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平安大将棋から普通唱導集大将棋まで、升目数が無変化だった理由(長さん)

少なくとも、私の説では、鎌倉時代初期の平安大将棋から、鎌倉時代末期近くの
普通唱導集大将棋まで、大将棋の升目は13のままであった。なお、院政期に、
平安小将棋の9升目が最高の状態から、余り時間をかけずに13升目に増えたと
私は考えている。9升目から13升目に増やしたとき、少なくとも8×8升目制
の原始平安小将棋よりは、13×13升目の大将棋の方が、勝負がつくまでに手
数がかかって、定跡が見えにくくなると、デザイナーは考えたに違いないと思う。
なお、9升目制の平安小将棋は、局面が膠着しやすく、棋士の評判が悪かったと
考えられる。では、その後もっと升目の多い将棋を作る動きが、鎌倉時代の間は、
余り無いように見えるのは何故だろうか。結論から、いつものように書くと、次
の通りである。

盤升目を増やし、駒数を多くして勝負が着くまでの手数を多くしても、指し方の
コツが見えるときには、見えるものなのであり、複雑化の効果は、意外に出ない
のに気がついた

からである。従って、平安大将棋で3段目配列を恐らく、奔横を導入した時に、
4段目に変えた以外は、先人の批判をかわすため、駒を付加する事しか、実質
行われなかったのではないか。つまり、敢えて升目数を変化させて、別の盤升目
大将棋を作る事すら、ほぼ誰もしなかったのはないかと、私は考えるのである。
 ところで、岡野伸さんの1999年の著作「世界の主な将棋」のシャンチーの
歴史に、中国北宋時代の中国に、「盤升目を増やし、駒数を増すことによって、
象棋が面白くなると考える、一派があった」と記載されている。こういう一派の
存在は、日本での平安小将棋から、恐らく19升目の将棋を経由して、13升目
の平安大将棋の変化の時点での、デザイナーと考え方はいっしょである。だから、
中国にも、日本にも、そうした「将棋ゲームデザイナーの派閥」が有った事自体
は、事実だと私も考える。
 しかし、結果としては、その論自体、余り正しいとも言えなかったのかもしれ
ないと、私は思う。勝負が長時間続く事だけが、正しかったのではないか。
 ちなみに、鎌倉時代には、少なくとも私に言わせると、大将棋では強い駒を
導入するという、動きは続いたとみられる。中国には「強い駒を増やすと、増や
せば増やすほど面白くなる」と主張した、”西洋チェス派”の別の派閥が、居た
かどうかは、私には良くわからない。が、とにかく状況からすると、日本の大将
棋デザイナーが、強い駒を特に3段目に加えて、増やし続けた事は、確かなので
はないかと、私は考えている。
 では、この強い駒を増やし続けると、面白くなると主張する、日本の鎌倉時代
の、大将棋デザイナーの派閥の意見は、正しかったのであろうか。それに対して
は私は、

強い駒を導入すると言うのは、麻薬中毒といっしょで、中盤の特定の局面で、
それまで有った、強い駒が、取り捨て将棋で有るがゆえに、切れてしまうと、
急激に局面変化が鈍くなるので、その将棋種は”出来損ないだ”と、棋士に感じ
させてしまうので、駄目なのだ

と、私は個人的には思う。逆に言うと、初めから、隣接升目へ歩む駒ばかりの、
チェス・将棋型ゲームならば、局面変化が鈍いのに、棋士が慣れてしまえば、
最初から最後まで、一定だといえばそうなのであり、ひよっとしたら不満を
感じないのではないかと、私は疑う。つまり、強い駒の多い大将棋は、その

強い駒の数が中途半端だと、それが切れたときに禁断症状を、プレーヤーに
感じさせてしまうので、いったん強い駒を加えた大将棋は、終盤まで強い
駒が途切れないように、強い駒を増やし続けるしか、なくなるのではないか

と、私は考える。以上が、極めてザックリと言えば、走り駒として、香車、奔車、
飛龍、横行の有った平安大将棋から、仮説普通唱導集大将棋までの、大将棋の
変化だったのではないか。
 なお、終盤の駒枯れ問題や、”取り捨て将棋は、引き分けになりやすい”とい
う問題については、別途考える事にし、今は、以上の話とは、別に分けて考える
べき話とだけ、指摘しておきたいと、私は希望している。(2017/07/21)

11世紀初頭の大理国の立体駒に、前と後ろの区別のある根拠(長さん)

岡野伸氏著書、1999年自費出版の「世界の主な将棋」によると、チベッ
トに、チャンドラキという古将棋があり、ルールはシャトランジ型(副官が
中国象将棋、シャンチーの士型)だが、立体駒の形は写実的で、玉駒等には、
顔があるという。なお、同書にチャンドラキの詳しい解説は無いが、立体駒
はほぼ、モンゴルの現シャタルの形であると解説されている。
 以前私は、大理国で11世紀に指された原始平安小将棋は、西暦750年
に中国雲南省に、南詔国が存在した時代からあり、それ以前は、チベットを
通りインドから、直接伝わったのだろうと述べた。従って、チベット古将棋
のチャンドラキの駒が、イスラムのシャトランジや、中国シャンチー、朝鮮
半島チャンギと違って、イスラム教の影響を受けていないのならば、写実的
であるのは当然で、そこから来たゲームならば、雲南南詔~大理国の古将棋
の駒も、写実的であろうと、当然推定できると思う。すなわち分類としては、
西暦1010年頃に、日本の九州大宰府に上陸した、大理国の原始平安小将
棋の立体駒は、分類として、チベット古将棋のチャンドラキの類となり、

