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なぜアラブ・シャトランジ等が天文学と関連付けられたのか(長さん)

少し前に、アラブ・シャトランジから西洋チェスへの発展が進んでいた頃、
原西洋チェスとしてのアラブ・シャトランジが、太陽系古典天体力学とし
ての、天文学と関連付けられ、その正当性は、衝突・破壊現象が天文の分
野で少ないため、無いとの私説を述べた。では、なぜアラブやヨーロッパ
の恐らく中世に、:原始チェスは、太陽系惑星等、天体の運行と、関連付けら
れたのであろうか。回答となる私見を、いつものように先に書くと、

ナイトの動きを、桂馬から八方桂馬に変えたとき、その変更を正当づける
効果を狙ったため

と考えられるように、私には思われる。アラブ・シャトランジに於いて、
上下左右に動けない駒は、ナイトがもともとは桂馬の動きだったとすれば、
ナイトと兵駒だけである。そして、兵駒は敵陣の最奥の段で成って、相手
の、その筋に居た、一段目駒に成るので、以降、ナイトに成った歩兵以外
は、前後・左右に動きがある事になる。というより、桂馬の動きでは、
ナイトに成る事自体が無意味だが。そこで、チェス駒は太陽系の惑星のよ
うであるべきであるという主張を持ち出し、自分の動きを4回繰り返すと、
元の位置に、丸い軌跡を描いて戻るような、動きにしたのではなかろうか。
つまり”シャトランジの駒は、太陽系の惑星のような、動きが出来るべき
だ”と主張し、桂馬の動きでは、そのような性質の無かったインド・
チャトランガのナイト(900年~1000年までの動き)を、桂馬動き
から八方桂馬に、アラブでは、より早い時代に変えたのでは、ないのかと
私は、想像するのである。そう考えると、

ナイトを八方桂の動きに変えたのは、持駒使用の謎の記載とは違い、イン
ドではなくて、中世に天文学が比較的盛んだった、たとえばイランからで
あった

可能性も、あるように思えてくる。遅くとも、アラブ・シャトランジでは
西暦800年~900年の間で、ナイト(馬)駒が、八方桂になり、逆に
それが、やがて四人制を発生させつつあった、二人制インド・チャトラン
ガに取り入れられて、遅くとも西暦1000年以降には、インドのチャト
ランガ・ゲームも、馬駒は、八方桂馬になったのかもしれない。そうする
と、中国雲南の将棋が元だった、日本の将棋は、アラブからは、より遠く、
最も変化が遅れたから、桂馬のままと言う事になるだろう。
 また、同じく中国長安で指された、後に中国シャンチーへ進化する、ア
ラブ・チャトランガについても、玄怪録の著者の牛僧儒が居た頃には、既
に、長安でも八方桂だったに違いないと、私は最近は考えるようになった。
(2017/08/21)

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日本の将棋の、相手陣歩兵の段で成るルールは誰か発案したのか(長さん)

日本の将棋は、相手陣の歩兵の段で成るが、このタイプの成りのルールは、
他としては、タイのマークルックが有るだけである。
 タイのマークルックと、日本の将棋が同一ゲームからの分岐だとすると、
私に言わせれば、大理国の象棋の発案者が、相手陣歩兵段成りルールの、
発案者と言う事に、論は一応行き着く。しかし具体的に、大理国のヘビー・
ゲーマーによる、巧妙な調整とは、私個人は感じていない。成りの段を、
ゲームを繰り返し行う、試行錯誤によって、歩兵の段に決まるケースは、
いつもとは限らないと、私は思っているからである。であるから、日本の
将棋の成りの段は、ゲーマーが調整したのでは無いと思う。では、誰がこ
の段で、駒が成る事にしたかと言えば、

中国の唐の時代に、南詔国の象棋を指していた、王侯貴族の棋士

だと、私は思う。そもそも、恐らくチベットから南詔国へインド・チャト
ランガ系の象棋が伝来したとき、歩兵の段は、インド・チャトランガと同
じであったとすれば、2段目だったと思う。他方兵の成りの段は、敵陣最
奥で「行き所が無いため、その列の一段目駒に成る」等だったはずである。
ただ、インド・チャトランガには、歩兵が下段に配置されすぎていると、
王侯貴族に限らず、南詔国の象棋のゲーマーには、当初から懸念されて
いたに違いない。そこで、やがて時が経つうちに、南詔国で3段目歩兵
配置へ、変わったのであろう。そして、

3段目配置に変わったところで、兵はもちろん、実は馬、そして恐らく車
も、敵陣3段目で成るように、南詔国の王室が、ルールを変えた

のだと私は推定する。理由は、

ゲームの中盤以降に、盤上にたくさんの純銀駒を置いて、王侯貴族として
の階級の”高い身分”示して、少なくも自己満足に浸りたかったから

だと、私はずばり考える。駒が敵陣奥1段目ではなくて、3段目で成れれ
ば、純銀製の、現在の金将動きをする、南詔象棋の銀将が、盤上に多数乗っ
ている局面が、発生しやすくなるからである。そのため、成るのも、兵だ
けではなくて、馬と恐らく車も、南詔象棋の銀将に成るルールに、むりや
り変えたのかもしれないと私は思う。
 南詔象棋の駒の動かし方ルールは、唐の牛僧儒の書いた、玄怪録にそれ
が暗示されているというのが、私の持論であり、そこに書かれた将棋駒類
似キャラクターの、物語文中の、動きの説明に類似だと、私は考えている。
結論を、とっとと書いてしまうと、

