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一乗谷朝倉氏遺跡「成り和田(ホータン)歩兵駒」は、なぜ作成されたのか(長さん)

以下、前回の一条天皇サロン、原始平安小将棋発明説の続きである。
前回述べたように、日本で原始平安小将棋が、玄怪録の将棋、宝応将棋
の発展として作成されていたとしたら、金将と玉将がひっくり返しであった
と、私は推定する。ここで、言うまでも無いが、実際の原始平安小将棋と、
日本産の、私に言わせれば架空の、8×8升目32枚制一条天皇サロン
平安小将棋の、駒の動かし方自体は、両者の駒を初期配列で並べると、
全く同じになる。つまり、私の論では、
宝応将棋の金将は、現在の玉将の動き、銀将は金将の動き、象将は飛車の
動きで、一条天皇サロン平安小将棋で象は消える。その代わりに、後者の将棋
では、玉将が本来の原始平安小将棋の金将の所に入って、通常の金将の動きに
なり、このケースは、金将は玉将の位置のままであって、通常の玉将のうごき
のまま。銀将が現在の金将の動きから、銀将の動きに変化する。また、
天馬が桂馬に名称が変わって、宝応将棋も一条天皇サロン平安小将棋も
本来の桂馬の動き、輜車は香車に変わって同じくどちらも、普通の香車(通
称槍の)動き、歩兵は、ひょっとすると、相手の駒を取っても、斜めに行か
なくなるのかもしれないが、基本は、普通の歩兵の動きのはずである。
 つまり、金将と玉将は、一条天皇サロン平安小将棋と原始平安小将棋では、
位置がひっくり返るのと、玉駒が玉将ではなくて、金将になるのだが、
動かし方のルールは、金将が八方隣接升目行きで、本来の玉将の動き、
玉将が斜め後ろの隣接升目へは行けない、計6升目隣接升目行きであって、
本来の金将の動きとなる。すなわち駒の

名前がおかしいだけで、指し方の定跡は、本質的に原始平安小将棋といっしょ

になるはずなのである。
 次に、成りについてだが。宝応将棋の、象将は不成り、天馬と輜車と歩兵
は、銀将に成るが、成りの動きは、現在の日本の将棋の金将の動きである。
これに対して架空の一条天皇サロン平安小将棋の銀将、桂馬、香車は、銀将
には成らなくなるのはもちろんだが、実際の原始平安小将棋のように

金将ではなくて玉将に成り、動きは今の金将の動きになってしまう

のである。
 さて、”実際にはそのような駒は、全く出土して居無い・・”と、書きかけ
て、私は重大な事を思い出した。前に、このブログで話題にした事があるが、
通説では、

”和田さんが、いたずらして作成した”とされる、戦国時代一乗谷朝倉氏遺跡
の「成り和田(ホータン?)歩兵」駒の例が、一例だけある

のである。
つまり、前に述べたように、和田が、和田さんではなくて、中国の地名の漢字
書きであるとすると、ホータンと読むことになり、ホータンと書くのは、玉と
言いたいからであろうから、この駒は、成りが玉将と書いてあるのと同じであ
る。つまり、この駒は私に言わせると、架空の一条天皇サロン平安小将棋用の
駒と言う事になるのである。つまり、

日本の将棋史で、玉駒が金将、副官駒が玉将であった一例が、示唆されている

ように見えると言うわけである。だが、実際には以下のような、事情が考えら
れるのではないか。すなわち、成りホータン歩兵駒を作成した人間が、常々、
金の地金より玉の原石の方が、一貫あたりの値段で安いにもかかわらず、将棋
の大将が金将ではなくて、玉将なのに疑問を持っていた。そこで”玉駒は本来
は、金将とすべき”との、自説の切り出しのために、こんな駒を木簡で作って
仲間に見せ、議論をふっかけたのかも、しれないという事である。なお、

貴金属類の単価に興味を持つのは、イメージとして、武家というよりは商人

という感じが私にはする。一乗谷朝倉氏遺跡と言えば、武家の屋敷跡と周辺一
帯というのが、個人的に私にはイメージされる。が、将棋駒を作る人間、すな
わち、将棋を作ったり、指したりする人間の中に、武家の屋敷街の中であって


戦国時代には、町人がけっこう暮らして居た

という事を、あるいは、示しているのかもしれない。以上のように、この駒
を思い出し、最近不思議な事が有るものだと、思うようになった次第である。
(2017/09/20)

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玄怪録の将棋(宝応将棋)を、平安小将棋までに日本で短期間に改変可能か(長さん)

日本で一条天皇ないし側近が、表題のように宝応将棋から、平安小将棋まで
に、短期間に改変して、日本に小将棋が発生したという説がある。web上
での評判は悪いようで、主に”宝応将棋の、駒名を変えている根拠が不明”
との批判を複数、私は目にする。一番身近なのは、故・溝口和彦さんが、
自身のブログの、対応する話題で、書いていたのを私は読んだ事がある。
 さて以上表題の件についての以下、私見であるが、”駒名を敢えて替える
理由”としては、たとえば次のようなものも、考えられると思う。つまり、

