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なぜ麒麟の動きのルールが鎌倉中期に考え出せたのか(長さん)

 現在中将棋で、麒麟のルールは、縦横に1升目跳び、斜めに歩み
となっている。普通唱導集時代の仮説108枚制大将棋を取ると、
26種類の駒の動かし方ルールで、跳びと歩みが混合する例は、
麒麟と鳳凰の2種類、走りと歩みが混合する例が龍王と龍馬の二種類
であり、動きのルールとして複雑である。なお130枚制の後期大将棋
では、獅子が改善されれば同種類なので、跳びと歩みが混合する例は、
麒麟、鳳凰、獅子の3種類となる。何れにしても、麒麟は、跳びと歩み
を混合させる、最初の例のはずである。
 実は、話を更に判りにくくして、たいへん申し訳ないのであるが。
本ブログでは、前に結論だけ述べた事があるが、

麒麟の当初ルールを、”跳びと歩みの混合する駒”と、見て居無い。

麒麟は、平安大将棋の猛虎の動きを2回まで繰り返せるが、2回目は
必ず90度曲がって動かなければならない”踊り駒”

と、見ているので有る。つまり、

麒麟は常識的に考えると、考え出すのが、今よりもいっそう難しい駒

と見ていると、言う事になる。こう見るのは、ついでに鳳凰を、跳びと
歩みの混合駒ではなくて、シャンチーの象・相の斜め動き、つまり弱い
走りと、縦横歩みの、走り・歩みの混合駒というふうに見ている事に、
関連している。つまり発生した、鎌倉時代には、図として書くと、麒麟
と鳳凰は、45°回転させると対称的な動きの駒のように見えるが、そ
の実かつては、動かし方のルールが、互いに、かなり違う駒だったと、
本ブログで独自に考えているのである。そしてこのように、いっけん
ヒネクレて考えるのは、

麒麟の成りの獅子と、鳳凰の成りの奔王が、全く対称的になっていない
事が、もともとの麒麟、鳳凰のルールを、踊り駒と、走り主体の駒の
別種族と考えると、旨く説明できるため

である。そこで、麒麟が平安大将棋の猛虎2回の動きで、2回目は必ず
曲がるというのが、元だと言うのが正しいとして、こんなヒネッたルー
ルを、なぜ鎌倉時代の中期に発明できたのかを、次に考えてみる。今回
は以上が論題である。だいぶん前置きの説明が長かったので、今回は、
ここでようやく結論が書ける。そこでこれが何故かと言うと、西暦

1300年頃に成立していたと見られる、108枚制の普通唱導集大将
棋で、麒麟が猛虎の隣にあり、猛虎自体が、性能の悪い駒だったため、
それを挽回しようと、頭をヒネッたあげくに、必要は発明の母の例え通
り、麒麟が、初期の”珍しいルールの踊り駒”として発明できた為

だと私は考えるのである。
 そもそも、猛虎のように斜めに歩む駒は、玉将周りを手薄にするため
に玉将近くに置くべき駒である。しかし、猛虎の場合、玉将から若干離
れた銀将の前の升目に置かれている。そもそも、玉将のディフェンスを
全体として弱くしたいのなら、金将を玉将の隣に置いてはだめである。
これでは、猛虎が存在する事自体が、意味不明になるからである。
しかし、実際には、無駄駒として猛虎が存在する。猛虎は調整された
守り駒でも無ければ、攻め駒にもならない、平安大将棋では、ゲームと
しては

猛虎は存在自体が、ほとんど意味が無い駒

なのである。この点は、駒の初期の置き方の骨格を変えないとすれば、
普通唱導集時代の大将棋でも、事情は同じであった。だが、普通唱導集
の大将棋の骨格を、その普及のためには、二中歴記載の大将棋と、替え
る事は出来なかった。ので、普通唱導集大将棋のゲームデザイナーは、
猛虎の隣接部分に、猛虎の強力な改良駒を置くことを、考えたのだろう
と私は見る。なお、改良方法としては、

縦横のどこかにも歩める、5方向程度の銀将型の歩み駒に、猛虎を変え
るというのが、最もポピュラーだが、猛虎2回の動きという駒でも、
盤面の半数の升目に行き所が無いものの、動きは速くなって、比較的
攻め駒として有望なのに、試行錯誤で気がついた

と、私は推定するのである。その結果”平安大将棋の猛虎2回動きだが、
2歩目は90°曲がらなければならない”という、原始麒麟の駒ルール
が、完成したのではないかと、私は推定する。
 なお、このタイプの動かし方は、江戸時代になると普通に考え出され
るようになった。広将棋の虎翼や天馬がそうであるし、松浦大六氏所蔵
象戯図式の、天竺大将棋の奔鷲の斜めからの”猫叉二回の動き”がそう
である。

しかし、平安大将棋に関しては、猛虎の、あまりにも存在の意味自体が
不明という、危機感というマインドが、鎌倉時代中期という、それよ
りはるか以前にも、奇跡的に、同種の繰り返し踊り駒を、たまたま生み
出したのではないか

と、私は推定するのである。なお麒麟の、この元々の動きは、猛虎を
王将に入れ替えて、麒麟自体の成り駒である獅子の動きを、自然に生み
出したと私は、当然だが推定している。そして、その獅子の踊り動きで、
1歩目の自分の駒も、跳び越えられるように改良された時点で、恐らく、
麒麟の縦横、結果としての1升目跳ばした位置への移動が、ジグザク
踊りの結果ではなくて、普通に跳んで行けるようになった。そして、
鳳凰の斜め動きが、麒麟の影響で、シャンチー象走り(塞馬脚有り)か
ら、単純跳びに変化して、かつ踊らずに確定いた。すると、今度は又、
麒麟がその更なる影響で、ジグザグ踊りを、消滅させたのであろう。
かくて、麒麟と鳳凰は、45°回転させると、現在のように同じ動きの
駒になった。

