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埼玉県越谷市大松(おおまつ)の寺、清浄院(しょうじょういん)周辺調査(長さん)

「わが町の歴史越谷」および、webの情報から、戦国時代の
西暦1550年頃に、埼玉県越谷市の現在の古利根川西岸の寺、
清浄院に、高賢という坊さんが住んでいて、僧侶でありながら、
その領域を支配する、武家でもあったたという情報を得た。そ
こで、現在の埼玉県越谷市大松にある清浄院も、中世の館跡と
してみなして、3月28日に、周辺部を捜索した。

寺の西側に空き地があり、古い墓の破片とみられる、字の書い
てある石製の破片等を見かけたが、地上を見ただけでは、その
程度の手掛りがあるだけであった。

その他、同じ場所に前回訪れた際、字の書いてある瓦の破片が
散乱していた記憶もある。寺の古い墓碑の破片の周囲への散乱
とみられ、館跡の証拠とは、少なくとも言えないように思われ
た。寺に井戸跡があれば、掘れば近世の木製遺物の出土程度は、
恐らく充分に期待できるだろう。ただし、そもそもこの寺には、
江戸時代の石製の墓石は、一目して多数現存する。
 また当日は「埼玉県越谷市向畑の墓守堂が、上記越谷市大松
の清浄院の、現在も所有物である」との情報を入手したため、
墓守堂も武家館関連と見て、もう一度、周辺部を捜索した。
 実はwebの情報では、墓守堂を中心とする領域が、以前調
査した向畑(むかいばたけ)館跡ではなくて、そこから、
約300m西側が、向畑館跡、または新方(にいがた)館跡だ
という情報があり、船の沈没位置の捜索も、webの情報に基
づいて、この日にやり直した。その結果驚いた事には、

webの言う船の沈没位置の様子は、その約300m東の、
墓守堂の、対応する農道附きの部分と、ほぼそっくりだった。

つまり、同じような場所が、300m置いて2箇所見つかった、
という事である。違いは、整備済みの用水路が、web版の
船沈没予想地には存在するが、墓守堂北地点には、存在しない
点位である。どちらも、畑ではあるが、現在、栽培物等が、
ごちゃごちゃある場所である事には、なんら変わりがない。
だから、

すでに私が書いたコメントは、どちらの船沈没候補地点につい
ても、当てはまると思う。

 それ以上何も書かなかった方が、混乱も少ないかとも、上記
部分の書き込みには躊躇したが、一応結果を述べる。
 なお、当日webの方では、農家の方が畑仕事をしていたが、
高齢者だけで、若者の姿は、特に見当たらなかった。また文献
のように、確かに遺構は整備し尽くされた(web地点のケー
ス)か、または、存在しない(墓守堂地点のケース)が正しい
が、

webの言う船の沈没予想地点近くにも、文献の位置とは、
何れも合わない、対応する館周りの、時計回り90°ズレた
位相の互いに等しい位置に、似たような盛土のような物があり、
こっちは墓守堂北部のように、”低木”ではなくて、”笹”が
生えていた。

なおゴミは、”墓守堂”の方にはあるが、”web”の方には、
埋められてはい無い。よって、

埼玉県越谷市向畑の新方氏の戦国時代屋敷は、並んで複数軒
建てられていた事すら、現在でも判る程度に、何か残っている
可能性が依然有るのではないかと

と私には疑われた。なお、この周辺にも、墓石の破片のような、
何か字が書いてある、手のひらに乗る程度の、石製の小物が見
られた。墓守堂の古い墓石等の、石物の散乱ではないかと想像
された。

向畑館に関しては、「今は何も無い」と広報して、「行政は、
もはや何の手も、打たなくても良い」という、私に言わせると
”妙な空気作り”の手助けになる事だけは避けたいと私見した。

 何れにしても、越谷市大松の清浄院周辺と、越谷市向畑の
墓守堂の周辺とは、持ち主が同じなため、現在は似た状況に
あると考えて、どうやら良さそうである。(2017/03/29)