金象将軍の相手である、天那軍に那という字が有り、それは暗に日本を指し
ていて、日本の敗北を暗示させるものだったので、牛僧儒の付けた将棋駒名
は、日本の軍隊を打ち破った、唐の軍隊の隊列名を暗示しており、そのまま
だと日本で使うのは、縁起が悪いので、全体として駒名を改変した

とするのである。具体的には白村江の戦いでも、持ち出すと良いのかもしれ
ないと思う。つまり、

駒名が違うというのは、このような場合、理由付けが、多少のこじ付けでも
よければ、何とでも考えられるので、それだけでは”日本の将棋が一条天皇
サロンで、発生した”との説にとって、致命的難点にはならない

と、私は思う。もう少し、改変の具体的経過を、チェックしてみる必要が
あるのではないかと思うのである。
すなわち、宝応将棋の原型は、一条天皇サロン説に好意的に、天皇側近等が
正しく宝応将棋を解読しているとすれば、3段目以下の自陣が、自陣から見
て、次のように現わされると、私は考える。

歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
輜車、天馬、象将、金将、銀将、象将、天馬、輜車

実際には原将棋には、天、輜、歩の修飾字は無かったと見られる。
次に、日本に伝来した時点での、原始平安小将棋で、修飾字は、こちらも天、
輜、歩と書いてみる。元々、伝来したときには修飾字は無く、日本人が後で
桂、香、歩と付けたと私は考えている。また、上記の”不吉説”が理由で、
天、輜、は、たまたま桂、香になったと考えるので、もとの字を書いても、
将棋の内容を本質的に、変えた事にはなっていないと、私は見るのである。
恐らく宮中に、”桂”の材で出来た将棋盤を運ぶと、その桂の材が日本国内
のものであっても、シナガツラ同様、良い”香”りがするのであろう。

歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
輜車、天馬、銀将、玉将、金将、銀将、天馬、輜車

ようするに、

南詔国から大理国へ変わった200年位で、玉将が入ったのを、日本の
一条天皇のサロンで、1年位で再現できるかどうか

が、”日本の将棋、一条天皇のサロンでの発生説”の当否の、本当のカギ
だと私は思う。そこで、上記の変化を、日本国内で起こせるのかと言えば、

たぶん起こせないと私は思う。今、同じ事をしても無理かもしれない。

理由は、

金に比べて、ホータン玉が価値上であると、日本人が本当に思うかどうか
が、謎

だからである。つまり、我々一人ひとりは、もの心付いたときから、日本
”将棋の玉駒は玉将である”と、それこそ、何千、何万回にわたって、聞か
されたから、そう思うのである。しかし実際に、ホータン玉で彫られた、
将軍の人形と、純金で彫られた、将軍の人形とを見せられて、漠然と、
”これらを使って新しいゲームを作成しろ”と言われたら、

純金の将軍人形を、中央左の玉駒の位置に並べないとも限らない

のではないか。つまり、冷静に考えてほしいのだが、玉、金、銀と並べたら、
価値は、玉>金>銀の順番ではなくて、金>玉>銀の順番のように、日本
国内の相場からは、ほぼ、そうなるのではないのだろうか。だいたい
2017年の現時点で、金はグラム数千円、玉に近い翡翠はグラム100円
から1000円、銀はグラム50円から100円位だろう。それは、一条
天皇の時代、すなわち平安時代中期の、西暦1000年前後でも、順番が、
日本では、同じであったような気が、私にはするのである。つまり本当の
所は、

玉>金>銀は、中国雲南省での相場にすぎないのではないか。

つまり、ホータン玉の将軍を駒に加えると、更に豪華さが増す事に、たま
たま、日本の一条天皇のサロンの、誰かが気が付いたとする。しかし、もし
日本の一条天皇のサロンで、唐代の宝応将棋を、北宋の時代に1年位の大急
ぎで、ホータン玉を加える方向に進化させ、日本で、原始平安小将棋を
作ろうとすると、恐らく以下のような将棋に、なってしまうのではないか。

歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
香車、桂馬、銀将、金将、玉将、銀将、桂馬、香車

つまり、日本の将棋は、

玉将ではなくて、金将を取られたら負けになるように、以降進化してしまう、

疑いがあるのではないかと、私は思うのである。
しかしながら実際には、そうなっていなかった訳であるから、

少なくとも日本の将棋の、もとネタ文献と”一条天皇のサロンで日本の将棋
発生”説で述べられている、宝応将棋のもと、すなわち南詔国の宮廷将棋は、
金や銀は山からかなり採れても、ホータン玉は何千キロも旅しないと、
産地に到達できないような鉱山の近くで、実際には原始平安小将棋に進化した

のではないかと、私は今の所、考えているというわけなのである。(2017/09/19)

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七国将棋の駒の価値(長さん)

以下、前回の続きを書く。古事類苑で紹介されている、「古局象棋図」七国象戯
の駒の動かし方ルールは、前回述べたように、web上で知られたルールのうち、
騎についてだけ、誤りがあると見られる。騎はチャンギの象のもう一升目斜め隣
接升目で止まる動きというのが、通説だが、私は上の文献を見る限り、