ただし、そのようにして、麒麟と鳳凰の動きの関連性が高くなっても、
成りは、それぞれ踊りの獅子と、走りの奔王とが、対応付けされ続いた。

以上の経緯を仮定しさえすれば、麒麟・鳳凰の現在の、少なくとも中将
棋のルールは、ぴたりと説明できるように、私には思えるというわけで、
麒麟の動きのルールの謎が、以上で一応説明できたと言う訳なのである。
(2017/11/30)

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将棋纂図部類抄曰くの鳳凰の斜め動きを飛龍と違い跳び越えにした訳(長さん)

将棋纂図部類抄の、中将棋の初期配列図の後の、駒の動かし方ルール
の補足には、少なくとも”中将棋の鳳凰は、飛龍の正行度踊りの動き
とは異なり、斜め方向には跳び越える”と記載されている。恐らく、
室町時代の初期、15世紀の初めに、中将棋の棋士が、摩訶大大将棋
の、金剛や力士の駒の、動かし方ルールが確立した頃までには、鳳凰の
斜め動きと、麒麟の縦横動きに関して、実際に将棋纂図部類抄に書か
れているような、駒の動かし方のルール選択を、したのであろう。
 では、なぜ中将棋棋士は、鳳凰の斜め方向への動かし方ルール等を、
飛龍型にしなかったのであろうか。以上が、今回の論題である。
 そこで、例によって結論を最初に書く。

”踊り”と表現しても、そのタイプが、
”踊りA型”と、ここで仮に名づける、方向転換が出来る。動き升目
の数は、1から表現された数までである。という、獅子型の踊りと、
”踊りB型”と、ここで仮に名づける、方向転換が出来ない正行度、
動き升目の数は、表現された数だけに限定される、と言う踊りと、
踊りの種類が、中将棋の中で2種類できてしまい、適当な単語で区別
がつき難い。それで鳳凰の斜めは、途中駒を取らないに限定される、
カテゴリーが全く違う、”跳び越え”に、変えてしまった

ためだと私は考える。つまり、
中将棋指しは、踊り駒と言えば、”踊りA型”に分類される、獅子、
飛鷲、角鷹の3種類に限定できるようにし、実戦で、棋士同士での
トラブルを、避けたかったのだと思う。なお、言うまでも無いが、
ここでの私論や、増川宏一氏の二中暦訳によると、元々、走りか、
こちらの方が本来、跳び越えだったとの説が、現在有力な飛龍の方が、
少なくとも”摩訶大大将棋口伝”が成立した時点で、金剛、力士、猛牛
の類の、斜めは、踊りB型で踊る駒に変化していたようである。
 次に以上のように推定できる根拠であるが、以下の一点だけ、つまり

踊りA型と踊りB型が違う事を、摩訶大大将棋口伝で、方向転換で
き無いまでも、狛犬の説明を使って、区別しようとはしている。が、
飛鷲、角鷹のような典型踊りA型と、踊りB型とを分けようとする
努力をした跡の見られる、よりはっきりとした文献が、特に見当たら
ない

という点を、挙げる事が出来ると私は理解している。つまり、中将棋
棋士達は、室町時代の早い段階で、

上記の労苦を、鳳凰の斜め動きを、各種の踊り類ではなくて、跳び越
えにしてしまう事によって、予め回避してしまった

のではないかと、私が考えているという事である。なお、大将棋や
摩訶大大将棋の鳳凰を、中将棋の鳳凰と同じにして、良いかどうかに
ついては、これとは別問題であって、現在論争中である。
大阪電気通信大学の高見研究室が、鳳凰は将棋種によって、ルールが
違うとの立場を取っている。ので、前に”小さい也問題”として、本
ブログで取り上げたことが有るが、彼らの言い分を、彼らのブログ等で、
注意して聞いてほしい。
 なお、

現代流に大将棋を指す場合は、麒麟、鳳凰の動きは、プレーヤーが
かなりまだ居る中将棋と同じで良い

のではないかとの立場を、本ブログでは今の所取る。(2017/11/29)

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麒麟の成りは何故獅子になったのか(長さん)

前回、普通唱導集、表駒24種は、22番目と23番目の麒麟・鳳
凰が、龍馬から、連想容易なので、概ね蒙古来襲時代までには、
全て成立し得たとの説についてのべた。なお25番目として、酔象
の成りの太子がある。本ブログでは、酔象の成り駒であり、仏教の
強かった日本の中世社会では、さまざまな太子のうち、酔象に食い
殺されそうになった釈迦の、俗名に付いていた、太子(王子)が、
釈迦の事を隠然と現していると、その当時の将棋指しには、主に
イメージされていたとの説を取っている。つまり、

酔象の成りの太子は、釈迦の事である

とみていたと、推定するわけである。成立は、蒙古来襲時。神仏に
国家の未来を幕府・朝廷が両方で祈る過程で、釈迦の国家守護か、
その力の偉大さを当てにして、ご利益を期待し、当時の大将棋に
”酔象”として、玉将の直ぐ前に加えられたと、前に書いたが、
ここでは推定している。その結果、悪党の類である横行が、
袖から2列目の前段(3段目)に移動させられると同時に、
その内側に、堅行と角行が発明されたというのが、本ブログでの考
えである。以上で25番目までは説明できるとして。今回は、
ラスト残り26番目の、