現存する駒としては、モンゴルのシャタルの駒の範疇に入るもの

だと私は推定する。
 そこでそれを理解したうえで、少なくとも、岡野伸さんのシャタルの駒の
イラストを見ると、

モンゴルのシャタルの駒には、人物や動物の類には、全て顔があって、目鼻
が付いていてその事からも前後の区別が、ほぼ全ての駒について可能である

と私は認識する。従って原始平安小将棋、藤原摂関用高級立体駒は、それを
始めて見る日本人が形だけを見れば、色(たとえば白黒)で、更に区別しな
くても、駒の前の側の向きを、相手に向けて対局する事にすれば、駒の向き
で、敵味方が区別できる事は、

原始平安小将棋、藤原摂関用高級立体駒を、仮に岡野伸さん紹介の、モンゴ
ルシャタルの立体駒に置き換えて、思考実験すれば当然可能と結論される

のではないかと、私は見るのである。従って、どんな将棋の駒を新たに考え
るにせよ、日本人には駒には前後の区別があるべきであり、敵味方を、駒の
向きで区別するのが当たり前と、当然認識させたであろうと、推定もできる
のである。
 なお、チベットのチャンドラキのルールは調べても確定しないが、駒の形
が近いと岡野氏が記載した、モンゴルのシャタルは、シャトランジ型である。
それに対して原始平安小将棋は、副官金将駒のルールからみて、4人制に移
行しやすい、チャトランガ型というように、モンゴルそして恐らくチベット
と、中国雲南とでは、ルールが合っていない。これは、シルクロードに面し
ているか、茶馬古道という、険しい山道を越えないと、通りに出ない山の奥
かの違いなのだろう。すなわち、木村義徳氏の「持駒使用の謎」のような
表現をするとすれば、シルクロードを通って、アラブのシャトランジが、東
アジアに、地理的には東向きに反射して伝わるという、将棋伝来の、チベッ
ト・ラサには有った、”第二波”が、雲南省の南詔国には、8世紀に届かな
かったからそうなったで、充分説明できると私は思う。
 ちなみに、上記のチベット将棋は、歴史的なものであるから問題は起こら
ないが、モンゴルのシャタルについては、何故中国シャンチーのように、イ
スラム教の影響を受けて、立体駒が現代までの間に、抽象化しなかったのか
を、岡野伸さんも、紹介した自著書で不思議がっているように、説明する必
要が出る。しかしこれは、私が思うに、そう難しい話ではないのではないか
と思う。すなわち、

中国と違って、モンゴルとイスラムの国とは、モンゴル帝国・蒙古(元)の
時代に、征服したり、衰退して領土を取り返されている仲

だからである。つまり中国と違い、モンゴルにはイスラムの大国と大規模な
戦闘をした経緯があるのである。そのため、モンゴル民族の領地内で、イス
ラム教文化を拡散させるのは、中国国内と異なり、かなり難しいのではない
かと私は考える。そのためモンゴルでは、チベットから伝わり、中国雲南で
は、大理国の滅亡と共に消えてしまった、写実的な象棋の立体駒が、イスラ
ム教排除の影響で、抽象化しなかったため、今も残っていると理解できると、
以上のように、私は考えるのである。(2017/07/20)

一乗谷朝倉氏遺跡、角行駒の過剰度(長さん)

前回の記載と前後するが、一乗谷朝倉氏遺跡の出土将棋駒について、”角行が多い”
と、前回私の書いた、詳しい状況について、以下記載する。たとえば、
天童市将棋資料館編の「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」(2003年版)に
よると、一乗谷朝倉氏遺跡から、その時点で、180枚の将棋駒が、発掘されて
いるという。そのうち、書いてある字の不明な遺物が、34枚程度あり、それを
除くと、全部で146枚程度になる。酔象以外が、定説のように全部日本将棋の駒
とみなせるとすれば、1を引いて20で割って、7.25人の競技者分の駒
(約3.63セット分)である。なお、酔象は1枚だけなので、もともと以下の
計算には、ほとんど影響しない。
 もし、公平に駒種が分布しているとすれば、
玉将3.6枚、王将3.6枚、金将14.5枚、銀将14.5枚、桂馬14.5枚
香車14.5枚、飛車7.3枚、角行07.3枚、歩兵65.3枚程度のはずである。
実際には、
玉将2.0枚、王将5.0枚、金将12.0枚、銀将11.0枚、桂馬15.0枚
香車17.0枚、飛車7.0枚、角行12.0枚、歩兵64.0枚
と、”理論値”と比べやすくするため、小数点以下桁数を、合わせて書くと、この
ようになる。以上のように、4.7枚過剰と、著しく差があるのは、確かに
一乗谷朝倉氏遺跡の将棋駒については、角行だけである。
 次に前に、興福寺出土駒の金将をチェックしたときと、同じ手法で、ポアソン分布
表で、7.3回出るのが平均のケースで、12回も出る確率を調べてみる。数表を
引くと、

