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荻生徂徠の時代(1666-1728)に七国将棋は良く知られていたのか(長さん)

さいきん、明治時代の事典で、(第30分冊)遊戯部の中に、将棋の多数の
古文書の部分的な文面が紹介されている、古事類宛(1908)の、広将棋
の所に、奇妙な事が書かれているのに気が付いた。すなわち古事類宛によれ
ば、荻生徂徠の後継の、片山兼山(1730-1782)が、著者とされる、
「廣象棋譜」の書き出しが載っている。そしてその中に、既存の将棋種とし
て、小将棋、大将棋、摩訶”大”将棋が紹介されている。ところがそれだけ
なら、不思議は無いのだが他に、

”司馬光が作成したと伝わる「七国将棋」を、更に良くしようと発展させて、
荻生徂徠が広将棋を作成した”とも、とれる旨の記載がある

のである。
 前記古事類宛(1908)には、七国将棋の文献として「当世武野俗談」の
七国将棋も紹介されており、李氏朝鮮より一辺数メートルの方形盤が、江戸
幕府に送られた結果、荻生徂徠よりもかなり後の、徳川家治(1737-
1786)の時代に、七国将棋が大奥等で指されたと、紹介されている。
 宋代の司馬光の作であるから、荻生徂徠かその弟子が、七国将棋を原理的
には知りえたはずではあるのだが、日本に事実上入ってくる以前に、荻生徂
徠には詳細に知られていたと、されていることは、いっけんして、不思議な
気がする。むろん、広将棋と七国将棋、それに摩訶大(大)将棋は、19×
19の盤で指すという点では、類であるから、荻生徂徠が、七国将棋に興味
を持つ動機付けは、もともとあると言えば有る。また、そもそも片山兼山は、
徳川家治とほぼ同世代であるから、単なる、後付の論理なのかもしれないと
も、一応疑われる。
 何れにしても、七国将棋については、その輸入について、何か経緯がある
のかもしれない。今後一応、注意しておこうと考えた。
 追記だが、「古局象棋図」記載七国将棋の、古事類宛の部分記載部を読む
限り、七国将棋の騎は、弓、弩と、ルール記載のパターンがいっしょであっ
た。よって後2者が、行ける升目に、範囲が有る型(弓が1~4、弩が1~
5)なら、騎も、私が前に書いた通り、縦横隣接合計4升目と、そこから
1,2,3升目それぞれ2方向斜めの、合計28升目それぞれへ、行けるよ
うに、書いてあると解釈できると確認された。しかも恐らく騎は、”走り”
ではなくて、駒名からして、”跳び”なのであろう。それなら、七国将棋の
駒の中では、最強になりうると思う。よってwebの七国象棋、騎駒の
”弱すぎるルール”に関する情報には、やはり間違いがあるように、私には
古文書原文から、読み取れるように思えた。(2017/09/17)

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