玉駒の金将が現在の玉将の動き、大臣または副官駒の銀将が現在の金将の動き
象駒が飛車の動き、馬が桂馬と全く同じ動き、車駒が香車と全く同じ動き
兵駒が日本の歩兵と全く同じ動き

ではないかと、私は疑っている。ここで、

馬は玄怪録では、天馬となっており、実は増川宏一著「将棋Ⅰ」(1977)
に載っている、江戸時代の将棋の書「象戯図式」の和将棋の風馬の成りの、
図の動きと同じだが、象戯図式には”誤って”、文字での解説部分には
「桂馬の動き」と、私に言わせると答えが書いてある

のである。

象戯図式の著者は、牛僧儒の書いた玄怪録の、天馬の事を知っているのは
有り得るとして、そればかりか、ひょっとすると、それは桂馬動きが正し
いのに、「象戯図式」の図のように、3つ先まで斜めに行くという、別の
動きに、ごまかしていたという事まで、どうやってか私は知らないが、
知っていて、とぼけて、間違えた振りをしているのかもしれないと、私は
疑っている

という事である。同じ増川宏一氏の著書に、謎めいた玄怪録の天馬の動き
の紹介ばかりでなく、丹念に読むと、その謎解きのヒントまで載っている
とは、驚くべき事かもしれない。つぎに、

車は、同時代のインド・チャトランガでは、アラブ人のアル・アドリによ
れば、跳ぶ後期大将棋の飛龍の動きであるが、敵陣奥で、行き止まりにな
るように、南詔国の王侯貴族の棋士が、香車の動きに改竄し、こちらは、
玄怪録の輜車の動きが、南詔国の動きを正しく伝えている

のかもしれないと、私は疑っている。ここで跳ぶ後期大将棋の飛龍の動き
を香車の動きに変えたのは、敵陣3段目で、今の金将動きの銀将という名
の、純銀製の立体駒に交換したかったからではないかと、私は疑う。そし
て、この南詔国の、中盤から、純銀駒が将棋盤上に多数陳列される象棋が、

大理国では純金駒に置き換わって、更に派手さがエスカレートした挙句の
果てに、日本に西暦1015年に伝来した

のが、日本の原始平安小将棋の、実は正体なのではないかと、私は現在推
定しているというわけなのである。(2017/08/20)

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「五雑爼」記載、七国象将”騎”駒の価値の謎(長さん)

駒数多数将棋であっも、大将棋の類ではなく、中国発祥の象棋との文献もある、
七国象棋というゲームがある。江戸時代の第十代将軍、徳川家治が、好んで
研究し、若い頃の長谷川平蔵と同様、江戸城警護役(書院番)を勤めた戸田内
蔵助の妹で、当時の下野宇都宮藩の藩主の親戚と見られる、大奥女中の
”戸田おくら”という女性が、たくみだったとの、記録もある。webに、
指し方のルールがあり、駒の動かし方のルールも出ているが、増川宏一著
「ものと人間の文化史 23-1 将棋Ⅰ」(1977年、法政大学出版局)
に、紹介のある、この象棋を紹介した表題の、「五雑爼」の駒の価値に関する
記載から、

恐らくwebに出回っている「騎」駒の動かし方ルールは、誤りだろう

と、私は考えている。理由は、「五雑爼」に”騎”駒が、最も価値が上である
と、出ているが、webのルールだと、偏、碑、弩、弓の方が上で、砲よりも
ひょっとすると下で、その次の、5~6番目の価値のように、私には思えるか
らである。つまり、webの説明では、七国象棋の騎は、高々「縦横に、
(±3、±4)か(±4、±3)かの、合計8升目のどこかに、跳ぶ」との、
ルールか、更にそれに、塞馬脚の加わるルールのように、読み取れるが、これ
は、中国チャンギの、”象”程度の価値でしかないと思う。チャンギでも、
七国象棋の偏に当たる、車の方が、象よりは価値が上とされていると、私は認
識している。従って、少なくとも、

「五雑爼」の七国象棋のルール説明には、上記のweb等から読み取れる、騎
駒のルールとは、異なる説明があるはず

と考える。どう違うのかであるが、増川宏一著「ものと人間の文化史 23-
1 将棋Ⅰ」の、増川氏が清書しなおしたと見られる「七国将棋の図」の駒の
動かし方ルールの図が、ひょっとすると、ヒントなのかもしれないと、私は思
う。「将棋Ⅰ」の図を見る限り、騎駒は、(0、±1)か(±1、0)か
(±1、±2)か(±2、±1)か(±2、±3)か(±3、±2)か
(±3、±4)か(±4、±3)かの、合計28升目の、どれかに、単純に
跳ぶような駒、とも解釈できるように見えるからである。web流のように、

