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埼玉県松伏町上赤岩埋蔵金を束ねていた藁の謎(長さん)

 さきほど、埼玉県北葛飾郡松伏町発行の、歴史の旅、まつぶし
第3号を読み返してみて気が付いた事が有る。同町の上赤岩で
発見された埋蔵金は、40cmの深さの、水は明らかに、湧き出
ていない地面の土の中から、出土したにも係わらず、互いに融着
した銭に、

藁が通されたままの状態で発見されているのだ。なお、この
埋蔵金は、どうみても、地面に埋められてから出土した、
1979年時点で、550年以上は、経つものである。

つまり「足利持氏が公方だった時代までには、鎌倉府の、下河辺
荘における、称名寺の荘園に対する対応は、だいぶ整理され、
扱いが安定して来ていた」と言うから「西暦1429年より以降
の、年貢米換金銭の秘蔵」というのも、考えにくいのではないか
と私は思う。
ところで、ここで問題なのは言うまでも無く埋蔵金ではなくて、

それを束ねていた、セルロース製の「藁」が、紐として何故
550年以上も、普通の地面の中で、腐らなかったのか、

ということである。つまりこの場合、将棋史の研究家にとって、
大切なのは、埋蔵金よりは、藁で出来た紐の方だといえると思う。

腐らなかった理由は恐らく、銅貨が防腐剤の代りをしたのではな
いか、

と私は思う。つまり、水中で草木が腐りにくいだけでなく、銅等
の防腐剤の役目をする物品に、板切れが覆われていると、数百年
もつ事も、場合によっては期待できるかもしれないという事だと、
私は思う。このことから、

ひょっとすると、将棋の駒箱が銅箱で、その箱の中に、木製の将
棋駒が、銅粉が付着し易いように、ぎっしりと収められているよ
うな遺物が、仮に有るとすると、水中に無くても、駒が原形を、
とどめる可能性が有る

と、私には思えてくる。”井戸に落ちた将棋駒”と言うと、掘ら
なければ出てこないのが自明であるが、ひょっとすると、銅製の
ケース入りの将棋の駒が有るとすれば、それは、水中に無ければ、
絶対に残らないとまでは、言えないのではないかと、この赤岩埋
蔵金の紐を見て、私は注意させられたように思った。これは有る
意味、希望の持てる事実であるように私は思う。(2017/02/18)

焼津市西小川・小川城跡を検索してみる(長さん)

 栃木県小山市の小山城を見慣れている私の場合、城跡とは、
地図を見ただけで、その道路付きが”いかにも城がありそう”
というイメージが付きまとっている。しかしながら、開発が
進んで、区画整理がしっかりされてしまうと、以前の道の跡
は無くなってしまうらしく、静岡県焼津市西小川3丁目から
6丁目の間に有るという、戦国時代の長谷川氏の城、小川城
の場合は、道路を見て、そこに古城があると、気がつくこと
ができない。また、ここには天満宮も含めて、余り有力な神
社が、ある訳でもないようである。
 実際には私は行ったことが無いのだが。焼津市の中心部に
ほど近く、東海道線の駅からも、さほど離れていないため、
今は区画整理の後で、すっかり市街地になっている所なのだ
ろうと思う。
 そういえば、埼玉県北葛飾郡松伏町の場合も、長谷川氏と
同族で、その本家の住居跡が有るといわれる、下赤岩の近く
に、市街化した、”松伏”という所がある。松伏は松伏町の
中心地なので、道路はすっかり区画整理されている。しかし
ここも、それは最近の事であり、中世には赤岩も松伏も区別
は、さほど無かったのかもしれない。松伏町下赤岩も、特に
見てい無い、松伏町松伏や松伏町ゆめみ野も、これからは、
余り区別しないでチェックすべきだろうと、焼津市西小川の
小川城跡の例を見て、私は考えた。(2017/02/17)

”松伏町赤岩埋蔵金”の出土状況調査(長さん)

 昭和54年(1979年)、埼玉県松伏町上赤岩、中世の、
下河辺荘赤岩郷外河にて出土した、埋蔵金の出土状況を調査す
るため、西暦2000年3月に発行された「歴史の旅 まつぶ
し第3号」を、2月15日に入手し調査した。特に知りたかっ
たのは、そもそもどのくらい掘らないと、この界隈では遺物が
出ないのかと言う事である。「歴史の旅 まつぶし」の中世遺
跡調査部会の見解によると、”通常中世の遺物が、この界隈で
は、メーターオーダーの掘り込みをしないと、遺物の層には達
しないとされる”所、この埋蔵金については例外で、”地下
約40cmという、破格に浅い地点から、4000枚強の小銭
がいっぺんに、コモのようなものでくるまれて、出土した”と
の旨の内容が、この文献には記載されていた。よって、
松伏町赤岩(上・下)周辺各地の遺物については、

