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栃木県鹿沼市中粕尾・粕尾城の現状確認をした(長さん)

 栃木県小山市神鳥谷曲輪から、裏一文字金角行駒が2007年春に
出土している。簡単に言うと、小山義政がこの地点に、西暦1381
年冬に居住していた事が、駒が出土した原因と、このブログでは見る。
それが正しいとすると、小山義政が生前居住していた経歴のある場所
は、摩訶大大将棋の角行のようにも見える、このような駒が出土する
のではないかと、一応疑ってみる価値は有るのではないかと思えてく
る。小山義政は、鎌倉や京都、奈良の西大寺等に用が有るとき以外は、
小山市八幡町の龍ゲ岡城に、主閣の城の主として、居る事が多かった
ものと、私は個人的には予想している。そこは、現在栃木県小山市立
の某学校のグランドに現在なっており、小山市教育委員会が、開発さ
れないように土地を、押さえている模様である。
 さて、小山義政は小山義政の乱の最終段階で、表題の、栃木県現鹿
沼市、昔の粟野町中粕尾にある、粕尾城に居たものと、鎌倉府側の記
録等により、推定されている。それは西暦1382年の事である。
 以上の事から、栃木県鹿沼市中粕尾にある粕尾城は、小山義政関連
の出土物が出る可能性のある、場所のひとつである。そこで、個人的
には、ここには過去十回位行った事が有るのだが、2017年12月
頭にまた、現状のチェックに行ってみた。前と変わった点は、

大手門のあたりに、農業廃棄物が散乱していて、だいぶん荒れていた

事位であった。もともとここは訪れる者はわずかで、余り開発の動き
が無いと言う点では、以前と変わった所は、無いようだった。なお、
大手門付近に、少なくとも近年湧き水が出ており、ここに井戸跡が
有るとすれば、周囲の荒れ放題な姿は、木製遺物の一種、古将棋道具
の出土に期待する者としては、ちょっとがっかりである。ちなみに、
大手門の横に、少し前に、「見学者の休憩場所」というのが、たぶん
地元の方が私財で建てたのだろうが、いっけん盆踊りの屋台を小さく
したような形で存在していた。しかし余り使われなかっ為だろうか。
今回訪問すると、ほとんど朽ち果てていた。
 もっとも、城の西側にある”和田親水公園”の吾妻屋等も、使用頻
度が少なく、放置されていて、だいぶん痛んできている。だから、
公私で、インフラの痛みの放置度合いが違うという事は、粕尾城の
周辺の場合余り無いようだ。
 なお粕尾城は、建築物は、約635年経っているため全く無いが、
地形から一目で誰でもわかる、城らしい城である。つまり”土塁”等
の存在のために、城の痕跡の、極めてはっきりとした、城のイメージ
で正しく理解できる、規模の大きな中世の城である。これほどはっき
りとした遺跡なのだが、市街地からはだいぶん遠い山沿いなので、開
発で、失われる可能性が、少なくともこれまでは、ほぼ無いと考えら
れてきたのだと思われる。そのため本格的な発掘調査が、過去された
事があるとの話は、私は聞いた事がない。ここを掘ると、長沼氏の遺
跡のように、粕尾城からも少なくともカワラケの束くらいは、出そう
なものだと、私は思う。むろん過去何回見てもそうだったが、今回も、
地表を見た限りは、城の土塁や遺構の起伏以外には、私には何も見つ
からない。
 強いて今回気が付いた事は、ほぼ楕円形の形の、曲輪の広場のよう
な空間に入ると妙に落ち着いて、周りと一体感が持てた様な、安心感
を感じる事が出来るという点だった。恐らく南北朝時代の頃、戦いの
最中は、兵隊の戦意を高揚させる事よりも、恐怖から、仲間を裏切っ
て逃げ出す兵隊が出ない事の方が、むしろ大切だったのかもしれない。
そのため、曲輪の中は戦意がみなぎり、兵隊の交感神経が、ピリピリ
している状態を作り出すよりも、戦いが無い日には、リラックスでき、
周りの全てが、自分の仲間であるとの、やわらかな雰囲気を作り出す
事のほうが、むしろ大切だったのかもしれないと私は思う。そのため、
曲輪の空間の広さや形を、適度に工夫したり、内部空間を平らになら
す等、そこに居る兵隊の、精神的な面を重視した城の作りが、仏教や、
神道も盛んだったこの時代には、近代とは異なり、大切にされたのか
もしれないと、私には思えるようになってきた。(2017/12/05)

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