成り麒麟の獅子の起源。すなわち獅子がなぜ、中将棋、大将棋、
将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋で、麒麟の成りでもあるのか

について、考える事にする。結論から何時ものように書くと、

麒麟の位置が、西暦1300年時点の普通唱導集大将棋で、成ると
太子になる、酔象の隣に、たまたま在ったから

だと私は考える。なお本設問に関して先行研究としては、大阪電気
通信大学の高見友幸先生による「狛犬と獅子とは対なため、摩訶大
大将棋で、狛犬が有れば、獅子の存在は必然」という論がある。た
だし、この論では、初期配列の獅子が存在する理由として、正しい
のかもしれないが、

麒麟の成りも、何故獅子にしたのか

という点では、なおも考察が必要なのではないかと私は思う。そこ
で、仮にもし、この駒が発生した将棋の、もともとの麒麟の位置が、
酔象の隣だと、麒麟の成りが、なぜ獅子になれるのかと言う事になる
のだが、以下の理由であるというのが私の考えである。その訳とは、
酔象の成り

太子を釈迦如来だとみると、獅子吼(ししく)という単語が、信心
深い中世の日本人には、ただちに連想できると考えられるから

だと、私は思うからである。その他、釈迦に限らず高僧の座る席を、
当時は獅子ノ座と呼んでいたため、この獅子ノ座という単語からも、
連想できると思う、つまり”太子”の有名人の代表が、酔象に殺さ
れかけた、古代インド王国の釈迦なら、隣駒の麒麟の成りは、隣の
酔象の成りに合わせて、獅子と名づけるのが妥当と、鎌倉中期、
蒙古来襲時の頃、見られたのではないかと私は思う。
 そもそも、獅子奮迅という言葉が、源平盛衰記等でも、龍馬と、
酔象という単語で対に出てくる事もあり、獅子は、将棋の駒として
取り入れられる可能性の高い、名前ではあった。その他、高見先生
の言うように、別種類の将棋ゲームでも、獅子という名称は、使わ
れていたのかもしれない。しかし、それだけでは、麒麟の成りにも
しなければならない必然性は、充分ではない。ところが、
仮説普通唱導集大将棋では、酔象の成りは、今度はルールで書くと、


玉将や王将の動きをする。それだけでなく、取られると玉将が無く
ても負けにならない、二枚目の玉駒でもある

”になっていた。そして、このブログでは、その右と左の駒の成りが、
それぞれ

玉将や王将の動きをする。それだけでなく、全方向に歩むだけでな
く、走る奔王に成る。

玉将や王将の動きをする。それだけでなく、玉将の動きを2回相手
の手を挟まずにできる。

になった。つまり以上のような、互いに形式が揃った

計3種類の成りが、並んで作られたはずだと、本ブログでは推定する

のである。獅子はもともと、自駒は跳び越せ無かったはずだと、個人
的には思う。そうでなければ、同じようなルールを、どこからか、も
ってきて、荻生徂徠が、江戸時代作の広将棋の2回動き駒で、採用し
ないように思えるからである。つまり、麒麟の成りは、もともとは、
正確に”玉将の動きを2回繰り返す”と、表現されたはずだと、この
ブログでは独自に推定する。これは、自駒も跳び越せる、普通の獅子
のルールよりは、自陣に居るとき、少し動きが悪い、今のと、ほぼ同
じと言えば同じの、良く似ているが、少し違うルールである。
 以上のように、繰り返すとこの3種類の成りは、3種類有るだけで
なくて、ルール・ブックに書くと前半が”玉将や王将の動きをする。
それだけでなく、”と表現される形式に、完全に統一されていたはず
だと、このブログでは推定するのである。だから、

鳳凰の成りがスーパー玉将(王)と表現される、奔王であるとすれ
ば、麒麟の成りも、スーパー王とイメージされる駒名であるべき

であった。そこで、この事からも

獅子吼という単語が、獣の中で、獅子が王者である事をも意味してい
る事から、王のイメージと獅子とがここでも繋がり、麒麟の成りが獅子
に確定した

と私は、釈迦説法→獅子吼→獣の王様とつなげた、デザイナーの思考
過程を推測するのである。つまり、

安土桃山時代に水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄の後期大将棋の成りに
ついて記載した”成り駒3枚”は、本物の大将棋、すなわち仮説普通
唱導集大将棋では、やはり偽物の後期大将棋とは違って、本来一列に
並んでいたはずだ

と、私は思う。そして、恐らく麒麟の成りが獅子なのは、酔象の成り
の太子を、中世の日本人は、酔った象を最も有名にした、殺人未遂被
害者、釈迦の隠語のように見ていた事の、動かぬ証拠でもあるように、
私は考える。以上のことから、冒頭の結論のように、推定されるとい
う訳である。(2017/11/28)

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鎌倉中期、大将棋ゲームデザイナーが麒麟・鳳凰を早期導入できた訳(長さん)