 造成工事中に、埋蔵物が移動するなどして深度が浅くなり、
地表付近に浮かんだり、極端な場合には、地表に露出する事が、
時にありえる

と解釈できそうである。
 現在私もこの一帯、前回話題にした、長谷川平蔵の先祖の、
静岡県焼津市小川城の城主、長谷川氏の本家である、下河辺氏
本家の館跡が有るとも、webには記載されている、埼玉県
北勝葛飾郡松伏町赤岩(上・下)を含めて、埼玉県北葛飾郡
松伏町、埼玉県吉川市北部を、見て回っているのだが、その際、
単に地表を探しているだけで、掘り込みは一切していない状態
である。しかしこの記事を読む限り、埼玉県南部は、特に近年、
宅地開発で造成地が多いため、

 歩いて遺物を探すだけでも、長谷川平蔵の祖先関連の将棋に
関連する、遺物の手がかりを得るには、何もやらないよりは、
それをするだけでも、やった方がずっとまし

との印象を、この松伏町の歴史広報から、私は読み取れた。
なお、記事をザッと読む限り、年貢米を換金した銭、重量で、
約13kgを地中に埋蔵したのは、明の洪武通宝が含まれてい
ることから、早くても西暦1368年以降、南北朝時代後期の
鎌倉公方、足利氏満の時代頃の、話のようである。つまり小山
義政の乱を収めて、下河辺荘を当時平定したとされる鎌倉公方、
足利氏満へ、従うふりはしているが、その恐らく、その過酷な
納税政策等を快く思わず、石高を小さく見せかけたいと考える、
荘園領主の称名寺や、有力農民が、資産隠しのために、銭の
一時埋設を行ったのではないか、との印象の書き方が、「歴史
の旅 まつぶし第3号」を読み、私には感じられた。なお、
出土した時点での、4000枚強の銅銭の状態は、必ずしも良
くないという。つまり重ねて束ねられた銭が、百枚程度の、
何とか剥がせた銭を除いて、互いに、溶着した状態で見つかっ
たとされている。そのため、この埋蔵金の時価は、残念ながら、
さほど高額では無かったようである。(2017/02/16)

静岡県焼津市小川、小川城出土中将棋駒と、火付盗賊改長谷川平蔵および、徳川家治(長さん)

 テレビ時代劇「鬼平犯科帳」で有名な、江戸時代の藤原秀郷流長谷川氏
の子孫・長谷川平蔵(長谷川宣以)は、前に日光参拝で、栃木県小山市神
鳥谷曲輪摩訶大大将棋・角行駒との繋がりが淡く予想された、江戸時代の
第十代将軍、徳川家治から次の代の家斉の時代の人物である。そればかり
ではなく、webの情報からも明らかな通り、彼は、

江戸宝暦~天明期の徳川家治の時代の、女流棋士として知られる戸田おく
らの兄である、戸田倉之助と同じ、書院番の職場に1年間だけだが、居た
事がある。

しかも、その時期は、老中田沼意次の陣頭指揮で、徳川家治が日光参拝を
行った時期にごく近い、2年前~1年前の事だった。更に徳川家治の日光
参拝の時期には、西の丸仮御進物番となり、田沼意次への、賄賂を取り次
ぐ役目をはたしていたとされる。つまり徳川家治の日光参拝の頃には、
長谷川平蔵と、田沼意次とは、きわめて親密な関係だったのである。
むろん田沼意次が、将棋将軍徳川家治の腹心の部下であった事は、余りに
も有名であるから、