約31回に1回と出る。これは、偶然にしては、やはり多いと見るべきではないか。

なお、10枚だったとすれば、12.5回に1回位になる。このケースは、角行
が二桁出土になったら、”角行を更に他所から集めてから、駒を捨てた理由”を
一応考えるべきだと、個人的には思う。ただ飛車が、ピタリと理論値に合っている
のは、前回私の述べた+角2型と、+飛車2+角2型が、偶然ほぼ同セット数、
たまたま有るとして、本当に良いのか。あるいは、角行が多い、別の訳を示唆
しているのか。これだけの情報からは、あまり詳しい事は判らないように私は思う。
(2017/07/19)

小将棋デザイナーは、いったい何を考えて酔象を導入したのか(長さん)

現在の定説では、西暦1500年の少し前、日本将棋と共に、酔象が初期
位置で、玉将の前升目にあった、朝倉小将棋というゲームが、一乗谷朝倉氏
遺跡付近で少なくとも、指されていたとされる。この将棋は、持ち駒ルール
でプレイすると、玉将が交換されるだけでなく、片方に玉駒が3枚存在して
しまう可能性があり、後奈良天皇により、天文年間、西暦1530年ころに、
日本将棋に改められたとも言う。では、そもそも西暦1300年頃には、
持ち駒ルールで、9×9升目36枚制平安小将棋標準型を指していたとみら
れる、小将棋の棋士やデザイナー等は、持ち駒制にしたとき、ディフェンス
も異常に強くなる太子成り酔象を、何を考えて玉の前に、わざわざ加えたの
であろうか。何時ものように答えを先に書くが、私は、

そもそも、玉駒の前に酔象を入れる9×9升目の将棋は、12×12升目の
中将棋指しが、日本将棋がベースでは無い、”取り捨てルールの”小型の
中将棋を指すつもりで、導入したのではないか

と疑う。ひょっとして、朝倉小将棋の類は、複数種類有ったとしても、全部
取り捨てルールであって、”持ち駒ルールのある、朝倉小将棋”というのは、
ほとんど指されてい無いのではないか。つまり、

後奈良天皇に、今更言われなくても、朝倉小将棋の類を考えたデザイナーは、
最初から取り捨てでしか、この将棋の類を実際にはする、つもりは無かった

という事である。そもそも、中将棋に太子に成る酔象が存在するのは、少な
くとも私の説では、普通唱導集時代の大将棋に、太子に成る酔象が、玉将の
前の升目に、配置されていたからである。その時代は、私の説によると、酔
象は、中国象棋のチャンチーの象と同じ動きであって、中将棋や後期大将棋
のような、盲虎と組み合わせての玉将守りの効果は、薄かった。なぜこんな
ムダな駒を、平安大将棋から13×13升目108枚制の仮説普通唱導集の
時代の大将棋に、加えたのかと言えば、

日本が仏教の強い国だったから、たまたまである

と私は考えている。ちなみに、私は太子とは、釈迦の意味であると取る。つ
まり、”王様(王将)が居なくても、釈迦が居れば、日本は潰れない国”と、
デザイナーは、言いたかったのであろう。成り麒麟の師子等、強い駒が多い
13×13升目108枚制仮説普通唱導集大将棋では、酔象が2升目動きだ
ったとしても、太子が出来る可能性は、そう大きくない、働きのはっきりし
ない駒だったろうと、私は推定している。
 なお、私は一乗谷朝倉氏遺跡では、実際には”42枚制の朝倉小将棋”を
指すよりも、次の”46枚制将棋”の方が、頻繁に指された可能性も、ある
のではないかと、最近は、個人的に疑っている。その将棋は、
向こう側の相手の駒を、こちらから見る向きで、初期配列を書くと、

一段目が、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車
二段目が、空升、空升、角行、飛車、酔象、飛車、角行、空升、空升
三段目が、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵

となるものである。なお、この将棋は、取り捨てで指す。
 そもそも、9×9升目の平安小将棋を取り捨てで指すつもりなら、日本将
棋のように、

角行を左桂馬の前に1枚だけは置かない

と、私は思う。1枚だと1手損位は覚悟の上で、しばしば”角替わり”して、
消えてしまうので、最初から無いような駒になってしまうからである。恐ら
く、駒数多数将棋のデザイナーの感覚なら、取り捨て型なら角行を、

平安大将棋流に、2枚桂馬の前に置くか、後期大将棋流に、相手香車の前升
目に当たるように、銀将の頭に角行を2枚置く

のではないだろうか。以上のように、角行は2枚づつ使う事が有ったと思う。
根拠は、一乗谷朝倉氏遺跡で、出土した角行駒の数が多いことである。そこ
でこの考えを、今少し推し進める。すると、酔象を導入する理由は結局、