本ブログの見解によると、横行から角行が思いつけ、従って堅行を
思いつくのは容易。嗔猪、猛牛は飛龍、猛虎が十二支駒であるから、
思いつけると考えれば、酔象は1058年には既知であるし、その
他については、概ね、平安大将棋の駒名の組み合わせ変更で作り出
せるので、鎌倉時代の蒙古来襲の頃には、108枚制の普通唱導集
大将棋の駒は、ほぼ作り出す事が出来ていたという事になる。
 ただしこれには、なおも例外がある。麒麟と鳳凰を将棋の駒名に
する事に、鎌倉中期のゲームデザイナーが、なぜ気が付けたのかと
いう点である。ちなみに古語辞典を調べてみると、日本書紀以降、
鳳凰は麒麟と対でしばしば使われるため、麒麟が将棋駒名に採用さ
れれば、鎌倉中期には鳳凰も採用されると考えて、良さそうである。
つまり、鳳凰・麒麟は他の駒名の字を入れ替えても、作れる単語で
は無いのに、本当に安土桃山時代ではなくて、鎌倉時代の中期に、
思いつけたのであろうかと、いう疑問である。以上の事から、今回
の論題は、

鎌倉時代に麒麟という名の駒名が、早い時期に考え出されていたと
すれば、それはいったい何故なのか、

という事となる。
 そこで何時ものように、結論としてまず回答を書くと、

鎌倉時代中期時点で、麒麟が龍馬と類似語であった為

だと私は考える。今では、龍馬と麒麟は余りつながらないが、

鎌倉時代には、これらが「名馬」の意味でどちらも、使用されて
いたため

と、言う事である。なお、名馬の方の麒麟は、古語辞書によると、
”騏驎”と書く場合が、あるらしい。尚以下は私の想像だが。大大
将棋に馬麟という駒が有る。これは騏驎と麒麟が同音で紛らわしい
ので、騏驎を指すと言う意図で、馬麟という駒名を、恐らく戦国時
代の、書家の大大将棋デザイナーが、考えたのではないかと思う。
 以上のように古語辞書から明らかに、麒麟も龍馬も名馬の意味な
ので、龍馬が、龍王や飛龍と、桂馬の字の組み合わせを入れ替えて、
蒙古来襲の頃までに考え付ければ、

龍馬から麒麟が思いつけるのは、鎌倉時代の人間なら、今の人間と
違ってむしろ容易

だと私は見る。そして麒麟が思いつければ、鳳凰は、日本書紀や
今昔物語で麒麟と対で使われるので、鎌倉時代中期にも、鳳凰とい
う名の駒が、麒麟と対位置に作れるだろうと、言う事になる。
 ちなみに、安土桃山時代の将棋の文献である、水無瀬兼成の、
将棋纂図部類抄によると、後期大将棋の成り駒は、酔象、麒麟、鳳
凰の3枚(と、恐らくは鎌倉出土駒から見て、歩兵)との事である。
ところが、後期大将棋では、これら酔象、麒麟、鳳凰3枚は、並ん
で配列はされない。酔象だけ2段目で、麒麟と鳳凰が3段目なので
ある。それに対して、本ブログで紹介した、西暦1300年頃の、

仮説普通唱導集大将棋では、酔象、麒麟、鳳凰が2段目中央に、
並んで配列される。

成れる駒の配列が、整然としているというのは、だから本来の
大将棋だという証明にとって、決定打にはならないのかもしれない。
が、少なくとも、後期大将棋よりも、私の推定した大将棋の方が、
形が良い事だけは、確かなのではないかと考える。
 なお、駒の動き自体は、本ブログでは、西暦1300年頃の酔象
は、中国シャンチーの象とほぼルールが同じとの立場を取る。つまり、

簡略化して言うと、酔象、麒麟、鳳凰とで、ほぼ同格の動きの駒

にもなっているのである。
 以下書き出すと、私の場合思い入れが多いため、きりが無く、
長くなりそうである。そこで、今回はこの辺で、本議題に関する
書き込みは一旦、打ち止めとしておく。(2017/11/27)

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閉会にあたっての、増川宏一氏の挨拶原稿を入手した(長さん)

2017年11月25日、東京都新宿区の高田馬場にある、富士大学4階
教室にて、”遊戯史学会・第28回例会”があり、大部分の時間、私も
それに参加していた。奇しくもだが、私の席の隣に、この学会の会長で
ある、増川宏一氏が座っていた。なお、私は途中の休憩時間には、後ろに
展示された、各国遊戯具の見学をしていた。
 参加者全員に、増川氏から閉会にあたっての挨拶が、口頭だけでなく、
今回に限りだと見られるが、文面で配布され、私も一部入手した。このよ
うな、カテゴリーの情報入手が、今回の参加の主たる目的だったので、こ
れは、たいへんありがたかった。

この文書はゆくゆく、遊戯史研究の第一級史料(文書史料)とされる事は、
ほぼ間違いない内容

だと私は思う。文面の内容で、最も大切な閉会理由については、全く触れ
られていない。が、以下の内容が、明確に書かれているので、後世、この
文書はこれ自身が史料として、たいへんな価値を持つに違い無いと、私は
思う。つまり冒頭に、

今回で、閉会する事になった”遊戯史学会”は、西暦1987年に、
増川宏一氏が、ほぼ独力で創立した

と、明解に書いてあるのである。恐らく、今後いろいろな”俗説”が出た
としても、この文書の信憑性さえ揺らがなければ、学会一般として極めて
異例な、上記の事情が正しい事は、この文書だけから、充分明らかになる
と、私は思う。
 なお設立の理由は、”特に現在ではマイナーなゲームの、消滅を防止す
るため”と、この文面で、これも明確に唄っている。

