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東京都港区愛宕下遺跡の裏二文字金将鉄将駒状木片(長さん)

 2017年2月25日、3年強前に出版された、考古学の成書
を読んでいて、web上では聞いたことの無い、「大将棋駒」が
書いてあるのに、仰天させられた。東京都港区の虎ノ門・新橋・
芝公園等に囲まれた愛宕で、恐らく2011年頃に、「大将棋駒
と特定される、成りが二文字の金将である、鉄将の駒に、大きさ
が近い木片が見つかっていた」と書かれていたのである。書籍の
名前は、

「事典・江戸の暮らしの考古学」2013年発行、執筆担当者は、
小平市教育委員会の小川望先生

である。なお書籍にはこの「将棋駒状木片」の図面も載っている。

形が特異で、五角形ではなくて、長方形の「将棋駒」である。

なお、個人的に私は、

この駒が「典型的な大将棋の駒」ととれる、小川先生の表現には、
賛成できない。以下に述べるように、”大将棋”の成りルールは、
不成りの説も強いし、更には、成りが一文字金で表現、表記され
ていなくて、ルールのまんまの、二文字金将なのが、”近世の将
棋駒の表現方法”として、余り見かけないものだからである。

 なお、この駒の出土した東京都港区愛宕下遺跡は、都心にあり、
高速道路の工事で破壊する前の発掘調査で、期間は長かったが、
多分出土は2011年頃。発表は、前記事典・江戸の暮らしの考
古学が発行される、少し前だったろう思う。webから察するに、
現在は、東京都市整備局が、現地で出土した別の遺跡といっしょ
に、保管していると思われる。
 また、この界隈に人が多く住みだしたのは、江戸時代初期であ
り、従って「遺物は江戸期のもの」と特定されている。武家屋敷
に居た人間の作のようだが、汚れており、もともとのできばえも、
今の出土物からは、もはや良くわからない。だから駒を”鉄将”
とした根拠も、やや弱い。”鉄”厳密には”鐵”の字の、ツクリ
の部分は、残念な事に、かなり擦れていて、読みにくくなってい
る。江戸時代だとすれば、”銀将”木片が出るというのが、常識
的に見て最も自然だと私は思うが、それにしても成りを、現代の
銀将駒とは全く違って崩さず、更に”金将”と書いている理由は、
やはり腑に落ちない。なお、駒名の”鉄将”の”鉄”に、間違い
ないかどうか、私は確認していない。疑いも持てると私見する。
書籍の図を見る限り、鉄の字が、旧字体の”鐵”ではなくて、本
当に、新字体の、”鉄”と認知されている疑いすらあるほど、字
ははっきりしない。なお、この駒が仮に”後期大将棋の鉄将の成
りが、金将である場合がある事を示している”のだとすれば、江
戸時代の将棋の本”将棋図式”の記載が、引用元は依然謎である
ものの、中身が一応正しかった事を証明する、初の物的証拠にな
るはずである。つまり江戸時代の古文書によると、この出土駒は、

「有る説」によると”(後期)大将棋の鉄将”だと言う事である。

 なお大将棋類でも、
天竺大将棋の鉄将は竪兵へ成り、
摩訶大大将棋の鉄将は奔鉄へ成り、
大大将棋と泰将棋の鉄将は不成り、
大局将棋の鉄将は大局将棋の白象へ成り、
更に先に述べたように、平安大将棋の鉄将の成りは不記載、
水無瀬兼成の将棋部類抄では、後期大将棋の鉄将は不成りである。
そして

「成りが、とにかくルール上”金将”である鉄将」というのは、
江戸時代の将棋本「将棋図式」で初めて、
「(後期大将棋の)鉄将は不成り。
ただし敵陣に入って、定説は不成りだが、ある説では金成りであ
るともされる。」という所でしか、”大将棋(類)駒の証拠”と
して、従来は、そもそも、サポートされていない情報

だったからである。
形が長方形だったからであろうか。はたまた鉄の字が擦れていた
ためであろうか。これだけの重大な情報を孕む遺物が、発表から
3年以上たった今でも、web上の遊戯史関連サイトで、まった
く言及された例が発見できないほど、情報が埋もれていたと思わ
れる事は、この将棋駒の存在を知らなかったのが、私だけではな
いとすれば、実に驚くべき事だったと言えると思う。(2017/02/26)