角に加えて飛車の数も2倍にすると、玉が2枚無いと、守りきれないから

という事に行き着く。
 そこで以下、”飛車を更に入れる経過”を説明する。そもそも、平安小将
棋は、取り捨てルールだと当然だが、持ち駒を有りとしたとしても、攻め駒
が不足であった。そこで飛車・角の導入は、理にかなっていた。しかし、
持ち駒ルール有りなら、良い考えだったが、持ち駒なしルールのケースは、
角を左桂馬の前升目に1枚だけ配置するアイディアは、余り芳しくなかった。
そこで上に述べたように、繰り返すが、

角行を2枚、たとえば銀将の前升目に入れる取り捨て将棋も、しばしば指さ
れる事が、あるいは有ったのかもしれない。

その取り捨て将棋は、それで良かったが、中将棋の形から、更にその角二枚
制の9×9升目40枚制取り捨て平安小将棋+角2に、金将の前の升目に、
飛車を2枚加えた、9×9升目42枚制取り捨て平安小将棋+角2+飛車2
が試しに駒数多数棋指流に、指されたのかもしれない。ところがその、
9×9升目42枚制取り捨て平安小将棋+角2+飛車2は、今度は、攻撃力
が強すぎて、玉は簡単に詰んでしまった。そこで、後期大将棋では、玉の
前升目に酔象が加わる事を知っていた、中将棋棋士やデザイナーは、更に、

飛車角2枚に加えて、玉が2つになる可能性のある、成り太子酔象を、9升
目制の小将棋の玉将の前の升目に、加える事もあった

のではないか。つまり、酔象は、持ち駒日本将棋+酔象の使われ方ではなく
て、取り捨て平安小将棋+角2+飛車2+酔象の使われ方の方が、多かった
という事である。よって、一乗谷朝倉遺跡の出土駒については、たとえば、

両銀将の前升目に2つの角行を置く

という取り捨て制の小将棋を中心に、朝倉小将棋ではない、複数の小将棋が
指されいて、各種小将棋の戦国状態になってしまっていた可能性もあり得る
と、私は最近ふと思うように、なったのである。(2017/07/18)

誰が指しても良い事にして原始平安小将棋類は、いつからあるのか(長さん)

 元将棋博物館の館長の木村義徳氏は、インドにチャトランガが発生してか
ら、そう遠くない時期の相当古くから、日本に将棋が伝来していたと、「持
ち駒使用の謎」等で主張している。私の論も、日本の将棋は西暦1019年
頃より、との説であるので、木村氏の批判を浴びそうだ。しかし、私は将棋
自体は、もっと古くから日本に来ており、記録が残らなかったのは、”日本
では識字階級が指さなかった”からではなくて、伝来しても流行らなかった
からだと、考えている。では、私の言うように、大理国から8×8升目32
枚制玉金銀付き原始平安小将棋が、結果として流行るように伝来したとして、
それ自身は、何時中国雲南省で、発生したものなのであろうか。以下、これ
も私見であるが、まずは私の考えを書く。

南詔国が雲南に設立した、西暦750年の日本の奈良時代、中国の唐の時代
で、玄怪録が書かれる数十年前には、原始平安小将棋と言える、それに近い
将棋が発生していた

と、私は思う。ここで、”言える”とは、次の点が、日本に伝来した時点の
8×8升目32枚制原始平安小将棋とは、異なる点であるが、他は同じと
いう意味である。
1.駒の名称で将駒は3種類有ったが、玉・金・銀とは限らない。金将が玉
駒で、以下上将、象将等で有っても良い。駒が貴金属製なのは、大理国時代
の3種類ではなくて、2種類か1種類と、やや、しょぼかったかもしれない。
2.馬が八方桂、車が飛車のルールだった。
3.相手陣の3段目で成るのは、兵だけだった。
4.兵がもしかすると、相手駒を取るとき、斜め隣接升目に進んだ。

つまりは、日本の将棋で副官に当たる駒が、金将と同じく、隣接升目だけに
行けるのに加えて、行ける数がマークルックの4方向ではなくて、玉将の8
方向と銀将の5方向の中間、たとえば6方向になる事(1)と、駒の名称に、
将を着く駒が3種類ある(2)という点、立体駒が写実的だった(3)とい
う点を除けば、

ほとんど、今のマークルックと同じ将棋ゲーム

だったという事である。
将駒に貴金属の名がつくものの種類が少ないのは、雲南省大理市で、南詔国
の時代の遺物に、大理国の時代の三塔主塔の遺物のように、さまざまな素材
で、同じ物(仏像や仏塔)を作ったミニュチュアが、今の所発掘されていな
い、というのが、唯一の根拠である。
 恐らく雲南の8×8升目32枚制原始平安小将棋(八方桂等)は、インド
から、チベットを通って直接伝わったため、副官駒を、玉駒からの差を大き
くするような調整は、シャトランジのようには、行われなかったのだろう。
また南詔国も、仏教が厳格な点は、大理国と変わらなかったので、イスラム
教徒は、西暦750~1000年の間も、そこには、ほとんど居住していな
いため、立体駒は写実的だったのだろう。だから、副官駒のルールと、立体
駒が写実的な点が、後のマークルックとは、違っていたのだと私は推定する。
 そして原始平安小将棋と同じで、このゲームの性能は低かったが、前に述
べたように、山岳地帯で娯楽が少なかったのと、写実的で高価な駒で遊べる
ことが、南詔王侯イ族王族の階級トレンドだったので、8×8升目32枚制