つまり、危機に瀕したケーム界を支えるのが、少なくとも会の中心人物が
目指した当初の設立目的

だったのである。また、発足に際して

新聞社に流して、報道してもらった

という事である。この事から、学術学会一般には無い、学者集団のようで
もあり、エンターティナーである、例えば将棋棋士とも繋がっているよう
な、宙ぶらりん体質が、少なくとも初期には有ったと、推定もできそうで
ある。
 なお、今回参加した所では、積極的に質問していた方が、関西訛りの少
し有る、本ブログでも、何回か紹介した事の有る、某大学の先生のようだ
ったと私は認識するので、増川宏一氏の上記の、会の待ち上げ方に関する、
余り見かけない表現は、遊戯史学会の、今は昔の体質の反映なのであろう。
 なお、以前日比谷図書館で入手したパンフレットには、今回の遊戯史学
会例会の会場の、案内担当のように表現されている”東京富士大学のY先
生が、実際には例会の世話役を、ここ数年、安定して担当されていた”と、
書かれている。従って、会の解散理由として、

例会の維持が難しいから、この会が解散したとは考えにくい

と言う事が、増川氏のこの重大な文書から、明らかに後世になっても推定
できると私は思う。実際Y先生という方は、現時点で定年に近い風貌の方
には、私には見えなかった。
 なお、学会かどうかは別として、一般にサークル団体の場合、公的施設
を借りる際の届出といった、日本の役所の面倒な体質から、理事役を置く
だけでなく、理事会を形の上でも作るのが普通である。会長は通常、その
互選等で形式的には決まり、更にこれまた形式的にせよ、会の一般会員の
全員の出席する”総会”にて、可決される形で、任期を形として決められ
て、任命された形で、なるものである。学会という名前にしたために、
もしかすると、かえってそう、し辛く、なってしまったのかもしれないが。

結果として実質的に、会長自体が更新されない体制にしてしまった事が、
遊戯史学会が、30年の短命で終わってしまった原因の、少なくとも一つ

と私には、内情は会員で無いので、詳しくはわからないが、推定できた。
少なくとも、この文献だけから判る明らかな事実として、以上の各点は、
後世でも読み取る事が、充分でき、遊戯史研究に資するのではないかと、
予想する事ができる。(2017/11/26)

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普通唱導集の大将棋。縦横歩み駒を何故「嗔猪」という名にしたのか(長さん)

前に、普通唱導集の大将棋に、平安大将棋の駒が本質的に皆含まれていると
すれば、虎、猪、龍の駒が有る事は確定だと述べた。そして、恐らくその
時代には、動きに対称性が高かった、縦横歩み駒の嗔猪を入れたのは、猛虎
と斜めと反対動きの、縦横動きの駒を作るためだったからだろう、と述べた
ように記憶する。しかし、この「回答」は、良く考えると不十分であった。
なぜなら、表題に示したように、

縦横歩み駒が嗔猪である理由の回答に、そもそもこれではなっていない

からである。なお、嗔は酔象の酔と語呂合わせでつけた修飾詞で、どちらも
仏教徒の戒律違反に関連する漢字という点で、共通であるというのが、本ブ
ログでの見解である。
 そこで上のように再度問題提起をし、更にこの論題に関する回答を書くと、

五行説にあわせるためには、干支で鼠か猪を入れなければならなかったため、
より強そうな、猪の方を選んだのが、そのようになった原因ではないか

と、私は推定する。私は普通唱導集の大将棋の将駒は、玉、金、銀、銅、鉄
の五色制説を採るが、これは陰陽五行説に基づく数だと思う。
 しかし、考えてみると、玉は五行のどれだか良くわからないが、残りの
金、銀、銅、鉄は、何れにしても”金”の仲間である。つまり、五行のうち
金は有るが、残りの木、火、土、水は、将駒の中には無い。そこで、残りの
駒のうち、十二支駒の十二支を、五行に当てはめた”性”で補おうとして、
結果として、猪が入ったのではないかというのが、上記回答の主旨である。
 五行説と十二支の性区分については、webにも書いて有るが、成書と
して、私が個人的に愛読している本、鈴木敬信氏の「暦と迷信」
(1935年。1969年再刊)の説明によると、次のようになる。

鼠_牛_虎_兎_龍_蛇_馬_羊_猿_鶏_犬_猪_鼠
__土__木__土__火__土__金__土__水_

普通唱導集の大将棋には、平安大将棋の駒が、本質的に全部含まれていると
すれば、木性の虎、土性の龍、火性の馬(桂馬)が有るのであり、金将・・
・等の金性の金気駒を入れると、無いのは水性の駒だけである。従って、
五行全部を、普通唱導集大将棋の中に含めるとすれば、残りは鼠か猪が必要
になりその結果、

水性の猪駒が加えられた

と私は推定するのである。つまり、

普通唱導集の大将棋は、仏教とか、神道(熊野の龍信仰)とか、五行とか、
宗教と関連する駒が、中世成立のゲームで有るがゆえに多い

と、私は考えている。なお、本ブログによると、2段目をぎっしり詰める
ため、猛虎、飛龍、嗔猪のほかにもう一種、龍と同様土性の猛牛があった
だろうと推定している。ただし、このように推定すると、陰陽道師ほどに
は、宗教にのめり込んでいない人間が、普通唱導集の大将棋を作成した
ものと考えられる。というのも、外側から、反車は除いて2段目の
配列を(桂馬だけ少し変則的だと考えた上で)、猛虎まで辿ると、飛龍、
(桂馬)、嗔猪、猛牛、猛虎となる。つまり、強そうな動物だけを選んで
いる点を考慮に入れると、だいたい

兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪、鼠、牛、虎の順で並べようとして
いる

と、言う事である。途中で初めて、猪から鼠に戻るのは、平安大将棋の
桂馬を含めた2段目配列が、外側から龍で始まって、虎で終わるので、
それに合わせるためだろう。そして、この配列と、五行説の性の対応付け
は、先の鈴木敬信氏の「暦と迷信」の紹介のように、