先ず縦横に一升目行ってから、斜めに3升目のケースだけ制限的に、範囲をは
無く、ピンポイントでチャンギの象のように走るとか、または”西洋チェス流
に、4・3だけに跳ぶ”ような類の駒では、無い

のではないか。もし、28升目間を跳び越えて行けるのであれば、確かに七国
象棋の騎駒は、少なくとも、偏や碑に匹敵する強さの駒には、なると私は思う。
逆に言うと、どこでそうなったのかは謎だが、

「五雑爼」の七国象棋は、朝鮮チャンギの象とは動きのパターンが少し違う駒

という事になると思う。私見だが、私は「五雑爼」の「強い騎」が、正しいよ
うに思えてならない。webの騎のルールが正しいとすると、騎が2枚ではな
くて、4枚もあるのが、使い道の少ない駒を、ムダにたくさん増やした感じで、
不自然に思えるからである。また私見だが、webのルールでは、史実と大い
に違って泰軍は、初期配列で、楚軍の弩で右剣が只になっているから、必敗だ
と私は見る。騎は、やはり計28升目へ跳びなのではないのか。もしそうだと
して、「五雑爼」や、増川宏一「将棋Ⅰ」七国将棋の図の、騎駒の形に、ルー
ルを工夫したのが、誰かは私には不明だが、この騎の工夫されていて、中国
シャンチーや朝鮮チャンギ的ではない、駒の性能に関するルールから、

七国象棋は、朝鮮チャンギの成立から、かなり経ってから近世に入って完成し
たものであり、「司馬温公が作った」というのは、単なる伝説に過ぎない

ことを、示唆しているようにも思える。なお、徳川家治が、別の日本の将棋種
よりも、むしろこの将棋を好んだのは、戦国時代後期の群雄割拠の図に、より
類似であると、考えたのだろうと、私は想像する。なお少なくとも三人以上の

多人数将棋は、”漁夫の利作戦”が、私が思うに、相当に有力と見られる

ため、通常の日本の駒数多数将棋と、必勝法が全く違う、別系統のゲームと
みるべきではないかと、私は考えている。(2017/08/19)

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中世の変則チェスと、中国・朝鮮シャンチー/チャンギ類(長さん)

アラブ・シャトランジの時代に、変則チェスのカテゴリーに入る、駒数
が32枚よりも、かなり多い、チェスの仲間が中東で指されていたとい
う紹介が、法政大学出版・1977年の増川宏一著「ものと人間の文化
史 23-1 将棋Ⅰ」にも載っている。ただし、同書には、それらの
アラブ駒数多数変則チェス類の、ルールの説明までは無い。そして、そ
の流れで成立したとみられる、ヨーロッパ・中世スペインの、12×12
升目48枚制の変則駒数多数チェス類の、グランド・アセドレフという
名のゲームが、岡野伸氏自費出版の「世界の主な将棋」(1999)に
載っている。後者の方には、ルールの説明があり、駒の動かし方が載っ
ている。最大行ける升目が無限大でなく、3升目という金剛の縦横動き
の駒は、走りに近い、比較的ありきたりの駒と私には、思える。しかし
ながら、日本の駒数多数将棋では、余り見かけないタイプの動かし方を
する駒として、

(1)鳥のグリフィンという、斜めに1升移動して、そこから縦横走り
という割り箸走りの駒

と、
(2)キリンの名が当てられた、縦横三升目行ってから、最後の1歩だ
け、斜め向こうに進む

という駒は、日本の駒数多数将棋の縦横が斜めに、途中で変化しない
タイプばかりという、状況とは違う。しかし、たとえば、チャンギの象
は、縦横隣接升目に行ってから、2升目斜めに進むというものであるか
ら、1の2を、3の1に取り替えれば、(2)のキリンといっしょであ
る。つまり、

アラブや中世ヨーロッパの変則チェスには、チャンギの象とかシャンチー
/チャンギの馬のパターンの動かし方をする駒が、しばしばかなり古く
から考えられていた事を示している。話は前後するが、縦横→斜めパター
ンを、斜め→縦横にひっくり返して、チャンギ象の1の2パターンを、
1の∞パターンに変えたのが、(1)のグリフィンである。だから、

(1)のグリフィンも(2)のキリンも、例えばチャンギの象の類で
ある。

何故なら(1)と(2)の両方に、

西洋のナイトや、日本の桂馬には無い、途中の升目は跳ぶのではなくて、
恐らく走らなければならないというルールが、ある

からである。そして、この意味するところは、

シルクロードを東から西へ、逆に辿って、朝鮮半島のチャンギの象とか、
中国シャンチーや朝鮮チャンギの馬の動きが、アラブからヨーロッパは
西の端のスペインまで、だから恐らく、北アフリカの海岸にも、伝えら
れている。

ということであろう。つまり、中国シャンチーの類は、アラブ・シャト
ランジと、密接な関係があるという推定に関する、小型ゲーム類のそれ
ぞれの対応駒の、動かし方がほぼ同じ事とは別の証拠が、上記のように
存在するという事だと、私は以上の現象から、個人的には推定するので
ある。(2017/08/18)

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チェスのような”終盤引き分けが過多”、”逆転困難が早々”防止の工夫(長さん)