徳川家治、田沼意次、長谷川平蔵、戸田おくら、これらの人物間には、将
棋という線でも、つながりがあるのではないかと、疑われるのである。

他方、長谷川平蔵の祖先は、静岡県焼津の小川城の城主であり、ここから
は、駒数多数系の将棋である、中将棋駒が二枚出土している。

よって、長谷川平蔵が「南北朝時代には、水無瀬兼成の将棋部類抄の、摩
訶大大将棋のごときの、駒数が多く、盤升目が361升目の将棋が指され
ていた」というような、長谷川家先祖よりの将棋史に関する情報を持って
いて、それが、西暦1775~6年頃に、田沼意次経由で、小山市神鳥谷
曲輪の当時、新義真言宗の末寺で、室町時代には尼寺であったと伝わる、
小山市の青蓮寺にほのめかされると、住職も、長谷川平蔵と同系統の種族
だったため、小山市の天満宮別当の関係で繋がりがある、曼殊院よりさっ
そく水無瀬の将棋部類抄を入手、調査の上で、栃木県小山市神鳥谷曲輪、
2007年出土の裏一文字金角行駒を作成。その結果結局、

中将棋を指していたと見られる、静岡県焼津市小川城城主の子孫である、
長谷川平蔵の情報を元に、小山市神鳥谷曲輪出土の、裏一文字金角行駒が、
巡りめぐって製作される、そんなつながりの可能性が、示唆されていると
いう事なのかもしれない。

あるいは、田沼意次の示唆で「栃木県小山市神鳥谷曲輪、摩訶大大将棋の
駒」が作成された際、小山市の青蓮寺の住職からの、将棋史に関する情報
を、田沼意次は聞き取った後で、長谷川平蔵に、問いただして裏を取った
のかもしれない。何れにしても田沼意次、長谷川平蔵、小山市の青蓮寺住
職間の情報交換の過程で、妻や娘を亡くした直後で、失意の将棋将軍、徳
川家治を慰めるため、栃木県小山市神鳥谷曲輪の、日光街道ほぼ沿いの、
青蓮寺に、南北時代風の”守護大名や近世大名等、大名類の姫様の三面の
意味の将棋駒”が、陳列される事になったのだろう。法事の際に、徳川家
康や家光の供養だけでなく、徳川家治自身の妻や、尾張徳川の徳川治休に
嫁ぐはずが、病死した次女の供養のために、そこに案内され、徳川家治は、
”田沼意次の日光参拝の法事は上首尾だ”と、評価したと当然見られる。
つまり、

このイベントのほぼ直後から、田沼時代を出現させる一要因となったのか
もしれない、摩訶大大将棋風角行駒の”作品”は、こういう経緯で”この
ときに出来上がった”可能性も、あるいはあるという事なのかもしれない。

 以上のように長谷川平蔵は、晩年の火付盗賊改の時代の活動や、人足寄
場の建設の業績が更に著名だが、彼が若かった徳川家治の時代には、同じ
職場、書院番の同僚の妹で、当時徳川家治の将棋仲間である事で知られた、
戸田おくらの存在は、同然知って、徳川家治の好きな将棋史に、彼自身も
興味を持っていたに違いない。そのため、その1~2年後、そのときの上
司の田沼意次に頼まれれば、西の丸仮御進物番の時代に、焼津駒出土の小
川城城主の子孫として、将棋史に関する情報提供者としての、何らかの将
棋史への関与が、ひょっとすると、あったのかもしれない。つまり彼の、
先祖から受け継いだ、将棋の歴史に関する知識能力が生み出した、何らか
の遺物の存在を、その出自からみて、期待を一応しても良いのではないか
と私は考えるのである。(2017/02/14)

埼玉県吉川市(上・下)内川付近の様子Ⅱ(長さん)

 前回に引き続いて、下河辺荘赤岩郷内河の現在の地名で、
埼玉県吉川市上・下内川の、特に下内川の大岩神社付近の
様子を、2017年2月12日に、チェックした。

周りは田んぼで、集落自体がごく小さい。土器の破片等、
古い住居跡の痕跡は、ここには特に無いようである。

調査は、前述の大岩神社と正覚寺の周りを中心に行った。
目に付いたものとしては、岡田ゴムという工場の近くに
小さな墓地があり、地蔵の彫り物の入った石碑が何体か、
立っているが、製作年が、戦国時代、1530年代の天文
年間となっており、たいへん古かった。ただし、それ以上
古い物品が、地上に出ているという証拠は、残念ながら発
見できなかった。
 また、下河辺荘赤岩郷の、内河と外河のちょうど中間に、
現在の地名で、埼玉県吉川市南広島という場所があり、
そこも見た。恐らく室町時代には湿地中州のような地名で
あるが、ここにも特にヒトケは無いようだ。

