、水無瀬兼成が将棋部類抄を作成した元文献
の”将棋種々の図”は曼殊院所蔵の古文書文献であり、
曼殊院は北野天満宮を、別当として従えていたので、天神や
天満宮とは関連している。また、栃木県小山市の、裏一文字
金角行駒を出土させた地点は、小山市の廃寺青蓮寺の敷地で
あり、青蓮寺は、小山市天神町と小山市神鳥谷の境に有って、
天神町の天神または天満宮を、江戸時代までは、別当として
従えており、こちらでも駒数多数将棋駒と天満宮とは、線で
つなぐ事ができる。
 実は今の所、少なくとも私に指摘できるのは、以上の2例
だけなのであるが、

このキーワードは関連する理由が、いかにも見え見えなので、
当然”狙い目”に入れるべき項目・要素

だと、私は思っている。
理由は、駒数多数将棋は日本将棋よりも、ゲームを覚えるの
に、ルールが多く頭を使い、頭の血の巡りを良くし、洞察力
を強めて、それをする者が、学問を発展させる力が増すと
思われていた事が、藤原定家の日記「ボケて、『大将棋が指
せなくなってしまったのでは、死んだのと同じ』と嘆いてい
る友人貴族の話」からも示唆されるように、自明だからだ。
 そもそも、藤原頼長が大将棋を指したのも、宋の交易船の
船主から、”頭が幼稚だが成金で羽振りの良い藤原長者”の
イメージで見られないようにするために、駒数32枚8×8
升目制原始平安小将棋を止めて、二中歴大将棋へ移行したと
いう、経緯だったのかもしれないとは、前に私も指摘した。
更に、前回のべたように将棋馬写という文献が、発掘される
事からも象徴されるように、習字の題材になるほど、いろい
ろな字の書き方を覚えられるという特長が、駒数多数系将棋
に顕著に有っても、日本将棋には、より少ないと見られる事
もある。
 特に未だ、持ち駒ルールが発達しなかった鎌倉時代中期頃
には、ゲームとしての深さが、平安小将棋に比べて、駒数多
数系の駒数概ね104枚、13×13升目制程度の、
普通唱導集大将棋の方が勝っていたため、平安小将棋に比べ
ると、普通唱導集大将棋の方が、学習者を賢くするゲームに、
識者には特に写ったに違いない。むろん、小将棋に持ち駒
ルールが発明されると、それまでの平安小将棋に無い、
チェスやシャンチーのような奥深さが、小将棋にも付与され、
小将棋は”低レベルなママゴトのイメージ”が、完全に払拭
されたのであるが。
 それでもなお、中将棋の駒が、若者の習字の学習の題材と
なるなど、理数系科目の力は付かなくても、国語の力は付く、
つまり覚えられる字数が多いという点で、

学問の神様、菅原道真の天神または天満宮と、駒数多数系将
棋は、関連付けられ続ける力を、鎌倉時代末期以降も持続さ
せ続けていたと私は見る。

従って、遺跡のある場所で、こうした特殊な種類の将棋駒の
発掘を狙うのにも、ひょっとすると、近くに”学問の神様、
菅原道真を祭る”「天満宮が有る」とか、天満宮とか学問の
神様と発掘場所の豪族との間に、何か繋がりがあるかどうか
という事を、チェック項目・狙い目の一つにした方が、一応
良いと私は考える。
 こうした観点からたとえば、奈良県の諸豪族の館跡の例を
チェックすると、

十市氏の長谷川党の居住地、法貴寺は、よく知られているよ
うに、池神社と略称される天満宮を従えているため有力だし、
筒井氏は家紋が梅鉢で、神官の出の家と推定される天満宮紋
類似なため、この豪族の居城地も、駒数多数将棋出土駒の
発掘にとっては狙い目だと私は思う。

 何れにしても、日本全国に広がるが、どちらかといえば
天満宮は、関西がやや多い傾向ため、駒数多数系将棋は、
現在の中将棋の分布同様、関西が、特に狙い目なのではない
かとの、アタリは当然付く事だろう。(2017/01/18)