 八方桂のナイト駒は例外なのであるが、チェスは取り捨てルールで、大駒が
走りなため、日本将棋に比べて、終盤ミスしても、それほどまでには逆転しに
くい。また中盤に差が開くと、逆転また逆転は起こらないし、引き分けのケー
スも、日本将棋のように、少なくはならないと私も認識している。これについ
ては、すでに上の文で答えを言ってしまっているのも同然だが、ようするに、
それを防ぐには、跳び越えルールの駒を、もっと終盤で、増やす必要がある。
この事については、前にも、駒の動かし方ルールで、上記問題を克服する必要
があると、このブログでも指摘した。では具体的に、とんな駒の動かし方ルー
ルにすれば、良いのだろうか。結論から書くと、

ずっと下段で、中盤の最末期に、ようやく前面に露出してくる小駒が、たとえ
ば、相手の攻撃駒を取ったときに、日本将棋と違って成れるようにして置いて
から、その成りも、単なる跳び越えではなくて、玉駒と幾つかの例外以外は、
幾らでも、前方にのみだが、跳び越えられるようなルールにし、更には跳び越
えた相手の駒は、全部排除するどころか、相手の駒は、自分の駒に全部向きを
変える(裏切り)ルールとする。

更に、向きを変えた駒は、成れるとまでする。以上で持ち駒ルールと、ほぼ局
面評価値の一手指すごとの変動幅が、同等になる事が、経験的に私には判って
いる。制限無い、格のある跳び越えルールは、天竺大将棋の、大将駒類が有名
であり、跳び越えが格の自分と同じか、高い駒以外は跳び越せ、跳び越した相
手駒を、全部取り去るルールは、大局将棋の、大将駒類が有名である。しかし、
実際にチェックした限り、繰り返すが、相手駒を単純に排除したのでは、終盤
の逆転の可能性は、まだ少ない。火鬼のように焼いてもだめだし、広将棋の弓
駒のように”射ても”、たぶん不足だと私は思う。
 日本将棋のように、相手の駒が、戦力に追加されるような、”裏切りルール”
にしないと、日本将棋並みの終盤の局面評価の発散は起こらないと、私は思う。
逆に言うと、盤升目が玉駒周り空間に比べて極めて大きく、見栄えから、持ち
駒ルールの適用が困難な、駒数多数将棋でも、相手駒を自分の駒に変えるという、

跳び越えオセロ型のルールを加えさえすれば、取り捨て型のチェス系ゲーム特
有の、”引き分けが多いゲーム”には、恐らくならない

のではないかと言うのが、少なくとも日本では、恐らく私だけの持論である。
ただしこのやり方をとると、駒の一部が対局中に入れ替わるため、前回述べた、

駒の初期配列の作法のための、駒の2分割化が困難になる

という、欠点がある。ただし、上記のオセロルールが導入される、駒数多数将
棋は、コンピュータのディスプレーで、駒が表示できるような、極めて駒の数
の多い将棋であれば、そのような作法の問題は、駒は予め並べて有るだろうか
ら、ひょっとすると存在し無いかもしれない。なお192枚制の摩訶大大将棋
で、将駒の成りに”跳び越えオセロ”を、加えてやってみた事が私にはあるが、

192枚程度の駒数の場合は、前の二人の競技者によって崩された2分割分は、
余り駒が、駒を配列しているうちに出てきたら、相手に手渡しして対応する

しか、今の所無いのではと、私は思っている。(2017/08/17)

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駒数多数将棋の駒を初期配列に並べる作法は、どう有るべきか(長さん)

前回、中将棋より駒数の多い将棋に、室町時代初期から、駒の初期配列
の作法が存在しないのは、使い手の居無い獣駒が、日本将棋には存在し
ないが、中将棋以上には、存在するので、作法があるというのが変と、
考えられたからではないかと述べた。だが、配列するときには、象や虎や
豹にも、調教師が居ても、おかしくないのかもしれない。そこで「これら
の駒も左から」と、順序の決まった配列は、配置するときだけに、調教師
が存在すると仮定してみる。そして中将棋以上でも、駒並べの作法を考え、
具体的にそれがどうなるのか、試案を作ってみた。以下は一例として、
だいぶん前に私の考えた、後期大将棋を例にとって、説明する。さて駒数
3桁の将棋類では、そもそも、駒の配列を作法に従って並べるのは、

駒の総数が多くなると、駒を探し出す手間が、駒数のだいたい2乗で増加
するため、日本将棋と同じ方法でするのは無理

である。そこで、以下の点について、着目する。日本将棋の駒の並べ方の
作法である大橋流にしても、伊藤流にしても、

中央の駒ほど位が高いと、仮定して、その順番で配列する。が、駒数多数
将棋では、そのような陣は、袖に弱点が出来るので、初期配列は、中央に
重要駒が来ると、敢えて仮定はしない

事にする。すると、

駒は玉駒は最初に並べるにしても、玉以外は、同じ種類の駒は左側から、
常に並べることだけを、重視

すれば良い事になる。そこで、予め2人前の競技者の駒を、1人づつ、
2つに分けて保管する。つまり、後期大将棋の例では、玉将・王将を除
いて128枚の駒を、駒箱の中に2つの袋を入れることにして、片方分
64枚づつを、