ひょつとして、もともとこのへんにあった中世の土器破片
等が、庄内古川(現・中川)の氾濫で流されて、現在は、
吉川市川藤榎戸や同須賀に、集積しているのであろうか?
(2017/02/14)

埼玉県吉川市(上・下)内川付近の様子Ⅰ(長さん)

 吉川市史によると、遺物の出土は近世の河川の開発のため
期待できないとされる、下河辺荘赤岩郷内河の現在の地名で
ある、埼玉県吉川市上・下内川の様子を、2月11日に、や
や遠方から眺めてみた。

 下河辺荘赤岩郷外河の現在の地名である、埼玉県北葛飾郡
松伏町下赤岩といっしょで、いっけんでは、何ともいえない
と思われた。

「見るからに、整地した後」とまでは、いえないようなとこ
ろと思う。今回観察者の居る場所は、下内川からやや南の、
吉川市八子新田という所である。なお、ここの八幡神社は、
地図上の道路の様子が、長方形の中に正方形2つの入り子で
やや怪しく、この界隈では、一番遺物がありそうだと思って
見に行ったのだが、この周りについては神社は近世の作り物
で、八子新田周辺からは、遺物は出そうに無かった。埼玉県
吉川市の中でも「○○新田」という場所は、かなり新しい
開発地なのであろう。
 さてこの埼玉県吉川市八子新田から北を眺めると、遠くま
でかなり見通しが利き、吉川市下内川付近は水田が続く中に、
民家が点在する場所である事が判った。東には大きく江戸川
の堤防が見えるが、それを除くと、普通の田園地帯と言って
よい。たぶん、実際に行って、細かく見てみないと、何とも
いえないのは、松伏町下赤岩と、大差が無いように思った。

近代と違って、江戸時代の開発では、それまでの痕跡を、す
べて消し去るとまでは、行かなかったようにも見えた。ので、
江戸時代に造成した場所も一応調べてみる価値はありそうだ。

 たぶん、吉川市下内川の大岩神社付近が、調査の中心点に
なると思うのだが。近々、現場そのものをチェックして見よ
うと思う。(2017/02/13)

元荒川流域の城跡、埼玉県越谷市大相模不動尊(長さん)

前に「埼玉県南東部、古利根川等河川流域等に、将棋の駒
が出土しそうな、城跡を地図上では発見できない」と述べ
たが、その後、よく調べてみると、市街地の目新しい道路
に埋もれながらもかろうじて、古利根川南西部の元荒川流
域、埼玉県越谷市相模町六丁目不動橋南西地点に、道路が
方形の、城跡を連想させるところがあるのに、気がついた。
大相模不動尊と俗称される、大聖寺という寺を中心とする、
地点である。
 2017年2月11日に、さっそく訪れて見ると、そこ
は、徳川家康が、関が原の戦いのときに、戦勝祈願をした
事等で知られる、結構有名な寺であった。戦国時代から、
江戸初期に特に盛んだった寺のようである。敷地は方形で、

まさしく土塁が、かろうじて残され、砦の跡であった。

今まで古利根川付近には城が無いとのイメージの強かった、
私も正直、ようやく城らしい跡にたどりついてほっとした。
ただし、歴史は後北条氏と源頼光流太田氏(武蔵国の上杉
氏の家臣、太田道灌が有名)との間の、関東における覇権
争いのあった、戦国時代に遡れる程度で、室町時代には達
せず、下河辺氏とはつながらない。

後世に寺になったのだろうが、元々は、恐らく戦国時代に
は戦陣にも使われた館の跡のようである。

ただし、土塁は元荒川の直ぐ隣で、洪水で流れそうなとこ
ろなのに、しっかり残っている。このへんの河川の岸に、
あった城が、洪水で流されたとしても、もともと城が有る
のであれば、土塁と判る程度には、跡が残るのではないか、
との私の考えに、自信が持てる例に、やっと出合ったよう
な気がした。なお、徳川家康時代より名乗るようになった
この寺”大聖寺”には、今も各種の古文書や遺物が保管さ
れており、発掘せずとも、貴重な史料が現存すると、境内
の建て看板にて、紹介されていた。(2017/02/12)

埼玉県吉川市の市史を読む(長さん)