変則的で、同じ性、特に土性がばらばらで、一塊にならない。

つまり、

12支は干支の順に並べると、五行説との対応が、判りづらい物

なのである。にもかかわらず、安直に干支の順に並べたのは、きっちり
五行説を宣伝したい訳でも、作者は特に、無かった事を示すのであろう。
 何れにしても、もとの平安大将棋の猛虎から飛龍までの2升目の空白部分
には、干支駒を入れるというのは、考えやすい選択であり、事実、そこには
嗔猪が、鉄将の前升目に入っていたのであろう。そして残りの銅将の前升目
には、中将棋の成り、奔猪との対駒の牛駒、飛牛類似名の”猛牛”が入って
いたと見るのが、やはり、ほぼ確実視されるのではないかと、私は今の所、
考えている訳である。(2017/11/25)

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将棋大橋家文書で渋川春海時代の日本の天文学が低水準であると判る(長さん)

11月22日に東京千代田区の日比谷図書館で開催された、将棋史等研究者
で遊戯史学会の会長である、増川宏一氏の江戸時代将棋「大橋家文書」の
解説を聞き取った。個人的には、それがきっかけとなり、同氏の「碁打ち・
将棋指しの江戸」を熟読する機会を得た。その結果、実際には後者の成書の
第一章「新事実の発見」の記載が発端となり、江戸幕府に天文方が出来る
きっかけとなった、渋川春海について、だいぶん以前とは別のイメージを
持つ事ができたので、今回はその報告である。なお、渋川春海に関する同じ
話が、22日の講演会でも、直接有った。
 以前は、だいたい天文学書としてしか、渋川春海に接する事が、個人的に
は私の場合無かったので、

青年時代から、天文マニアだった若者が、後に大成して、大天文学者になっ
た、という先入観・感覚でしか、渋川春海を見ていなかった。

むろん、江戸幕府関連の囲碁”所”に随伴する人物である事は知っていたので、

囲碁も強かったが、渋川は「囲碁がどこか自分が一生を賭ける分野とは違う」
と判断して、のちに天文方に転向したのではないか

と、漠然と、増川宏一氏の話を聞いたり、「大橋家文書発見本」を読むまで
は、勝手に想像していたのである。

そもそも、トップランナーが、二足ワラジで頂点に立てるわけが無い

という、素朴な発想である。その私の予想は、「碁打ち将棋指しの江戸」
の第一章、「新事実の発見」の章で、だいぶん揺らぐことになった。
 1674年に、お城碁に出る事になった、当時30代の渋川春海に関し、
”お城碁の直前に、急に病気になり、彼が出られるかどうかで、すったもん
だがあった”、という「大橋古文書」が、1990年代に発見されている
というのである。そのため渋川の代わりの囲碁棋士を急遽、お城将棋の棋士
として、再選択する事になった。ところがそのときの対局相手の、当時の
3代目、本因坊家の本因坊道悦が、

渋川春海相手以外、お城将棋で指したくないと、だだをこねた挙句に、
彼まで病気だと言い出し、結局本因坊がその年の城将棋に出席しなかった

と、いう話が発見されたようなのである。つまり、

渋川春海は根っからの囲碁の棋士であり、相当に強く、

囲碁の棋士のまま一生を送っても充分であった

という事を、増川宏一氏は「新事実」として掘り出したという訳である。た
とえば将棋のプロ棋士は、子供の頃から将棋を指さないと、脳が将棋に適し
たように成長しないため、少なくともトップランナーになれないと、私は
複数回教わっている。

それと同様、天文少年が、それように脳を成長させたから、トップランナー
を走る天文学者になったという方が、40歳で転向して、そうなったという
話よりは自然

だと、私は思う。つまり、本因坊道悦の渋川春海に対する評価からみて、

渋川春海の場合、明らかに天文脳ではなくて、囲碁脳を持っているとみられ
るにも係わらず、第一線の天文学者になったと、少なくとも天文成書では、
紹介している

と、私は理解しているのである。
そこで私の言うところの、この不可解な”現象”は、

当時の江戸幕府の暦学分野の天文方のレベルが、お偉方に顔が効けば、余り
高いレベルでなくてもなれた証拠

と考える事によってしか、説明できないと思えるようになった。webには、
改暦した新暦のもとになっている中国暦には、渋川春海より数学者の関孝和
の方が詳しかったとか、ぼんやりと、それを示唆する事は書いてある。しかし、
関孝和の仕事は、幕府には余り評価されていなかった。これは、

改暦に必要なのが、当時の未開の国日本で、そのための数学を、今更新たに
作る事ではなかった証拠

なのかもしれないと私は思う。必要な数学は、その中国の暦法には、全部含ま
れていて、ようするに、書いて有るとおりに真似れば良い、状態だったのでは
ないか。日本人が、物理学として超越した仕事を完成させ、ケプラーの
三法則やニュートンの重力の逆二乗則にまで、完全にたどりついているという
のなら、話は別であるが、

関孝和らの仕事は、数学に留まるので本質的に、江戸幕府にとっては不要
だったのかもしれない

と私は思う。そこで、天文学者としての渋川春海に戻って、webの情報
から、彼が、本当は、和暦を作るのに必須だった経度観測を、どのくらい
精度を上げて行おうとしたかを、私はざっと調べてみた。