分けて保管

しておく。そして、
(1)上手が王将を並べ、下手が玉将を並べた、あと、
(2)それぞれの駒袋を、上手、下手と取り、中身をそれぞれに、捕獲
して、取り捨てるために、これらの将棋種では使用する、捨て駒入れに
全部移してから、左右対称駒については、上手は右辺から並べてゆく。
下手は少し時間を空けて並べを開始し、左右対称駒については、上手と
は逆だが、前方に上手の既に並んだ駒の多い、左辺から先に、並べてゆ
くのである。
こうするのは、

駒を並べる作法というのは、年長者が若年者に、その将棋のルールを
伝承するという、”儀式”の意味があるからで、このケースは、若年者
が、左辺が上位である事を、正しく認識するための行為と意味づけでき
る。なお、繰り返すが、駒数多数将棋に、中央駒が重要度の高い駒との、
性質は無いと考えるので、並べる駒は、たまたま、手に取った駒からで
良いとする。なお例外は歩兵だが、歩兵は、後期大将棋のケースは、概
ね伊藤流で、並べて良いのではないかと思う。ここでただし、

(3)左右非対称駒で、1枚目は上位者から、盤の中央段のやや手前に、
升目ではなくて、交点付近に、その駒を、一時保管する。
(4)(1)~(3)を、駒袋内の全ての駒について、行う。すると、
例えば、後期大将棋では、中央段の升目間の交点付近の上に、麒麟、
鳳凰、の2枚が並ぶ。そこで、若年者も駒袋内の全ての駒を、並べ終わっ
た所で、年長者が、麒麟を取って、左盲虎の上に置く。ついで、それを
まねるように、若年者が麒麟を並べる。ついで、年長者が鳳凰を取って、
右盲虎の上に並べる。それを若年者がまねれば、初期配列はめでたく、
完成するはずである。なお、中将棋では、麒麟、鳳凰、師子、奔王と、
以上の順番で、4枚づつ並べる事になるだろう。

(1)~(4)のやり方は、左右対称性が強い、駒数多数将棋種ならば、
かなり、駒の枚数が多くても、適用可能である。ただし、大大将棋のよ
うに、左右で対称性が低くなると、中央段に置く、”一時保留駒”の数
が増えすぎて、適用困難になるし、また、対局中も、取った駒を別々に
保管して、局後に交換し、2分化が容易なようにしなければならないた
め、感想戦のときに、注意が要る等の問題はあるだろう。(2017/08/16)

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中将棋には初期の駒の配列に関して、”作法”が無いのは何故なのか(長さん)

江戸時代以降、日本将棋には、初期の駒の配列手順に関して、大橋流と伊藤流
という、駒を並べる作法が存在する。大橋流では、玉、左金、右金・・・と1
段目を配列後、角行、飛車と2段目を配列。次に3段目の歩兵を、先手の升目
で、5七、6七、4七・・・と、左右に配列するものである。それに対して、
伊藤流では、1段目の桂馬までは同じであるが、そこから3段目の歩兵を、
9七、8七・・・と、左から配列し、ついで、1段目の香車を左右へ、2段目
の角行、飛車と配列するものだったと、私は理解する。大橋流は、中央が大事
で、次に左隣、右隣という考え方であり、伊藤流は、中央の駒が上位で、次が
その隣の駒で、その駒のうち左の方が格上、香車、角行、飛車は、兵器と見て、
配列前に戦闘開始が起こるという、”戦闘が開始された道理の矛盾”を避けた
ものなのかもしない。何れにしても、この”作法”は、日本将棋固有であって、
日本の他の将棋時代から、有ったとの証拠は、今の所無い。茶道や華道等、作
法が有る、稽古事が盛んになったのが、安土桃山時代であったからだと、言っ
てしまえば、それまでなのかもしれない。が、能・猿楽等、芸の世界は室町時
代の足利義満の頃から盛んであるから、たとえば、中将棋に同様の類の、駒を
並べる作法が、全く発見されていない理由は、考えてみても、一応ばちは当た
らないのかもしれない。なお、花営三代記や看聞御記の将棋の記載からみて、
足利義持や足利義教の時代には、中将棋だけでなく、恐らく9升目制で持ち駒
有り型の、平安小将棋(標準型)を小将棋として、それも指していたらしい。ここ
で平安小将棋の駒を並べる作法なら、日本将棋から類推する事は可能であり、
小将棋には何か、並べ方の作法があっても、本来はおかしくは無かろう。とも
あれ、中将棋(より駒の数の多い六将棋)に、初期の駒の配列の作法が無い
理由について、理由を結論から、何時ものように書く。すなわち、その理由は、

適当に首輪の鎖を外して、敵陣に突入させ、相手を蹴散らすだけが、実際の戦
闘での使われ方とみられる、制御しない生物兵器、酔象、盲虎、猛豹が、自分
の意思で、左側から行儀良く、順番に並ぶとは考えにくい

