So-net無料ブログ作成

17世紀、大阪の商人の子供で、摩訶大将棋を指す人物がいたらしい(長さん)

定説ではいわゆる六将棋のうち、、大将棋以上の駒数の多い将棋は、
少なくとも近世以降は、余り指されなかったという事になっている。
しかし、今でもそうであるが、いわゆる中将棋を愛好している人々は、
大概、大将棋、天竺大将棋、大大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋に興味
があるのが普通である。増川宏一氏の著書、日本遊戯思想史によると、
江戸時代の中将棋の愛好家の一人に、水無瀬宮のお膝元、大阪の人で
あり有名人でもある、井原西鶴が居るとの事である。井原西鶴が、
将棋と言うとき、既に時代は江戸の初期であったが、日本将棋の事で
はなくて、中将棋の事だったと、上記書籍に記載されている。

井原西鶴は、いわゆる中将棋派の方だった

のであろう。ところで井原西鶴の、友人かどうかは不明だが、知人の
京絹の商人が大阪におり、その息子が賢い子供で、自分の家で、

”大大将棋というゲーム”の盤駒を自作して、熱心に遊んでいた

と、井原が”新可笑記”の中で書いているそうである。増川宏一氏の
新書本の、将棋の歴史等には、こんな話は載っていなかったように、
私は記憶する。日本遊戯思想史で、初出の大情報だろうか。
 他方web上には”摩訶大(大)将棋は近世、余り指されなかった”
という情報が、私には幾つか散見される。実際には、広将棋の作者、

荻生徂徠が、摩訶大大将棋を研究していたことは明らか

なので、それは間違いだと、私は断定しているのだが。上記増川著書
は、それに続くものであるようだ。更に、上記の井原西鶴が新可笑記
で書いている、大阪の京絹の商人の息子は”道路の四つ角の道端に、
仏像が安置されている、小さいお堂のような場所に、恐らくその自作
の駒数多数将棋類の、将棋道具を置き、

通りがかりの人間に声を掛けては、一緒に指していた”

と、書いてある。恐らく大大将棋とは書いてあるが、増川宏一著書の
将棋Ⅰにも載っている、江戸時代成立の象戯図式の類を、大阪の京絹
の商人の息子は所持していたのだろう。そして、中将棋、大将棋、
大大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋に、何れも、興味のある人物だった
のではなかろうか。お堂の場所は、井原西鶴の記載からでは不明であるが、
水無瀬宮の近所で、水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄の情報も、ひょっ
とすると、その京絹の商人の息子は、持っていたのかもしれない。
 仏教関連の所で指すのであるから、将棋六種之図式にもある”摩訶
大大将棋は、寺の関係者が作成”との話も、彼は知っているとすれば、

お堂には、摩訶大大将棋の盤駒を並べそう

な気が私にはする。井原西鶴の記録では大大将棋となっているが、
”という”と、いう記載がやや曖昧であり、大大将棋という語句が含
まれる大大将棋の他に、摩訶大大将棋のケースが、当然考えられると、
私は思う。恐らく

江戸時代には、将棋書で摩訶大大将棋の記載を見た、都市部の人間が、
摩訶大大将棋の盤駒を、苦心して作成する事が、しばしば有った

のではないだろうか。上記の大阪のケースは、中将棋を指す人々が、
大阪の街中には、かなり存在していた。ので、知っている獅子等の駒だ
け適当に動かして、中将棋を知る大人が、京絹の商人の息子の相手を、
いい加減だが、仏像の眼前でしてくれるという事が、実際にあったの
だろう。なお、その大人の中に、井原西鶴が居たかどうかは、良くわ
からないが。
 増川宏一氏は、上の書の中のコメントとして、”「大大将棋という
ゲーム」を、井原西鶴が、どうして知ったのか不明”と書いている。
が江戸時代は、駒数多数将棋の文献類の、主たる成立期であると
私は認識する。ので、中将棋派の井原西鶴なら、どれかは読むだろう。
 更に、それを読んで、ゲーム自体に、強く興味を持った方が居る
というのも、当たり前の話であり、江戸時代には、京絹の商人の息子
のような方も、中には居て当然だと、私は思うのである。(2018/01/02)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー