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詰将棋は何故作物と言われ、中将棋等では流行らなかったのか(長さん)

増川宏一氏の古い著書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰに、
将棋のルールという、歴史とは切り離した一章があり、持駒ルール
の成立時期について”15世紀中旬に有り”と書いてある。これは、
現在の増川氏の考えとは、違う。私が知り得る限り、増川氏は、
16世紀初頭の厩図の僧侶の掌の、将棋駒を根拠に、今は、

1450年頃ではなくて、1500年頃が、持駒ルールの最初

と述べていると、理解している。では、以前の増川論が数十年早か
った根拠だが、次の文献に、「(小将棋の)作物」という記載が、
出てくるためである。文献名は、「新撰遊学往来」で、その中に、
小将棋の次に、現在は詰将棋と呼ばれる”作物”が記載され、
盤双六や、碁石を弾く遊びの後に、中将棋と大将棋が記載されてい
るとの旨が、将棋Ⅰには書いてある。つまり、

作物は記載場所から、平安小将棋の作物のであるとされる。

そこで将棋Ⅰにも紹介されているが、この事実から、「持駒使用の
謎」の著者、木村義徳氏は、”15世紀の中期には、持ち駒ルール
が有ったという証拠の文献”と指摘したとされる。元文献は、同じ
く将棋Ⅰによると、「将棋世界」38巻10号との事である。私は、

15世紀中旬に、平安小将棋に持駒ルールが有った、との上記、
木村説には基本的に賛成

である。14世紀初めの、普通唱導集の小将棋の記載は、持駒ルー
ルの存在を唄ったものであるから、それより後なら、持駒ルールが
存在して当然だと思っているからだ。
 他方、増川宏一氏の方は、「新撰遊学往来」のこの記載を、持駒
ルールの根拠には、挙げなくなってしまった。詳細は、私には確認
できないが、私が想像するに、中将棋が15世紀に流行らなくなる
と、増川氏が考えたとすれば、つじつまが一応は合っている。他方
私は、9×9升目36枚制標準型平安小将棋の旦代問題が、15世
紀には未解決なため、そのポテンシャルを乗り越える手間が無い中
将棋を、持駒ルール有りの平安小将棋は駆逐出来ないので”爆発的
流行”は起こらず、持駒ルールが合っても、中将棋は廃れないから、
問題ないと見ている。むしろ、9升目制標準平安小将棋持駒有型に、

旦代問題が残っているからこそ、詰将棋が、当時は文字通りの作り
物(バーチャル)、つまり”作物”と呼ばれた

のではないのだろうか。つまり、仕掛直前まで後手が、線対称真似
将棋をすると、9升目の平安小将棋は行き詰まってしまうのだが、
仮にそれを飛ばして局面を進めたとして、終盤、駒が初期配列とは、
かなり違う形になる局面を、人工的に作ったとして、その形から出
発して、終局までゲームをするという遊びが、作物という言葉の、
もともとの意味だったのではないか、という事である。ようするに、

初期配列とはかなり違う、終盤の棋譜を人工的に作るというのが、
作物に、”作”という字が付いている理由

なのかもしれないと、私は思う。そしてこう考えると、中将棋の作
物や、大将棋の作物が、マイナーだった原因は、

詰め将棋が作りにくいと言うよりは、初期配列の残骸が、取り捨て
ルールでは残るので、棋譜の形を自由には、変えづらいので、作物
とはちょっと違ってしまう

と言う事だったのかもしれない。つまり、

9升目の平安小将棋には、旦代の難点があったので、その詰め将棋
は、創作品と言う意味での作物と言うのに、もともと相応しかった

と言うことかもしれないと、私は考えるのである。そして、創作品
と言うには、やはり駒が多数残っていた方が、見栄えがしただろう。
だから、それが本格的に作られた頃、9升目の平安小将棋の中でも、

駒枯れで終盤になる、旦代の難点の無いリアルな終盤局面を持つ、
持ち駒無しの平安小将棋は、作物を作る対象には最初からならず、
主として、持ち駒ルールの有る平安小将棋についてだけ、文字通り、
バーチャルな”作物”が作成されたのではないか

と私は、やはり考えるのである。つまり作物を後世、二中歴持ち駒
無し平安小将棋の、裸王ルールに対応するために、”一手隙相手負
将棋”とは表現しないで、普通に玉を詰めるだけの、詰将棋で定義
が出来たというのも、結果的にそうなっただけだと言うのが、現時
点での、私の考えなのである。(2017/12/08)

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