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鳥羽上皇の覆物占いの”将棋駒”は、シャンチーの駒ではないか(長さん)

前回の大宰府「桂馬、香車、歩兵」木簡の年代を、webで調査していた最中、
福岡県大宰府市の広報のPDFで、源師時の日記「長秋記」、西暦1129年
5月2日の、鳥羽上皇の「将棋駒12枚を使用した覆物占い」関連の記載があ
るのを、その時発見した。それによると、長秋記の、この日の分から、恐らく
少し置いた、日記の別の部分に、

占いの方法は、中国人の作成した書籍の内容を、大宰府経由で入手して、
真似たもの

との、記載があるそうである。上記は原典を当たって居無いので、内容の真偽
を、まだ私は確かめては居無い。ただし、これが正しいとすると、

使われた将棋駒12枚というのは、中国シャンチーの駒が、それ以前に大陸
から朝廷への、贈答されており、その品の転用の可能性が強い

事になるのではないかと私は思った。

中国人の作った占い方法が、日本の将棋駒を12枚、逆輸入して手法を作成し
たものという可能性は考えにくく、現地で指されている”将棋”道具を、使っ
ていると、ほぼ断定できる

からである。つまり覆占いのやり方を、日本の将棋駒に合うように、苦労して
工夫しなくても、”西暦1122年までには、北宋の首都開封に存在した”と
されている、シャンチーの盤駒の一組くらいは、日本の朝廷は、何らかの繋が
りで、西暦1129年までには、少なくともその数年間の差で、既に入手して
いて、それを使えばよかった、可能性が強いのではないかと、私は考えるので
ある。
 そもそも占いの駒は、占いにしばしば使われる、トランプを見ても明らかな
ように、均一な形大きさで、札の種類がいろいろある方が、使いやすい、はず
である。日本将棋の駒は、駒の種類によって、大きさに若干の差がある場合が
多いため、覆物占いで、インチキが可能な、危険性が有ると私は思う。その点、
駒の種類によって形が差が無い、シャンチーの方が適性が高い。また、円形な
らば、置いた角度に、なんらかの意味づけをする事も、可能であろう。だから、
左右対称なだけの、五角形駒の日本将棋よりも、シャンチーの駒の方が、占い
の道具として適しているのは、明らかなように、私には思える。加えて仏滅大
安の迷信から見ても明らかなように、駒の意味は、占う当事者には、余り鮮明
で無い方が、神秘性があるのではないか。つまり、玉将、金将、銀将と言った、
なじみの深い駒名よりも、帥、将、仕、相と言った、普段聞き慣れない駒の、
数とか順番とか、置いた角度とか、場所とかで占った方が、占いの意味づけは、
威厳があるような気もする。
 思えば他の方のブログで、かつて私は、この

鳥羽上皇の12枚の将棋駒占いについては、平安小将棋の駒であろう

という考えで、書き込みをした事があった。そのため今回、自分のブログで、
以前の考えを変えるのは、冒頭でのべた占い方法の情報を、知らなかったとは
いえ、心苦しい事ではある。しかし、恐らく9×9升目36枚制標準的平安小
将棋が成立し、平安大将棋もひょっとすると存在していた、西暦1129年頃
に、今が”旬”の中国シャンチーが日本の朝廷には、いち早く輸入されていて
も、平安小将棋が、京都で流行っていれば、新参者の中国シャンチーには、
置き換わらないであろう。だから朝廷で、占いの駒としてだけ、シャンチーの
駒が使われていたとしても、さほどの不自然さは、ないのではないかと、私に
は、大宰府市の広報のPDF情報を得て、思えるようになったのである。なお、
鳥羽上皇の時代になると、中国からやってきた僧侶等は、しばしばシャンチー
を指していただろうし、日本人の中にも、将棋ゲームそのものに、深い興味を
持つ者であれば、幾らかは、中国シャンチーも指せる人間が、出てきていたの
かもしれないとも、思える。
 ただし平安小将棋のこの時代の駒が、京都で多少の枚数出土するほどには、
シャンチーは、わが国では以降も振るわなかったのであろう。以上の考えから、
大宰府市の広報の記事に、間違いが無い限り、今後は、

源師時の日記「長秋記」の鳥羽上皇の将棋占いは、恐らく朝廷がたまたまその
時点で所持していた、円形の中国シャンチー駒を、12枚使ったもの

との説を、私は取る事にきめた。なお話題は変わるが、上記の大宰府市の広報
によると、「桂馬、香車、歩兵」木簡は、11世紀の終わりから、12世紀の
初めの頃とみられる、ゴミ捨て場から発見されたもの、という事である。また
将棋駒名以外の、字の内容は、2~3度書きの落書きの類のとの事である。
「桂馬、香車、歩兵」木簡が、1036年成立説はこの情報により少し弱まっ
たが、木簡の方も依然、おおいに注目すべき内容のものだと、私は考えている。
(2017/10/11)

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