隣接横升目にも、途中の升目へも行ける

とみる。しかも、駒の価値が最も高いとされており、走りではなくて騎士は馬の
駒の類であって、

跳びなのではないか

と疑う。とりあえず、動かし方のルールは以上であるとする。次に「古局象棋図」
七国象戯には、古事類苑で引用されている部分の最後に、駒の価値が一文で、記載
されている。
 「騎を1としたとき、弓、弩、刀、剣が2であり、砲が3であり、碑が4であり、
偏が5である」と書かれている。判りやすくパーセントで表示すると、

 古局象棋図(%)このブログの解釈(%) 
騎   100        100
弓   050        040
弩   050        040
刀   050        020
剣   050        020
砲   033        060
碑   025        080
偏   020        100

すなわち、古将棋図では、騎駒に対する駒の価値%は、上記表の左側の数値になる
とみられる。私は、

「古局象棋図」七国象戯の記載には、間違いが2つある

と思う。最も大きいのは、
①数値は元々、交換等価数ではなくて、数値に比例する点数が、外国文献に書いて
あったのを、古局象棋図の作者は、間違って理解している
と私は予想する。根拠は、外国の象棋・シャトランジ・チャトランガ・チェス等は、
概ね、駒価値は点数表示だからである。だから、日本に七国将棋が伝来するまでは、
駒の価値は、外国では点数で表現されていた可能性が、高いと思う。次に、具体的
な数値で、
②騎はおそらく1ではなくて5であり、1なのは刀と剣
だと思う。点数で表したら、騎は最も強いため、数値は大きくなるはずであり、ま
た、弓、弩、刀、剣について、走る升目数に上限のある、走り駒である弓、弩、の
方が小駒である刀、剣よりも、価値は高くないとおかしいからである。すなわち、
以上を補正すると、今の表で、右で示した数値になると、私は思う。

そもそも砲、碑、偏の価値を比較して、砲>碑>偏では、明らかにおかしく、
砲<碑<偏になるはず

だから、このブログの見解が、恐らく真実により近いのではないかと、私は考えて
いる。(2017/09/18)

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荻生徂徠の時代(1666-1728)に七国将棋は良く知られていたのか(長さん)

さいきん、明治時代の事典で、(第30分冊)遊戯部の中に、将棋の多数の
古文書の部分的な文面が紹介されている、古事類宛(1908)の、広将棋
の所に、奇妙な事が書かれているのに気が付いた。すなわち古事類宛によれ
ば、荻生徂徠の後継の、片山兼山(1730-1782)が、著者とされる、
「廣象棋譜」の書き出しが載っている。そしてその中に、既存の将棋種とし
て、小将棋、大将棋、摩訶”大”将棋が紹介されている。ところがそれだけ
なら、不思議は無いのだが他に、

”司馬光が作成したと伝わる「七国将棋」を、更に良くしようと発展させて、
荻生徂徠が広将棋を作成した”とも、とれる旨の記載がある

のである。
 前記古事類宛(1908)には、七国将棋の文献として「当世武野俗談」の
七国将棋も紹介されており、李氏朝鮮より一辺数メートルの方形盤が、江戸
幕府に送られた結果、荻生徂徠よりもかなり後の、徳川家治(1737-
1786)の時代に、七国将棋が大奥等で指されたと、紹介されている。
 宋代の司馬光の作であるから、荻生徂徠かその弟子が、七国将棋を原理的
には知りえたはずではあるのだが、日本に事実上入ってくる以前に、荻生徂
徠には詳細に知られていたと、されていることは、いっけんして、不思議な
気がする。むろん、広将棋と七国将棋、それに摩訶大(大)将棋は、19×
19の盤で指すという点では、類であるから、荻生徂徠が、七国将棋に興味
を持つ動機付けは、もともとあると言えば有る。また、そもそも片山兼山は、
徳川家治とほぼ同世代であるから、単なる、後付の論理なのかもしれないと
も、一応疑われる。
 何れにしても、七国将棋については、その輸入について、何か経緯がある
のかもしれない。今後一応、注意しておこうと考えた。
 追記だが、「古局象棋図」記載七国将棋の、古事類宛の部分記載部を読む
限り、七国将棋の騎は、弓、弩と、ルール記載のパターンがいっしょであっ
た。よって後2者が、行ける升目に、範囲が有る型(弓が1~4、弩が1~
5)なら、騎も、私が前に書いた通り、縦横隣接合計4升目と、そこから
1,2,3升目それぞれ2方向斜めの、合計28升目それぞれへ、行けるよ
うに、書いてあると解釈できると確認された。しかも恐らく騎は、”走り”
ではなくて、駒名からして、”跳び”なのであろう。それなら、七国将棋の
駒の中では、最強になりうると思う。よってwebの七国象棋、騎駒の
”弱すぎるルール”に関する情報には、やはり間違いがあるように、私には
古文書原文から、読み取れるように思えた。(2017/09/17)

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栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡出土駒はなぜ角行なのか(長さん)