 さいきん、静岡県焼津市小川の中将棋出土遺跡、小川城遺跡
の主、藤原秀郷流長谷川氏の本家、下河辺氏の、埼玉県南部の、
伝説的な館跡に関連して、埼玉県吉川市編纂の吉川市史に、
接する機会があった。具体的には、通史、および古代・中世史
資料編をざっと眺めた。吉川市市史によると、下河辺氏本家の
住居跡の地とも伝わる、埼玉県北葛飾郡松伏町の、下赤岩を中
心とする、下河辺荘の赤岩郷は、中世史の史料として、この界
隈では充実した記載が、多数残されているとの事らしい。
 ただし吉川市史・通史によると、この地区の下河辺本家によ
る管理は、平安時代末期から鎌倉時代初期の三浦氏の乱ころま
での数十年程度の、行平~行光の短い期間内に限られ、古代中
世史料を見る限り、主には北条氏の分家の金沢氏や、金沢氏ゆ
かりで、彼らが領地を寄進した寺、称名寺の領地であった時代
が、建武新政まで続いたようである。その後は、小山氏の本家、
小山義政らが、支配力を強めながら、北条氏勢力の残党と南北
朝時代に戦うものの、小山氏一族の領地への復活は、果たされ
ず、のちに1380年~82年の小山義政の乱以降は、金沢氏
から鎌倉公方方に、旨いこと鞍替えした、称名寺の勢力圏内へ、
再び返り咲いたという事のようだ。

 つまり、下河辺本家の館ができるほどの、下河辺氏系の定住
が、埼玉県北葛飾郡松伏町下・上赤岩に有ったかどうか、いま
いち不明という訳で、館が万が一、将来見つかっても、例えば、
北条氏関連の金沢氏の、年貢取り立て用の代官屋敷であると
いう事になる

のではないかと、通史を読んだ限り、私には疑われた。
なお、吉川市市史、通史によれば松伏町下・上赤岩については、
過去の発掘で、大量の、年貢を換金して、ストックした金品と
見られる”埋蔵金が発掘で出た”というので、有名らしい。
ちなみに、吉川市川藤榎戸と須賀も、鎌倉時代頃、下河辺荘の
赤岩郷の下・上赤岩地区に含まれていたと、吉川市市史執筆者
は、推定している。

つまり松伏町で出た埋蔵金の一部は、本来吉川市の物と言う事
になるのだろうか。

なお、松伏町町史には、当然かもしれないが「下河辺荘赤岩郷
の下・上赤岩の村域は全部、松伏町の領域内だけで構成されて
いた」と書いてある。
ちなみにどういうわけか、この「埋蔵金話」は、WEB上には、
どこにも書いていないように、私には認識される。もっとも、
私にとっては、以下の話の方が重要だが。ほかに木簡の出土も、
同じ発掘のとき、恐らく水没した部分から、有ったようである。
つまり、松伏町下・上赤岩については、実際には本格的発掘で、
遺物の出土は既に、かなりの量あり、かつ、

発掘は相当昔に、だいたい終わっているようだ。

またこの界隈は、過去に中川の付け替えが行われ、中川が南北
直線で、古利根川に合流するようになったのは、大正時代以降。
またこれとは別だが、江戸時代に江戸川が整備されたため、江
戸時代のその時点で、赤岩郷の中川沿いの寺院関連の建造物が、
埼玉県北葛飾郡松伏町・埼玉県吉川市と、千葉県流山市との境
の、江戸川の近くの特定の場所へ、移動されたとも言う。ただ
し、この旧跡の移動は、赤岩郷でも、下・上赤岩地区には影響
せず、同じ赤岩郷の別の場所、赤岩郷内河という所で、江戸川
形成により、江戸時代に起こった事態だったようだ。なお、埋
蔵金の出た下・上赤岩付近は、正式には「赤岩郷外河」と言う
らしい。ただし、

下河辺氏の館が、埼玉県吉川市下・上内川と特定される、
千葉県流山市に近い、”下河辺荘赤岩郷内河”には無かったと
いう、保証はどこにも無い。同じ赤岩郷でも、内河の方は、
現在は江戸川の河川敷にあり、ゴルフ場になって消滅したり、
水没して、遺物が流出、そして消滅したとされる。

 他方吉川市市史には、”松伏町下・上赤岩には、中世遺跡が
よく残されている”と、書いてある。がなぜ、吉川市川藤榎戸
のように、土器の破片が多くなく、ヒトの気配が、余り感じら
れないのか、私には良くわからない。なお、私が見た限り、
少なくとも埼玉県吉川市川藤榎戸の、江戸時代の寺院関係の
建造物の、別の場所への移動は、特に行われてはいないように
見える。