からだと私は思う。つまり桂馬と違って、これらの動物は、人間の動物使いが、
戦闘中に、使い手として存在する、兵器ではないからだろう。だからこうした、
めちゃくちゃに、相手陣を暴れまわる、畜生としての象、虎、豹駒の加わった
将棋では、そこだけ作法を考えにくいため、全体として、並べる順序が決まら
ないものと、あるいは、当時から考えられたのかもしれないと、私は思う。た
だし、日本将棋でも、先祖の”横行”は、荒くれ者とは言え、一応人間だった
ようであるが、類似の”角行”は、人間が制御していない、単なる魔物か、ロ
ボットの類なのかもしれないという、問題は有ると思う。(2017/08/15)

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「朱仁聰と周文裔・周良史 : 来日宋商人の様態と藤原道長の対外政策」(長さん)

前回、大理国の黄金将棋具を日本にもたらし、日本に将棋が発生した
原因となった、中国北宋時代の交易商人として、周文裔の名を挙げた。
3年ほどまえ(2014年)に東洋大学の森 公章氏が、「朱仁聰と
周文裔・周良史 : 来日宋商人の様態と藤原道長の対外政策」という
論文を発表し、そのPDF版がweb上に流れている。
 ここでは、かなりの量の、この論文の全紹介は出来ないので、周文裔
が、日本に将棋をもたらした人物だと、匂わせる情報のみを書く。
西暦1015年に彼が来日して、藤原道長に払い下げられた孔雀等を
献上して以後、実は後一条天皇が即位してからしばらく、北宋商人の
来日は無かったようである。そして、次に来日した北宋商人も、周文裔・
周良史親子であって、上記論文によれば、なんと

刀伊の入寇の翌年の西暦1020年の事だった

と言うのである。つまり、次の西暦1020年には、

字の書いていない経帙牌を例えば数百枚、持って再度日本にやって来た

と考えれば、話は良く合うという事になる。また、彼ら以外に、将棋の
発生と関連しそうな、別の中国人交易商人が、かなり考えにくい、とい
う事でもある。
 なお、周文裔には日本人の妻が、たぶん日本におり”大宰府の条坊に
在庫の経帙牌を使い、日本の九州で、西暦1019年から将棋が指され
だした”との旨の情報は、自分の日本人の妻を通して、事の次第の詳細
な連絡が、中国の夫と息子の居る所へは、事前に行ったのかもしれない。
 それにしてもこの情報には驚いた。提供してくれた、東洋大の森公章
先生には、なんとお礼を言ってよいものか、私には判らないほどである。
(2017/08/14)

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藤原道長は、自宅に宝物(金銀製品)は、余り置かなかった?(長さん)

いままで私がこのブログに述べた私説の内容によると、日本の将棋は西暦
1010年年代に、北宋の商人が、藤原道長・頼道親子の何れか用に、玉
将は、写実的にホータン玉でできた将の模型という調子の、大理国産の宝
玉・黄金製の将棋具を、献上したのが、そもそもの発端という事になって
いる。そのため、今までその贈答または献上されたお宝は、藤原道長と頼
道の本宅、京都の土御門第(亭)に、刀伊の入寇の1019年まで保管さ
れていたと見るのが、自明だと考えていた。しかし、藤原道長の日記、
御堂関白記を紹介した、倉本一宏著「藤原道長『御堂関白日記』を読む」
2013年(講談社)によると、西暦1016年(長和5年)の宣明暦
7月21前後に、藤原道長・頼道の本宅である、土御門第(亭)は、火事
になって、何と消失しているらしい。この事から、たとえその前に、黄金
の将棋具が藤原道長等へ、北宋交易商人から贈答されて、土御門亭に保管
されていたとしても、火災で1019年時点には、存在無い可能性がある。
ただし火災時、藤原長者の神器である、大饗の朱器という品は、火が回る
前に持ち出されているし、藤原道長が趣味で収集していた、中国の漢詩関
係の蔵書も、同じく持ち出されたと、上記成書の日記に書かれている。よ
うするに、火災の発見から、延焼までに時間差があったようである。ただ
し、黄金製品の類が焼けて、そのとき消失したかどうかは、御堂関白日記
には無く、被害状況は、想像するしか無いようである。上記の「『御堂関
白日記』を読む」の著者の倉本一宏氏は「自宅が焼けた事に関して、藤原
道長は不思議なほど、さほど落胆していない」と、著書の中で評している。
 あるいは、将棋駒の大きさの金塊22本位では、痛手を感じないほど、
藤原道長には財産が、もともとあるせいかもしれない。が、ひょっとして、
これは、

西暦1016年時点で、黄金の将棋盤等の、”宝物”は、漢詩の書籍のよ
うな「唐物」とは違って、藤原道長は自分の本宅には置いていなかった

可能性も、有るように私には、御堂関白記の解説書を読んで、思えるよう
になった。では、どこに西暦1010年頃に来たはずの、黄金の将棋具が
あったのかと言えば、

天皇の居所である内裏かもしれないと、私は疑い出した。

とにかく黄金将棋具は、表向きは国有財産として、天皇の居所に置いてお
き、藤原道長・頼道等は、自由に使用できる状態にしておけば、自宅に置
くのと、余り差が無いように、私には上の成書をチェックし思えてきた。
何故なら上記成書には、藤原道長は、その前から、その傾向が有るのだが、
西暦1016年に、天皇が自分の孫の、後一条天皇になってからは特に、
自宅と天皇宅・内裏の公私の区別を、余り気にしていないという印象の
内容が、書かれているからである。つまり、天皇の居所は藤原道長の家屋
の一つも同然と言う事である。藤原道長にとっては、”自分も含めて、天
皇家一家や、有力な来客との間で遊ぶ道具”として、黄金将棋具は位置づ
けられたという事ではなかろうか。だが実は、天皇の居所の内裏であるが、