原始平安小将棋(八方桂等)は、中国雲南では南詔国の存在と共にほぼ発生

し、唐の玄怪録の時代の数十年前には、既に指されていたのではあるまいか。
 そして、それが日本に伝来する可能性であるが、8×8升目32枚制原始
平安小将棋(八方桂等)は、実存在はするのであるから、日本に伝来する事
が絶対無いとは、当然言えない状況であった。たとえば、中国の文書に記載
されたものが、

日本の奈良時代中期の西暦750年以降、日本で実際に急激に盛んになった
西暦1019年までの約269年間に、散発的に伝来していた可能性もある

と私は私見する。しかし、日本の律令制度が西暦750年から10世紀頃ま
での250年弱の間については、少しづつ崩れてきたとは言え、

藤原氏の所有する荘園が増えて、都で優雅な暮らしをする貴族という階層が
発生

していなかったために、日本では贅沢は皇族に限られ、庶民には、それは高
嶺の花で、存在しても皇族のみが指し、自分に無縁という意識が、平安中期
の王朝絵巻物の時代までは支配していた事。及び”8×8升目32枚制原始
平安小将棋用五角形板駒で兵法を学習して、西暦1019年の刀伊の入寇の
おり等に、外戦で活躍すれば、今度は黄金の、8×8升目32枚制原始平安
小将棋用立体駒で、都で貴族として遊んで暮らせるような身分に、のし上れ
る”、という夢を、国境警備の九州大宰府武士たちに与えてくれるような、

藤原隆家という、特定の一人の人物が、たまたま、まだ存在し無かった事。

以上のために、もともとゲームとしては、たいした事の無かった、8×8升
目32枚制原始平安小将棋は、少なくとも西暦1019年より前には、余り
熱心には、日本人のまとまった人数には、指されなかったのではないかと、
私は以上のように考えるのである。
 なお、原始平安小将棋は、ゲームとしては、たいした事が無かったが、
外戦兵の歩兵が、”と金”という、”藤原道長の側近を連想させる駒に成る”
というルールがあった事と、玉を互いに中盤取り逃がすと、と金で斬り合い
をする将棋になるという、攻め駒の貧弱さ、と、”と金”の活躍、および、
将駒が藤原貴族と類似で、1人ではなくて、どんぐりの背比べで、複数居た
という、

その当時の日本の社会の、縮図のようなものであった

という点が、急激な日本の将棋文化の発生・伸張の、原因になったのだとも、
私は考える。
 以上のように、

日本に今の日本将棋の元になった、8×8升目32枚制原始平安小将棋は、
木村義徳氏の言うように、定説より250年前程度でよければ、早くから伝
来はしていた

と私は考える。つまり、私もある意味、古い伝来派である。しかし、私には、
それだからと言って、日本将棋は古いものであるとの認識が、気分的には起
こらない。原因は、原始平安小将棋と日本将棋で比較すると、相掛かりや、
角替わり戦法が、前者には飛車角が無いため、後者でしか、できないという
点が、一例として挙げられるように、

ゲームとして、同じものとは私には全く見えない

からである。以上の私の、日本の将棋大理駒よりの伝来説の推定ストーリー
が正しいとすれば、中国雲南省でマークルックに近い原始平安小将棋が発生
するのが、西暦750年でも、日本で急激に流行ったとみられる、西暦
1019年の直前の西暦1000年でも、日本将棋の歴史の重みには、さし
て影響は無いと思う。それよりも、

中将棋から飛車角を何時取り入れたのか、定説の西暦1500年頃という説
は、正しいのか。すなわちなるべく早く、成り竜王竜馬の飛車角を、9×9
升目36枚制平安小将棋(持ち駒有り型)へ取り入れる事の方が、ずっと日
本将棋を、皆に重く感じさせる効果は大きい

のではないか。私には個人的に、以上のように考える。(2017/07/17)

中国”砲”駒の砲の欧州式名称(長さん)