だから、吉川市川藤・須賀が”かすかな望み”と言った所なの
だろうか。

 更に良く考えてみると。下河辺氏が栃木県小山市を中心とす
る、栃木県の下野小山氏の、兄弟格と言う事ならば、下河辺家
の殿様、下河辺行平や、その次男かと見られる、下河辺行光は、
家族で一緒に、下河辺荘野方の、茨城県古河市の古河城付近に、
鎌倉時代を通して、居るのが自然なように私には思える。その
下河辺氏の本家筋が、あえて水浸しの「下河辺荘赤岩郷に、
年貢米運搬所ではなくて、中心的屋敷を、わざわざ造って住ん
でいた」のか。その話自体に、そもそも謎が、全く無いとは言
えないと思う。そこで、埼玉県吉川市の、吉川市史を読んだ印
象では、近代どころか、同じ中世の150年後の南北朝時代中
期・小山義政の時代の頃であっても、館(城)の存在自体が、
既に、伝説化していたのではないかと、私には思えて来る。つ
まり、場所の特定以前に、住居館の存在自体が、ホントに有っ
た話なのかと思えるほど、実は「埼玉県南部に下河辺氏本家館
跡が有り」との話には、相当な不確実性が、付きまとっている
のである。(2017/02/11)

松伏町大川戸光厳寺付近の調査(長さん)

 中将棋の駒を出土させた、静岡県焼津市の小川城の長谷川氏
の本家である、下河辺氏の館が、埼玉県北葛飾郡松伏町の下赤
岩にあるともされるのだが、その下河辺氏は下河辺行義の代に、
総本家の小山政光と兄弟の関係になる。父親の名前に、不確定
性があるが、太田行政とも伝えられ、太田行政の長男が、小山
政光、三男が、下河辺行義である。なお、静岡県焼津の藤原秀
郷流長谷川氏は、下河辺行義の次男の更に分家である。他方、
太田行政には弟に、大河戸行光がおり、代々、大河戸氏を名乗
る。この下河辺行義の叔父の本家の館が、下河辺本家の館と
同様、埼玉県北葛飾郡松伏町の下赤岩の約3.5km北の、
埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸の、光厳寺付近にあるというので、
2017年2月8日午後にチェックした。結果確かに光厳寺に
は、松伏町の教育委員会あたりが、昔建てたらしい、「この付
近に、大河戸氏の館有りと伝わる」との旨の、建て看板が立っ
ていた。ただし残念ながら、大河戸の館の存在を示唆するよう
な物的証拠は、少なくともこの光厳寺の周辺には特に無いよう
に、私には見えた。

 むしろ、ここから400m位北にある、松伏町大川戸の
八幡神社(はちまんじんじゃ)の境内に、神社の紋の入った屋
根瓦が、落下した後に、2017年2月現在、本殿裏の回廊に、
野ざらしで放置されていた。そしてその神社紋が、小山氏の家
紋と同じ”二つ巴紋”であるため、松伏町大川戸北端付近の
八幡神社周辺に「付近が大河戸氏の領地跡」らしさを、私は
むしろ感じた。

なお、大河戸氏の家紋は、二つ巴ではなくて、菊であるともい
われ、仔細は良くわからない。他方光厳寺の周辺は、松伏町
下赤岩の香取神社同様、私には強いヒトケも、特には感じられ
ない。ただし、光厳寺の南西50mの古利根川の川原近くに、
道路幅程度の空地があり、石碑の基礎が散乱していた。個人的
には、船着場の跡を連想させるような、風景だった。なお、
光厳寺の建て看板によると、この寺南西50m地点には以前、
仏教界への入信記念碑(帰依)の旨の石碑が立っていたといい、
同様な物は、大川戸の光厳寺から南へ2.5km程度離れた、
同じく松伏町上赤岩の源光寺にも現存するとの説明があった。
大川戸の光厳寺や、上赤岩の源光寺は、古利根川沿いである事
が共通であり、地形から見ると、鎌倉時代頃から、点々と
荷下しをする、船着場が作られていた事を示しているような、
感じも私にはする。

以上の事から、松伏町大川戸にしても松伏町下赤岩にしても、
吉川市川藤榎戸ほどには、中・近世の大勢のヒトの居住地とは、
特に感じられない所のよう

に、今の所私には思える。(2017/02/10)