小山氏の城の東隣に位置し、恐らく南北朝時代に、小山義政
(1349?~1382)の館跡があったと見られている、栃木県
小山市神鳥谷曲輪遺跡からは、2007年の発掘で、裏が一文字の金
と書かれているとみられる、角行駒が、出土している。下野中世史の
研究家で、栃木県立博物館の、江田郁夫先生によると、1381年の
冬前後には、小山義政がここに居たとすれば、家族といっしょとみら
れており、従って、この出土駒は、小山義政とその正妻の、
小山よし姫(1354?~1382)の何れか、あるいは両方に、
関連すると見られる。なお駒数多数将棋ゆかりの、”藤原貴族”との
関係については、小山氏は藤原秀郷の子孫であり、小山よし姫も、
藤原氏筋の女性との記録が、鷲宮神社の棟札に残る。
 他方この地点は、1380年~82年の小山氏の乱の後の、室町時
代に、尼寺の青蓮寺になったと、江戸時代の旅行記に記録がある。従
って、出土した将棋駒は、上記の故人何れかの遺品の、寺での安置物
のような、使われ方の可能性が強い物品である。ではそうだとすれば、
角行ではなくて、①仏教にもっとつながりやすい、酔象とか、将棋の
駒の代表格の玉将、ポピュラーな歩兵等が、安置物とされるものとし
て使われなかったのは、何故であろうか。そこでまず、①の回答を書
く。これについてはこの駒が、復刻品だと考えれば、ほぼ説明がつく。

南北朝時代の遺物の雰囲気を出すには、摩訶大大将棋の駒に見える駒
種を選ぶのが、最も良い選択である

と、考えられるからである。つまり、仮に江戸時代の中期、西暦17
70年代頃には、小山市の青蓮寺には、”小山義政、小山よし姫のい
づれかにゆかりの、経年劣化して、文字が読めない駒”が残っていて、
その復刻が試みられたとしよう。文字種は寺に残る縁起と、整合性を
持たせるためには、その駒が、南北朝時代の雰囲気を出せる物に、す
る必要があるだろう。将棋の文献として、学生の教科書として、昔は
使われていた、異制庭訓往来の記載から、盤升目や駒数が1年の暦日
数になるような将棋種の、駒だと判るような、初期と成り駒を選ぶの
が、従って賢明だった。その際、アピールする相手が、

水無瀬兼成の作駒や、業績を知る、将棋史を詳しく知る人物で、摩訶
大大将棋の駒種を”ご覧になられれ”ば、水無瀬兼成著作の将棋図、
すなわち、将棋部類抄を、その方なら参照されるであろう事が自明

という前提がその際あったのだろう。水無瀬将棋図の調査から、その
結果、摩訶大大将棋で、成りが一文字の金と表現される事で特徴的な、
飛車、角行、竪行、横行のうちの角行が、選ばれたのであろうと、私
は考えるのである。しかし、考えてみると、摩訶大大将棋の駒らしい
駒は、これだけではない。自在王に成る玉将や、王子に成る酔象は、
作り物臭さがあるため、将棋駒の代表であったり、宗教的であったり、
していても、一応止めたとしても、
②飛車や竪行や横行、あるいは、金剛、力士、あるいは盲熊等、別の
摩訶大大将棋の駒を選択しなかったのは、どういうわけなのであろう
か。②の回答としては、

恐らく、寺に安置したときの、万が一の”盗難”を恐れた

ためと、私は考える。小山市のその界隈は、江戸時代中期は、宿場で
街中だったとみられ、旅人の往来がひっきりなしだった。青蓮寺も、
日光参拝のおりには、徳川吉宗が停留した、持宝寺関連とはいえ、持
宝寺とは違って、その末寺であり、天満宮を別当として持つと言って
も、天満宮自体もたいした規模ではなく、寺本体も小さかった。最大
で、現在の小山パレスホテル位の、本堂が有っただけだろう。よって、

珍しい中将棋風の書体のきちんとした、竪行や横行、成りが角行同様
一文字の金とは言え、”王より飛車を可愛がり”で人気の、飛車等は、
コソドロの盗難を恐れて、復刻品の駒種の候補からは、外された

と私はみる。その結果、表面を見ただけでは、いたってありきたりで、
青蓮寺の住職の説明を、”お聞きにならなければ、お判りにはならな
い”角行が、西暦1770年代の現出土駒として復刻の折に、選択さ
れたというのが、私の推理である。
 そして、以上の事から、この角行駒は西暦1776年に、徳川家康
および徳川家光の霊の祭られた、日光東照宮に参拝する予定であった、

第10代江戸将軍で、将棋指しで有名だった徳川家治個人に拝観して、
いただくための復刻品であった可能性が、かなり強い

と私は考える。すなわち成りの”金”の第1画と2画の書体が、
水無瀬兼成の将棋図、すなわち将棋部類抄の、摩訶大大将棋の成り金
の書体に、似せて作られているように、見える事から、2007年
出土品は、南北朝時代の、もともとの小山氏等の所持品の一部ではな
くて、江戸時代に、恐らく復刻品として作られた物の疑いが、かな
り強いと、私には思われると言う事である。(2017/09/16)

