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埼玉県越谷市増林城ノ上をチェックする(長さん)

 既にのべた、焼津駒を出土させた、小山氏の関連氏族の
小川氏・長谷川氏は、遡れば下河辺行義で合流し、その次男
下河辺政義の子孫が奈良県田原本町ゆかりの長谷川党と同じ
名の、長谷川氏である。そして下河辺政義の兄で、下河辺の
嫡男となる下河辺行平の系統は、埼玉県北葛飾郡松伏町付近
に館を作って鎌倉時代の中期に住んでいた、といわれている。
 実は、ネットに出ているが、この館は場所が良くわかって
いない。埼玉県の松伏町の下赤岩にある、香取神社付近が、
候補に挙がっている。が鎌倉時代後期には、下河辺の本家は、
北条氏の得宗専制の下で、鎌倉幕府の官職として吸収されて
しまったために、鎌倉時代後期に鎌倉に一族は移ったとみら
れている。そのため館跡は消失し、場所が特定できないので
ある。松伏町下赤岩の香取神社というのも、近くに古利根川
が流れていて、常識的に要衝だと考えられる点と、字地名に、
館跡を連想させる”屋敷附”があるという程度で、確証は無
いとされる。
 たとえば、この松伏町赤岩から2km程度西にも、埼玉県
越谷市増林の字地名で”城ノ上”という所があって、城跡の
ようにも感じられる。越谷市の城ノ上は、徳川家康が鷹狩り
をするために、滞在施設を、江戸時代初期に建てたことに、
由来すると、webには出ている。が滞在施設に”御殿”等
ではなくて、”城”という地名が付いた、云われは良くわか
らない。それはひとまず置くとすれば、こちらが、本物の鎌
倉時代の館かとも、ぱっと見の名称からは、想像はされよう。
 なお、鎌倉時代中期時点で、下河辺一族の一部が、奈良県
の初瀬川流域に移り住んだとの、確実な情報は無い。だから、
埼玉県南部の、下河辺氏本家の館と、摩訶大大将棋等との繋
がりは、自明ではない。
 南北朝時代以降に長谷川党の一部分子が、たとえば
小山義政と奈良県の西大寺との繋がりで、もとの下河辺氏の
館近くに、西暦1368年過ぎに、小山義政から安堵されて
居住させられたとか、戦国時代に、長谷川氏の一部が、
祖先下河辺氏の嫡流の居住地をゆかりの地として、松伏町
下赤岩等移り住むとか、何か無いと、駒数多数系将棋とは、
仮に館があっても自明には繋がらない。
 しかしwebの一部のサイトに、越谷市増林城ノ上につい
て、当然ながら水を含んでいると見られる土で「泥遊びをす
ると、地面から何かが出土するかも。」という、思わせぶり
な記載が、発見される。そこで、2017年1月19日の午
後、小生は現地を尋ね、webに有るような”泥遊び場”が、
ほんとうに存在するような場所なのかどうかを、一応チェッ
クをしに行った。
 結論を言うと、農業用水路が多いものの、遺構と言うには
ほど遠く、すべてコンクリートで整備されており、木質の遺
物が簡単に出そうもないのは言うに及ばず、たとえば瀬戸や
鋳物、焼物類の破片が、地上に散見されるという気配も、特
に感じられなかった。約30分間の捜索で、溝に、巻貝の殻
が一個という結果だった。貝塚が有るかどうかという点でも、
少なすぎる数だった。越谷市増林については、そもそも土壌
がかなり、軟弱な場所である。よってしっかりとした建造物
は、何れの時代に於いても、近代的建造物が立てられるよう
になる前の昔は、無かったのではないかと思えるような所で
あった。このへん昔は、泥濘の中だったのではないだろうか。
せいぜい中世の陣屋とか砦とか、平地によくあった、陣地の
類が、昔有ったかもしれないと、いう様な場所のように思え
た。このような、”平城跡”なら、あるいは、存在しえたの
かもしれない。ただし惣領家の館となると話は別で、長い年
月館として使うとすれば、栃木県小山市の、祇園城や鷲城の
ように、もう少し周囲で、小高い台地のような所を探した方
が、”下河辺本家の館跡”を発見する確率が、上がるのでは
ないだろうかと、直感的に感じられた。何れにしても、この
日は私の、大将棋系出土駒捜索活動の、記念すべき初日と、
位置づけられる日となった事だけは、よって確かではある。
(2017/01/21)