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崇徳上皇の御前で指した藤原頼長と源師仲の大将棋、なぜ勝負がついたのか(長さん)

 西暦1142年の平安時代末に、その時代の藤原長者で保元の乱で知られる
藤原頼長と、源朝臣師仲が、”崇徳上皇の御前で大将棋を指し、源朝臣師仲に、
藤原頼長が負けた”と、藤原頼長の日記、台記に記載されている。これは、
大将棋という語句が、日記に出てくる珍しい例であるため、大将棋が指された
証拠として、通例引用される。
 ところで、13×13升目68枚制の二中歴記載の、平安大将棋の、これが
通説のようにその事だとして、走り駒が少なく、終盤の局面進行が、極めて
スローとみられる平安大将棋が、皇族の御前試合で、無事に勝負がついたとし
たら、かなり不思議である。そこで、どうして勝負がついたのかというのが、
今回の議題である。回答を先に書くと、

藤原頼長が手を緩めて、わざと勝負を付けたのだ

と私は考える。つまり、もともとこの日の対局は、

平安大将棋が、ゲームとして問題が無い事を、藤原頼長がアピールする、デモ
ンストレーションの意味合いのある。御前対局だった

と、私は推定するのである。
ただしその前に、平安大将棋に、走り駒の割合が少なすぎて、簡単には勝負が
付かないのが確かとして、1142年に崇徳上皇の御前で指したのが、本当に、
13×13升目68枚制の平安大将棋だったのかという、問題もあるかと
は思う。二中歴はその数十年後に、編集が完了した史料だからである。手がか
りは少ないので、以下は、とても確定証拠とは言えないが、

藤原頼長の大将棋が二中歴の大将棋のようであるという証拠としては、大将棋
が、どちらも”大將棊”と、同じ字体で表されている

事を、例えば挙げる事ができると思う。二中歴で、将棋の升目数が、8升目か
9升目か、どっちつかずに書いてあること。大将棋をそもそも説明している事、
玉将の表現で、玉駒が統一されている事からみて、藤原摂関に、比較的好意的
な執筆者が、この部分を記したと私は推定している。したがって、その中で、
字体を藤原頼長と一致させ、大象棋等と表現しない所をみると、同じゲームを
指している、可能性がかなり高いと、私は思う。
 では13升目68枚制の将棋で、御前将棋は、日記の書き方から見て、
1局だけ指したと見られるが、なぜ無事、終局したのだろうか。これは、
そうなりにくい将棋で、勝った方が細工するとは考えにくいので、

負けたほうの藤原頼長が、自玉が詰むように、それとなく旨く指した

としか、考えにくいというのが私の観測である。しかし、単に上皇や皇族の
御前で、既存の将棋の一つを楽しんでみせるのが目的なら、

藤原頼長が、平安大将棋は勝ったり負けたりの楽しいゲームである

と、自ら進んでアピールする必要は無いとみられる。なお”平安大将棋は勝負を
付けるのが困難だ”という点は、明月記の藤原定家が、建保元年4月27日の日
記で、”四位の葉室(?)仲房が、恐らく大将棋を指して一局も終わらないのが、
彼の死期の近いの根拠なのかどうか、内心自分には疑問に思うが、少なくとも彼
の言(云)い分では”と、私に言わせると意図的に言(云)の字を、ダブル挿入
して、それとなく藤原一族の一部も、認めている事柄だと私は見ている。ところ
が、実際にはゲームとして不完全なはずの平安大将棋を、藤原長者が旨く指して、

そのゲームデザイナーをかばい、どうにかして勝負を付けてみせるという事は、
この将棋を皇族の御前で指す、標準将棋にしようという意図が、藤原貴族の長
である長者の、藤原頼長にはもともとある証拠。

つまり、平安大将棋は、単に貴族も指したゲームではなくて、その成立に摂関
家が深く、関与したゲームではないかと、私が従来より考えている、有力な根拠
でもあるという訳なのである。(2017/10/08)

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