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中将棋等、駒数多数将棋の着手完了ルール改善用小型駒(長さん)

冊子「中将棋の指し方」で”中将棋のおもしろさ”と題して、故大山康晴
十五世名人が記しているように、日本将棋より、より厳しい”待った”なし
規則が、駒数多数将棋の駒種、獅子、飛鷲、角鷹、大阪電気通信大学試案
の狛犬、副将、火鬼、霹靂等、少なからぬ駒に”じっと”の手が指せる事
に起因して発生する。つまり、駒数多数将棋では、日本将棋等とは異なり、
前記の種類以外の駒を、振り上げて元の升目に戻すと、着手未完了の考慮
中扱いにはならず、”じっとの手”を、禁手として指したとして、反則負
けになるのである。そこで、既にこのブログで述べたように、自駒を移動
させずに、着手を完了するときには、その駒を振り上げて、元に戻す動作
をする代わりに、小さな補助的な駒を、上記の駒の上または、1手目に移
動した升目等に置いて、手を離した瞬間を、着手完了とする、という旨の
提案を行った。
 その際問題になったのは、その小さな補助的な駒が、じっとの手を指す
主駒の字を部分的にせよ、隠してしまうために、対局者の思考の邪魔にな
るという事であった。この問題が指摘されるまで、このブログでは、補助
駒として、小型の碁石(中国で昔から使用されている、おもちゃの碁石)
を推薦してきた。しかし、小型の碁石は、下に置かれる主駒の字をだいぶ
ん隠してしまうため、上記の問題に抵触すると判断された。そこで今回、
小型碁石以外の素材を、探した見たので、以下に報告する。
 以下の写真は、ハンドクラフト用の素材で、特に透明なものは、従来の
碁石に比べて、厚みはややあるものの、大きさが小さく、かつ真ん中に
穴があり、透明性もあるものがある。

補助駒ダイソー.gif

ただし、この補助駒が余りに見えにくいと、”じっとの手”を指した事自
体が、判りにくくなると、当初考えた。そこで、写真の中央のように、
右の透明タイプ等とは別に、濃い色の付いた、同様の素材も試してみた。
左は私の用いている従来の碁石である。なお、これら写真の駒は、実際に
は八角形のプラスチック製であるが、産地はチャンギの国である韓国では
なくて、たまたま中国産であった。
 次に以下は、実際に”じっとの手”を指す駒の上に、購入したプラスチ
ックの”じっとの手表現用の小駒”を重ねてみた所である。なお、購入し
た駒を使用したのは、右の方の獅子であり、左は比較のため、従来の碁石
を置いてみた。

じっとの手.gif

写真より明らかなように、碁石では獅子が、獅子なのか太子なのか、判別
がやや困難程度に、字が隠れてしまった。しかし、ハンドクラフト用の駒
の場合は、やや小型である事と、透明性が高い事から、獅子である事は、
明らかに判る程度の遮蔽であった。

 恐らく、これ以上、じっとの手表現駒を”地味”にすると、じっとの手
自体の判別が、難しくなり、購入したハンドクラフト用の八角素材のうち、
透明のものが、比較的、問題なく、じっとの手の表現の置き換えに使える
のではないか

と、結論された。
 個人的には、この透明型と予備に、無色だが半透明なタイプを1個づつ、
今後は使用したいと、今の所考えている。(2017/09/15)

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9升目平安小将棋が真似将棋で仕掛直前行き詰まるのは、桂馬の配列の為(長さん)

日本将棋のプロ棋士であり、将棋連盟関西の元の将棋博物館の館長でもあった
木村義徳将棋9段の「持駒使用の謎」によると、9×9升目36枚制の、
このブログの表現での標準型平安小将棋で、後手が先手のほぼ真似将棋を指し
たときに、仕掛け直前の局面で行き詰まるのは、”旦代晃一氏によれば、

①歩兵を五段目に出すと、先出し側が不利であること
と、
②桂馬同士で交換が生じやすく、消耗してしまう

ため”との意味に取れることが書かれている。そしてだから、二中歴の小将棋
には、8×8升目型とされる異説があると、議論が続いている。
 さて、①と②についてであるが、本ブログでの見解は、

②だけが大問題なのであって、①は基本的に有っても、一般論として特に問題が
無い。また正しくは”消耗”が原因ではなくて、このケースは”先攻め方が、
「その先どう指しても、駒損が大きく必敗になる」と見て、手の指しようが、
無くなるのが問題”

が正しい表現と見ている。なお、以上の議論は、別のページで木村義徳氏も再度
取り上げているが、

持ち駒ルールが無くても、有っても結論がひっくり返らない

と私もほぼ、断定している。理由は仕掛け前の局面までの、先後手、どちらに
も持ち駒の無い局面までについての、問題だからである。
①が議論に、余り絡んでいないことは、9×9升目36枚制標準型平安小将棋の
初期配列は、

(A)
香車、桂馬、銀将、金将、王将、金将、銀将、桂馬、香車
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
香車、桂馬、銀将、金将、王将、金将、銀将、桂馬、香車
である。が、これを、