中国のシャンチーに存在する”砲”という駒の意味を、最近正確に調べなおして
みた。元寇のときに、中国軍がその類を使用して、日本の御家人武家を慌てさせ
たことで有名である。欧州の東ローマ帝国にも、この兵器は後に、東方から伝来
したという。中身は、”弾丸を火薬ではなくて、機械的な力で投げ飛ばして、遠
くまで飛ばす武器の系列”と、定義できる兵器群を指すと考えると、現実の状況
に合うように私には思える。欧州では、”平衡錘式トレビュシェット”と言う
武器があるらしい。原理の細かい点は、複数違うものが、ユーラシア大陸の各地
にあり、原始的なものは、相当に古い起源を持つらしい。
 ㈱原書房発行、ジョエル=レヴィ著、伊藤綺訳の「図説・世界史を変えた
50の武器」(2015年)によると、少なくとも1097年よりも前に、
中国で発明された武器が起源と、その著者は認識しているようである。ここで、
西暦1097年というのは、前に、凸型図形で、戦陣が現される経緯につい
て出てきた、北宋時代の武術の書「武経総要」に、この平衡錘式トレビュシェ
ットが、図で載っているのが、はっきり確認できる、最古のものだからのよう
である。なお、中国での言い伝えによると、中国型平衡錘式トレビュシェットは、
紀元前4世紀には存在したとされるという。これが正しいとすると、漢の時代
の、3人将棋の盤かと言われるものの時代にも、砲は有ることになってしまう
ので、真偽は重大である。ただし、三国鼎立の時代から隋の時代にかけて、
はっきりとした、象棋系ゲームの記録が中国には、見あたらないのではないかと、
考える。そのため今の所、個人的には、”三人象棋盤が象棋の類のゲーム盤”と
言う説は、かなり怪しいのではないかと、私は一応考えている。
 なお、上記著書には、平衡錘式トレビュシェットの発明年代について、それ
以上の情報は無い。増川宏一氏が、唐末とされている根拠となる文献は、
たぶん存在するのだろうが、私は確認していない。
 ちなみに、冒頭”平衡錘式トレビュシェット”の定義について、ゴムの弾性
力を使う、バチンコも含まれるように私は書いた。が、「世界史を変えた50
の武器」によれば、これには概ね3系統の武器が含まれ、純粋にメカニカル
な、腕状物体の急速なトルクを、砲弾の投げ飛ばし力に使うような機構のもの
だけが、類に含まれるらしい。よって、ゴム弾性という化学的な物質の性質を
使うパチンコのような、武器はこれには入らないらしい。
 これには2人で使用する小型のものも有ったというが、典型的には数十キロ
グラムの、大人一人の重さもある相当重い弾丸を、100~200メーターの
距離だけ飛ばして、敵を蹴散らすように設計されていたらしい。個人的には、
メカニカルな技術としては類似の、指南車が存在した三国鼎立の頃には、中国
人は、このような武器も、少なくとも原始的な物は、発明したのではないかと
思える。
 何れにしても、中国人がチェス・象棋型ゲームを本気でやり出したら、砲駒
は初期に入れる可能性が、大なのではないか。よって、唐代の将棋ゲームを
示唆する玄怪録の、”象棋駒を連想させるもの”に、”砲”駒に近い、跳び超
え落下型の駒が無いとすれば、中国に象棋型ゲームが有っても、中国人自体は、
あまり指してい無いか、その象棋は、中国の周辺国で指すゲームを、風物と
して述べているか、その両方が存在する可能性が有る、という事なのではない
かと、私は独自に推理するのである。(2017/07/16)

マークルック。何故、種・根駒が仏塔なのか(長さん)

タイの象棋マークルックでは、日本の平安小将棋の玉駒、副官駒、銀駒、馬駒、
車駒、兵駒に当たる駒が、それぞれ、君、貴族または種、象または根、馬、船、
兵または貝であると聞いている。ところが、駒の形が意味するものは、馬駒と
兵または貝駒を除いて、”仏塔(パゴダ)”であり、君、貴族、象、種、根、
船とは相当に違う。ほぼ同じなのは、馬駒が馬なのと、貝駒が確かに、コイン
なので、貝に近いという点だけである。では、なぜ君、貴族、象、種、根、船
は、仏塔で表現されているのだろうか。以下、私見であるが、理由は以下のよ
うに、2段階で説明されると考える。

もともと、タイのマークルックの、イスラム・シャトランジの影響の少ない、
第一成分である、タイ族原始マークルックでは、君、貴族か種、象か根、船駒
が、君、上級貴族、下級貴族、車、に近い概念で、認識された時代があった。
もっとはっきり言うと、玉将、金将、銀将、車(しゃ)と、呼ばれていた。
だから、駒形で表すとすれば、菩薩立像型、菩薩立像型、菩薩立像型、モンゴ
ル将棋の荷車型で、表現すれば写実的であるような、ルールであった。以上が、
第一段階。

そして、第二段階は、仏教の催事具の、以下の特徴から来るのだろう。確かに、
仏塔は墓石の類に近いものであり、仏像とは明らかに異なる物体である。しか
し、信仰の対象としては近いものである。それだけでなく、駒の形の抽象化が
起こると、仏塔の頭頂部の楕円形の部分は、人の頭のようにも見える。そのた
め、イスラム教の影響を受けて、タイのマークルックの駒が、抽象化した駒を
使用するようになると、仏の立像と、仏塔(パゴダ)が混同されて、本来、君、
貴族か種、象か根、船駒は、玉将、金将、銀将、車(しゃ)であったため、そ
れぞれ菩薩立像型、菩薩立像型、菩薩立像型、モンゴル将棋の荷車型で、表現
すべき所を、仏塔、仏塔、仏塔、モンゴル将棋の荷車型で、表現するようにな
った

