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室町後期公家三条西実隆の1524年、飛車角成りを書き忘れの原因(長さん)

将棋史家で遊戯史学会会長の増川宏一氏著書、将棋の歴史(2013年発行)
に、早期日本将棋に関する記述として、西暦1524年10月12日ころ、
熱心な中将棋と小将棋の棋士であり、将棋駒の書家として知られていた、
公家の三条西実隆が、飛車成りの龍王、角成りの龍馬を書き忘れて、自身の
将棋の先輩、甘露寺親長の息子の、覚勝院了淳より、駒を送り返された
エピソードが記載されている。上記成書では、1524年に現行の、
9×9升目40枚制日本将棋が、1524年時点で存在していた証拠のひとつ
とされている。覚勝院了淳の手紙の裏面が、三条西実隆の日記の用紙として
使われていたか、実隆の日記に了淳の手紙が挟まっていて、一緒に保管して
あったかの、どちらかのようである。「飛車と角行の」と、限定的に書いて
あるので、覚勝院了淳へ送られた道具が、日本将棋の可能性は、強そうである。
以前、このブログでは、この手紙を、中将棋の成りの成立が、比較的難航し
た証拠の一つとしてあげていた。飛車角は、本来不成りか金成りであったが、
中将棋の時代になってから、龍王、龍馬成りになったとみられる。そこで、
三条西実隆が、成りを書き落としたのは、龍王、龍馬成り成立の時期が、
比較的近いからと私は考えたのである。しかしその後、私の考えは、出土駒
の状況と違うし、遅い中将棋の成り成立理由であった、猛牛のルール変遷に
も、気が付いた。そこで早期に中将棋の成りはできたと、今は改めている。
 しかしそうすると、今度は、冒頭の成書にも記載されているように、
三条西実隆が極めて熱心な、中将棋の棋士だったとされるため、

飛車・角行の成りは、三条西実隆の時代には龍王、龍馬に成る事は当たり前
で、むしろ無意識に、そのような駒を依頼されれば作ってしまう可能性さえ
あり、うっかりして、龍王、龍馬を書き忘れるという話は、うっかりという
点が、むしろ不自然である

と、私は考えるようになった。そこで今回の論題は、仮に、わざとだとしたら、
理由は何か、という事である。そこで以下、ただちに結論から書くと、

不成りの飛車、不成りの角行をそれぞれ使う、9×9升目37枚制平安小将
棋(持ち駒有りタイプ)を、送り手の親である、甘露寺親長が指していた

からだと、私は考える。なおこの将棋は、いわゆる”駒落とし将棋”の仲間で
あり、棋力の弱い方に、逆に不成り飛車か、不成り角行を余計に与え、置く
位置は、いろいろで、たとえば飛車なら、右銀将の上、角行なら、右金将の
上だったのかもしれないと、私は思う。なお、初期位置については、右銀か
ら一手で動かせるようにして、8×8升目32枚制大理国小将棋の象に対応
させようと、したと私が推定したためだが、これ以上の議論は、以下ではし
ない。
 さて、上記のように考える理由だが、

三条西実隆日記の西暦1506年7月9日に、中納言と6局指したが、実隆
の圧勝だったらしく、次回のハンデは”飛車にするべきか”という旨の記載
があるが、実隆の飛車を落としてもよいし、もともと指した将棋に飛車は無
く、相手に飛車を与えても良い

と、私は考えるからである。なお、駒落ちではなくて、

駒加えのハンデ戦になったのは、36枚制平安小将棋よりも、37枚制大駒
片方存在平安小将棋(持ち駒有り)の方が、ゲームとしての性能が、実際、
かなり良くなる事に、試行錯誤で気がついたという、日本将棋成立への過渡
期現象

と、捉えることが出来るのではないか。。なお、蛇足だが、この駒加え将棋
では、後手がもともと、標準タイプ平安小将棋では有利なので、下手側が
先手で指すルールとみられる。つまり、小将棋を指すとき、西暦1424年
から1500年が、生没年だった甘露寺親長は、9×9升目36枚制平安
小将棋(持ち駒有りタイプ)を指し、三条西実隆も西暦1506年7月ころ
までは、大先輩に習って、そうしていたのではないかと、私は推定する。
しかし、それから20年ほどした、

西暦1524年時点では、小将棋の中で、現行の日本将棋と、各裏表駒型が
同じ、初期配列も同じ40枚制のものが、優勢になってきていた

のではないだろうか。むろん、日本将棋が流行りつつ有った事は、三条西実
隆も、充分知っていて、その時点では自分も、指したのかもしれない。しか
し今回、「小将棋の字を書いてくれ」と依頼してきたのが、三条西実隆に
とっては、ほかならぬ、将棋の大先輩の甘露寺親長の息子の、覚勝院了淳
であった。そのために「小将棋」と聞いて、反射的に甘露寺親長指した、
9×9升目36枚制平安小将棋(持ち駒有りタイプ)を連想し、ハンデ用の
駒のつもりで、不成り飛車、不成り角行を作って、送ったが、事情を詳しく
知らずに、その時点の小将棋しか知らない、覚勝院了淳からクレームが来た
という、経緯だったのかもしれないと、私は思う。
 なお、この三条西実隆が覚勝院了淳へ送った、不成り飛車、および不成り
角行は、現物が残っている訳ではなくて、記録があるだけである。しかし、
扱いとしては、日本将棋の駒で、飛車と角行に成りの無いものが、恐らく
2枚、1セットまるまるの平安小将棋の道具と一緒に出土し存在している、
というレベルで扱ってよいのではないかと、私は思う。

 つまり、覚勝院了淳の手紙は、日本将棋には、その前段階として、
中将棋の駒を借りてきて、たとえばハンデ戦をするために、標準型の36枚
制平安小将棋に、飛車角が加えられた時代があったらしいことを示す、
極めて貴重な文書

かもしれないと、私は見ているのである。(2017/10/18)

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