(B)
香車、空升、銀将、金将、王将、金将、銀将、空升、香車
空升、桂馬、空升、空升、空升、空升、空升、桂馬、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、桂馬、空升、空升、空升、空升、空升、桂馬、空升
香車、空升、銀将、金将、王将、金将、銀将、空升、香車
と、全部の桂馬を1升目前に出したり、

(C)
香車、空升、銀将、金将、王将、金将、銀将、桂馬、香車
空升、桂馬、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、桂馬、空升
香車、桂馬、銀将、金将、王将、金将、銀将、空升、香車
と、桂馬を片一方だけ1升目前に出したり、

(D)
香車、桂馬、銀将、金将、王将、金将、桂馬、銀将、香車
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
香車、銀将、桂馬、金将、王将、金将、銀将、桂馬、香車
と、朝鮮キャンギ流に、銀将と桂馬を、片側だけ交換したりすると、

(B)、(C)、(D)の初期配列の将棋では何れも、上の旦代晃一氏が
議論した”9×9升目標準平安小将棋の、真似駒組仕掛け直前行き詰まり
問題”が起こらない

と、このブログでは、見ていると言う事である。

つまり、桂馬同士が”合い当たり”する事だけが、問題であると見ている

という訳である。
 以上は、将棋の道具を持っている方なら、誰でも確かめられるであろう。
また仮に道具が現行無い方も、一人でも多くの方が、百円ショップ等で、
日本将棋の盤・駒を購入して、確かめて頂きたいものだと、当ブログでは
常々望んでいる所である。
 次に木村義徳氏は、その原因になった、後手の”真似駒組”について、
”作法として、余り行われなかったのだろう”との旨を、持ち駒使用の謎で書い
ている。それに対するこのブログでの見解は、

そのような作法は実際には無く、朝廷での御前試合で、しばしば現実に
行き詰まって、西暦1080年代以降に、さぞや問題になっただろう。

と見ていると言う事である。つまり、

朝廷の御前試合でしか、9×9升目36枚制標準型平安小将棋は、西暦
1080年~90年頃には、真面目に指される事は無かった

と考えたほうが、判りやすいというのが、当ブログの見解である。しかし、

朝廷の御前試合で、指される将棋なので、少なくとも上流社会では、
標準化された、今の日本将棋に繋がる、この9升目タイプの平安小将棋は
重く見られていた

と、当ブログは推定する。よって結局の所、

二中歴の(平安小)将棋の記載は、8×8升目32枚制原始平安小将棋と
9×9升目36枚制標準型平安小将棋の、どちらを記載しているのか、
曖昧に、誤魔化した表現に”実際に”、つまり意識的になっている

というのが、当ブログの見解である。つまり、

西暦1080年~90年頃に、下々一般社会では、盛んに指された
平安小将棋ゲームは、8×8升目32枚制の原始平安小将棋の方だった

と推定するというのが、本ブログの”基本的予想”である。なお、

9×9升目36枚制標準型平安小将棋は、恐らく西暦1080年頃に、
”日本将棋の作者”と、誤って伝えられたことで著名な、初期院政派の、
大江匡房らによって、宮中で指される将棋について決められた、
”標準”だった

と、このブログでは、ほぼ断定している。そして繰り返すが、9×9升目
36枚制標準型平安小将棋の冒頭の問題は、実際に御前試合で指すと、
しばしば発生したため、宮中では問題になっていたと私は見る。もともと、
その将棋は日本に伝来した8×8升目32枚制の、もともとの形、
原始平安小将棋が、その初期配列の将駒構成形から、”藤原貴族が日本を
支配しているかのような、匂いのするものである”事を嫌って、初期院政派
が、政治的に手直ししたものであったと、ここでは見る。

香車、桂馬、銀将、金将、玉将、銀将、桂馬、香車
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
香車、桂馬、銀将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車
(8×8升目32枚制原始平安小将棋の初期配列)

その為、旧勢力であった、藤原摂関派にとっては、この標準化は元々、気分
の良い、面白いものではなかっただろう。つまり、

”真似駒組による仕掛け直前行き詰まり問題”が院政派標準将棋に存在する
ことは、もっけの幸いと、藤原貴族には見らたはず

なのである。
 その結果この欠陥が、西暦1110年の少し後頃に、13升目型の平安
大将棋を作成する原動力になっただろうと予想するのが、このブログの主題、

”なぜ小将棋の他に、大将棋が存在するのか”に対する、主な回答

と言う事になる。なお、標準的な小型将棋に、西暦1080年~
西暦1480年頃までの約400年間もの間、欠陥を孕みながら、存続したの
は、恐らく日本だけが、稀有の例であったと見られる。中国の文物、いわゆ
る”唐物びいき”が続いたのだろう。ミャンマーのシットゥインなどとは違って、
9升目36枚制平安小将棋の初期配列は、中国シャンチー型で固定だった。
また、銀と桂馬の交換も、試みられた形跡が無い事から、唐、宋、元、明が
朝鮮王朝の、高麗や李氏朝鮮より格上と、日本人に見られていたことも判る。
中国王朝の背後に、科学技術文明の進んだ、イスラム世界がある事も、中世の
日本人にはうっすらと、判っていて、中国文明を畏怖していたのだろう。
そして、それが