内裏自体も、西暦1016年の道長宅の火災の、2年前の三条天皇の代の
西暦1014年に、別の大火で大破していて、このときは、道長宅と違っ
て、大量の金銀製品が、破損してしまった

事が、web上に紹介されている。そのとき破損した金銀製品を「熔かし
て、再生するように」と、西暦1014年の内裏の大火のときには、ほか
ならぬ、藤原道長が、”その家の者”の立場で指示を出しているらしい。
従って、

黄金将棋具は、天皇の居所に置かれていたが、西暦1014年の大火で、
実際には、消失していたのかもしれない。あるいは北宋商人の、この大理
国将棋具の贈答も、火災翌年西暦1015年に来日した、まさに、

大理国黄金原始平安小将棋具はガチョウと、孔雀といっしょに来たもの

であり、天皇宅の火事の見舞いや、天皇宅に陳列する貴金属製の宝物の、
補充のつもりでの寄贈あって、形の上では朝廷に、献上されたものだった
のかもしれない

とも、上記成書を調べて、私は考え直すようになってきた。すなわち、岩
波新書・河添房江著「唐物の文化史」(2014)には、
西暦999年に来日した北宋商人の曽令文が、決まりを破って10年満た
ない、西暦1006年に再来日したが、1005年にもあった、内裏の火
災で消失した唐物や宝を献上したため、罪が問われなかったとある。これ
は北宋交易商人が、京都の大火の情報をキャッチすると、見舞い品を持っ
て、来日するのが、恒例になっていた事を示していると私は思う。なお、
前記「藤原道長『御堂関白日記』を読む」によると、天皇の住まい、居所
である内裏は、その他、西暦960年、976年、980年、982年、
999年、1001年、1015年と、多数回火事になったらしい。
黄金の将棋具が、西暦1019年の刀伊の入寇時点でも存在するケースは、
土御門亭に置いても、内裏に置いても、余り来日が早すぎると火事で消失
して、可能性は少なくなり、

大宰府で、将棋が盛り上がるためには、来日年がほぼ、西暦1015年の
パターンだけのようだ。またこのときガチョウと孔雀を持ってきた、
中国北宋商人は、周文裔(しゅうぶんえい)

であり、この人物についてはweb上で、藤原道長の交易政策に絡んで、
詳しい解説も、出ているようだ。
 なお、少なくとも「藤原道長『御堂関白日記』を読む」には、
火災の年の記録の中で、せっかく西暦1015年に贈られた将棋具が、
消失する恐れのある、同西暦1015年の火災に関して、詳しい記載は無
い。火事の被害の規模は西暦1005年と1014年が特に大きく、
西暦1015年のケースは、被害が少なかったので、無視して良いのかと
も、私には読み取れる。
 何れにしても、日本の古代史の常識だったのかもしれないが、

藤原道長の時代に限定して言えば、皇室と藤原摂関家とは同じ家

という話の中身について、最近になって私にも、ようやく理解が出来るよ
うになって、きつつある。(2017/08/13)

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アラブ・シャトランジと天文学(長さん)

マレーの「チェスの歴史」は、書かれてから大分年月の経つ、大著である。
そこには、日本の将棋の章もあり、中将棋の駒の動かし方ルールも載って
いて、すこぶる貴重な著作である。
 ところでチェス史に浅学の私には、論の背景が、はっきりとは掴めてい
ないのだが、アラブ・シャトランジと、その時代のイスラムの天文学との
間には、繋がりがあり、チェスと天文学とは繋がっている、と評する学説
があるらしい。そういえば、上記マレーの著でも、チェスの駒の一つ、
ナイトの、仮に連続して動かした場合の升目移動を、曲線で結んだ図が載っ
ていて、「ナイトの旅」とのコメントが、図の説明で付けられていたと記
憶する。
 増川宏一氏の「チェス」で、天文学との繋がり説の、説明が載っていた
と記憶する。が、「将棋Ⅰ」には、特に古典的チェス類と、天文学との繋
がりについての言及は見あたら無いようである。
 なお、アラブ・シャトランジ時代(西暦700年~800年)の日本で
の天文学は、空を眺めて星空に異変があれば、それを記録し、占うという、
占いのカテゴリーに近かった。しかし、アラブ世界では、天文学の暗黒時
代に入った、「西洋中世」に於いて、アルマゲストのイスラム語訳等も行
われ、科学的な天文学が、古代ギリシャ文明期に、取って代わって、ゆっ
くりと進展していたというのが、私の若い頃からの認識である。つまり、
この場合の、西洋チェス史学の”天文学”に、陰陽道や、その類との関連
性は、比較的薄いと私は見る。従って、

この場合の、「天文学と、アラブ・シャトランジの繋がり」というときの、
”天文学”は、現在では天文学の中で、古典的で正統な、学術領域である、
太陽系の天体運行理論のイメージで、だいたい良いのではないか

