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西暦1992年頃美里町出土の五色宝塔に水晶玉宝塔が無い理由(長さん)

前回、埼玉県児玉郡美里町広木で、25年位前に出土した、金、金銅、銀、
銅、鉄の貴金属ミニュチュア宝塔(大きさチェスの駒並み)に、玉製とも
言える、水晶製の宝塔は、欠けた5種類である事を述べた。これらは、
大将棋の将駒のモデルとなった、人物達の墓石の象徴模型であるようにも
見え、平安時代から南北朝時代までの、大将棋に関連する品のようにも、
いっけんすると見えるのだが、やはり、玉将用が無いのが気になる所であ
る。ちなみに、この遺物の解説成書「埼玉の遺跡」には、水晶製の仏塔・
宝塔が、鎌倉時代に製作されている事が、これらの遺物との関連性として、
言及されている。そこで以下、この五色が大将棋の5将と、数が同じなの
を、だから偶然なのだと考えて、あきらめてしまわずに、この五色仏塔は、
大将棋の将駒に対応すると、なおも考え、水晶仏塔が、出土物に含まれな
かった理由を、以下追求してみた。結論を示すと、ようするにこれは、

武蔵七党の法事に使われた品のため、首領のもとに集団化していなかった、
武士団だった彼らには、玉将に当たる仏が、存在していないことを、ひょっ
として、厳格に表現しているのかもしれないと、私は思う。

なお、前回の所で、檀家を「児玉党ないし猪俣党」と表現したが、南北朝
時代には、鎌倉公方や関東管領によって、本来ばらばらな”党”は、一揆
として再編成されている。ので、法事の喪主・施主は、南北朝時代だとす
れば、”児玉党の有力者”ではなくて、「武蔵北白幡一揆の有力者」と、
表現すべきだった、かもしれない。何れにしても彼らはたとえば、当時の
関東管領の、上杉憲方の号令で、互いに並立に、軍事行動をとっているだ
けで、殿様がい無い。なので、法事で、有力者の墓模型を使うにしても、
玉将の墓、金将の墓、銀将の墓、銅将の墓、鉄将の墓とは表現せずに、
金将の墓、金銅将の墓、銀将の墓、銅将の墓、鉄将の墓と、現状に合わせ
て、”補正”したのが、結果として出土品になったと考えれば、説明が
できるのかもしれないという事だろう。つまり、美里町の五色宝塔は、
水晶宝塔が無いので、かえって武蔵七党の持ち物だったらしいと、確かに
なるのかもしれない。
 なお、「埼玉の遺跡」の解説によると、5色のうち金銅宝塔は、表面の
処理が、他の4塔に比べて手が込んでおり、金色と銀色が、モザイクに
なった配色だったのではないかと言う事である。つまり金銅宝塔は、
ランクとしては金と銀の間に挟まるらしい。
 さてその後、埼玉県児玉郡美里町の城跡について併せて調べてみたが、
猪俣小平太範綱の館が、猪俣の百八澄の会場になっている、美里町猪俣の
高台院付近にあるだけで、その他には有力な城館は無いとのことである。
なお、五色宝塔はたまたま、中世寺跡だとは判っていて、調査する理由は
有ったとはいえ、美里町猪俣の高台院よりは、なんと5キロも北西に離れ
た、猪俣小平太範綱の城の周囲を探す、とは表現しがたい、美里町でも、
かなり離れた広木で発掘されたと、調べてみて私にもわかった。なお、
美里町広木は、猪俣党の隣りの武族、児玉党の本拠の埼玉県本庄市の、
JR高崎線本庄駅からも、今度は逆に南東に10キロ位離れた所にある。
 よって本来、ここに武蔵七党の持ち物の出土を期待して、発掘するのは
不可能に近かろう。ほとんど当てずっぽうに、ほうぼう掘っていると、不
意に出たというイメージで、宝塔が発掘されたというのに、実際には近い
のではないか。この出土は、まるで神の手の仕業のように、私には思える。
(2017/05/29)