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埼玉県吉川市川藤字榎戸・須賀の環境(長さん)

前々回までの調査で、埼玉県吉川市の、現在の中川の西の張り
出した場所、川藤・須賀・川野のうち、川藤と須賀の境で西の
方に、主として土器と疑われる陶器の細かい破片が、多数散乱
している事が判ったと述べた。そこでこの領域が、全般として
どういう場所なのか、webの古文書の紹介サイト等で、更に
調査の上、現地の環境を更に調べた。
 この地域のうち、北40%の吉川市川藤の部分は、字名で
”榎戸”と言い、いっけんして川岸を連想させる場所のようで
ある。この場所での中心は、近世、川藤榎戸400番地にある、
宝性寺という、真言宗智山派の寺だったようだ。なお、宝性寺
という寺の名前では、栃木県足利市にある、青蓮山宝性寺とい
う、同じく真言宗豊山派の寺が、古くからある。”宝性寺”と
いう名前は、何れにしても、真言宗系の寺の名前なのであろう。
 ここの宝性寺は、社務所と倉庫の簡単な建物があるだけで、
現在は、さほど盛んな寺には見えない。ただし、昔はこの地域
のかなりの領域を占めていたようで、現在の中川沿いの吉川市
須賀にすこし入った所の”香取神社(三)”という町の鎮守を、
昔は支配していたとの事である。かなり屋敷の立派な農家も、
須賀の真ん中のあたりにはあるため、全域が寺の敷地では無い
にしても、東西に300m、南北に200m、2万坪前後の敷
地が、かつては有ったに違いない。事実、この地域の所々には、
御坊の跡を示すような、道端に墓石が2~3つ置かれた道しる
べに見えるものがある。
 その他の古い墓碑の散乱も地域内にはあり、その年号から、
近世には、真言宗の寺である宝性寺を中心に、川藤榎戸や須賀
に、住居が点在している領域だったと、ただちに推定できる。
ざっと見た限り、最も古い散乱墓碑は、驚くほど古いのに彫刻
が鮮明で、元禄時代のもののようである。なお宝性寺の境内が、
近世には、もっと広かったらしい別の証拠としては、近くの、
兼業農家か会社員が住むとみられる、近代的な住居の庭に、
2階家の高さほども有る、りっぱな十三重塔が建っている事も
挙げられる。恐らく先祖代々ここに住む、少なくとも寺の関係
者と、ある程度の血縁の有る方等は、寺から敷地を購入した後
も、元々は寺にあった施設は撤去せずに、ここでは、そのまま
残して住むという、土地柄なのであろう。
 ちなみに、ここに比べて、北隣の下河辺本家の住居跡の有力
候補、埼玉県松伏町下赤岩が、名刹の存在で、劣っている訳で
はない。松伏町下赤岩にも真言宗の寺院で、東陽寺という寺が
あり、現在の規模は、吉川市川藤榎戸の宝性寺よりも、むしろ
勝っている。なお、この寺の西にある松伏町下赤岩の香取神社
が、字”屋敷附”で下河辺氏本家の屋敷中心の有力候補である。
しかしこの、東陽寺と、松伏町下赤岩の方の香取神社との関係
は、私には良くわからない。また松伏町下赤岩には、現在の
中川の東岸に、蓮福寺、東泉寺という別の寺もあり、それぞれ
墓が多数ある。
 だが比較すると、焼物の遺物の散乱状態は、吉川市川藤榎戸
の西の方が、松伏町下赤岩屋敷附より、やや勝っているような
気がする。そのため、下河辺本家の屋敷が、埼玉県吉川市川藤
榎戸と、同須賀の境付近にあった可能性も、昔の利根川つまり、
古くの中川の跡、および、現在の新方川の合流地点でも
あるため、簡単には、否定できないように、私は考える。ひょ
っとすると、吉川市川藤榎戸や吉川市須賀の、民家の廃井戸を
掘ると、木製品が続々と可能性が、かなり強いのではないだろ
うか。(2017/02/01)