持ち駒ルールが恐らく、鎌倉時代の中期頃には、発明されていたとみられる
にも係わらず、成り竜王飛車および成り竜馬角行が導入されるまで、真似
駒組仕掛け直前行き詰まりは、解消されないために、15世紀の室町時代には
小将棋が中将棋を、漸近的に駆逐できなかった原因

と、同様にこのブログでは考える。そのために、

それが、昭和の事実上終わりまで、中将棋が残るほどに、駒数多数将棋が
健闘した本当の理由

であったのだろう。よって持ち駒ルールが、西暦1300年前後に仮に出来ても、
その桂馬合い当たりによる、真似駒組仕掛け直前行き詰まりが、解決されない
ので、小将棋には依然問題が有る事になり、

増川宏一氏の言う、
”持ち駒ルールが導入されれば、日本将棋がブレイクするので、持ち駒ルール
は西暦1500年程度の、(より遅い)発明とすべき”との論は、
推論の仕方が、いっけん尤もらしいが、実は誤りである

と、このブログでは、推定されているという事になるのである。(2017/09/14)

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前回の11升目68枚制前平安大将棋は、行き詰らないのか(長さん)

前回述べた、11×11升目68枚制取り捨て仮称前平安大将棋は、
9×9升目36枚制標準型平安小将棋同様、互いの桂馬が8段差配列
になっている。そのため、先後手相互同型の駒組が終わった時点で、
仕掛け手が見当たらないという、行き詰まりが懸念される。よって、
今回、その点もチェックしてみた。なお、実際には、前回述べた配列で、
4段制のものだけチェックしている。結論を述べると、

端筋を走りの飛龍を切って、破る手筋があるので、厳密には行き詰まら
ないが、攻めの手筋はそれだけで単調になる

ようである。よって、前回仮説的に述べた、11升目で68枚制の将棋
は、桂馬が2段目に配列されて、中国シャンチーと異なるだけでなく、

標準形の9段型の平安小将棋同様、行き詰まりぎみである

という欠点は、13升目68枚制平安大将棋と違って、完全には解消
されないようであった。以上のように、11升目型は、西暦1110年頃、
一時期提案された可能性がある。が、前回述べた”見栄え”と、今回述べ
た性能の以上の2つの難点から、更に13升目型の平安大将棋へ、取って
代わられたのではないかと、想像された。蛇足だが、この将棋を、無理や
り持駒有りルールで指したら、以上のように”飛龍替り将棋”しか指せな
いのではないかと、懸念される。そのため、やはり指し方は限られており、
かつ、最初に飛龍を切る、先手が、やや不利な感じのする、余り性能は
良くない持ち駒将棋になりそうな予感が、私にはした。(2017/09/13)

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二中歴の平安大将棋はなぜ68枚制なのか(長さん)

以前このブログでは、西暦1300年頃に指された、普通唱導集の大将棋が
恐らく13升目の108枚制なのは、除夜の鐘の撞く数と同じく、煩悩の数
に由来すると述べた。では、そのもとになった、二中歴の平安大将棋の駒数
68枚には、何か、意味が無かったのであろうか。
 以下は、残念ながら確証は無く、想像の域を脱しない。が、ひょっとす
ると13×13升目68枚制平安大将棋(二中歴)が、成立する直前に、

11×11升目68枚制の前平安大将棋と、言うべきものが試作されていた

可能性が、有るのかもしれないと、最近私は考えるようになった。
 その将棋はひょっとしたら、こちら側から相手側を見たときに、次のよう
な初期配列だったのかもしれない。

香車、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、香車
奔車、桂馬、酔象、飛龍、猛虎、横行、猛虎、飛龍、酔象、桂馬、奔車
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、注人、空升、空升、空升、空升、空升

あるいは、

香車、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、香車
奔車、桂馬、酔象、飛龍、猛虎、横行、猛虎、飛龍、酔象、桂馬、奔車
空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、空升、空升、注人、空升、空升、空升、空升、空升

なお、上の将棋で不明な駒の動きとしては、飛龍を、
角行動きにした時点で、酔象は、大理国式の角行動きではなくて、中国
シャンチーの象の動きにしたのかも、しれない。酔象は不成りであろう。
つまり、11升目制の将棋が9升目制の標準型の平安小将棋に対抗して、
西暦1110年頃に、旧藤原摂関派によって、一応考えられたのかもし
れないと、言う事である。なぜかと言えば、もともと、旧藤原摂関側に
してみれば、初期院制派の

9×9升目36枚制標準型平安小将棋に、対抗できれば良いのであって、
当時は盤升目の大きな将棋を作る事が、主な目的だったという訳でもない

からである。なお、このようなタイプの将棋が、もし採用されていたら、
特に上の方のタイプだと、もともと駒がぎっしり詰まっているので、後
に13升目108枚制の大将棋は、作りたくても作れなかっただろう。
 しかし、結果として、上記の将棋は、恐らく西暦1110年頃に、
ときの藤原長者には、採用されなかった。
理由は、