元の都(北京か?)と京都の位置差が、食の予想の当否を決める

と彼は主張しているが、そうであるとすれば、経度の測定の精度向上には、
あらん限りの神経を使うだろうというのが、天文学的な感覚である。その為
には、懐中時計で良い製品を、渋川春海は必死に探しただろうと、ただちに
私にも予想できる。ところが、渋川春海が実際にした事は、恐らく関係者へ
の説得等の用途で、

単に地球儀を作っただけ

だと言うのである。これでは、確かに中国が日本の西に有る事は判るだろう
が、

正確な中国の暦地方時の基点と、日本の京都間の経度差を測ろうという
”精神”が、私には余り強くは感じられない。

囲碁棋士として育った脳には、この「観測精度にうるさい感覚」が、無いよ
うに、私には見えるのである。実際には食の予想は、経度が5°程度のズレ
なら、外すのはよほどの不運だった。

だから、中国と日本は地球上で別の位置に有るという、渋川春海の気がつい
た牧歌的な感覚が有りさえすれば、当時の日本では、トップランナーに立て
るほど、徳川幕府の17世紀後半の天文学は、世界水準に比べて低かった

と結論できるように、私には思えた。
 なお将棋史について、日本将棋が優勢になってからの状況は、このブログ
とは、少し論が離れるためもあって、増川氏の大橋家古文書の研究から、今の
所はっきりとした、ユニークな古代~中世将棋史関連の知見を、私は発見し
ていない。気が付いた事が有れば、これから書きたいと考える。
 しかし、遊戯史と天文学史を横断した渋川春海について、大橋古文書で記載
があるのを発見した増川氏の効果は、少なくとも私の感覚として、天文学史上
の渋川春海という人物の描き方という点にとっても、かなり大きい影響があっ
たと、充分に感じられるようになってきた。(2017/11/24)

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欧州でチェス駒起源がイスラム帝国頃のシャトランジ駒とされた理由(長さん)

以下は、私の考察ではなくて、将棋史研究家の増川宏一氏から11月22日、
東京都千代田区の日比谷図書館での、講演会で私が聞き取った情報である。
 欧米のチェス史研究家は総じて、前に紹介したサマルカンドの、サーサン
朝ペルシャの軍隊を模した西暦750年頃作の、シャトランジ系の具象駒の
発見まで、アラブ・シャトランジの単純化された抽象立体駒が、チャトランガ
の形と信じていたと聞いている。11月22日、増川宏一氏から、欧州のチェ
ス史研究者が、誤ってそのように認識していた理由について、11世紀頃の
欧州出土の古チェス駒を使い、説明を聞き取ったので以下紹介する。
 我々は、いわゆるチェス駒として、ボーリングのピン状の駒を、普段イメー
ジする。が、少し詳しい人間なら、その他いろいろな形があり、美術品的価値
の有る、具象的チェス駒も存在する事を、知っているはずである。つまり、
現在のチェス駒には、立体型であるという点では一定だが、形としては、
結構いろいろなバリエーションがあるという事である。
 しかしながら、出土品を調査していた、チェス史の研究者は、

11世紀の頃のチェス駒は、基本的に皆、アラブ・シャトランジ型の単純駒
を基本形とする、表面だけ飾った立体駒である

と、認識していたと言うのである。増川氏より、数枚のスライドで、私も
11世紀ヨーロッパで出土した、原始チェス駒の写真を見る事ができた。

確かに全部、基本形がアラブの駒と同じのよう

である。ただし、装飾は凝っていて、人間が2人レリーフされた数センチの
駒には、0.1ミリメートル程度の大きさの、目やまつ毛までが彫って有る。

「この写真、ここでの公開が始めてである」

と、増川宏一氏は述べていた。私以外に当日、60人位聴講者が居たが、
見たのが、後世この60人だけだったという事が、有ってはならないよう
な気がした。
 なお、当日本題は前に紹介したが、「将棋(江戸時代の)大橋(本家)
文書の解説」だった。「碁打ち将棋指しの江戸」という表題の、同じく
増川宏一氏の成書と、講演内容を照らし合わせて、本ブログに関連する
点があれば、追加で報告したいと考える。
 また講演会の会場に、「東京都新宿区高田馬場3丁目の東京富士大学
本館141教室で、2017年11月25日土曜日の13時30分から
16時まで、出欠の連絡先を、遊戯史学会事務局の、増川宏一氏とする、
日比谷図書館の作成した、大橋家文書の講演会のパンフレット等による
と、現在会長も増川宏一氏の、遊戯史学会第28回例会ただし、講演を
聴くだけなら事前予約不要(席が無くなっても保障はしない)、参加費
500円」という、イベントのチラシが置いてあった。何もかもを増川
宏一氏一人でやっているともとれる、この奇妙な所のある文書(もんじょ)
を一枚、私も持って帰って、家で読んでみた。
 盤双六の古ルールについて、双六手引抄を中心に、草場純氏による、
総集編的な解説が、あるらしいようである。盤双六の研究者にとっては、
稀少な情報入手の機会かもしれない。(2017/11/23)

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摩訶大大将棋の飛龍は、なぜ7四の位置に置かれているのか(長さん)

前回、後期大将棋の飛龍が2四の位置に置かれているのは、後期大将棋
が成立した時点で、飛龍の駒の動かし方の記載が、”飛龍四隅超越”に
記録が限られているからではないか、という旨を述べた。今回は、その
続きで