と私は推定する。なお、同じような内容が、水無瀬兼成の将棋部類抄の、
出だしに書いてある。が、日月星辰の動きの研究は、日本では江戸時代ま
では、天文道では無かったと、言う事になろう。つまり、「チェスの歴史」
のマレーの「ナイトの旅」は、ほぼ、天文学・イスラム・シャトランジ関
連説を下敷きにしているとして、的を得た説明図になっているように、私
は思うのである。
 ところで、この学説は正しいと思うのかと言えば、

私は否

だと見る。理由は、

基本的に特に太陽系内の天体は、他の天体と衝突はせずに、事実上永遠に
存在して、動き続けるという点が、チェスやアラブ・シャトランジの駒と
は大いに違う

と思うからである。恐らく、アラブの中世にシャトランジを指した棋士が、
たまに数日置きに、夜空を眺めて惑星を観察し、その位置が星座に相対し
て動いているのに気がついても、シャトランジの駒に、なぞらえる事は、
無かったろうと、いう事である。つまりマレーの「ナイトの旅」図も、
この場合のナイトは、基本的に、有限の動きの中で、相手の駒に衝突して、
相手を破壊し、また、しばしば、それ自身も相手の駒で、取り返されるこ
とを覚悟の上で、運行しているのである。この点で、慣性の法則により、
もともと止まることができず、また、空間が広いために、めったな事では、
他の天体と衝突しない、アラビア天文学で題材にされた、太陽系内天体の
多くの行く末とは、大いに異なると私は思う。
 つまり、マレーのチェスの歴史の図ように、

たとえばチェスのナイトが、いつまでも、”変わった曲線”を描きなが
ら旅を続けることは、基本的に無い。

ので、少なくとも”ナイトの旅曲線”は、架空の話だと私は見る。よって、
天文学が、チェスやアラブ・シャトランジと繋がるためには、太陽系の中
でも、衝突する天体を探すしか無いと思う。そのような天体が、全く無い
のかと言えば、18世紀頃からは、存在が認識されており、

流星物質が典型例

だと私は認識する。なお流星物質の”対局相手の駒”は地球の大気分子で
ある。
 では、たとえば駒数多数将棋の完全解析をして、太陽系内天文学の一分
野である、流星天文学に寄与する可能性があるのかと言えば、

大気中での高速突入塵(流星物質)の発光光度の挙動を、初学者が、理解
しやすくなるという点では、多少の効果は出るのかもしれない

と私は見ている。流星体単位断面積あたりの発光光度が、衝突大気分子の
数に比例しないのは何故なのかという、大気の突入角度による、流星の光
り方の挙動を解析する問題と、駒数多数将棋の競技の進行とは、関連して
いると、私は考えるからである。どういう事かと言えば、流星物質が輝く
とき、攻められれば攻められるほど多く、弾き飛ばされて、流星物質に対
して、ほとんど同じ速度で運行する、小駒に例えられる”弾き飛ばされた、
流星物質の蒸発気体分子”が、流星物質の方を止めた座標系で見たときに、
実際には激しく膨張しながらも漂う、遮蔽物群(ガス球)として存在する。
そこで大気分子に対応する、走り駒の数を増やしても、遮蔽ガス粒子群に、
大気分子が行く手を阻まれて、走り駒としての平均自由行程が、大きく減
少する。ので、相手の本陣への衝突数に依存し、さらにそれに比例する、
単位断面あたりの、流星の光度(明るさ)は、大気の密度を増加させても、
ある密度より上では、ある一定以上の光度よりも、大きくはならない。
すなわち、

流星物質表面の単位面積あたりの明るさは、大気圧が一定以上になると、
飽和するのだが、これは駒数多数将棋の、駒枯れに至らない終盤、中盤、
仕掛け局面を、この順番(逆順)でイメージすれば、理解がかなり、しや
すくなる

のではないかと、私は思うからである。つまり、攻め走り駒が多いという
のになぞらえられる、大気が濃いほど、流星は明るく輝くのではと勘違い
するのは、将棋の中盤初期の、味方の小駒に例えられる、流星物質の蒸発
分子の、地球大気分子が、流星物質本体への衝突をめざした、走り駒運行
に対する、遮蔽物として働く効果の存在を、忘れているからという事にな
る。

以上の事から現代的には、戦争に似た、衝突破壊現象である、流星物質の
発光学と、駒数多数将棋の親類であるアラブ・シャトランジとは関連する

のかもしれない。が、西暦700年~800年頃に、流星本体が、地球外
からやってきた、微小な塵であるとの認識は無く、ギリシャのアリストテ
レス以来、

アラブの中世では、流星は大気現象だと思われていた。であるから、
アラブ・シャトランジと当時の天文学とは、繋がっているとは言えない

のではないかと、私は結論しているのである。
なお、明日の明け方あたり「ペルセウス座ガンマ流星群が、たくさん出る
が、月明かりに邪魔されて、今年は例年より見える数が少ない」との旨、
さいきん私の知人から私宛に、手紙で連絡が来ているので、一応末尾に
紹介しておく。(2017/08/12)

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