のではないか。以上が第二段階である。そのうち、車駒もモンゴル将棋の荷車
型や海端でゲームが指されるようになったため、変化した船も形が煩雑なため、
どちらにしても、平たい仏塔型で、たまたま表現するようになったのであろう。
なお、タイ人が大理国に住んでいるときに、象ではなくて銀将駒を使っていた
のは、中国の雲南省では、象が余り活躍していなかったためだと、私は推定し
ている。逆に、大理国では中央集権制が緩んで、日本の安土桃山時代並みの、
豊臣、徳川、毛利、上杉景勝・・的な集団自治体制の類だったのであろう。将
駒は、君主もそれに加えないのなら、本来金将一種のはずだったが、大理国で
は、君主とは言うものの、それほどではない玉将、金将、それに銀将の3種に
なっていたのである。
 だから、それらが本来は、造形として菩薩立像型で表現されるべきものだと
すれば、和田玉、金、銀、銅、鉄、石、木等、いろいろな材料で作成されてい
た仏像・将軍像と、材質が同じで、金、銀等、いろいろある仏塔と、駒の形が
抽象化してどちらにも、取れるようになると、菩薩立像型から、仏塔型へ、混
同され変化したに違いないと、私は思う。
 そのあと、イスラム・シャトランジに寛容だった、モン族の、原始マークル
ック第2源流の影響を受けて、名前も、玉、金、銀が、君、貴族、象、に替わ
り、更には、君、種、根とも、呼ばれるようになったのではないか。
 以上の事から、マークルックの駒の仏塔(パゴダ)は、この将棋の原始、
第一成分(タイ族成分)が、日本の将棋と駒の名称が、ほとんど同じであった、
大理国の将棋起源である事を、証拠付けているものと、私は推定するのである。
(2017/07/15)


一乗谷、裏”和田”歩兵駒の謎(長さん)

以前、1974年より少し前に、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡の第9次の調査で、
170枚余の将棋駒が出土した。”酔象駒の存在から、朝倉小将棋の存在
が推定された”事で、たいへん有名なイベントである。ところで昨日、中国
西方奥地のホータン市の、鉱物古玉について書いた後、しばらくして、この、
福井県朝倉氏遺跡の出土駒について、表題の件に気がついた。たとえば、天童
の将棋駒と全国遺跡出土駒の、図46番、一乗谷朝倉氏(9次)遺跡(福井県)
の178番に、裏が”和田”と書かれた歩兵駒が、スケッチだけが、判りやす
く、写真は黒く潰れた形で一枚載っているが、

この和田は”わだ”ではなくて、ひょっとしたら”ホータン”なのではないか。

つまりいたずらで、たとえば、”この歩兵は和田さんの所有の駒”の意味で
作成されたとは、断言できないのではないかと、いう事である。これが、ホー
タンを意味するとして、一番簡単な説明は、

この歩兵駒だけ、成ると8方に隣接升目へ動けるような、将棋を指した。

というものであろう。いたずらの可能性が強いと、私も大内延介氏同様考える
が、中国の都市ホータンの漢字も、和田と書き、しかも古玉の産地として著名
という事であれば、上記の可能性を、完全に排除とまでは、出来ないように思
う。何れにしても、この一乗谷朝倉氏遺跡の

出土駒の作成者は、将棋の歴史について、何らかの知識がある

と、一応疑った方が良いように、私には思えた。ひょっとして、日本の将棋の
玉将駒の材質が、日本へ伝来したときには、ホータンの玉を彫刻して、作成さ
れていたという、情報を持っている人物なのであろうか。
 一乗谷の朝倉氏の支族に、和田という苗字の武士は、居なかったという証拠
も無いのだが、気がついた時の、驚きを忘れないようにするため、私は個人的
に、この全国遺跡出土駒の、図46番、一乗谷朝倉氏(9次)遺跡(福井県)
の178番の歩兵駒を、以後

”裏ホータン歩兵駒”と呼ぶ

ようにしたいと、決心した所である。(2017/07/14)

日本の将棋で玉将が、金将・銀将より上である理由である、玉の産地(長さん)

日本の将棋で玉将が一番上なのは、大理国では金・銀・銅は取れても、玉は
輸入品であり、大理国国内で、最も値打ちのあるのが、玉であったため、と
言うのが、私の持論である。ところでこの”玉”であるが、正確には何を指
すのか、私は恥ずかしながら、最近まで、きちんと調査した事が無かった。
 なんとなく、ミャンマーあたりに産する翡翠を、雲南まで運んだのかと、
思っていたが、調べてみると、これは日本の近世の頃の、中国人の発想で
あって、将棋の起源を考える上では、明らかな間違いであった。中国では
北宋時代、