逆に摩訶大大将棋で、飛龍が5段目ではなくて、桂馬跳び駒の列、四段
目に置かれ、かつ、5四の位置の猛牛と、明らかに対になっている

のは何故なのかについて考える。なお、本ブログでは基本的に、

後期大将棋と摩訶大大将棋の成立は、中将棋の完全完成(成りの確定)
の少し後で、互いにほぼ同時

との立場を取る。こう考えないと、両者で駒の置き方のパターンが、
良く似ている点が説明できない。従って、”飛龍四隅超越”しか、
室町時代初めの頃にも”史料”が無い、という点では、後期大将棋と
摩訶大大将棋は、作成条件がいっしょのはずである。にもかかわらず、
摩訶大大将棋の作者が、

飛龍の四隅超越は、”頭究角毎超一目”と、自信を持って選んだように
見えるのは、いったい何故

なのだろうか。そこで、先に回答を書くと、

実は摩訶大大将棋の作者にも、飛龍のルールに関して、自信は無かった
のだが。間違っていたとして、後期大将棋のケースと違って、その思い
違いに害が無いと考えたため

だからだと私は思う。すなわち、

摩訶大大将棋は基本的にその名前から、平安大将棋が成立してから、は
るかに後の時代になって出来たものである、と他人から見られても、も
ともとそれは、折込済みの名前を付けていると、作者も考えた

のではないかと言う事である。それに比べて、後期大将棋が平安大将棋
よりずっと後、中将棋よりも後に、このブログの私的見解によると、
でっち上げたものである事がバレると、その方が痛手が大きいと考えら
れたと思われる。そこで、後期大将棋の飛龍については、後世、
本当のルールが発掘されても、どちらに転んでも解釈できるように、
配列を最初から、巧妙に工夫したのだとというのが、私の見方である。
 そもそも日本の将棋で、最も古いのは、初期の文献で将棋と言われた
ゲームなのではないか。ついで恐らく、藤原摂関グループが、13升目
の第二の皇室標準将棋を作成した。そしてその時に、もとの将棋よりも、
駒数も升目の数も大きかったので、大将棋と言われるようになり、もと
もとの大江匡房ら初期院政派の第一標準将棋が、将棋から小将棋へ名前
が変わったのであろう。そして更に時代は下って、南北朝時代、12升
目の将棋が作られ、少なくとも升目の数が、大将棋より少しは少なかっ
たので、大と中の間で第三の将棋が中将棋と呼ばれるようになった。つ
まり、中将棋とか摩訶大将棋とか、大大将棋とか、

摩訶大大将棋という名称は、名称からして、
大将棋より、成立が新しいことを、名前自体がもともと示している。

と言うのが、このブログでの見解である。特に摩訶大将棋、大大将棋、
摩訶大大将棋は、後発の将棋に付ける名前なのではないか。なぜなら、
4つ大きさの違う、既知の物が最初に有ったとしても、普通には、大、
2番手、3番手、小と名前をつけ、”特大”等は2番手に、格別の特
徴でも無ければ、一番大きい物の名前には、使用しないように、私は
思うからである。
だから、

ひょっとすると、19升目の日本の将棋は、平安大将棋より前にあった

のかもしれないが、別の名前が有ったのではないか。そこで、そもそも

成立当初には”何と呼ばれていたのか”を先ず最初に、史料を探し回っ

て解明すべき

ではなかろうか。たとえばそれが、平安広将棋だったとして、摩訶大大
将棋と同じものか、どこかが違うものか、あるいは親子関係なのかを
解明するというのが、その次の問題として出てくるのではないかと、私
は思うのである。(2017/11/22)

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15×15升目130枚制後期大将棋。2四位置に飛龍を配置した訳(長さん)

後期大将棋の駒配列を見ると、4段目には走り駒が多いことが判る。唯一の
例外は、端から2列目に、2升目進む飛龍が配置されている事である。いっ
けんすると、駒が足らなくなったので、飛龍を適当に挟み込んだようにも
見えるが、この配置に意味が有るのであろうか。回答を先ず書くと、

二中歴に記載されていた大将棋のルールブックの表現、「飛龍四隅超越」し
か、後期大将棋の成立時代には、飛龍のルール表現として、伝来した言い回
しが無かった証拠

なのではないかと、私は疑っている。つまり、現在でも揉めているように、
走りなのか、1升目跳び越えなのか、良くわからないこの表現しか、当時も、
情報が残っていなかったという事である。そもそも、大将棋のルールに関し
て、二中歴の大将棋の記載以外に、いろいろなものが、後期大将棋の成立時
に、知られていたとすれば、
作成者は、

①飛龍四隅超越
②飛龍頭研角毎超一目
③飛龍四隅不云多少

といった、複数の記載から、最もメジャーとみられるものを選択できたはず
である。そして、

②のケースは2升目進み駒と解釈して、後期大将棋では3段目に配置し、
③のケースは角行のルールで確定と見て、四段目に配置するだけでなく、
猛牛と、対には配置しなかったはず

ではないか。所が実際には、四段目に配置しただけでなく、猛牛をその直ぐ
下段の升目に配置して、

扱いを走りと、2升目動きで、どっち付かずにしている

のである。これは、後期大将棋製作の時点で

①の飛龍四隅超越の、二中歴ルールと、同じルール表現のケースしか、記録
が残っていなかった証拠

なのではないのだろうか。そしてこの事は、はっきりそうだとまでは言えな
いが、

後期大将棋が成立した段階で、その前には、大将棋として、二中歴記載の、
平安大将棋を骨格とした、13升目型の将棋しか、少なくとも記録が無い事
を、示唆している

のではないかと、私は疑う。ただし以上は、残念ながら、後期大将棋の作成
者の勉強不足や、飛龍が他の将棋種でも使われていたが、使い方は同じとさ
れていた可能性などを完全には否定できず、かなりぼんやりとした根拠では
あろう。(2017/11/21)

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