溝口和彦さんの訃報(長さん)

 神奈川県にお住まいの将棋史研究家、溝口和彦さんが、今年(2017
年)の1月16日に亡くなられた事が、御自身のブログで明らかにされた。
享年65歳であった。溝口さんは、亡くなる間近まで、自身のブログにて、
彼の将棋史の研究結果を、公表され続けていた。興味分野の近い、大きな
仲間を失ったという悲しみが、真っ先に私を襲った。
 溝口さんには、一度”摩訶大大将棋連盟の集会”で、お会いした事が
あったが、普段は私の、彼のブログへの、調子のおかしい書き込みに対し、
辛抱強いコメントを頂戴するというのが定番で、御迷惑を多々おかけした。
寛容のある方で、巡り合った後は、終生私のような者に対しても、気さく
に御相手をしてくださっていた。誠にありがたいことであった。
さて、溝口氏の将棋史への業績として、

15×15升目114枚制普通唱導集大将棋の発表。

これだけは落とさず、今以降いつまでも記憶して置く必要がある。
 これは従来の「普通唱導集の大将棋に現れる駒種から、既存の13×
13升目68枚制の平安大将棋、15×15升目130枚制の後期大将棋
からの2択で、この唱導集の内容は、後期大将棋の説明である」とする説
に、溝口氏は飽き足らず、彼の言い分によれば、「強い駒に関する記載が
無い」とのその内容から、「飛車駒を最も強い駒とする、第3の大将棋に
ついての言及である」と結論した、歴代3種以上の大将棋の存在を、初め
てはっきり示唆した、エポックメイキングとなった考え方であった。
 また、この事は、比較的短い普通唱導集の大将棋の記載には、それが、
どんなルール、特に、初期配列をとった将棋種なのか、よく読めば、それ
さえ、かなり推定できる、巧みな表現である事を、我々研究家に気づかさ
せ、この唱導集の大将棋部分の記載が、以降研究家に精査されるようにな
った、きっかけとも言うべき提案であった。
mizozen.gif
 ちなみに、上に全体図を示したが、一方の棋士の分を拡大すると、以下
のようになり、溝口氏によって、普通唱導集の大将棋の駒の初期配列は、
以下のようであるだろうと、当時提案された。
MVC-0007.gif
彼の普通唱導集大将棋の特徴は、既に述べたように飛車より強い、獅子、
奔王、龍王、龍馬等が無いという点と、平安大将棋に有る駒は、同系統の
駒が、全部普通唱導集には有るが、後期大将棋に有って、彼の普通唱導集
大将棋には、無い駒が有るという特徴がある。
 つまり、彼の普通唱導集大将棋は、平安大将棋と、後期大将棋の、
中間型のような形をしている。この事は、平安大将棋の記録が西暦
1200年頃、後期大将棋の初期配列の初出が、どう早く見積もっても、
成文化されたとされる間接記録で、西暦1400年以前には遡れず、
そして、普通唱導集の大将棋の記録自体が、西暦1300年程度である事
を考えると、少なくとも直感的理屈としては、言われてしまえは、至極
有り得る様な、もっともな説となっていた。
そして、実にそれ以降の

大将棋の研究の隆盛は、基本的に彼の、この提案のおかげと言ってよい。

すなわち従来、後期大将棋と平安大将棋が、足の軽い、特に8段型平安小
将棋と、双璧をなしたゲームの割には、妙に軽快さが無い、のろまな流れ
の将棋になる事は、将棋史研究家なら、恐らく誰も、内心不思議に思われ
てきた。そしてそのうさん臭さから、大将棋の研究へ、立ち向かわせるこ
とを暗に避けさせる、根本原因になってきた。溝口さんの提案は、
黄金時代の大将棋の中間種の方が、ひょっとすると絶滅期の大将棋である、
後期大将棋よりも、足の軽いタッチのゲームが出来うるルールに、なって
いたのかもしれないという、可能性を考えさせるきっかけを作ったのであ
り、結局その壁を打ち破ぶる、礎となってくれたものだったのである。
よって、

溝口和彦氏を”大将棋研究の父”と呼んでも、あながち全く無謀とまでは、
到底言えまい。

なお、溝口氏の業績もろもろについては、更に折を見て今後も触れ続ける。
残された場末な者である私としては、今は謹んで彼の御冥福を、ただただ
お祈り致したいと、表明できるのみで、多くを語る気力も起きない。(2017/02/09)