当時、関西圏には、中国からの帰化僧が多く、象棋の最下段袖に、馬、
車と並ぶのが、中国のゲーム、シャンチーでは常識

との入れ知恵が、あったからだと、私は推量する。もともと8×8升目
制の原始平安小将棋を、初期院制派の後三条天皇の配下の、大江匡房が
9×9升目に変えたとみられるのも、王将を中心として対称的に駒を、
配置する事が、中国のシャンチーで士駒の真ん中に、玉駒が居るのと、
対応するからだった、はずである。西暦1110年代の当時も、

中国の象棋に対抗できるような、日本の将棋を作るべき

というのが、前提だったのだろう。従って、動物駒が2段で統一されて
いる、上記の11升目制の前平安大将棋も、我々から見ると、一応もっ
ともらしく見えるのだが、シャンチーのフォームとは異なるという理由
で、結局採用されなかったのではないかと、見られる。
 しかしながら、それを構成する駒は、前に、平安大将棋が15升目に
ならなかった理由のところで述べたように、酔の字が悪く、行き所が無
く排除された酔象を除いて、

11×6+2=68枚が、すっかり、13升目制の大将棋へ移されて
使われたのかもしれない。
その結果平安大将棋は、ひょっとして68枚制になったのではないか。

13升目制にした結果、盤に比べて、駒の数が少なく空きすぎている
将棋になってしまった。だが、当時はゲームの質よりも、見栄えで9升目
の標準型平安小将棋に、実際に対抗できるかどうかが、恐らく最優先
されたに違いないと、私は推定する。(2017/09/12)

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四条畷で”石将駒”が出土した可能性は少ない(長さん)

webで”出土駒”とgoogle検索すると、現在でも、大阪電気通信大学
高見友幸研究室の摩訶大将棋のブログのページ”速報石将駒が出土した可能性”
という記事が、トップで紹介される事がある。しかしながら、以下はあくまで、
このブログの見解であるが、四条畷市の上清滝遺跡の複数の出土駒が、互いに
関連するものであると仮定したとすれば、もしそうだとすると、その中に石将
が含まれている可能性は、少ないと現時点では結論できると考える。理由は、

それらの西暦1184年頃の出土駒の中に、明らかに”王将”が含まれるため、
平安大将棋等、駒数多数将棋の類の駒だとは、考えにくいため

である。すなわち、四条畷市上清滝遺跡出土駒は皆、

このブログでの解釈によれば、後三条天皇時代に、大江匡房によって
整備された結果、西暦1080年ころに成立したとみられる、玉駒が王将の
9×9升目36枚制標準平安小将棋の駒ではないかと推定される

のである。

さて、高見友幸研究室のブログでは、上記の王将を石将と、解釈している。

私は、

石将ではなくて、王将だ

と思う。第1番目の文字が”石”に見えるのは、私に言わせると、単なる
汚れに過ぎない、左払いの一画に見える部分が、現物にあるのを根拠にして
いるだけだと思う。それに対して、

”王”の字の画は、高見研究室ブログでは、逆に汚れと見て”石”に見よう
としていると、私には取れるのだが、下水平2画、縦直線棒共に全て有る。

それどころか、最後の画の下横棒が、いっけん短く見えるのだが、写真を良く
見ると、薄く、最後の”留め”の部分も写っている。よって、第1文字は

”王”と解釈するのが、”石”より、明らかに自然である

と、私は考える。
 従ってたとえば、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」に載っている、
四条畷市上清滝遺跡出土駒3枚については、比較的はっきりと、王将と読める
王将駒のほかの2枚は、字が明らかな歩兵駒と、字が消えてしまって、実際
には判読が困難であるが、平安小将棋に含まれる駒名が、元々書いてあった
駒である可能性が高いと言うのが、このブログでの見解である。
 西暦1184年と言えば、平安時代の最末期で、藤原摂関が完全に没落
した頃であり、平安京に至近の四条畷の集落では、8×8升目32枚制の
原始平安小将棋や、13×13升目68枚制の平安大将棋は、場所がら振る
わなかったのではないかと、私は思う。また、

そもそも王将は、もともと9×9升目36枚制標準平安小将棋の駒であろう

とするのが、このブログの見解である。よって、まだ明確に、王将と玉将
の意味の違いが、誰にも明らかであった、平安時代の最末期に、王将が出土
しているのであれば、残りも、9×9升目36枚制標準平安小将棋の駒だけ
の可能性が、そうとうに高いのでは、あるまいかと私は考える。
 以上の件は、続報で当否が確定した等の話を余り聞かない。が、アクセス
は続いているようなので、このあたりで僭越ながら、私見を述べさせて、い
ただいた。現在、高見研究室の”摩訶大将棋のブログ”は、先だっての、
北海道札幌市での、啓蒙普及活動の連絡以来、しばらく停止しているようで
ある。そろそろ、活動の紹介が、再開されないのであろうかと、私は期待し
ているのであるが、どうであろうか。(2017/09/11)

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