玉は、和田玉または、古玉と言われる鉱物、ネフライトを、指した

という事である。
なお、和田は”ホータン”であり、シルクロード上、インド・パキスタンの、
カシミール地方に近い、現中国の西方辺境の都市の事である。
雲南省の大理市からここへは、いったんチベットのラサまで、山岳路を行き、
ついで、シルクロードを大きく北東に迂回してから、西方へ向かって、中国
大陸を1/2程度東西に行くと、ようやく到達したらしい。北宋の都からも、
大理国の首都大理市からも、何れもホータンは、著しく遠い所である。従っ
て、ここからの玉将原材料の、雲南省への輸送はまさに、北宋にとっても、
大理国にとっても、当時は外国品の輸入の概念、そのものだったに違いない。
 恐らく、大理国でも王侯貴族が、原始平安小将棋を指す時には、ホータン
から直輸入して彫刻して作成した、超一級品の玉将立体駒を使ったのだろう。
それが、外国原材料の輸入品である事は、当然大理国では常識だったので、
玉将が取られたら、負けのゲームになる事に、誰も違和感が無かったに違い
ない。従って、玉将が一番上の将駒である事から、日本の将棋の起源は、新
疆ウイグル自治区からは、かなり遠いところであると、推定もできる。そし
て恐らく、日本へ最初に輸入された、藤原摂関用の贈答品にも、ホータン玉
の加工品が、玉将駒として当然使用されたであろう。以下、個人的にだが、

「金・銀では無く、玉が最高位のゲームなのは何故なのか。」との、平安時
代、西暦1010年頃当時の大宰府外国輸入品担当役人の質問に対し、
「大理国でも玉は取れず、遠くから運んで、加工するため、金・銀より高価
なのだ。」と答える、北宋交易商人のセリフが、まるでその時代の、大宰府
を舞台シーンとした、テレビの大河ドラマの役者のセリフとして、聞こえて
来るようだと、

私には感じられる。つまり日本将棋で玉将が金将の上に立つのは、これ
以外に理由が考えられないと、私には思われるのである。(2017/07/13)

兵の段数。なぜシャトランジは2段目でマークルックは3段目なのか(長さん)

タイの象棋、マークルックと平安小将棋で最も目に付く特徴は、始原的なチェス・
将棋・象棋型ゲームである、チャトランガや、かなり古いアラブの象棋である、
シャトランジと違い、兵の段数が3段目である事である。特に、日本の初期の
将棋である平安小将棋は、9升目の標準型ではなくて、私の言う原始的な8升目
(8段型)の場合には、歩兵の高さが感じられるようになる。これには、どうい
う意味があるのだろうか。以下、いつものように私見であるが、結論となる考え
を述べる。
 すなわち、序盤に兵を1歩づつ進める手数に、人間が指したとき、歩兵間4升
目の原始的象棋には、我慢できないほどではないのだが、”やや間が空きすぎ感”
があった。しかし、致命的な欠点では無かったため、

アラブのシャトランジでは、たまたまそのままにされた。しかし、
原始マークルックや原始平安小将棋では、気まぐれに、試しに兵1升目前進配列
が試みられ、多少のゲームとしての性能改善が図られたと、棋士に感覚的に考え
られた。そのため、マークルックや平安小将棋では、
たまたまその、”8升目型将棋の3段目初期配列”が、以後固定された。

つまり、どちらのゲームも、それだけでは、大きな性能改善にはならなかったが、
たまたまの試みが、半ば偶然に、別種の将棋へと変化させたと、このケースにつ
いては、私は以上のように考える。もちろん、兵駒2段目配列のゲームであって
も、兵を同士の間の”やや間が空きすぎ感”は、その後も当然残ったと私は解釈
する。そのため、西洋チェスでは、初期配列の位置からポーンは2升目進んでも
良い、という、”ポーンに関する特別な規則の一つ”が、後に付加されたのだと
思う。ちなみに、平安小将棋で、馬駒である桂馬が八方桂のうち、前方基準で方
位角、約26.5度の2方向を残して、残りの6方向の動きが消えたのは、個人
的には、

成りのルールの調整の結果ではなくて、歩兵を進める手を指す確率を、増やさせ
る目的の方が強い

と私は思う。たとえば、前方を基準の方位角約63.5度の手が指せてしまうと、
歩兵を初期配列のままにして、2段目の2筋中央寄りに、桂馬を進めた後、歩兵
列の頭に、2手で出る手が指せる。しかしながら、桂馬の動きを2方向に制限し
てしまうと、桂馬は1筋違いの、どちらかの歩兵を1歩進めないと、前に当然だ
が出られなくなる。そうした方が歩兵を進める手を指す確率が、当然平安小将棋
では増えて、その後の変化が多くなるため、桂馬の動きが制限される事による
損失を、結果としてほとんど吸収できると、制限桂馬跳びルールを考えた、恐ら
く中国雲南省の日本の平安時代の棋士は、たまたま思考したのではないかと、私
は考えるのである。

つまり、歩兵3段目も、8方桂馬の削除も、”それも一つの行き方”という変化

だったのではないか。しかし逆に言うと、どちらでも良い変化が存在したお陰で、
象棋類は、後で進化の系統樹を推定する手段が、存在するようになったのだと、
私は考えるのである。(2017/07/12)